1章05 『Bad Morning』


「……希咲、貴様裏切るつもりか? 後悔するぞ……?」


「あ、あんた……それはもう白状してるようなもんでしょうが……」



 決戦に挑むような心意気でいた希咲だったが、意外とヤツの底が浅かったためすぐに脱力する。



「いいのか? 事が明るみに出ればお前にとっても面白くないことになるぞ」


「あんた実は隠す気ないだろ…………そうかもしんないけど、だからってカンケーない子を犠牲にはできないでしょ?」


「理解しかねるな」


「なんで理解できないのよ。冤罪押し付けるとかヒドすぎだからっ」


「冤罪? それを判断するのは俺ではない。俺は疑わしい者を片っ端から捕まえるだけだ。そいつらを精査し判決を下すのは別の者の仕事だ。もっとも……後で冤罪だと判決が出たとしてもそれは特に公表されるわけではないからな。周りがどう思うかは個々人の判断に委ねられる」


「やっぱ確信犯じゃねーかこのやろー。そんなことあたしが絶対させねーっつーの!」



 言葉の応酬が繰り広げられるが、二人の話が余人にはまったくわからない内容だったのであちこちで疑問符が浮かんでいく。


 教室内の空気は大分弛緩していた。



「させない、だと? それはどうやって止めるつもりだ? ここで告発でもするつもりか?」


「そんな大袈裟な話にしなくたっていいでしょ? フツーに謝ればいいじゃん」


「何もしていないのに何故謝る必要がある」


「まーたそんなこと言って…………あたしも一緒に謝ったげるから、あとで一緒に職員室いこ? ね?」


「必要性を感じんな」



 HRの時間を利用してクラス中に披露されている『二人の間でだけ通じる会話』を鑑賞させられているクラスメイトたちはすっかり放置された恰好になっており、暇を持て余した彼ら彼女らは勝手に考察を始める。



「お、おい…………どう思うよ……?」

「どうって、言われてもな……なんかあいつら仲良くね?」


「ねぇ……あれ完全にイチャついてるよね……?」

「うーーん…………判断に迷うわね……でも、希咲さん昨日より気安くなってる、かな……?」



 ヒソヒソと好き勝手なことを囁かれるが、絶賛口論中の二人は気付かない。



「だぁーーーーっ、もうっ! ワガママばっか言うんじゃないわよっ! 子供か!」


「ガキはお前だろうが。何度も同じことを言わせるな」


「はぁ~? 絶対あんたの方がガキですぅ~」


「うるさい黙れ。お前だ」



 互いにこの場で決定的なことを口に出せないため、口論のレベルは非常に低くもはや平行線だ。



「……やっぱイチャついてるよね?」

「俺ら朝っぱらから何見せられてんだろうな……」


「はわわわわっ……! これは大変だよぉ……! まなぴーまなぴー! 弥堂君が七海ちゃんにとられちゃうよっ⁉ このままじゃドロドロの三角関係だよぉ~⁉ いいのぉ~?」

「バカっ! ののか! 本人に凸るな!」



 希咲と弥堂のやりとりをぽへーっと見ていた水無瀬は突然声をかけられ驚く。


 聞かれたことの意味がわからなかった上に、初めて呼ばれたあだ名に「まなぴー?」と首を傾げる。



「ご、ごめんね水無瀬さん。この子ちょっとバカだから気にしないでっ」

「あ~マホマホひどぉ~いっ!」


「ん~~、ののかちゃんの言うことよくわかんないけど、でもでもっ! ななみちゃんと弥堂くんが仲良しになったら私とってもうれしいよ?」


「うっ、まぶしい……っ! ののか、この子ピュアっピュアよ……アンタも見習いなさい」



 とっても『よいこ』な答えが返ってきて慄き、相方の女生徒へ呆れの目を向けるがそっちはそれどころではなかった。



「でも、待って……! あの二人がラブラブってことは…………⁉ あわわわわっ……大変だぁ! もう出されちゃったってことだよねっ⁉ 七海ちゃんが抜かずに三――」

「――言わせるかああぁぁぁぁっ‼‼」


 HR中の発言としては極めて不謹慎かつ不適切な内容を口走ろうとした妄想がちな早乙女 ののかに、クラスきっての常識人である日下部 真帆は飛び掛かった。



 自身の斜め前でじゃれあう女子二人を見て、ぽやってる愛苗ちゃんは「みんななかよしだー」と嬉しくなってニコニコする。



 その間に弥堂と希咲の会話はヒートアップし口喧嘩になっていた。



「ガンコ! むっつり! なんで言うこと聞いてくんないわけっ⁉」


「何故俺がお前の言うことなど聞かねばならん」


「うっさい! お前って言うなって言ってんじゃん! ちょっと職員室行って謝るだけでしょ! 問題になってんならこのままにしとけないんだから、そんくらいやりなさいよ!」


「そこまで言うならお前がやれ。事情の説明ならお前がやっても一緒だろうが」


「はぁ~? あたしに面倒見ろっつーの⁉ あたしあんたの女じゃないんだから命令しないでっ! バカじゃないのバカじゃないのバカじゃないのっ!」


「お前ほんとにうるせぇな……」



 キンキンと鼓膜に突き刺さってくる希咲の声に弥堂は顔を顰める。


 教室の後ろ側から教室の一番前に居る弥堂へ向ける希咲の声はかなりの大音量で、廊下にまで響くほどだ。



「つーかよ、これってもしかしなくても浮気じゃねーの?」

「……ハーレムとはいえ、確かにそうだな。紅月はどう思ってんだ……?」


 そんな言葉を交わした鮫島君と須藤君は、公的には希咲の彼氏ということになっている『紅月ハーレム』の主の様子を窺おうと目線を彼に向ける。そして二人ともに驚愕に目を見開いた。



「……な、なんだ……あいつ…………? なんか嬉しそうにニコニコしてるぞ……⁉」

「…………さすがハーレム王だな……俺達とは格が違うということか…………圧巻だぜ。まさかNTRもイケるとはな……」



 ハーレムを築くにはありとあらゆる性癖を網羅する必要があるのかと戦慄する彼らだったが、一人の女生徒の様子が目に入り正気に返る。



 天津 真刀錵あまつ まどかだ。



 いつも凛と姿勢よく座る彼女が俯いて肩を震わせている。



「天津さん……? え? まさか泣いてる……?」

「……いや、ねーだろ。あの人女子で顔がいいって属性なかったら殆ど弥堂枠だぞ……?」



 不名誉なことを言われているが天津はそれに気付かず、当然弥堂も気付かない。希咲との罵り合いが佳境だからだ。



「いい加減にしろ。しつこいぞ」


「しつこいってなによっ! あんたが悪いんじゃない!」


「お前が諦めればいいだけのことだろうが」


「だからそんなわけにもいかないってさっきから言ってんじゃん! 駄々こねてないで言うことききなさいよね!」


「ふざけるな。そんな義理はない」


「あるでしょ! 昨日あんたにヘンなこといっぱいされたけど、あたし色々許してあげたじゃん!」


「なんのことだ」


「なにって……いっぱい…………その……あたしにしたじゃん! 結局あたしが折れて許してあげたんだから今度はあんたが折れなさいよね!」



 何やら詳細に言及することを濁した希咲の発言に教室中が激震する。


「いっぱいした⁉」「いっぱいした⁉」「いっぱいした⁉」「いっぱいした⁉」と誤解が連鎖していく。



「ふん。ほれ見たことか」


「あによっ⁉」


「結局蒸し返したな。このメンヘラめ」


「はぁ~⁉ あたしメンヘラじゃないしっ!」


「それに折れてやったのは俺の方だ。勘違いするな馬鹿が」


「バカはあんたでしょ! ばーかばーか! あと折れたのはあたしだから!」


「うるさい黙れ。俺だ」

「あたしよ!」

「俺だ」

「あたし!」



『俺だあたしだ』ともはやそれしか二人とも言わなくなり、その平行線が永遠に続いていくのではと思われたその時、突然不毛な言い合いを遮る形で大きな笑い声が響く。



 クラスメイトたちだけでなく、弥堂と希咲も言い合いをやめ声の発生源へ目を向ける。



 それはとても意外な人物だった。



 笑っていたのは天津 真刀錵あまつ まどかだった。



 戦っている時以外は物静かで無駄に動かない彼女が、大きく快活な声で笑うところなど誰も見たことがなく、付き合いが長い希咲たちからしても珍しい出来事だ。



 天津は本当に可笑しくてしょうがないといった風に笑っている。



「――そうか、みらいの奴め…………ふふっ、そういうことか…………クッ……! これは確かに面白い……っ!」



 誰に聞かせるといった風でもなく呟きを漏らし、彼女はそこでクラス中が自分に注目していることに気が付いた。



「――んんっ。いや、すまない。気にしないでくれ。みんなどうぞ続けてくれ…………特に七海と弥堂は是非とも続きを…………ククク……」



 体裁を繕うように咳ばらいを入れて謝罪のようなことを口にしたが、彼女はまた肩を震わせてクスクスと笑う。



「はぁ? 真刀錵……? あんたなに言って――」



 大分ヒートアップしていたため、自分が今周りからはどう見えているのかが全くわかっていなかった希咲は眉を顰め天津へ怪訝な目を向けるが、彼女を問い質す前に別方向から口を挟まれる。



「――あの、ごめんなさい希咲さん。よろしいですか……?」


「へ? あたし……?」



 担任教師の木ノ下だ。


 すっかり空気と化していた彼女が前に進み出て声をかけてきたことで、希咲は目を丸くした。



「邪魔をしてすみません。ちょっと訊きたいことが……」


「えと、はい。どうぞ」



「邪魔?」と頭に疑問符を浮かべつつ、希咲は何となくパッパッとスカートを払って着衣を整えつつ姿勢も正す。



「あの、希咲さん。あなたもしかして捨てられていたお菓子の件について何か知っているんですか?」


「えっ――⁉」



『何故それを⁉』と驚愕する希咲だったが、彼女以外の者たちからすれば『そりゃそうだろ』という感想だった。



 希咲はキョロキョロと目を泳がせてからどうしたものかと迷い、チラっと弥堂の顏を窺う。


 彼はもうこっちを見ていなかった。何もない宙空をボーっと見ている。



(こっ……このやろう…………っ!)


「あの……? 希咲さん……?」



 拳を握りしめ憤慨する希咲は弥堂に何か文句を言ってやりたかったが、その前に教師から再度問われる。



「え、えっとぉ…………ど、どうかなぁ~? ちょぉ~っとあたしわかんないかなぁ~……?」



 結局彼女は誤魔化した。



 事の次第を明かして謝ろうと弥堂に薦めてはいたが、ここで自分の口から言うのは違うと思ったからだ。



 それに、それをしてしまうと自分自身に大変な不都合が起きる。



 弥堂が窓から菓子をばら撒いて壁を殴って壊した。



 そういう話なのだが、それだけを言って済むわけがない。必ずどうしてそうなったのかを訊かれる。


 そして希咲にとって一番不都合なのは『何故希咲がその時その場に居たのか』という部分に言及された時だ。



 そんなものどう答えればいい?



 この公衆の面前で『変態に「パンツ見せろ」って囲まれて泣かされてたのを助けてもらいました』とでも言えというのか。



 乙女的にそれは許容することができない。



 結局は報告するのだが、出来れば相手は女性教師一人だけに留めておきたい。


 例えこの場で細部に渡って説明をする必要がなかったとしても、触りだけでも話してしまえば後で面白がったクラスメイトたちに根ほり葉ほりと訊かれ、そしてそれが根も葉もない話に加工されて噂として流されていくのだ。



 希咲 七海はプロフェッショナルなJKである。



 そのあたりの機微とリスク管理にかけては一流だった。ここは慎重に話を納めなければならない。



 スッと希咲は余所行きの表情を造ると、自身に集まる視線を涼やかに受け流した。



「あの、希咲さん」


「はい」



 そこへ再度教師から名を呼ばれると、希咲はニッコリと笑って返事をする。



「あの……こんな言い方するのも、その、心苦しいのですが……それは、本当……ですか…………?」


(あれぇっ⁉ 思いっきり疑われてるっ⁉)



 造ったすまし顔が秒で消し飛び、彼女はガーンとショックを受けた。


 普段それなりに真面目にしているつもりだったが、まさか自らの担任教師にそういう目で見られていたとは。


 クラっと眩暈を感じそうになったが、すぐにその担任教師の様子がおかしいことに気付く。



 自分の方へ目を向けているのだが、時折りその視線を彷徨わせている。



(んん?)


「……なんていうか、その…………誰かにそう言わされている、とか…………そんなことはありませんか……?」


(……ん? …………あっ――⁉)



 希咲は気付く。



 木ノ下先生は確実に自分に向けて話をしているのだが、チラッチラッと弥堂の様子を窺っている。その行動の意味するところは――



(もしかしてあいつに脅されてるとか思われてる――⁉)



 もしかしなくても、木ノ下先生は先ほどから行われていた希咲と弥堂の会話内容から、何やら隠蔽をしようとしている弥堂と、事を明らかにしようとする希咲、という二人の立ち位置と向かう先の違いを読み取っていた。


 しかし、深読みをし過ぎたのか、弥堂に何か弱みを握られているため誠実な行動をとれなくなっていると誤解をしているようだ。



(――いや、でも…………あながち誤解ってわけでも…………)



 言い切れないのが己の境遇の悲しいところだ。



「希咲さん……! 先生がんばりますから、どうか勇気をもって打ち明けてください…………っ!」



 真摯な瞳を向けてくる若い教師の親身な言葉に、僅かばかりの罪悪感が湧く。


 どうしたものかと迷う。



(う~~ん……心配してくれるのはありがたいんだけど、この場で訊くのは悪手でしょうよ…………出来ればここは流して後でこっそり聞いてくれればこっちもやりようはあるんだけど……)



 愚痴めいた思考になりかけるが、そこまで期待するのも酷かと考えを切り捨てる。



 木ノ下の真意に希咲が気が付いたように、教室内の多くの生徒も同じことに気が付いた。それによって先程よりも話の内容に好奇心を持たれてしまったようで、真相を求める視線に含まれる期待が濃くなっている。


 これではこの場でしらばっくれても後で絶対に問い詰められる。


 もしかしてこれは逃げ場を塞がれているのではないだろうか。



 先程は『悪手』だなどと心中で評価したが中々どうして――情報を確実に抜き出すという観点で見ればこれは悪くない対応なのかもしれない。



 こちらを見つめる教師の目には悪意は全く混在していないので、意図的ではないのだろうが、希咲にとっては非常に困った状況だ。



(もう……っ! どうすんのよこれっ…………!)



 怒りをこめて当事者を睨みつけるが奴はまるで他人事のような素振りだ。


 このまま激情のままに奴が困ることを捨て身でぶちまけてやりたくなる。



『むむむむっ』と睨んでいると、ムカつくあんちくしょうと目が合った。



 弥堂は鼻で嘲笑う。



「どうした希咲。何か言いたいことでもあるのか? さっきから先生がお前に質問しているだろう? しっかり答えたらどうだ? 出来るものならな」



 その言葉に周囲はどよめき、希咲は額に手を当てる。



(あの、バカっ……! この状況でそんなこと言ったら、あんたが脅迫に絶対の自信を持っているようにしか見えないでしょうが……っ!)



 他人の目をまったく気にしなくなると、こうも空気が読めなくなるものなのかと、希咲は頭痛を感じる。


 

(ここであたしにチキンレース仕掛けてどうすんのよ……っ!)


 

 事を明らかにされて弥堂が困るのは間違いない。


 そして困るのは希咲も同じであることを奴は理解している。



 恐らく反抗的な態度をとった自分をイジメたいがためにあんな態度をとっているのだろうと希咲は判断した。



「……希咲さん。彼もこう言っていることですし、どうか…………!」


「うっ」



 先程よりも自分に集まる視線に熱が入って希咲は怯んだ。



 教室中の目が自分に向けられている。



 そしてこの時に、昨日感じていた罪悪感が蘇る。



『嘘をついてはいけない』



 昨日は弥堂と権藤の汚い取り引きに辟易としたことで有耶無耶になってしまったし、することが出来た。



 だが、学校を汚して、壊して、おまけに他人にまで迷惑をかけておいてさらに嘘まで重ねるなど、そんなことを彼女の道徳心が許してはくれない。



 自分にとって知られたくないことを告白しなければならなかったとしても、優先度は全体に関わることの方が上なのではないかと思ってしまう。



 迷いは深まる。



 

 そもそも――



 そもそも、あれは希咲のせいではまったくない。



 菓子を捨てたのも壁を破壊したのも全部弥堂がやったことだ。



 それでも彼を庇ってやったり罪を被ってやるほどの、義理も道理も存在しない。


 


 それでも――



 それでも、彼女があれを他人事だと考えられないことが、機微に聡く器用に熟すだけの能力があるわりに無用な苦労を背負い込む彼女の損な性分の所以なのかもしれない。



 視線を何処に向けても自分を見つめる目玉しかない。



 教室中の目玉が自分を見ていて、自分を見ていない目玉は此処にはない。



 視線にこもる人々の情念が物理的な圧迫感をこの身体に与えてくるようだ。



 希咲は動揺し、救いを求めるように誰とも目が合わない視線の逃げ場を探す。



 すると、自身の親友である水無瀬 愛苗と目が合った。



 身体の緊張が溶ける。



 彼女の瞳には他の者にあるような疑心も好奇心もない。



 多分この場の話についてこられていないのだろう。みんが見ているから釣られてのことだろう、ぽへーっと自分を見ている。



 彼女も希咲が自分を見ていることに気が付いた。



 水無瀬はニコーっと笑った。



 希咲は苦笑いする。



(おし……! ちゃんと全部言っちゃうか)



 気持ちが定まる。



 悪いことが起こって、本当のことを知っているのに、自分の利益を守るために隠し立てる。



 上手くやっていく為には時にはそんな嘘も必要だ。



 そう考えていたし、それは今も変わらない。



 だけど、彼女の前ではそんなことは出来ない。



 仮にそうしたとしても彼女は自分を責めたりしないだろうが、そこは自分のプライドの問題だ。



 なにより、彼女に自分がそんな人間だとは絶対に思われたくない。



 自分に勇気を与えてくれた親友に心で感謝をし、希咲は胸を張って木ノ下の方へ向き直る。



「先生っ、あたし――」



 真実を白日のもとへ――



 そのための言葉を発しようとした瞬間、視界に異物が映る。



 教室の最前方。



 希咲の位置から見れば最後方。



 期待を膨らませた無数の目と目と目を全て越えていった向こう側にその男は居る。



 この場に居る教師や生徒たちとも違う、水無瀬とも違う瞳の色。



 何の感情も灯さない乾いた瞳で希咲を見ながら、その男は自身の胸元に手を挿し入れた。



 彼の後ろには誰もいなく、彼の前の全員は希咲を見ている。



 つまり、彼の様子に気付く者は自分以外には誰もいない。



 そんな中で彼は懐から何かを取り出した。



 その手にあるのはスマホだ。



 希咲にだけ見えるように画面を向けてくる。



 距離も遠く蛍光灯の光が画面に反射して何が映っているのかよく見えない。



 希咲は首を動かして目を細めて画面にピントを合わせる。



 そしてようやく見えたその画面に映っていたのは――




「あああああぁぁぁぁぁぁぁっ――⁉」




 突然の大絶叫。



 希咲から語られる真相を聞こうと彼女の挙動に集中していた全ての者がその大音量に驚き、そして彼女に近い位置の席に居た何人かのお耳がないなった。



「き、希咲さん……? どうし――」


「――あんたそれっ…………それっ――⁉」



 木ノ下が驚いて容態を問うが、希咲はもはやそれどころではない。



 弥堂を指差して彼の持つスマホに映されたものについて言いたいことが多すぎて言葉が上手く出てこない。



 そして、突然大声をあげた希咲がビシッと弥堂を指差したのに釣られて、全員がその指が示す方向へ首を回す。



 弥堂はサッとスマホを懐に隠し、他の者と同じような動作で自身の背後を見る。



「おまえだっ! おまえーっ!」


「ん? 俺か? どうした?」


「どうした? じゃないでしょっ! あんたどういうつもりよ⁉」



 ベタなスッとぼけ方をする弥堂に希咲の怒りは燃え上がる。



「俺のことより、お前の話をしているんじゃなかったか? そら、全員が待っているぞ。お前らも俺を見ていないであっちに注目をしろ。希咲が面白い話を聞かせてくれるそうだぞ?」



 その声に誘導されて再び全員の目が希咲の方へ向く。


 弥堂は悠々と教室を見回し自分へ視線を向けている者がいないことを確認すると、また胸元からスマホを取り出して希咲へ画面を向ける。



「あ、あんた……まさか…………っ⁉」



 ここにきて希咲はようやくあの野郎の思惑に気が付く。



(こっ、こいつ――っ! あたしを脅迫してる……っ⁉)



 驚愕の目で弥堂の持つスマホの画面を見る。



 そのディスプレイに表示されているのは、希咲のあられもない姿を写した写真画像だ。



 そう、『希咲 七海おぱんつ撮影事件』の例の証拠画像である。



(そう言えば忘れてたーーーっ‼‼)



 彼に画像を消すように言った覚えはあるが、色々あってそれを実行したのか確認をするまでには至っていなかった。



(言われて素直に従うような奴じゃないってわかってたのに…………っ! もうっ! バカっ! あたしのばかっ……!)



 はしたなく膝をあげてスカートの中を思い切りカメラに晒している自分の姿に、己の手落ちを悟り猛烈な後悔が湧き上がるが最早手遅れだ。


 自分の方へスマホを向けてくるあの無表情顏が下衆なニヤケ顏に見えてきた。



 これを公開されたくなければ都合の悪いことを言うな。そういう意味であろう。



(こんのやろう……っ! やっていいことと悪いことがわかんないわけ……っ⁉ …………わかんないんだった! てゆーか、わかっててもやるヤツだった! 知ってた!)



 何故朝っぱらから特に理由もなくここまで追い詰められなければならないのか。


 七海ちゃんは今日も朝から不憫だった。



「あの、希咲さん……!」



 木ノ下先生に名を呼ばれてハッとする。



 周囲はやはり自分を見る目玉だらけだ。



 先程よりも段違いのプレッシャーを感じて思わず喉を鳴らす。



「言い辛いかもしれません……ですが、どうか勇気をもって……!」



『さっさと言え』と、全ての目玉が自分を責め立てているように感じる。



 さっきまでは真実を話す心づもりでいた。


 だが、今はそうもいかない。



『昨日パンツ見られて泣かされました』と情報の一部として知られるのと、『この場で全員にパンツ見られて泣く』のでは話はまったく変わってくる。


 こんなところでクラスメイト全員にあんなもの見られたら自分は絶対に泣く。泣く自信がある。


 そんなことは乙女的に全くを以て受け入れられるものではない。



「ぐぬぬぬぬぬっ」



 怒りと悔しさに歯を噛み締め弥堂へ憎しみの目を向けるが彼は動じない。


 もしも自分がヤツの意向に沿わない行動をとれば、あの野郎は間違いなくやるだろう。やるに決まっている。



 進退窮まった希咲は救いを求めるように親友へと目を向ける。



 再び目が合ったことで水無瀬は嬉しそうにニコっと笑顔を向けてくれた。



 大好きな愛苗ちゃんのお顔を見た七海ちゃんはふにゃっと眉を下げ情けない顏をする。


 大好きな七海ちゃんの悲しげなお顔を見た愛苗ちゃんもふにゃっと情けない顏をした。



 当然水無瀬さんは希咲さんに何が起こっているのか一つも理解をしていない。何となく釣られただけだ。



 両手を握りしめプルプルと震えた希咲はやがて――




「――なんでも、ない……です…………」



 彼女は屈した。


 例え嘘を吐くことになろうとも自身のおぱんつを隠し通すことを選んだのだ。当たり前だが。



 それっきり希咲は肩を落とし俯いて口を閉ざしてしまう。


 クズ男はその様子に満足気に頷くとスマホを懐に仕舞い込んだ。



 どう見ても尋常でない様子に周囲はどよめく。



「あ、あの、希咲さんあ――「――先生」――えっ?」



 希咲を心配して声をかけようとした木ノ下先生の発言を遮る者がいた。



「――よろしいでしょうか?」


「あ、野崎さん。はい、どうぞ」



 学級委員であり風紀委員でもある野崎さんだ。


 彼女はチラリと弥堂の方を一瞥してから話し出す。



「……先生。弥堂君も。その、今日のHRでの話は犯人捜しが目的ではありません。あくまで再発防止のための注意喚起を……」


「あっ――! そ、そうですよね……私ったらつい…………弥堂君もそれでよろしいですか?」


「問題ありません」


「じゃあ、みんなもちゃんと席につきましょう? 希咲さんも…………ね?」


「…………うん」



 野崎さんの指示に従い、興奮して席を立つ者まで居た教室は整理されていく。全員が大人しく席に着き前を向く。



 野崎 楓はプロフェッショナルな学級委員である。


 例え新米教師では対処できないような学級崩壊の現場でも、小学校時代から数えて10年ものキャリアを重ねた歴戦の学級委員にとっては、この場を納めることなど造作もない。



 キラリと野崎さんの眼鏡フレームが銀色に光った。ような気がした。



 各々着席はしたものの、希咲や弥堂の様子があまりにも不可解で不穏なものであったため、其処彼処で囁き声が漏れる。


 そしてそのヒソヒソ声は、席に座り顔を俯ける希咲の耳にまで入ってくる。



『リベンジポルノ?』『セカンドレイプ?』『セクストーション?』など、好き勝手に囁かれるそれらの単語にカっとなる。



(くそおぉぉぉっ……! 好き勝手言いやがって……! ちがうっつーの……っ!)



 悔し気に拳を握りしめるが、客観的に状況を鑑みればそれ以外の何ものでもない。


 しかし、乙女的に認めるわけにはいかないのだ。


 自分はあんな最低男には決して屈したりはしない。乙女の威信にかけて。



『ぐぬぬ』と屈辱に耐えて身を震わせているとハッと気が付く。



 親友の愛苗ちゃんがハラハラと心配そうにこちらを見ている。



 七海ちゃんはふにゃっと眉を下げる。


 愛苗ちゃんもふにゃっと眉を下げた。


 

 七海ちゃんは気まずげにサッと目を逸らす。


 愛苗ちゃんはガーン!とショックを受けた。



 顔向けが出来ないと鼻をスンスンする希咲と、それを悲しげに見つめ涙ポロポロする水無瀬。


 そんな二人の様子を心底からくだらないと見下すように見た弥堂は、それはそれとして必要な連絡をする。



「おい、クズども。お前らに連絡だ」



 その言葉に生徒たちはカチンとくるが、もはや怒鳴り返す元気が残っている者は少ない。甘んじて聞き流す。



「今話した事件を踏まえた上で聞け。来週より恐らく放課後の全生徒の行動に対する規制が強化されるだろう。貴様らの自由は縮小され制限されることになる」



 弥堂の言葉選びが最悪なためクラス中に衝撃が走った。


 にこやかにそれを聞いている野崎さんの頬にもさりげなく汗が流れる。



「市民どもよりクレームがあがっている。貴様ら生徒どもの素行が悪いとな。生徒会長閣下がお心を痛めている。だから、手始めに放課後に貴様らが出歩ける時間に制限がかかるだろう。学園を出たら真っ直ぐ帰宅する義務が設けられる」



 どよめく教室を無視して弥堂は淡々と続ける。



「だが、このことでお前らが閣下や学園を恨むのは筋違いだ。元はと言えばお前らが悪い。自身の行動をよく思い出せ。これはお前らが放し飼いにされたマヌケヅラのヤギのように、そこらの道端で延々と自制なくクチャクチャと草を貪り食ってきたツケだ。今一度己の立場をよく自覚するがいい。自分たちは家畜なのだとな」



 絶好調で全方位を罵倒する弥堂を止める者はいない。



「もしも、規制後も市民どもに見つかり、補導をされるような愚図が出た場合にどうなるかを先に伝えておこう。学園は足手まといを絶対に許さない。その者の内申書にはそいつにとって決して望ましくはない文言が書き加えられることになる。必ずそいつの人生は台無しになるだろう」



 HR開始前に野崎さんから弥堂に渡された風紀委員のプリントには、『放課後の道草なしキャンペーン! ~みんなまっすぐお家に帰ろうね!~』と書かれていたのだが、弥堂フィルターを通すとこういう話になる。



「そしてそれは他の者についても他人事ではない。俺が最初に言ったことを覚えているか? 罪人とは罪を犯した本人だけではない。罪人に与する者、自分の友人が罪人であることに気付かない者も悉くが罪人だ」



 あまりに不穏な空気が漂い生徒たちは不安そうに周囲を見回す。



「我々も貴様らを監視しているが、現実問題手が足りない。そこでだ。貴様らにも協力してもらう。これは生徒の義務だ」



 弥堂は一度言葉を切り、学園の所有物であり消耗品である生徒たちを見渡す。



「仲間を監視しろ。そして裏切者を発見したら即座に報告をしろ。裏切者とは我々美景台学園全体の足を引っ張る罪人のことであり、そいつを匿う者の事でもある。そして、そいつらに気が付かない全ての者が罪人だ」



 衝撃的な言葉に生徒さんたちの多くが白目を剥く。



「ここでどう行動するかでお前らの今後の人生は大きく変わるだろう」



 弥堂は左右の手でそれぞれ一本ずつ指を立てて全体に見せてやる。



「まず、我々の喜ぶことをする者。これは当然学園側の覚えもよくなり内申書に記載される内容が頓に充実することになるだろう。進学にも就職にも非常に有利となる。将来の出世が約束されるだろうな」


 右手の人差し指をヒラヒラと振ってから上を指す。そして次に左手の人差し指を強調する。



「次に、我々にとって望ましくない行動をする者、つまりは罪人の処遇だ。先程言ったとおり内申書が目も当てられなくなるだろうな。当然だが進学も就職も難しくなるだろう。そんな人間の行先はどこだかわかるか? 廃鉱山だ。鉱物など一切採れないような穴倉の中で地を掘り続けながらその一生を終えることになるだろう」



 左手の人差し指を下に向けながら冷酷にそう言い渡した。



 いい加減生徒さんたちも黙ってはいない。



「ふざけんな!」「横暴だぞ!「何様よ!」そんな声が飛ぶ。



 弥堂はそれらをつまらなそうに見下した。



「お前らの不安ももっともだ。だが安心しろ」



 全くを以て他人に安心を齎すような類の眼つきではなかった為、生徒さんたちは息を呑み黙る。



「なに、簡単なことだ。他人が困ることをしなければいい。自分が困りたくないのなら、他人も困らせてはいけない。普通のことだろ?」



 急にまともなことを言い出した困ったヤツに全員が困惑をする。



「だが、それでも足を引っ張る者は必ず出る。いいか? 俺はお前らのモラルやマナーなどというものは欠片も信用してはいない。必ず裏切者を地獄へ落してやる」



 恐らく当学園で最もモラルやマナーがない者が凄絶な目つきで自分たちを裏切者呼ばわりしてくる。生徒たちは世の理不尽さに身を震わせた。



「どうすればいいかはもうわかるな。再三言ってきたがもう一度わかりやすく言ってやる。自分が助かりたければ仲間を売れ」



 教室の空気は最悪だった。疑心と不安に戸惑いが混ざり合い澱む。



「だが、そのことに心を痛める必要はない。何故なら罪人は仲間ではない。人間は罪を犯した時点でもう人間ではなくなる。ただの薄汚い獣だ。そして社会とは我々人間のために存在する。我々が快適な生活を過ごしやすくする為に密告をしろ。そして清浄なる社会を作り出すために全ての獣を追い出せ」


「――そ、それは違いますっ!」



 堪らず口を挟んだのは木ノ下先生だ。弥堂にジロッと目を向けられ「ひぅ」と怯むが教師の使命を燃やし立ち向かう。



「び、弥堂君っ! 社会とはそういうものではありません!」


「しかし、先生。SNSなどを見るとよくこのようなことを言って注目と金を集めている銭拾いが居ます。それで『いいね』と多数の同意を得て、いくらか金も得ているのならそれは正しいということになるのではないでしょうか」


「キっ、キミは一体どういう人たちをフォローしてるんですか⁉ そんなSNSの言うことを真に受けちゃいけません……っ!」


「なるほど。興味深い話です。今度時間のある時にでもじっくりとお聞かせ願いたいですね。ですが、今は放課後の生徒たちの道草についての話をしています。俺のSNSの使い方は関係ない。それはわかりますね? わかったならそっちの隅で大人しくしていて下さい。さぁ、これをやるからもう俺の邪魔をするな」


 彼にしては丁寧な口調で教師を諭し、しかし最後にサラッと本音を述べて怯える先生を隅に追いやった。


 木ノ下先生は弥堂に渡された物を見て瞠目する。



 駅前の風俗店のキャッチが配っているポケットティッシュだ。


 男性へ向けた店の宣伝だけでなく、女性へ向けた求人広告も記載されている。


 まさか、教師など向いていないからとっとと辞めてここで働けとでも言うのか。『体験入店』『高額時給』などの文字に頭が真っ白になる。



 弥堂としてはちょっとした賄賂のつもりでいらない物を押し付けただけなのだが、木ノ下先生は未だかつて経験したことのない侮辱とショックを受けて白目を剥いた。



 フリーズする担任教師を捨ておき話を締める。



「我々はいつでもどこでもお前らを監視している。だが、お前らも怠けることは許さない。隣人を疑え。隣人を売れ。それが平穏に過ごすための唯一つの方法だ。我々の役に立つ者を我々は決して悪いようには扱わない。いいか我々は――」


 そこで弥堂は突如グルっと白目を剥く。


「『生徒のみんな! 私たち風紀委員会を助けてーー! みんなでつくろう、みんなの学園! みんなで守ろう、みんなの風紀! by 風紀委員会委員長、豪田 ノエル。』」


 まるで何かを読み上げるように白目のまま棒読みでそこまでを言うと弥堂はペコリと頭を下げる。



「以上。話は終わりだ」



 頭を上げると同時にクルっと黒目を戻し、そのまま何事もなかったかのように教壇を離れる。



 脈絡もなく謎の芸を見せつけてきたやりたい放題の男に対してとるべき適切なリアクションの難易度がナイトメアで、生徒のみなさんはただ白目を剥くばかりだ。



 淀みのない動作で自席へと戻っていく男に畏れを抱く。



 弥堂が『みんなでつくろう~』という標語のような部分で握った拳を天に突き上げるジェスチャーをしていた時に、一緒に「お~!」と元気いっぱいにお手てをあげていた強靭なメンタルをもつ水無瀬さんだけがただ一人楽しそうにしていた。



 弥堂は席に座ると自分の役目は終えたとばかりに目を閉じて動きを止める。



 それをニコニコと見守っていた水無瀬は周囲が沈痛そうな面持ちをしていることにハッと気が付くと、慌てて自分も身を正し神妙そうな顔をした。

 

 もちろん彼女はよくわかっていない。



 こうして輝かしい学園生活を始めるための朝のHRは、暴虐非道で傍若無人な風紀委員にジャックをされ、その結果あらゆる意味で地獄のような空気となった。



 ほとんどの者が白目で固まったままのこの空気は一限目開始のチャイムが鳴るまで続いた。



 チャイムとともにガラっと戸を開けて入ってきた担当教師が、教室内の惨状にギョッとして思わず戸を閉める。



 多くの者たちが感じていた。



 最悪の一日が始まった、と。

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