1章51 『死線上で揺蕩う窮余の一択』 ⑩


「どうしたんですか? 七海ちゃん」




 黒い髪。



 小首を傾げると綺麗に揃えられた前髪とコメカミから垂れる髪も傾いて、左の目尻の下の泣き黒子が露わになる。



 黒い瞳。



 その黒目に浮かんだハイライトが上瞼の裏に隠れると、瞳の奥で紅がゆらめく。



 情欲をふすべるワインレッド。



 黒棺を蕩かし這い出るその淫蕩な色に、希咲は息を呑んだ。




「ただ訊いただけですよ? 七海ちゃんならもっとわかるかなって思って」


「あ、あたしは……」


「だって、七海ちゃんはわたしよりももっと、弥堂せんぱいのこと、知ってますよね?」


「み、みらい、ちがうの……っ」



 拙い言葉しか返せない希咲を嬲るように望莱は表情を笑みのカタチにする。



 その仕草がまるで見透かされているように感じられて、希咲の胸の裏側で鼓動が速まった。



「ふふ……、どうしたんですか? 知ってるなら『知ってる』。知らないなら『知らない』。そう答えれば済むだけのことですよね?」


「…………っ」


(どうしよう……っ!)



 突き付けられた二択に、希咲はどちらを選ぶべきか焦りを募らせる。



 望莱はその様子を実に楽し気に眺めた。



 彼女は人格と性癖に重大な難がある。


 “推し”のすることならその結果も含めて何でも受け入れることが出来るし、どんな表情を向けられても悦びを感じることが出来る。



 たとえそれが――泣き顔であったとしても。




(あぁ……、七海ちゃんカワイイです……)



 彼女は別に希咲が自分に何かを隠し立てしていることに怒りや失望を感じているわけではない。


 みらいさんほどの上級者にもなれば、『好きな子が自分に嘘を吐いている』――その事実だけで興奮してしまうのだ。



 さらに、そのことによって希咲が自分に対して後ろめたさや罪悪感を抱いている。そしてそれによって苦しむ彼女の姿を見ると愛らしさを感じてしまう。


 ここでは特に『自分に対して罪悪感を感じてくれている』、この点が実にポイントが高かった。



 みらいさんの性癖は完全にぶっ壊れていた。



 オロオロキョドキョドと狼狽える七海ちゃんに悟られぬよう、みらいさんは「むふぅ~っ」と鼻から愛を吐き出して廃熱する。


 そしてチロリと、舌先で唇を舐めた。



(さて、どこまでイジメましょうかね……)



 チリチリと瞳の奥で燻べる情欲の熱で、視界に写した彼女を焦がす。



「――ほらぁ、ここまでわたしがグダグダと色々考察をして、ダラダラと講釈を垂れ流してきましたけどぉ、でもぉ……、七海ちゃんなら、一発でわかっちゃうんじゃないですかぁ?」


「わかっちゃうって……、なにを……」


「もちろん。弥堂せんぱいのこと、ですよ? てゆーか――もう、わかってるかもしれないですよね?」


「み、みらい……、ちがうの……、あたし……っ」



 意味を為さない言葉でただ否定だけをして希咲は俯いてしまう。



 彼女の視界から外れた場所でみらいさんはグッと拳を握る。



(いける……っ! もう一押しで泣かせます……っ!)



 最低の手応えを感じていた。


 しかし、これまでの長い付き合いの中で、何度も彼女をイジメて泣かしている経験からくる確かな手応えでもある。



 言うべきか言わずにおくべきかと逡巡する希咲の前で、みらいさんも逡巡する。


 その心の裡を占めるのは、どのようにして希咲を泣かせるかについてだ。



 このまま嘘を吐かれたことに傷ついたフリをして罪悪感を刺激してポロポロと泣かせるか、それとも、上手いこと話を誘導してもっと嘘を重ねさせて泥沼に引き摺り込んだ上でキレたフリをしながらガン詰めしてギャン泣きさせるか、だ。



(す、捨てがたいです……っ! どっちも欲しい……っ!)



 カリっと爪を噛む。


 その音にビクっと希咲が肩を跳ねさせた。



 みらいさんは己を戒める。



 ここは冷静にならねばならない時だ。


 時間の猶予はあまりない。


 迅速かつ慎重に答えを選ぶ必要があった。



 しかし、上手くいかない。



 取り柄であるはずの頭の回転の速さがどうしてか発揮されない。



 それも無理はなかった。



 現在のみらいさんの脳裏を占めるのは思考ではなく、ただの欲望の嵐だ。



(泣かしたい、泣かしたい、泣かしたい、泣かしたい、泣かしたい、泣かしたい、泣かしたい泣かしたい泣かしたい泣かしたい泣かしたいなかしたいなかしたいなかだしたいなかだししたいなかしたい……っ!)



 紅月家の麒麟児は紛れもなく怪物であった。




 そうしてみらいさんが目ん玉ギンギンにして息を荒げている内に希咲が顔を上げる。



「――みらい」


(あら……?)



 望莱は心中で訝しむ。


 希咲の瞳に宿る光は先程までの弱弱しいものではなかったからだ。



「……あのね、みらい。ゴメンっ!」


「え……?」


「あたし、あんたに嘘ついてた……っ!」


「えぇっ⁉」


「ひゃっ⁉ え、えっと……、ホントにゴメンっ!」



 望莱のあげた大きな驚きの声に希咲もびっくりするが、それも一瞬のこと。すぐに表情を改めて謝罪を重ねる。その顔にはまた罪悪感が浮かんでいた。


『嘘を吐いていた』という自分の告白に望莱が驚いてしまったのだと、そのように希咲は思っている。しかし実態は違う。



 希咲の方から告白されて先に謝られてしまったら、このまま泣くまで責められなくなってしまう。みらいさんは、その自身にとって都合の悪い展開に進んだことにびっくりしたのだ。



 彼女は基本的にどんな状況下でも自身の欲求を叶えることしか考えていない最低の人間であった。



 頭を下げてから戻した希咲の表情は、先程よりもしっかりとしたものになっていた。



「あのね、みらい。聞いて」


「は、はいっ」



 自身へ向けられた強く真っ直ぐなその眼差しに、みらいさんは“はきゅんっ”とトキメく。



「嘘っていうか、あたしね、あんたに言ってないことがある」


「産んでくださいっ!」


「は?」


「あ、いえ、間違えました。弥堂先輩のことですよね?」


「うん……? まぁいっか。そうよ、あいつのこと」


「な、なんでしょうか……?」



 トクトクトク……と高鳴る胸を抑えながら、みらいさんは潤んだ瞳を希咲へ向けた。



「あのね、あいつのプライベートな情報っていうか……、昔のことで。あいつから聞いた話が少しだけあるの」


「な、なるほど……?」


「それは多分、あいつの正体を探る上で役に立つものだと思う。でも――」


「――言えない、んですね?」


「うん」



 はっきりと頷く希咲の瞳の上で、部屋を照らす柔らかな暖色系のライトが反射し暖かな炎が瞬いた。



「あたし、あいつと取引――約束したの」


「やくそく……」


「先週あいつと一緒にモメごとに巻き込まれた時に、その時のあたしのこと……誰にも言わないでって」


「…………」



 希咲から向けられる真摯な瞳を望莱は無言で受け止める。


 しかし、心の内では――



(――えっ? なにそれ知らない。絶対にえっちなことに違いないです……っ!)



『七海ちゃんのひみつ』とやらが気になってしょうがなく、この後の話はあまり望莱の頭には入ってこなかった。



「――その約束した後、あいつ……、多分気の迷いかなんかだと思うんだけど……。うっかり自分の昔のこと、少しだけ、あたしに話しちゃったの……」


「そっちはどうでもいいです」


「えっ?」


「あっ、いえ、間違えました。続けてください……」


「う、うん……」



 意を決して気合いを入れて始めた告白だったが、望莱の態度が思っていたものとは異なりただただ不審だったので、希咲は若干意気を削がれつつもどうにかテンションを保って話を続ける。



「……あいつからはベツに『自分のこと誰にも言わないでくれ』とか言われてない。あたしの秘密を守ることの対価は別のこと」


「……? じゃあ別に言っても契約違反にはならないのでは?」


「違うわ。そうじゃないの」



 辛うじて正気を保ってどうにか口にしたまともな意見には、希咲の強い眼差しが返ってきた。


 望莱はその顔に魅せられる。



「契約とか取引とか、そういうんじゃないの。これは――勝負なのっ!」


「しょうぶ……?」


「そうよ。あのバカがあたしのこと黙ってるのに、先にあたしがあいつの秘密漏らしちゃったら、あたしの方があいつよりサイテーになっちゃうじゃない……っ。だから……、最低でもあいつが今回のことの犯人だとか、あたしたちの敵だとかって、それが確定するまでは――」


「…………」


「――言わないっ」



 破綻した目茶苦茶な理屈。


 それでも、それを確かな自信のもとに発した言葉にも、それを声に出した表情にも、強く揺るぎのない意思が輝いていた。



 それを正面から受け止めた望莱は――



「――あへぇ」



 腰砕けになった。



「――ちょ、ちょっとみらいっ……⁉」


「きゃ、きゃっこいいぃぃ……」



 ベッドの縁に腰掛けたままアヘったみらいさんは床へ崩れ落ちそうになる。


 対面のベッドに座っていた希咲が慌てて彼女を受け止めた。



「きゃ、きゃっこ……? あんたどうしたの?」


「しゅきぃ……」


「は?」


「きゃこきゃわいいぃ、しゅきぃぃ……」


「あんたなに言ってんの⁉」


「しゅきぃ……」



 両目にハートを浮かべ、だらしなく口を半開きにして涎を垂らしながら譫言のように意味のわからないことを漏らす幼馴染の姿に、七海ちゃんはびっくり仰天した。


 若干キモイなと思いつつ望莱をベッドへ寝かせてやる。



「あ、あんたいきなりどうしたのよ?」


「むりぃ」


「え? まさか具合悪いの?」


「もぅむりぃ……」



 どう見ても尋常ではない望莱の様子に希咲は焦り、今回の旅行に持ってきていた薬にどんなものがあったか脳内にリストアップする。


 しかし、現在の望莱の状態に適した内服薬とは一体どんなものなのだろうかと七海ちゃんは頭を悩ませた。



 その間も望莱の嬌声のような譫言は続いている。



「……むり、むり、ほんともぉむりぃ……、はぁ~マジむりぃ……、しゅきしゅき、もうしゅきしかわかんない……、なんで……? きゃっこいいしきゃわいいし、なんで? なんでぇ……? そんなのむりだしずるいです……、はぁ~ほんとむりぃ……、しにたい……、もぉしにたい、このまましにたい……、しゅきじにしたい……、きえてなくなりたい……、むりしゅきぃ……」


「し、しにたい……? ちょっと、しっかりしなさいよ」



 ハートマークを撒き散らしながら不穏なことを口にする望莱の肩に手をかける。


 すると、腰砕け状態とは思えない速さと力でガッと手首を掴まれた。



「……ななみひゃんがいけないんですよ……? きゃっこっきゃわいしゅぎるから……、しょんなのしゅきしゅきになっちゃうにきまってまひゅぅ……」


「な、なに……っ⁉ なんなの⁉ コワイコワイコワイ……っ!」


「もぉむり、もぉしにたい、むひろほろされたい……、おねがいでひゅ、わらひをころひてくらひゃい……、このままくびをしめて……」


「バカなこと言ってんじゃないわよっ――」



 キッと眦をあげた希咲は腕を振って望莱に摑まれた手首を抜き取り、その腕をそのまま振り上げた。



 そして――



「――あたしそういう冗談、だいっキライなのっ!」



 振り下ろした掌で、ベッドに仰向けになるみらいさんのふとももをバチコーンっと引っ叩いた。


 乾いた音と共にだらしのないもも肉がブルルルンっと震える。



 その瞬間――



「ん゙お゙お゙ぉ゙ぉ゙ぉ゙ぉ゙ぉ゙っ゙――⁉」



 まるで動物のような低い鳴き声をあげてみらいさんの全身が大きく痙攣した。



「ひっ――⁉」



 驚いた希咲が悲鳴をあげて見守る前で、本来は人目に触れるべきではない痴態が晒される。



 みらいさんの足がピンっと伸び、その指先は丸められる。


 彼女の腰回りを震源としてビクビクビク……っと激しく細やかに何度も痙攣した後に、まるで余震の如くビクン、ビクンっと大きくゆっくりとした余韻を数度残した。



 パサッと、シーツの上に希咲の手が力なく落ちた。


 茫然とした目を望莱へ向けていると――



「――ヒッ」



――ガバっと何事もなかったかのように望莱が身体を起こした。



「ふぅ、やれやれです……」


「あ、あんた……っ! なんなの⁉ 今のなんなのよ……っ⁉ いきなりウシのモノマネとかしないでってゆったじゃん! びっくりしちゃうでしょ⁉」



 額の汗を爽やかに手の甲で拭いつつ、望莱は泡をくって取り縋ってくる希咲へ澄んだ眼差しを向けた。



「自分で言うのもなんですが、あんな気持ち悪い牛はいませんよ? そんなことよりシャワーってまだ使えますか?」


「は? えっ……? シャワー? なんであたしがマジメに話してるのにいきなりシャワーいくわけ⁉ さっきお風呂入ったばっかじゃんか。あんたまたふざけてんでしょ!」


「そういうわけでは……。ちょっと“なるはや”でシャワーしないと、このままじゃ明日の朝にはかぶれてしまう可能性が……」


「かぶれ……? 虫刺され……? あんたなに言ってんの……? 」


「聞きたいですか? 七海ちゃんがどうしてもと言うのなら詳細を語るのも吝かでは――」


「――いや、いいっ! ききたくないっ! 言わなくていい!」


「そうですか。では、話を戻しましょう。弥堂先輩のことで言えないことがある――でしたね?」


「だからっ! あたしを待ってた感っ! すんなぁっ!」



 まるで一連の乱痴気を全て自分のせいにされたようで、七海ちゃんはぷんすかと怒りを露わにする。


 そんな彼女へみらいさんは淑やかに微笑みを返した。




 齢15にして既に性癖が手遅れになってしまっているみらいさんは、“推し”が見せてくれるどんな表情にも悦びを感じる。それが泣き顔であろうとも例外ではない。


 しかし一方で、“推し”にカッコいいところを見せていただくと容易に限界化してしまうのだ。そうなると秒でアヘってしまい、人目も憚らずにウシさんのモノマネをしてしまうクソザコ体質でもあった。


 彼女はあらゆる意味で手遅れな天才だった。

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