1章17 『狭間の夜』

 シャワーを浴び終えてダイニングルームへ戻る。



 前髪をつたってポタポタと床に落ちる水滴を踏みつぶしながらダイニングテーブルへ近づいていく。



 椅子に座り一息を吐く。



 今日も今日とて長い一日だったと背もたれに体重を預け天井を見上げた。



 肉体的にはまったく疲労などないんだがなと自嘲する。




 あの後、水無瀬と別れた俺は路地裏を巡回し何組かの不良を殴ってから帰宅してきていた。


 一人だけ、誤って人相の悪いだけの一般人を殴ってしまったのだが、まぁ一人くらいなら誤差に過ぎない。問題はないだろう。


 誠心誠意の謝罪をするために後日職場と実家を訪ねさせていただく、手抜きなど一切しないと伝えたところ快く許してくれた。気のいい奴だった。



 それから家に帰り、義務感からコーヒーを煎れ一口飲んで残りを捨て、食事を摂りながら今日中にしなければならない連絡などを済ませ、そして今シャワーを済ませてきたところだ。



 4月17日 金曜日のもうすぐ21時になる。



 明日と明後日は学校は休みとなっており、ひとまずはこれで今週の仕事は一区切りとなる。



 とはいえ、俺自身が完全にオフになるわけではない。



 無意識に天井の汚れを数えて思考のリソースを減らされるので、首にかけていたバスタオルを自分の顏に被せ視界を塞ぐ。




 土日の予定を確認する。



 まず明日の土曜日。


 確定した予定はまだないが、先方が上手くやれば人に会いに行くことになる。


 朝からいつでも外出できるように備えておく必要があるだろう。


 あとは来週の活動のために街を廻りたい。街と言っても路地裏だが。


 地理の把握がまだ十分だとは言えないので、いざという時の逃走経路の準備なども含めて適当に目に付いた奴を殴りながら少し巡回をするか。



 次に日曜日。


 まず午前中は風紀委員会の仕事で町内のボランティア活動だ。


 しっかりと目立つ場所でこれ見よがしにゴミ拾いをし、自分たちは友好的で役に立つ集団であることを近隣の住民どもにアピールをして騙さなければならない。


 重要な任務だ。


 そして夜には大事な商談があるので新美景駅まで足を運ぶことになっている。アポは取っていないが先方の予定は内通者を通して予め掴んでいる。


 気を抜いてリラックスしているところを訪問して、事態を把握する前になし崩しに言質を録り、何が何でもこちらの要求を呑ませる。



 後は月曜日の朝に廻夜部長に提出するレポートと、来週中に提出しなければならない反省文の作成くらいだろうか。


 どちらもノートPCを使って作業をするつもりだったのだが、生憎そのノートPCは昨夜、希咲のせいで壊れてしまった。



 仕方ないので合間の時間でスマホを使って進めていくしかあるまい。



 来週中に提出をしなければならない反省文は既に4件ある。クソッタレめ。


 今週分に関してはY’sに代筆させることによってどうにか間に合わせることが出来た。


 もしも奴が書いたものが教師受けがいいのであれば、今後は全て奴にやらせるのもアリかもしれない。



 直近の予定に関してはこんなところだろうか。



 次はやり残しがないかを確認する為に今日のことを振り返る。



 長く感じる一日ではあったが特筆すべきような事柄は多くない。



 まず一つ目は、来週から始まる『放課後の道草なしキャンペーン! ~みんなまっすぐお家に帰ろうね!~』だ。


 二つ目は、我が校を含めた街のアウトローたちの勢力争い。


 そして三つ目は、これはあえて付け加えてやるなら程度のものだが、希咲とのいくつかの約束事だ。



 一つ目に関しては、これは風紀委員としての仕事となる。


 放課後に目的もなく街を徘徊する愚かな生徒どもをぶん殴って帰宅させるだけの簡単な仕事だ。


 しかし、これは建前のような名目であり、謂わば二つ目の仕事のためのアリバイのようなものだ。



 二つ目。


 これは一つ目の風紀委員の任務の裏で進める俺個人の用事のようなものだが、むしろこちらの方が重要であると云える。


 街のアウトローどもの勢力図や利権に介入するために、『放課後の寄り道なしキャンペーン』を風紀委員で決議されるように前々から工作をしてきたのだ。


……『寄り道』ではなく『道草』だったか?


 まぁ、どちらでもいい。



 この謀の協力者は自分のナワバリを拡げたいようだが、それは俺にとってはどうでもいい。


 俺の目的は街で出回り始めていると情報のあった『新種の薬物』、これの入手と製造法や仕入れルートの確保にある。


 その為に利用できるものは利用させてもらうつもりだが、それは相手も同じことだろう。


 協力者であっても決して味方などではない。



 最後に三つ目。


 希咲 七海との約束。


 あの女から3つの要求をされたが、これに関しては極力履行していくつもりだ。



 もちろん、約束をしたからには守る――といったつもりはサラサラなく、単にあの女には利用価値があるかもしれないので、その為に貸しを作るのが目的だ。



 昨日の段階では、適当にカモを釣るための餌にする程度のことしか考えていなかったが、もしかしたら街のバカどもとやり合う際にあの女を利用できるかもしれない。


 戦闘員として頭数にすることもできるが、恐らく他にもっと有用な使い途があると踏んでいる。



 彼女との約束も3つ。



 一、水無瀬の護衛。


 二、水無瀬を4月20日の月曜日は甘やかす。


 三、水無瀬の様子について希咲から聞かれたら報告をする。



 水無瀬のことばっかじゃねえか。あいつ気持ち悪ぃな。



 だが、まぁ、どれも大した内容じゃない。


 面倒なだけで難易度としては問題にはならないだろう。


 面倒なことが一番の問題だとは謂えるかもしれないが。




 こんなところだろうか。



 街でのことに関しては明日と明後日で準備をし、希咲とのことは月曜日からやればいい。


 どれも遂行する上では何も難しくはないだろう。


 希咲との約束事に関しては多少の我慢を強いられるだろうが、ストレスに耐えるのは得意な方だ。問題はない。




 しかし、あれだけの無駄な時間を割いてこれだけのことしかないのか。



 情けなくも思うが、だが、普通の生活などというのはこんなものだろう。




 他には何かなかっただろうか。



 思い出そうとすると頭に靄がかかったようにボーっとする。



 おかしいな。



 長い一日だった、とは感じたが、こんな時間に眠気に襲われるほど疲弊した自覚はなかった。



 これは衰えなのだろうか。



 ぬるま湯のような日常を送っているとこうまで緩むのか。



 こんな調子なら何か失念していたとしても不思議ではない。




 見落としなどないとは思うが、念のため記録を探ることにする。



 顔を覆うタオルの下で眼を閉じる。




 時間はそうはかからなかった。




 2秒。




 それだけの時間で事足りた。




 俺は反射的に強く眼を見開き、思わずガバっと身を起こした。



 それに伴い顔に被せていたタオルが床に落ちたが、そんなことはどうでもいい。




 なにが『他には何かなかっただろうか』、だ。



 あっただろうが。



 むしろ一番大きな出来事が。




 魔法少女。




 よりにもよってこんなイカレた出来事を忘れているとは。



 というか、忘れるか? 普通。



 確かにあの路地裏での水無瀬たちとのやりとりの怠さを考えれば、脳が覚えていることを拒否するようになるのも無理はないかもしれないが。



 これはいよいよ俺もヤキが回ったかと、思わず口角が上がる。




 まぁ、しかし、自嘲をしていても時間の無駄だ。



 思い出したことについて考える。




 魔法少女、水無瀬 愛苗。




 この二つの単語だけで自分の正気を疑いたくなるが、しかし実際に現実に遭遇をしてしまってはそれを事実として受け入れる他ない。



 不可思議な現象であり、それとの出会いは荒唐無稽なものではあるが、それが存在することの意味合い自体は至ってシンプルだ。



 “ゴミクズー”というふざけた名前の化け物がいる。


 魔法少女はそれを倒すための者だ。



 たったそれだけだ。



 しかしそれは、あくまで奴らからヒアリングをした内容が真実であることと、奴らが正しく事実を認識していることが前提となる。


 それに関しては現時点で俺に確かめることは出来ないし、それを確かめなければならないような事態には陥りたくない。



 魔法少女や“ゴミクズー”、それに“闇の秘密結社”とか言ったか、それらに対する俺の基本スタンスは不干渉だ。


 出来ればそれを貫き通したい。



 魔法少女絡みの一連のものは、その存在自体はシンプルではあるが、そこに俺の事情が絡むとそうではなくなる。


 そのため、水無瀬と取り引きを交わしてまで互いに不干渉でいることを約束し、約束させた。


 彼女にはその自覚はなく、その意味もわかっていないだろうが。




 水無瀬 愛苗。


 彼女を追い詰めてみた一幕だが、あれは別に戯れに思い付きで少女を虐めてみたくなったわけではなく、一応明確な目的はある。



 一つは、彼女の存在の揺らぎを視ること。


 精神的に追い込まれた時にその精神性がブレることはないか、またその存在自体が揺らぐことはないか、それを試してみたかった。


 結果としては、彼女の精神を弱らせることは出来たが、しかしその一方で存在自体が揺らめくことはなかった。



 それは俺としては見込み違いの現象であり、ということは魔法少女とは俺が思っているようなものではなく、完全に理解不能で不可思議極まるモノということがわかった。


 要はわからないことがわかったということか。



 もう一つの目的は、彼女とした取り引きのとおり、お互いに相手の事情には首を突っこまないと不可侵と不干渉を誓わせることだった。


 これに関しては水無瀬がどういう行動に出るかはわからなかったので、上手く約束を取り付けることが出来ればツイている、そんな程度にしか考えていなかったが、結果的には“いい方”に転がってきた。



 もちろん、俺にとって“いい方”だ。



 何故こんな約束を成立させたかというと、それは来週からの俺の活動にとって魔法少女という存在が邪魔でしかないからだ。



 放課後に寄り道をしている美景台学園の生徒を取り締まる風紀委員としての仕事。これに関しては別にいい。


 しかしその真の目的は、街に居るアウトローどもと揉めることにある。


 そしてその結果、“新種のクスリ”とやらのルートや製法を抑えることが俺の勝利条件だ。



 今日の昼休みに提供された情報では、そこいらで売られているようなことになっていたが、言うほど世に出回っているわけではない。



 俺の方でも事前に情報は掴んでいたが、未だ実物にまでは辿り着いていない。



 外人街の連中は狡猾だ。どうやって売る相手を選定しているのかはわからんが、簡単には尻尾を掴めないだろう。


 そして奴らは用心深い。こちらから向こうのシマに乗り込んで行っても、力づくで手に入れることは困難だと考えている。


 いざとなればそうすることもあるだろうが、それをした場合はまず間違いなく俺はこの街には居られなくなる。奴らだけではなく警察まで敵に回すことになってしまうだろう。


 今のところは現在通っている学園を卒業して、『高校卒業』の資格を手に入れるつもりなので、それはかなり優先順位の低い手段となる。



 ではどうするかと考えたのが、こちら側にまで奴らの販路を拡げさせることだ。



 現在、新美景駅の北側と南側で別々の勢力が棲み別けている状態になっている。



 北側は外人街と呼ばれるスラムで、南側の主に今日訪れた路地裏などは街の不良どものナワバリになっている。



 現状この二つの勢力は仲がいいわけではないが、表立って対立しているわけでもない。そういった関係になっている。



 今俺が考えなければならない勢力はとりあえず4つだ。



 外人街、路地裏のギャング、佐城派、地回りのヤクザ。




 まず外人街。


 俺の目的のクスリを持っている連中で当面のターゲットとも謂える。


 今のところ積極的にナワバリの外に出てきてはいないが、反面外から奴らのナワバリを侵しにいくのはそれなりに困難な存在。



 次に路地裏のギャング。


 南口の路地裏を占拠している主に地元の不良たちで構成されている連中。高校を卒業後もしくは中退後に行き場がなく路地裏に行き着いた、そんな輩が多い。恐らく数としては一番多いが頭の悪い者も多く、戦闘の実力もピンキリだ。


 必然的に構成員は美景市内の各学校のOBが多いので、在校時のコネクションは生きており、彼らの後輩となる現役の各学校の不良生徒の多くはこいつらの一派だと考えてもいい。



 もちろんそれは俺が所属する美景台学園も例外ではない。


 それが佐城派となる。



 現在美景台学園の三年生となる佐城という男を筆頭にした不良グループだ。グループというよりも最早一味、一党と謂ってもいいかもしれない。それくらいの規模だ。


 美景台学園内の不良の勢力は現在二分されていて、実質佐城派は学園の半分を支配しているとも謂える。あくまで不良たちの界隈での話だが。



 佐城派は一応は街のギャング共の傘下ということにはなる。


 だが、今日提供された情報では、その関係性はあまり良好ではないようだ。



 佐城派の連中は学園内でもハバをきかせてきており、他の派閥の不良だけではなく一般生徒までも取り込もうとしており、そいつらを使って麻薬を買わせて売らせて、女生徒に売春をさせたりもしているようだ。



 昼に電話で話した男が懸念しているのが、佐城派が勢力を増し、学園内でこういった犯罪行為が増加することのようだ。



 そしてその男の所属する勢力が地元のヤクザということになる。



 しかし、こいつらは先述の3つの勢力に比べると劣勢と言っていい。



 本来であれば佐城派のような不良や街に居る不良どもも、地元のヤクザの下につくのが慣習のようなものであったのだが、近年の暴力団に対する規制の強化の影響もあってその支配力、実効力、影響力を失った形になる。


 街の不良どもは所謂“半グレ”と呼ばれる者たちになり、管理されない悪としてそれぞれが好き勝手に悪さを働くようになった。



 路地裏のギャングと一括りにはしているが、もちろん連中は一枚岩などではなく、細かく派閥やグループが別れておりそれぞれが別々の後ろ盾を持っているケースもある。そのため内部抗争も多い。


 佐城が上と揉めたというのもその一部だろう。


 今のところそのギャング一派内では大きく争ってはいないようで、一応は互助関係のような契約を取り決めてはいるようだ。



 そして管理されない悪は当然いつまでも管理されずにいられるわけがない。しかし、そいつらを管理するのは法や正義などではなく、別のもっと大きな悪だ。



 それが外人街だ。


 早い話、こいつらは海外マフィアだ。


 日本国内に拠点を作るために、出稼ぎや留学、海外企業や外国人労働者の誘致などを利用して入国し、そのまま失踪をして既に現地に潜んでいた仲間に迎え入れられ、陰でひっそりとこの国に張る根を増やし伸ばしていっている。



 そしてヤクザの管理を離れた半グレたちは海外のマフィアに取り込まれつつある。



 それは恐らく美景市だけのことでなく他の街でも同じような状況なのだろうが、この街に関しては運が悪いと謂えばいいのだろうか、15年ほど前に一度大きな災害により街ごと滅んでいる。


 文字通りの意味で壊滅状態になった街が復興をした結果が現在の俺達が住んでいる美景市ということになる。



 表の社会が復興するのと同様、裏の社会も復興を図っていたのだが、そこに全国的な暴力団に対する規制の強化が重なり、現在ではひっそりと存続をするので精一杯といった状況だ。



 そこで空白となった街の裏を仕切る席に余所者が座ったことになる。



 支配者が誰なのかが決定的になったとまではいかないが、少なくとも元々そこの座に居たヤクザたちでないことだけは確かだ。



 俺とはもう馴染みとなりつつあるあの男は、きっと最終的な目標としては再びこの街の裏社会のトップに返り咲くことを目指しているのかもしれないが、現実的な思考をする彼は現状としては各勢力のバランスをとることに注力しているようだ。



 どこかが抜き出ることやどこかが滅ぶようなことにはならぬように、現状よりも大きくは良くも悪くもならないように努めているように見受けられる。


 その中で自身の勢力を強めていく方針なのだろう。



 街の裏に関しては大雑把にはこのような事情になっている。



 そして、その全てが俺には関係がない。



 このような情勢の中での現段階での俺の狙いは、各勢力を争わせることとなる。


 そうすると恐らく外人街が優勢となり、他の勢力は弱体化することになるだろうと予測している。


 その結果何が起こるかというと、他のワルどもは外人街の傘下となり、奴らの仕事をやらされることとなる。



 他の弊害が多く起こるだろうがその中の一つとして、例のクスリがこちら側に流れてこないかと期待している。



 スラムに潜入して売人を探して潰して元を辿っていくよりも、奴らの下請けにされた地元のギャングどもから現品を奪い取る方が簡単だしリスクも少ない。




 そして、ここまできてようやく何故魔法少女が邪魔になるのかという話に繋がる。



 俺の希望としては人間と人間が争っていてもらわなければ困るのだ。



 人間と魔法少女、或いは人間と“ゴミクズー”、こういった争い関係が起こるのは俺の目的の障害となる。



 もしも水無瀬が、その魔法の力で以て悪い化け物だけでなく、悪い人間にまで攻撃を仕掛けたら。



 魔法少女の実力が実際のところどの程度のものかは予測の範囲を過ぎないが、まず普通の人間が束になっても敵うようなものではないだろう。


 もしも彼女が正義感のままに街にいる悪を一掃するようなことをしてしまえば、俺にとって非常に都合が悪いことになる。



 その為に『人間には手を出すな』という約束をさせ、また実際に彼女が人間同士の争いや犯罪現場に遭遇した場合、どういった行動に出るのかを予測するために、ああやって追い詰めてみたのだ。



 その結果だが、とりあえずは特に問題はなさそうだと判断をした。



 悪事や犯罪になどまったく免疫のなさそうな少女で、正義感も強そうではある。


 だが、彼女は思考の瞬発力がない。致命的に遅い。



 もしも、魔法少女である彼女がそういった現場に遭遇をしたら、恐らく最終的には魔法を使って事態の解決をしようとするだろう。



 だが、その判断を下されるのは本当にギリギリのところまで遅らされることだろう。


 そして、少なくとも最初の一回目は必ず手遅れになる。



 今日の経験からそのように俺には視えた。



 その一回目を経て以降に彼女がどうなるかは今はわからないが、その判断はその時にすればいいだろう。


 もしも取り返しのつかないようなモノに為るのであれば、始末をする必要も出てくるかもしれない。



 出来ればそれまでに一度、魔法少女の戦闘の様子を観察しておきたいところではあるが、それは機会があればでいいだろう。



 今日は何故俺に突破することが出来たのかわからないが、奴らの言う結界というものの詳細がわからない以上、迂闊に近づくのはリスクが高い。



 よって、当面は不干渉、ということになる。



 こちらがヤツらの領域に近づかないのも重要だが、あちらをこっちの領域に近付けさせないことも重要だ。



 仕事をする際にはより注意が必要となるだろう。



 元は月曜から街で大暴れしてやるつもりだったのだが、そのあたりの計画は修正する必要がある。


 もしかしたら進行に遅れが生じるかもしれない。



 おのれ、魔法少女め……。





 それはともかく。



 魔法少女への憎しみを募らせていても仕方ない。



 当面は彼女は俺の敵ではないし、俺は“ゴミクズー”ではないので俺も彼女の敵にはならない。少なくとも当面は。



 俺は俺で自分の部屋のゴミクズを片付けねばならない。


 明日は燃えるゴミの回収日であり、Y’sから言われたように今夜のうちに部屋の中からゴミを出しておくべきだろう。


 もしかしたら早朝から急に出かけることになる可能性もある。


 今のうちに済ませておこう。



 俺は立ち上がり部屋の隅に適当に置いてあるゴミ袋へ近づく。



 一応中身を確かめる為に袋の口を拡げて覗き見る。



 まず真っ先に目に付くのは昨日希咲のせいで壊れたノートPCだ。



「ふむ……」



 少し考える。



 明日は燃えるゴミの日だ。



 燃えるか、燃えないか。



 それをどう判断するべきだろうか。これは中々に難しい問題である。



 何故なら燃えるか燃えないかとは、燃やせるか燃やせないかということであり、そして燃やすという現象を起こすことが可能か不可能かは俺の問題ではないからだ。



 つまり、俺が考えることではないと判断をし、そのままゴミ袋の中に入れておく。



 燃やせるかどうかは俺ではなく業者の火力の問題だ。


 燃やせない物を入れられたくないのであれば、何でも燃やせるように火力を上げる企業努力をするべきだ。



 何が分別だ。甘えるな素人め。



 俺は心中でゴミの廃棄業者と大家に悪態をつきながらキッチンへ向かう。



 そして、先程コーヒーを煎れるために沸かしたお湯の残りを温め直そうと、コンロのスイッチを入れヤカンを再度火にかける。



 それからダイニングテーブルに戻り床に落ちていた使用済みのバスタオルを拾い上げ、今度は壁際に向かう。


 壁に吊るしたハンガーにバスタオルを掛けようとして手が止まる。



 ハンガーには先客がいた。



 シャワーに行く時に床に脱ぎ捨てていた制服のスラックスを、元々バスタオルを掛けるために壁に吊っていたハンガーに掛けてしまっていたのだった。



 ハンガーに掛けることが出来るのはどちらか一方のみ。



 さて、どうするか。



 少し考えてひとつ思いつく。



 クリーニングから返ってきた制服にハンガーが付いているはずだ。それを使えばいい。



 寝室に置いてあるクリーニング済みのそれを取りにいこうと足を踏み出そうとしたところで、いや待てよと、止まる。



 クリーニング済みの制服から引き抜いたハンガーにバスタオルを掛けたらクリーニング済みの制服はどうなる?


 これではクリーニング済みの制服を掛けておく物がなくなり、床に放っておくしかなくなってしまう。



 なんということか。



 これでは結局のところ、常にハンガーは一つ足りない状態のままになってしまうではないか。



 これはどうしたものかと壁に掛かった使用済みの制服ズボンを睨む。



 答えはすぐに出る。



 手に持ったクリーニング済みの制服を壁に掛ける。


 そしてその隣の元々壁に掛かっていたスラックスをハンガーから抜き取り、バスタオルと一緒に掴んでゴミ袋の方へ向かう。



 口を開いたままの袋の中に使用済みの制服とタオルを突っ込む。



 これで無事に解決だ。



 俺は満足げに壁に掛かったクリーニング済みの制服と隣の空きハンガーを眺めた。



 よくよく考えれば、着終わった物をいちいちクリーニングに出すのも面倒だな。回収にも行かねばならないし。


 これからは使い終わったらすぐに捨ててしまうか。



 タオルも制服も新品を大量に買っておけばいい。



 金ならあるし、その方が効率がいい気がしてきた。



 こうすれば常に空いているハンガーを確保しておける。



 何かが間違っているような気もしたが、俺が何かを間違えることなど別に珍しいことでもない。気にするだけ時間の無駄だろう。



 そうしているとお湯が沸いたことを報せるヤカンの笛が鳴る。



 俺は右足を床から離し膝の高さまで上げてから踵を強く床に叩き落した。



 二度三度と大きく音を鳴らしながら床を踏みつけていると、階下から床に転がり落ちるような音がし、続けて慌ただしく駆けていく足音が聴こえた。



 俺は床を踏みつけるのを止め、けたたましく鳴るヤカンを熱し続ける火を消しに行く。


 そしてお湯を噴き溢すヤカンを手に持ちながら先程までゴミを詰め込んでいた袋を拾い上げ、それからベランダへ向かう。



 カラカラと鳴るガラス戸の音を置いてベランダの下を覗く。



 アパートの302号室である俺の部屋の外というか下にはゴミ捨て場がある。



 カラス避けのネットの掛かったそのゴミ捨て場を無感情に見下ろしていると、そこに一人の男が走ってきた。


 余程慌てているのか片足しかサンダルを履いていない。



 その男はゴミ捨て場に着くとすぐにネットを取り外し、3階から見下ろす俺の方へ身体を向けペコペコと頭を下げてきた。



 その挨拶への返礼というわけでもないが、俺は階下の男へ向かって手に持っていたゴミ袋を放り投げた。



 ガシャーンという破滅的な音と、それに少し遅れて「ヒィィィっ⁉」 という情けない男の悲鳴が夜空に響く。



 男は尻もちをつきながら自身の身体の脇に落ちたゴミ袋を茫然と見ていたが、俺が無言で見下ろし続けていることに気が付くと慌てて立ち上がり、ゴミ袋をゴミ捨て場へ収容した。



 この男は同じアパートの住人でありネット係でもある、202号室の小沼さんだ。



 小沼さんはととも神経質な人のようで、他人の出す生活音などに酷くストレスを感じるらしい。



 俺がまだこのアパートに越してきたばかりの頃、ちょうど今くらいの時間に突然俺の部屋へ彼がやってきて、足音がどうだの騒音がどうだのとクレームをつけてきたのだ。


 俺としては正直なところ、こういった集合住宅での暮らしに慣れているわけでもなかったこともあって、彼が何を言っているのかがすぐには理解できずに対応に困ったので、とりあえず彼を部屋に引きずり込み手足を拘束して軽く拷問にかけてやった。



 あくまで俺の主観だが、突然会ったこともない人間に部屋を訪問され文句を言われるレベルの音を立てていたつもりはなかったので、彼はクレームを付けに来たという体で部屋に上がり込み、盗聴器か何かをしかけるか、それとも直接俺を狙いに来た工作員か刺客の類だと思ったのだ。



 結果的にそれは違ったのだが。



 手の指を1本圧し折ってやっただけで音をあげた小沼さんが涙ながらに誠心誠意の謝罪をし命乞いをしてきたので、俺も2本目の指を圧し折ってやってから快く許してやることにした。



 そして、その日あったことを決して口外しないことと、俺が合図をしたら30秒以内にゴミ捨て場のネットを外すこと、さらに俺の許可なく引っ越しをしないことを条件に彼を解放してやった。


 もしも破れば彼の職場と実家に丁寧に挨拶をしに行くと伝えてやると、彼は喜んでそれらの条件を受け入れた。



 小沼さんとのそんな経緯を思い出しながら、俺は彼が再びカラス避けのネットを掛ける姿をジッと見張る。


 しっかりとネットを戻さないと、カラスを親の仇のように憎む大家さんに怒られるからだ。



 ここに越してきた時にすぐに思ったことが、ベランダの下にゴミ捨て場があるのなら部屋からゴミ袋を投げ捨てることが出来れば、わざわざ階下まで運ぶことなく効率的にゴミの処理が出来るなということだった。


 しかし、ゴミ捨て場にはネットが掛かっており、そのネットの中にゴミ袋を捨てないと大家さんに怒られるというジレンマがあった。



 そんな中での小沼さんとの出会いは俺にとって非常に都合のいいものであり、彼とはもう1年ほどの付き合いになるが、この間彼はとてもよく働いてくれている。



 しかし――



 俺は手に持ったヤカンを持ち上げ傾けると、ネットを戻し終えてこちらへまた卑屈にペコペコとする頭を下げる小沼さん目掛け、沸騰して間もないお湯を地上3階から注ぎかけた。



 言葉にならない叫びが上がる。



 千切れた蚯蚓のように地面をのた打ち回る小沼さんを醒めた眼で見下ろす。


 その動きがちょっと面白くて癇に障ったので空になったヤカンを彼の身体の脇に投げつけてやった。




――しかし。


 人間とは良くも悪くも慣れる生き物だ。



 小沼さんは非常に従順に己の仕事に従事してくれているが、それで甘い顏をすればすぐにナメられることになる。



 だからこうして定期的に力関係を理解させてやる為に躾をする必要がある。



 これがご近所様との人間関係を円滑にするための努力だ。



 この努力を怠れば水無瀬のところのクソ猫のように、ナメた態度をとってくるようになる。



 その証拠に小沼さんも二か月に一回ほどのペースで、もう引っ越しをさせてくれと要求をしてくる。



 なんでも、他人の生活音が過剰に気になる彼は少しの音でも敏感に反応してしまうので、俺がさっきやったゴミ捨ての合図とそうでない音の区別がつかない時があるのだそうだ。



 実際に階下に住む彼が突然バタバタと部屋から走って出ていく音を階上から感知することもあるので、恐らく嘘ではないのだろう。


 昨夜も希咲のせいでノートPCが壊れてしまった際に、彼が走り出す音が聴こえていた。



 しかし、そんなことは関係ない。



 俺は踵を返し部屋の中へ戻ると後ろ手でカラス戸を閉める。



 せっかく手に入れた便利なネット係を簡単に解放するつもりはない。



 シャッと小気味のいいカーテンレールの音を立てて幕を引く。




 部屋に戻るとすぐに床に脱ぎ捨てられている制服の上着を見つける。



 そういえばズボンはゴミ袋に詰めたが上着の方を忘れていたな。


 もう一度小沼さんを出勤させることも出来るが、これを捨てるのは別に次のゴミの日でもいいか。


 雑巾代わりに使うことも出来るだろうし、適当に床に転がしておこう。



 ポケットの中身だけは全て取り出しておこうと、上着を拾い上げてからテーブルに着く。



 テーブルと謂っても、昨夜希咲のせいでこのダイニングテーブルは真っ二つになってしまったので、現在はガムテープで無理矢理繋ぎ合わせて辛うじてテーブルの形状を保っている有様だ。



 上着から取り出した物を置くスペースを空けるために、テーブル上の物を適当に腕で避けると、カコンっと空虚な音が鳴る。


 テーブルの上に倒れたのは缶コーヒーの空き缶だ。



 中身を飲み終えた後に水道で内部を濯ぎ、その後何故かテーブルの上に置いていたのだった。


 平衡不具の天板の上をカラカラと空き缶が転がる。



 そういえばこれも捨ててなかったな。


 あとで捨てようと思ってテーブルに置いたまま忘れてしまっていたのだろうか。



 空き缶は椅子に座る俺の方へ向かって転がってくる。



 中身の失くなった缶コーヒー。



 それはつまりゴミだ。



 空き缶はまもなく天板の端に辿り着き床にその身を投げることとなるだろう。


 桜の花は地に落ちてその身を穢せばゴミになるが、缶コーヒーは中身が失くなればもうその時点でゴミだ。



 そんなことを考えながらゆっくりと転がる缶コーヒーの空き缶を見ていると、それはテーブルと宙との境界を越えた。



 天板を飛び出してから落下する動きを目で追い、無意識に身を屈めその軌道の下に掌を置いてそれを掬う。




 昨日とは違う重み。




 中身が入っている時はコーヒーなのに、そうでなくなれば缶に為る。


 これはもう別のモノだ。



 手の中の缶を見て、ゴミが床に落ちるだけのことなのに何故わざわざ受け止めにいったのだろうと考える。



「…………」



 大きな音を立てるとまた小沼さんがゴミ捨て場に駆け出してしまうからな。今日はもう十分に躾はした。これ以上は不要だろう。


 そういうことだ。



 空き缶をテーブル上に立てて戻し、作業に移る。



 爆竹、ライター、煙草、ボイスレコーダー、封筒、朱肉、結束バンド……など。


 手に馴染んだ仕事道具を制服ブレザーのポケットから取り出してテーブルに並べていく。



 左の内ポケットから紙幣の束を取り出したところで、そういえばスラックスのポケットに小銭入れを残したまま捨てちまったなと思い出し舌を打つ。


 何か足がつくような物はなかったかと記憶の中から記録を取り出そうとすると手の方に馴染みのない感触がし、そちらに意識を引っ張られる。



 細い棒状のそれを取り出して目に映すと、ヘアゴムがリボンのように括りつけられたボールペンだった。



 僅かに眉間が歪んだことを自覚した。



 何故か希咲から押し付けられた、100均ショップで複数本セットで売られている商品だと思われる。


 何時間か前に、その希咲の親友である水無瀬の非常にデリケートな部位に危うく突き刺さりそうになるという出来事があったが、運よくそのような不幸な事故は起きずに済んだ。



 結局希咲の意図はわからないまま流れでつい済し崩しに受け取ってしまったが、どう扱うべきか。


 何日か後に、その理由がわかるかもしれないといった風なことを彼女が言っていたが、特にそれを解き明かしたいといった関心も湧かないし、知っておかねばならないといった必要性も感じない。



 俺としては少々納まりが悪く、処遇を決めかねる。



 非常に面倒だ。



『ぺぽ~ん』



 ボールペンを睨んでいるとそんな間抜けな音が鳴る。



 音源はテーブル上のスマホだ。



 気のせいだと無視することが難しいほどの既視感が沸々と。



 それを抑え込みながら作業を続けようとすると、画面が暗転する前に更なる通知が連続で叩き込まれてくる。



『ぺぽぺぽぺぺぽぺぽ~ん』



 俺はコメカミに引き攣りを感じながらも観念することにしてスマホを手に取った。



 画面上部にポップアップされた通知が報せる送り主は予想していたとおり『@_nanamin_o^._.^o_773nnさん』だ。



 立て続けに6回か。



 どんな長文が送られてきたのだと憂鬱な心持ちでアプリを起動する。



「……?」



 先程よりも強く眉間を歪める。



『@_nanamin_o^._.^o_773nnさん』との個人チャットルームに追加された新着のメッセージは意味のある文章などではなく、イラストで描かれた猫のスタンプが団子のように縦に並んでいた。



 その猫の顏は全て同じもので表情は怒りを表していると思われる。



 何故それがわかるかというと、猫の頭の上に『ふしゃ~!!』と文字で書かれているからだ。



 このような夜更けに唐突に人を威嚇してくるとは、何て礼儀のなってない女なんだ。


 さらに夜分に突然怒りが湧きあがってきて、それを制御できずに関係のない人間に躊躇なくぶつけてくるとは唾棄すべき人間性だ。



(――いや、待てよ)



 ふと、考える。



 脈絡のない怒りでない可能性もある。



(――まさか)



 手の中のボールペンにチラリと視線を遣る。



 まさか、このボールペンを水無瀬の肛門にぶっ刺そうとしたことがバレたのか?


 そうであるなら希咲が怒りを漲らせている必然性にも正当性にも理解が及ぶ。



 俺はまず凶器を手離そうと考え、とりあえず目に付いたテーブルの上の空き缶の飲み口にボールペンを挿した。



 水無瀬め。



 自分から内緒にしてくれなどと申し出てきておいて、すぐさま保護者にチクリを入れるとは。


 おのれ魔法少女……。



 俺が正義の魔法少女への憎しみを燻らせていると、さらに新規メッセージが下に積まれる。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ありがと』



……どういう意味だ?



 てっきり殺害予告でもくるものだと思っていたら、感謝だと?



 これは何に対する感謝なんだ。


『水瀬のケツ穴を狙ってくれてありがとう』、そういう意味か?



 いや、それはないだろう。意味がわからなすぎる。


 ということは、『水無瀬のケツ穴を見逃してくれてありがとう』ということだろうか。



 それも違うか。


 確かにこれなら意味は通じるが、そんなことで律義に礼を言うような殊勝な女ではない。



 恐らく、罠だ。



 感謝をしたフリをして油断をさせておいて、次に会った時にでもまた唐突に襲い掛かってくるのだろう。なんて攻撃性の高い女なんだ。



 このような稚拙な罠で俺を殺れると考えているとは、ナメられたものだな。



 そちらがそのつもりならばいっそこちらから――と奇襲計画を練り始めると、またメッセージが増えていく。


 スタンプの連打とは違って、不定のリズムで僅かに間を空けながら吹き出しが積まれる。




『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ありがと』



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:今日』



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:いろいろ』




 なんのことだ? いろいろ?



 これはもしかして水無瀬のケツの話ではないのではないか。


 そんなひとつの可能性を思いつく。


 そして俺の疑問は次のメッセージで解消された。




『@_nanamin_o^._.^o_773nn:やくそく』



 あぁ、そういうことか。



 放課後に学園の正門前で交わした3つの約束。


 それに対する礼か。



 それにしても――




『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ありがと』



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:今日』



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:いろいろ』



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:やくそく』




 なんでいちいち単語で小分けにして送ってくるんだ。


 しかも追記しているはずなのに余計に意味がわかりづらい。


 普通に『約束を忘れるな。裏切ったら殺す』とでも言えば効率よく一回の送信で終わるものを。



 なんてめんどくせぇ女なんだ、あいつは。



 意外と律義で殊勝なようではあるが、これは俺に対する見縊りだ。



 やると決めたらやるし、やらないと決めたらやらない。


 希咲に感謝をされようがされなかろうが、そんなことは関係ないのだ。



 単純に約束を履行するよう釘を刺しているのか、しおらしい素振りをしてみせて俺のモチベーションを上げようとしているかは知らんが、どちらにせよナメやがって。



 さらにメッセージが送られてくる。



 今度は文章でも単語でもなく、最初と同じスタンプの連打だ。


 先程の文字とは違って小気味よいリズムで積み重なっていく。


 だが、積まれたのはまた威嚇顏の猫だ。



「なんだよ」



 口に出してから、俺はスマホに向かって話しかけてしまったことを強く恥じた。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:チョーシのんな!』



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんとやってよね!』




 なんでまたお前がキレんだよ。意味わかんねえよ。



 というか、気安く無駄なメッセージを送ってくるなと言ったはずだろうが。


 メッセージ1件につき指を1本折ることになっていたが…………15本か。


 片手か片足か。


 どちらか一つしか無事に残せんぞ。



 それはともかく。



 このまま放っておいたらまたわけのわからない怪文が送られてくるかもしれないので、何か適当に了承の意だけでも返信しておくべきだろう。


 なんなんだ、この屈辱感は。


 クソ女め。



 文字を入力しようと画面に親指を触れかけて、止まる。



 そういえば――



 希咲との約束で水無瀬に異常があったら教えるというものがあったな。



 魔法少女だなどと異常以外のなにものでもない。



 ここは報せておくべきだろうか。



 しかし――



 水無瀬との約束で魔法少女のことは誰にも言わないことになっている。


 これは面倒なことになったな。



 どちらかの約束を守れば、もう片方との約束に反することになる。



 顎に手で触れる。



「ふむ……」



 俺は少し考え、そしてチャットアプリを閉じた。



 別に水無瀬の方に肩入れをしたわけではない。



 希咲とした約束は厳密には『希咲から水無瀬の様子を聞かれたら答える』というものだ。


 聞かれもしていないのに、気付いたことを逐一報告するなどという約束はしていない。



 よって、これでどちらの少女との約束もまだ破っていない、そういうことになる。



 上手い解決法を見いだせたことに俺が一定の満足感を得ていると、例の間抜けな音とともに再度スマホの画面に光が灯る。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おい!』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ムシすんな!』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:既読ついてんぞ ばか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんたみたいなヤツがこんな早い時間に寝るわけないでしょ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんとわかってんだから』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:へんじしろ ばか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかばかばかばかばかばか』



 俺は画面から目を離し、一度だけ深く息を吐き出す。


 それから指を動かす。



『うるせーぞ。ななみん』



 それを送信すると間髪入れず奴のアカウント名の下に『入力中・・・』の表示が出る。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:それやめてって言ったでしょ!』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おなじこと何回もいわすな』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:てか、やっぱ見てんじゃねーか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:さっさと返事しろ』



 怒涛の返信が積み重なってくる。



『夕方にその話をしたばかりだろうが。何故同じ話を繰り返すんだ。無駄なことをさせるなくそ女』



 負けじと俺も応戦のメッセージを送信する。



 何故あの女が怒っているのかわからないし、なんなら何故俺も苛立っているのかもわからなかったが、とりあえず相手を自分よりも嫌な気持ちにさせてやろうと次弾の装填を開始する。



 しかし――



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:は?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なにそれ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うざ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:わりとゴーインにお願いしちゃったから』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちょっとだけ悪かったなーって思って』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:だから気つかってありがとーしたんじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:むかつく』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なまいき』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばか』



 猛烈な反撃を受ける。そこには圧倒的な火力の差があった。



 このままでは一気に押し切られると俺は危機感を抱き、戦況の打開を図るが、



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うざい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:きもい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:しね』



 こちらが一手返す間に4手5手と打たれる。



 これがプロのJKの実力だとでもいうのか。



 そういえば廻夜部長が、ことスマホの操作技術に関してはJKの力は侮れないといった風なことを言っていたな。


 これがIT技術というやつか。



 さらに、これからはIT技術で遅れる国は生き残れないとも部長は言っていた。



 俺はここでようやく自分の失策を悟った。



 彼我の実力差も鑑みずに怒りのままに戦いを仕掛けるなど、このようなミスをしたのは何年ぶりだろうか。



 しかし、一度口火を切った以上退く道はない。



 画面左側の奴の陣営には高く『@_nanamin_o^._.^o_773nnさん』の発言の山が聳え立つ。


 右側の俺の発言はとっくにどこかへ追いやられてしまっている。



 バックライトが照らしだす戦場の中に生還への道筋を見出そうとしていると、ムカつく顔をした猫のスタンプが連打される。



 視線を逸らすことを許さない圧倒的な兵力に俺は歯ぎしりをした。




『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんた』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:まじ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なんなの』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ほんと』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:むかつく』


『調子にのるなよ。がきが。it技術のさが洗浄での勝敗をつけるとおもうなよ。いいか。俺はぷろふぇつしょなるだ。あまり俺を本気にさせんことたな。』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかだし』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ヒジョーシキだし』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:へんたいだし』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ん?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:it?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:イット?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なにいってんの?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんた日本語も英語もめちゃくちゃじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:いみわかんない』




 クッ、ダメか……っ!



 希咲とのメッセージの応酬にて俺は劣勢に立たされていた。


 この戦いにおいても奴のスピードは大きく俺を上回った。



 俺が一つのメッセージを送る間に奴は4つも5つも送り付けてきやがる。そして俺が次の文章を入力している間に、俺が打った前のメッセージは遥か上の画面外へと成仏させられており、見た目的にも実質的にも一方的な戦況になっている。



 だが、それでもまだ負けたわけじゃない。



 確かに奴の手数は圧倒的だが、その一つ一つは短い単語に過ぎない。


 文字数の上ではまだイーブンなはずだ。



 果たして文字数を競うルールだっただろうかという問題は置いておいて、手を動かし続ける。戦場では頭が追い付かなくなったとしても身体は動かし続けなくてはならない。でなければ1秒後には死体だ。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:てゆーかさ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんたちゃんと約束守る気ある』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:既読スルーすんなってゆったじゃん』


『いっとではなくあいてぃーだ。それくらいわからないのか原始人め。あいてぃーを制するものが世界を制するのだ。これは国際常識だ。馬鹿も非常識もお前だ。戦争になったら負けるぞ。』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:今度やったら戦争よ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あいてぃー』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ITか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なんで急にIT?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:いみわかんない』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:きも』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:てかさ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんたカタカナとかアルファベット大文字とか』


『戦争だと。軽く言うじゃないか。がきめ。いいだろう。こちらはいつでも準備ができている。かならず公開させてやるぞ。』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:変換できないの?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:読みにくいんだけど』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:お前がゆーなってツッコミ待ち?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:つか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なにを公開しろってのよ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:後悔か』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんた誤変換も多い!』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんとやって』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:どうせめんどいってテキトーにやってんでしょ』


『へんかんくらい出来る。面倒だから省いているだけた。読めるかどうかはお前の問題だ。はかめ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:わかってんだから』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ほら』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:自爆』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ださ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:つか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:そーゆーとこよ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんと相手に伝わるようにってするのがコミュニケーションでしょ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:コミュ力』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ざこ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:よわよわ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:よわよわのよーーーわ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:よわよわよわよわ』


『うる』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:よわよわよわよわよわよわよわよわ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:は?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:てかさ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ぜんぜん会話かみあってないのに』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:戦争だけマッチしたの』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちょっとおもろい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おもろいからむかつく』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんた罰ね』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばつばつばつゲーム』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なにさせよっかな』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:これで愛苗とID交換させるでよくない?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あ、やっぱだめ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:これが罰ゲームって愛苗にしつれー』


『なんでちゅ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ホントだったら愛苗の方が罰ゲームじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ホントむかつく』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんたなんなの』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:は?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:でちゅ?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:きも』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あたしママじゃないんだけど?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:どーちたんでちゅかー? ゆーきくん』


『なんでだよ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ママとまちがえちゃったんでちゅかー???』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:きも』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:きもきもきも』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ださ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ださきもよわよわ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ぷー』




「クソが……っ!」



 バリエーション豊かな憎たらしい表情で人の感情を逆撫でする猫のスタンプが、画面を埋め尽くしていく光景を見ながら俺は思わず毒づく。



 なんてムカつく女なんだ。



 しかし、ここで冷静さを失ってはいけない。



 戦況は劣勢。


 ファーストプランは完全にミスだったと認めざるをえないだろう。



 圧倒的な手数を誇る希咲に対して、俺は一撃の文量で対抗をする戦術で臨んだ。


 しかし、それは完全に裏目であった。



 考え方が間違っていたのだ。



 画面内を自分のサイドの吹き出しで埋めることを狙うのではなく、相手のメンタルを崩す方向で攻めるのが正解だったようだ。


 そのために、なるべく手数を打ちより多くの悪口を叩き込むという希咲の戦術は実に効果的だったと評価する他ない。


 こういった戦いにおいては彼女に一日の長があり、俺の方が素人だったと認めるべきだ。



 業腹ではあるが、ここで自分に矢印を向けられなければ敗北は必至だ。



 こうなったら俺も手数を出すしかない。



 それによって希咲のメンタルを崩すことが出来れば、奴とてスマホの操作をミスることにもなるだろう。


 俺が怒りのあまり湧き出した手汗で画面を連続タップすると入力をミスるように。



 てゆーか、こいつ文字打つの速すぎないか?


 こんなに差が出るのか。


 ここにきて、画面上で指を滑らせる操作方法の習得を怠ったことが仇になるとは。



 しかし今俺が考えるべきことはそうじゃない。



 なるべく短く、出来れば単語で。


 目にした瞬間にあの女が怒り狂うようなクリティカルな悪口をいかに多く叩きこめるかだ。



 その言葉を己の裡から探しつつ、針の穴をも視通すような心意気でスマホの画面を睨みその隙を伺う。




『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばーかばーか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ざーこざーこ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:よわよわよわよわ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:“でちゅ”』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:だってさ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ださいねー?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:かっこわるいねー?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:どうした?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:黙ってるけど』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:泣いちゃった?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:かわいそー』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:チャットの仕方わかんないのー?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なんか言えば?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんたシカトしてんじゃないでしょーね?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:やめてって言ったでしょ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:怒ったの?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なんかいいなよ』


『ぶす』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ねぇ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あ?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おまえなんつった』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ぶすじゃねーし』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ふざけんな』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:しね』




 効いたな。



 明らかに奴の余裕が消し飛んだ。



 ここが好機だ。


 追撃をしかけるなら今しかない。


 次は何がいいだろうか。


『でぶ』か?


 あいつどう見てもデブではないが、それでも効くのだろうか。


 とりあえず言ってみるか。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:言っていいことと悪いこと考えろって言ったでしょ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:本気で傷ついちゃう子とかフツーにいるからね』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:絶対他の子に言っちゃだめ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おいてめー』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:きーてんのか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うざ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:もういい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ねる』



 なんだと。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:寝るからもう返信してこないでよね』



 てめぇから送ってきたんだろうが。


 なんて勝手な女だ。



 というか、ふざけんなよ。


 このまま逃がしてなるものか。


 確実にトドメをくれてやる。



 俺は慌てて希咲を引き留める為の文章を入力しようとしてハッとなる。



 いや、待て。


 引き留めてどうする。



 元々鬱陶しかったはずだ。


 どこかへ行ってくれるならそれに越したことはない。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:じゃあね』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おやすみ』



 ここで下手に奴を刺激するとまた絡まれるのがこれまでのパターンだ。


 このままやり過ごそう。



 何が逃がしてなるものか、だ。


 どうかしてる。



 少々眩暈を感じたので瞼の上から眼を抑える。



 なんなんだ、あの女は。



 何故こんなに疲れさせられなければならない。



 もしかして水無瀬の方がマシなんじゃないのか……?



 いや、どっちもどっちか。


 どっちもキツイ。



 俺の方にも問題はある。


 どちらもガキなんだ。


 ムキになって反応をするべきじゃない。



 そう切り替えてふと画面を見ると、届いたメッセージが増えている。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おやすみってゆってんじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:むしすんな』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんと挨拶かえせって朝言ったばっかでしょ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なんでできないの?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ほら』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:はやくおやすみして』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:寝れないでしょ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:明日早いの』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:はやく』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ほら』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ほらほらほらほら』



 これらのメッセージに続いて今もスタンプが連続で送り付けられてくる。




 ククク…………。



 マジでこいつ。



 ナメやがってクソガキが……!



 俺はスマホを構え反撃を――




――待て。



 落ち着け。



 ムキになって相手をするなとさっき決めたばかりだろう。



 くそ、マジでムカつくなこの女。



 しかし、気に食わないがここは奴の要求に応えてとっとと終わらせるべきだ。


 その方が効率がいい。


 それは間違いない。


 なのに――




 なんなんだ。この屈辱感は……っ!




 だが、やらねばならない。



 歯を噛み締め、震える親指を慎重に画面に近づける。




『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あんた今画面見てるでしょ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:すぐ既読つくからそういうのすぐわかんだから』


『おやすみ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:すねてるの?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:まじめんどい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:お』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:言えんじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:えらい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:はい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おやすみ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ホントに寝るからもうしつこくしないでね』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばいばい』




 こいつ……!


 しつこいのはテメーだろうが……っ!



 俺はスマホを握り潰しそうになる衝動を抑え、ぎこちない手つきでedgeの公式ストアを表示させる。



 このままで済むと思うなよ。



 俺は眼を凝らして商品を吟味する。



 見つけ出さなければならない。



 今回の敗因はスタンプだ。



 今まで使ったことがなかったが、こうなっては致し方ない。



 次はこうはいかない。



 必ずあるはずだ。



 パっと目に映した瞬間に最も大きな不快感を希咲に与えるようなスタンプが……!



 金に糸目はつけない。




 しばしの時間。



 俺は希咲に送るためのスタンプを探し、その“しばし”が30分も過ぎていることに気が付いた。


 そこまできてようやく『自分は一体何をしているのだ』と我にかえった。



 スマホをテーブルに置き天井を見上げる。



 なんというザマだ。



 昨夜も同じようなことをここで考えていたような気がしたが、改善されるどころか悪化しているじゃないか。



 真面目にどうにかすることを考えるべきだとは思えども、どうにも疲労感が酷い。


 今夜のところはやることをやってしまって、もう寝よう。


 というか、俺は何をしていたんだったろうか。



 くそ、あの女。



 ダメだ。あの女をどうこうすることばかりに思考が向かう。


 俺がどうにかするべきなのは自分のことだ。



 俺が修正を図っているとまた地獄からの呼び声が鳴る。



『ぺぽ~ん』



 俺は恐る恐るテーブル上のそれに視線を遣る。



 嘘だろ。


 まだやるってのか……?



 しかし、呆けていても仕方がない。


 俺は意を決してスマホを視る。



 そのように警戒をしていたが実際は別の人間からのメッセージだった――なんていうことはなく、送り主はもちろん『@_nanamin_o^._.^o_773nnさん』だった。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:わすれてた』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:内ポケット』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:制服の』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんと見て』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:そのまま洗濯しちゃダメ』



 内ポケット……?



 チラリと床に落ちた制服に眼を遣る。



 そういえば制服のポケットの中身を片付けているところをこいつに邪魔されたんだったと思い出す。



 ポケットがなんだというんだ。



 慎重に左側の内ポケットに手を入れるが、空だ。


 こちらは先程中身を全て取り出していた。



 では逆側かと、右側のポケットを探る。手には紙の感触。



 取り出して視ると、まとめて二つ折りにされた何枚かの紙幣だった。やけに皺になっている。


 あちこちのポケットに適当に札を突っこんでいるのは別にいつものことだ。これがなんだというんだ。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:返したからね』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんとしまっときなさいよね』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:でも財布は別に買わなくていいから』



 返した……? と記録を探ると「あぁ」と腑に落ちる。



 正門前であいつに渡した金か。


 そういえば渡した後にあいつがそれをどうしたのかを全く気にしていなかったな。



 そんなことよりも――



「…………」



 何故これが俺の制服の上着に入っている?



 金の行方や処遇を気にしてはいなかったが、あいつから返してもらった記憶も記録もない。



 ということは希咲がこれを俺の懐に忍ばせたことになる。


 俺に全く気付かせずに。



 そんなことが可能なのか? と謂えば、まぁ可能なのだろう。



 なにもこの金のことだけではない。



 これ以外にも、俺の手からスマホを掠め取ったりもしていた。



 それと――



 チラリとテーブル上に視線を向ける。



 コーヒーの空き缶の飲み口に挿さったボールペン。



 これを押し付けられた時も、胸ポケットに入れられるのを俺はまったく気付くことが出来なかった。



 ジッと、ボールペンを視ると、リボンのように巻きつけられたヘアゴムが花のようにも見えた。



 魔法少女ほどのインパクトはないが、希咲 七海――彼女にも不可解で不可思議な部分がいくつかある。



 確かに常識はずれなスピードもそうだが、だが、速いというだけでここまで悟らせないことが可能なのか?



 何か秘密、トリック、そんなようなものがある気がする。



 しかし、それが何なのかは思いつきもしない。



 一体どうやって――と考えを巡らせようとすると、彼女からのメッセージが増える。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:教えたげない』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ひみつ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:今『どうやって⁉』って考えたでしょ?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ふふーん』



 ムカつくなこいつ。



 だが、わざわざ『教えない』などと言ってくるということは、教えない限りわからないと、その秘匿性に一定の自信があるということだろう。



 単純に手品のタネを隠しておきたいのか、それともその情報自体が彼女自身のなにかルーツのようなものに繋がるからなのか。



「ふむ……」



 ルーツ。出自か。



 そういえばと一つ思い当たる。



 俺が以前に過ごしていた地域にはスラムがあった。



 そこで育った者たちはスリの技術を習得していることが多かった。


 もちろんその技術の習熟度には差はあれど。



 もしかしたら、こうして見せびらかすように技術を行使してくるくせに、そのタネを徹底して明かそうとしないのは、自分がスラム出身であることを隠したいのかもしれない。



 それならそれで、こちらも構わない。



 俺としてもあの女を強請れるネタが一つ増えたことになるのは悪くない。


 直接の詮索はしないでおいてやろう。


 いつか彼女を脅迫するその時までは。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:んじゃ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:そゆことで』



 ふん、せいぜい今のうちに余裕ぶっていればいい。


 今日掛けさせられた手間は後々その身体を使って返してもらう。



 俺がそのようにほくそ笑んでいると、さらにメッセージが来る。


 ほんとしつけーな。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あと』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ぶすじゃないから』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おわり』



 知ってるよ。



 うんざりとするが、しかし、ようやくこれで終わりだ。


 これ以上の手間を取らされなくて済む。



 待てよ。


 手間?



 ここまで、こうして終わったと油断していた所を何度も引っ張り回されてきた。


 その時の状況を精査してみると、最後に俺から何か返事をしなかったことが気に食わないといった風に思われる。



 そうすると、これも何かしら返事をした方がいいのか?


 面倒だが、また戻ってこられる方が困る。



 どうするかと考えてみるが、別にあの女に言いたいことも言わなくてはならないことも特にないから、ここで言うべき適切なメッセージが思いつかない。



 厳密にいえば、あいつに言いたい罵詈雑言ならいくらでもあるが、ここでそれを言うのは素人のすることだ。


 俺は違う。



 だが、本当に面倒な女だ。


 昔に貴族の女を騙して炭鉱の権利書をまきあげる任務についたことがあったが、あの時よりも数倍ストレスが溜まる。


 ワガママお嬢様よりめんどくせーとか相当だぞ、あいつ。



 泣いて縋りつく貴族の女を踏みつけながら奴隷商人の差し出す契約書に印鑑を押した場面を思い出したところで、現状の問題を解決するアイデアに繋がる。



 印鑑。


 ハンコ。


 スタンプか。



 先程何故こんな無駄な時間をと嘆いたが、買ってしまったチャット用のスタンプの使い道が見つかった。



 なるほどな。



 スタンプなど何に使うのかと疑問視していたが、こういう時に使うのか。


 話を聞いている風で、返事をした風に勘違いできるし、させられるな。



 このような現代の人々のコミュニケーション方法には眉を顰めるが、しかしまともに相手をするつもりがない時に適当にやりすごすのには非常に便利そうだ。


 それなら俺も使える物は使わせてもらうこととしよう。



 俺は納得をし、先程購入したばかりのスタンプを表示させ送信をする。



 そして送信をした瞬間に、『しまった』と大きな失敗をしたことに気が付いた。



 奴が見る前に削除をすればまだ――と急いで画面に指を伸ばすも、既に手遅れであった。



 尋常ではないスピードで次々と奴から怒りのメッセージとスタンプが送られてくる。



「おぉ……すげぇ……」



 それを見て思わず感嘆の声が漏れた。



 めちゃくちゃキレてんぞあいつ。



 感心してしまう。



 さすが『他人を激怒させるスタンプ』だ。


 7800円もしただけはある。


 やはり値段相応の効果はあるのだな。



 今回は購入しなかったが、さらに上のグレードに12800円の商品もあった。


 あれを送り付けてやったらこいつどうなっちまうんだ。



 少し興味がある。



 しかし――



 未だにチャットルームの強制縦スクロールが止まらない。



 つい現実逃避をしてしまったが、取り返しのつかないくらいに希咲を怒らせてしまったようだ。



 いいから早く寝ろよ。



 俺はそっとスマホをサイレントモードにしてテーブルに置いた。



 そしてその場を離れ寝室の入り口へ向かう。



 中に入り戸を閉める瞬間、テーブルに視線を遣る。



 暗い部屋の中、唯一の光源となるスマホの光が、武骨で無機質なテーブルフラワーをぼんやりと浮かび上がらせていた。黄色とピンクの花びらが闇を彩る。



 音を立てずに蓋をするように戸を閉める。



 いつも通りベッドの脇に座り込み適当に毛布だけを被る。



 昨夜といい今夜といい、希咲のせいで家での時間をめちゃくちゃにされた。



 本当はもっと考えておかねばならないことはある。



 希咲のこともそうだし、明日からの戦いのこともそうだ。


 そして魔法少女のこと。



 だが、今日はもういいだろう。



 今日偶然にも魔法少女などという非常識なものに出会ってしまったが、そう何度も偶然は起きないだろう。



 気を付けてさえいればもう魔法少女とは出会わない。



 右手の親指の腹に残った13回分の感触を思う。



 最後に誰かにそう言ったのはいつだったろうか。



 それを思い出そうと記録に触れようとしてやめる。



 意味がないからだ。



 どれだけ鮮明に記録していようとも過去は現実に再現はできない。



 気怠い思いの重さに身を任せ俺は眼を閉じる。



 今日のようなことは明日にはもう起きないし、もちろん魔法少女とも出会わない。













――こんな時には何と言うべきだったろうか。廻夜部長が何か言っていたような気がする。



「――あわっ、わっ、わわわわわっ!」

「――ぶっ、オェっ……、めっちゃ揺れるッス……っ!」



 そうだ。


『そう思っていた時期が俺にもありました』だ。




 4月18日 夕方前の時分。



 昨日も訪れた新美景駅南口の繁華街の路地裏。


 その奥の方の入り組んだ路地で、俺は水無瀬を肩に担いで走っていた。



「ふわあーーー、あ、いたっ……⁉ 舌かんだぁ……」

「くわれるーーーーっ! 終わりっス! ジブンらもう終わりッスーーー!」



 うるせえよお前ら。



 俺は米俵のように担いでいる左肩の上の水無瀬のケツを睨んでから、さらに首を回し背後を一瞥する。



 くそ、邪魔だな、こいつのケツ。



「おい少年! テメー! なにどさくさに紛れてマナのケツに頬ずりしてんッスか! どうなんスか⁉ 男子高生は女子高生のケツに頬ずりするとどんな感想を抱くんッスか! 訊かせてくれッス!」



 こいつまだ余裕があるな。



 黙らせてやりたいところだが、こいつの優先順位は高くない。


 今もっとも注意を向けなければならないのは、背後から俺達を追いかけてくる化け物だ。



 昨日と同じネズミ。



 四つ足で地を蹴るそいつの目は血走っており、ひどく興奮しているようだ。


 完全に俺達を獲物として見ているこいつは例の“ゴミクズー”だ。



 昨日魔法少女である水無瀬が仕留めたネズミの化け物と一見同じに見えるが、恐らくこれは同種族の別個体だろう。



 その水無瀬はというと、いつも通りの姿で俺に担がれて運ばれている。


 こいつもペットのネコ妖精とやらも粟を食ったように叫ぶばかりでまるで戦おうとする様子がない。



 ついこいつらを持って現場から逃走を始めてしまったが、うるさいので置いてくればよかったと後悔している。



 役立たずめ。



 とりあえず、俺は腹いせに水無瀬のケツをパシンと引っ叩いた。



「あいたぁーーーーっ⁉ な、なんでお尻ぶつのぉ⁉」


「お前らうるせえんだよ」


「ご、ごめんなさーーーい!」



 現在の彼女は腹部を俺の肩に載せて担がれており、顏は俺の背中側を向いている為、必然的に尻が前――つまり進行方向に向いている。



「コラーーーーーっ! このエロガキャァーーーッス! またJKのケツ触りやがったなーーーッス! こんなに立派なお乳があるのにケツか! 少年はケツに夢中なんッスか! そっちが性癖なんッスか!」



 さっきから煩いこの猫は魔法少女のマスコットを名乗るネコ妖精などというイカれた存在だ。


 こいつは現在水無瀬のケツにしがみついており、俺が猛スピードで走っているため風で捲りあがりそうになる彼女のスカートを全身で抑えながら股の間にぶら下がっている。



 水無瀬の私服スカートの生地に食い込ませている爪を外してやろうかと眼を向けたところで一つ思いついたことがあり、俺は水無瀬のスカート捲って中を視た。



「ふむ…………白か……」



 今日は綿製の無地の白いおぱんつを穿いていた。



「こっ、ここここのやろーーーっ! なに当然の権利かのようにJKのスカート捲ってんだ! でも、どんな状況でもその性の衝動に忠実な漢らしいところ、正直ジブンはキライじゃないッスよ!」



 さて、そろそろこの状況をどうにかするかと考えるとまず思いつくのは、この自己主張の激しいマスコットを飢えた化け物の前に放り投げて、こいつが喰われてる間に逃げおおせることだが。


 それをやってしまうと水無瀬家へ賠償金を支払う羽目になるかもしれない。



 一応選択肢の一つとして保留をしておくが、あまり悠長にしているといつかは追い付かれて皆殺しにされるだろう。



 “ゴミクズー”。



 人知の及ばない化け物。



 当然、ただの人間である俺よりも走るのが速ければ、体力もあるのだろう。



 このままではジリ貧だ。




 そもそも。



 その化け物をどうにかするはずの魔法少女は、何故か変身もせずに俺に担がれてキャーキャー叫んでおり。


 こいつらとは関わらないように注意すると決めた俺が、何故こいつらと一緒に化け物と逃げているのか。



 我ながら嘆かわしくなる。



 確かこういった時にも、言うべきお決まりの台詞があったはずだ。


 廻夜部長はなんと言っていただろうか。



 それを思い出す為にも、芸がなく非常に恥ずかしいことだが、昨日と同様に何が原因でこのような状況になったのかを、本日4月18日の最初から思い出してみる。



 あぁ、そうか。



『どうしてこうなった』だ。

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