2章07 『辿る足跡、迫る足音』 ②
「――メロ……?」
希咲は自分が現在尾行中であることを忘れ、茫然と立ち尽くす。
その視線の先に居るのは、捜していた親友の飼い猫だ。
「赤い、リボン……。メロよね……?」
記憶にあるメロと同じ首輪をしている。
間違いないと希咲は確信した。
一方で――
(――しししし、しまったぁっ……⁉)
大嫌いなご主人様を裏切れるチャンスだとテンションが上がったために、尾行中であることを忘れてついハジケすぎてしまった使い魔は焦る。
このままではそのご主人様に逆に処刑されてしまう。
「ねぇ……? あんたメロでしょ……?」
「…………っ!」
ポツリとした声で希咲に話しかけられるが、メロはあらゆる意味で何も答えるわけにはいかない。
自身がとるべき適切なリアクションに困窮した彼女は――
「――ぅ、ぅなぁ~……」
地面にコロンと転がってお腹を見せ、自身が無害で愛らしい生物であることを強調した。
「――っ! メロっ……!」
「ぶにゃ――っ⁉」
その仕草を肯定と捉えたのかは定かではないが、希咲は弾かれたように駆け出してコロコロするネコさんを抱きしめる。
《――おい、何かあったのか?》
そしてこんな時ばかり察しがよくなる迷惑なコミュ障男にメロは話しかけられた。
ギャルと殺人鬼に板挟みにされたネコさんは只管テンパる。
《ナ、ナナミにバレたッス!》
《なんだと》
なのでつい起きたことをそのまま答えてしまった。
脳内でパニックを起こすメロとは真逆に、他者から狙われたり追われたりすることに慣れ切った男は冷静だ。
《尾行者としてバレたのか?》
《い、いや、多分違うッス。ただ見つかっただけッス!》
《そうか》
弥堂の判断は速い。
《ちょうどいい。相手をしてやれ》
《へ……?》
《そのままそいつを足止めして、その後で適当にフケろ》
《ど、どういうことッスか?》
《道端で構っていた猫が突然どこかへ走り去る。不自然なことじゃないだろ。適当に上手いことやれ》
《オ、オマエはどうするんッスか?》
やけに突き放した弥堂の物言いにメロの不安は加速する。
《俺はこのまま迂回してその女を撒く。お前はその時間稼ぎだ。じゃあな。短い間だったがご苦労だった》
《え? ジブン死ぬんッスか? ちょ――》
どう聞いても捨て駒を使い捨てる時の台詞にしか聞こえなかったので、メロは慌てて弥堂を呼び止めようとするが――
「――メロっ!」
「むぎゅぅっ⁉」
もう一度メロの名を呼んだ希咲に強く抱きしめられたことでそれは叶わなかった。
恐る恐る希咲の顔を見上げると、彼女は感極まったような表情で見つめ返してくる。
彼女の瞼には涙が滲んでいた。
「あんた……、今までどうしてたのよ……っ」
「にゃ、にゃうぅっ…… (ど、どうって……)」
お目めウルウルのギャルにガチ恋距離で見つめられてメロさんは俄かに興奮を禁じえなくなる。しかし、今はそんな場合ではない。
このままでは弥堂に逃げられてしまう。
あのクソ野郎ときたら、しっかりと契約を交わした使い魔である自分を一切の躊躇もなくあっさりと切り捨てようとしているのだ。
それはとても許し難いと思った。
しかし――
「にゃ、にゃぁ、にゃうぅぅぅ……っ。にゃう、にゃぁ、にゃうにゃにゃぁううう……っ(あ、いいニオイ……っ。ギャルいいニオイするぅ……っ)」
希咲に頬を押し付けられると彼女の髪がハラリとメロの鼻先を擽り、それから香るニオイにウットリとしてしまう。
その間に弥堂は角を曲がってこの場を離脱した。
「――あっ……⁉」
そのことに希咲も気付いたようで、顔を振り向かせて弥堂の消えた角を見るが――
「……仕方ないか」
諦めたように呟き、再度メロの顔を見てふにゃっと眉を下げて苦笑いした。
メロの胸にチクリと何かが刺さる。
「ねぇ……? あんた愛苗がどこに居るか知んない?」
「にゃっ⁉」
希咲がメロを地面に降ろしてやりながらそう尋ねる。
メロの胸は今度はギクリと撥ねた。
「――って、いくらあんたがお利口でもそんなの答えられるわけないわよね。あはは……」
猫を相手に真剣に問いかけてしまった照れ隠しか、誤魔化すように希咲は笑う。
メロは真剣な彼女の問いに答えなくてもいい理由を与えられてホッとした反面、答えようと思えば答えることも出来るので胸の奥にまたチクリと何かが刺さる。
「――ははは……っ……うっ、ぅぇっ……うぅぅっ……」
――笑っていたはずの希咲がポロポロと涙を溢しながら嗚咽を漏らし始めた。
「にゃにゃっ⁉」
顔を俯かせ手首を目尻に押し当てる彼女の前で、メロはビックリ仰天する。
思わずピョンコと飛び上がってしまうと着地前に希咲に捕まえられ、再度ギュッと抱きしめられてしまう。
「――よかったぁっ……、あんたが元気にしてて……っ。それに……、手掛かりってわけじゃないけど……っ、でも、やっと……、少しだけ愛苗に、近付けた……かも……っ」
(ざざざざ、ざいあくかんパネエーーッス……ッ!)
力いっぱい抱きしめられると、身体よりも胸の奥が強く締め付けられるように感じた。
(ダメだろ……ッ! 少年! これ絶対やっちゃダメなことだろ……ッ!)
目の前の少女の泣き顔を見ていると、理屈や背景など飛ばして強くそう思ってしまう。
己の罪深さに打ちのめされたネコさんがゴーンっと白目を剥いていると、その様子に気付いた希咲は慌ててメロを放してやる。
「ゴ、ゴメン……っ。力入りすぎちゃった……。だいじょぶ……?」
「い、いにゃ……」
心配そうに顔を覗きこんでくる彼女からメロは気まずそうに目を逸らす。
俯きながらオロオロと目線を泳がせていると、ふと目の前のものに気が付いた。
メロの視線を留めたのは、しゃがみこんだ七海ちゃんの腿裏だ。
左右の“もも”と“もも”の間の地帯をメロはジッと見る。
七海ちゃんは足が細くてお尻もコンパクトだ。
丈の短めなショートパンツの其処には、急所へと繋がる隙間が生まれがちだ。
由緒正しきサキュバスでもある淫蕩なネコさんはギラリと目を光らせる。
一流のゴールハンターはそのスペースが生まれる一瞬を逃さずに1.5列目から飛び出すのだ。
(し……、白……? いや、そんな……、ギャルが白なはずはねえッス……っ!)
しかし思いの外堅牢な最終ラインにメロは苦戦する。
オフサイドトラップを警戒するあまり疑心暗鬼に陥ってその精神を不安定にさせていると、相手CBからトラッシュ・トークを仕掛けられる。
「ねぇ……?」
「にゃにゃっ⁉」
泣いている女の子のパンチラを狙っていたネコさんはギクリと肩を動かした。
そんな卑劣なネコさんの心情など知らないニンゲンさんの七海ちゃんは、縋るように問いかける。
「あんたに着いて行ったら愛苗に会えたりしないかな……?」
「にゃ、にゃにゃん……っ⁉ (そ、それは……っ⁉)」
割とクリティカルな部分を突っこまれ、メロは狼狽える。
「だめ……?」
「にゃ、にゃにゃっにゃにゃぅな……(ダ、ダメっていうか……)」
ポロリと涙を溢しながら濡れた瞳を向けられると、メロは無条件に彼女のお願いを叶えてあげたくなってしまう。
しかし、そういうわけにもいかない。
メロは強く迷い、ギリギリのところで自制心を保った。
「え……? えっ? なにこれ? あんた手からなんかおツユ出てんだけど……⁉」
オロオロとするメロの肉球からダラダラと汗が垂れていることに気付き、希咲は慌てる。
「ど、どうなってんのこれ……? ネコってこんな感じだったっけ……?」
見たことのない現象に希咲が戸惑っていると、メロは色々なものを誤魔化すように希咲に飛びつく。
「わわ……っ⁉」
「ぅなぁ~」
舌を希咲の顏へと伸ばし、ペロペロと彼女の涙を嘗めとった。
「あはは……っ、くすぐったい。もしかして慰めてくれてんの?」
「なぁぅ」
色々と困ってしまったメロはネコさんとしての愛らしさでゴリ押しをした。
すると、希咲の顏に笑顔が戻り少しだけメロはホッとする。
「あんたってホントお利口さんよね。やさしーし。あ、そうだ――」
(い、今の内に逃げねえと……)
希咲が身体を離した瞬間に逃走を企てるが――
「――にゃにゃにゃっ⁉」
何処からともなく、希咲の手の中に何かがパっと顕れる。
その何かを見てメロは硬直した。
希咲が虚空より取りだしたのは全国のネコさんを虜にする大人気のおやつ――“ねこちゅっちゅ”だ。
メロの視線はそれに釘付けになる。
「今度愛苗の家に遊びに行った時にあげようって思って持ってたの」
メロの本性は悪魔だ。
とはいえネコさんでもある。
当然彼女も“ねこちゅっちゅ”が大好物だ。
あんな事件があって半分家無しの野良となってしまったので、もう数日もそれを口にしていない。
希咲が手に持つスティック状のパッケージから目が離せなくなる。
目に映しているだけで記憶がそれの味をベロに思い出させてきた。
自然と口が開き舌が垂れる。
その舌を伝い涎が落ちていく。
悪魔だの、ネコ妖精だのと、肩書で強がってみせたとしても、自分など所詮ただのメスネコなのだと――
それを目の前に出されただけで、躰は一瞬でそう理解し、そして屈服してしまう。
いや、魂の底に居る自らが屈服することを望んでしまうのだ。
一体今どこからそれを取り出したのか――など、他に気にしなければならないことや、気付かなければならないことはある。
だが、そんなことは――他のことはもう何も考えられない。
ペリペリっと――七海ちゃんは鼻歌混じりに切り取り口からパッケージを裂いて開封した。
その小さな裂け口から僅かな汁気が漏れ出してきて外気に触れる。
『世界』に満ちる霊子がそのニオイを情報としてメロの鼻腔に伝えてきた。
たったのそれだけのことでメロは息を乱してしまい、そして躰はそれを受け入れる準備を始めてしまう。
「ニャニャニャニャーッス!」
「わっ――」
どうにも堪らなくなってしまったメロは体当たりをするように希咲の足に頭を押し付けたり、かと思ったら彼女の周囲をウロウロしながら躰を擦りつける。
格下の存在であるニンゲン如きに形振り構わずに媚びた。
早く“それ”が欲しい――と。
「わわっ……、今あげるってば! ちょっと待って。おすわりっ」
「…………」
メロは自分の欲しいモノを持っているニンゲンさんの命令に従い見事なお座りをする。
「……あんたマジでお利口よね。ホントに言葉わかってるみたい」
「なぅなぅなぁ~っ! (もうっ! いつまで焦らすの⁉ はやくそれちょうだいっ!)」
「はいはい、ただいま」
希咲はそのスティックを順手で握り、キレイに爪の整った親指を押し出すようにしてグニっと中身を絞った。
すると先端からドロリとした生臭い液状のモノが出てくる。
メロは許可を待てずにそれに舌を伸ばした。
まだ明るいこんな誰が通るかもわからないような道端で、ピチャピチャという卑猥な水音が鳴り始める。
「ぅにゃぅにゃ……(お、おいしい……っ、オイシイよッ!! ギャルの“ちゅっちゅ”オイシイよぉ~っ)」
「すご。夢中だし」
「ぅにゃぅにゃ……(ねぇ、おねがいっ。もっと……、もっとちょうだいっ。もっといっぱい! 全部こぼさないでちゃんとお口で受け止めるからぁ……っ!)」
「ほれほれ、もっとたべろー?」
『ぅにゃぅにゃ』と鳴きながら“ちゅっちゅ”を舐める悪魔が実際何を言っているのかを希咲は知らない。
なので、七海ちゃんはラブリーな動物さんが一生懸命おやつを食べる姿に、ニコニコとご機嫌な様子で癒されていた。
「ぅにゃぅにゃ……(ウ、ウメェー、久々の“ちゅっちゅ”はたまんねえッス……!)」
「ネコさんってホントこれ好きよね」
「ぅにゃぅにゃ……(そりゃそうッス。我々ネコさんは“ちゅっちゅ”キメるために生きてると言っても過言ではないッス!)」
「あは。かわいー。やばー」
「マジニャベーッス!」
「え?」
「あっ――」
“ちゅっちゅ”に夢中になるがあまり、メロカスさんはうっかりまたやらかした。
「――う、ぅにゃぅにゃぅにゃ……っ!」
「ビックリした……。言葉喋ったみたいに聴こえた。そんなわけないわよね」
勢いで誤魔化そうと一層激しく“ちゅっちゅ”にむしゃぶりつくと、どうにか気のせいだということにしてもらえた。
(にゃ、にゃべー……、これ以上はうっかり日本語喋っちまいそうだし、そろそろバックレねーと……)
自分自身の興奮具合に強い危機感を感じながら、長居は無用だと判断する。
メロは前足を上手に使って“ちゅっちゅ”のパッケージを挟み、ただの一滴すら残さない心意気で、絞り出すようにしながら中身を吸い尽くした。
「あんたお利口すぎない……?」
しかしその手管を余計に怪しまれてしまった。
ちょうど頂いた“ちゅっちゅ”も無くなったことだしと、メロは本格的に逃走を考える。
だが――
「さて、と――」
「にゃっ? (えっ?)」
その躰を希咲に両手で掴まれて持ち上げられてしまう
希咲はメロを抱き上げながら立ち上がった。
「――さ、帰るわよ」
「にゃ……?」
「しょうがないからお家まで連れてったげる」
「にゃ、にゃぅっ……? (お、お家……?)」
「最近あんたが居ないって愛苗ママが言ってたし」
「にゃう⁉ ぅにゃぅにゃっ! (うげ⁉ そ、それは困るッス!)」
このままではさらにややこしいことになってしまう。
メロは希咲の手から逃げようと躰を捩ろうとして――
(――いや、待つッス……)
そのネコさん頭脳にまた閃きが奔った。
(このままヤツから離れて、それからナナミにチクればいいのでは……?)
その場合人間の言葉を喋らなければならないが、希咲が普通の人間でないのならそれくらいは普通に受け入れてくれるのではないかと期待する。
早速それを実行しようと考えるが――
《――わかっているとは思うが》
脳内に血の通わぬ低音ボイスが突然届き、寝返りネコはビクッと躰を跳ねさせた。
「わっ――」
希咲の驚く声が聴こえるがそれどころではない。
《言うまでもないが、情報は一切漏らすなよ》
まるで監視でもされているかのようなタイミングで釘を刺された。
メロはキョロキョロと辺りを見回すが弥堂の姿はない。
《仮に正体がバレて、おまけに逃走も不可能なら、その時は自害しろ》
《な、なんてことを言うんッスか……!》
《もしも裏切ったら腕を切り落とすぞ》
段々と聞き慣れてきたが、当たり前のように脅迫をされる。
しかし――
(――腕を切る……?)
てっきり殺すと言われると思ったので、メロは疑問を感じる。
あの冷血ニンゲンにしては少々生温い気がした。
《誤解のないよう言っておくが、お前の腕じゃない》
《え?》
《切り落とすのは水無瀬の腕だ》
《なっ――》
《おい、聴こえているか?》
《はいはーい! ユウくんっ!》
メロが絶句していると病院で愛苗に付いているはずのエアリスが念話に参加してきた。
《近くにいるな?》
《えぇ。いつでも小娘の腕を切断できるわよ! お姉ちゃんにまかせて!》
《そういうことだ》
最後の言葉はメロに向けられたものだ。
淡々と弥堂が告げてくる。
《あいつは水無瀬の護衛でもあるが、同時に人質の見張りでもある。意味はわかるだろ?》
《オ、オマエは悪魔ッス!》
《それはお前だろうが》
あまりに悪辣な弥堂のやり口にメロは憤慨する。
これでは裏切りたくても裏切れないではないかと。
「わわわ……⁉ あれ? あんた抱っこ好きじゃなかったっけ……?」
卑劣なやり口に義憤を燃やしたネコさんがジタジタと暴れ出したので希咲は慌てて抱き直す。
《というわけで、病院に来るならキッチリ撒いてから来いよ。絶対に尾けられるな。出来ないなら死ね》
《そ、そんな……》
《念話は繋いだままにしておけ。お前が死ぬ以外にこれが途切れることがあったら、その時は裏切ったと見做す》
《ま、まて――》
《じゃあな――》
一方的に別れを告げて弥堂はもう何も言わなくなった。
メロは自分が見捨てられたことを知り、グデっと脱力してしまう。
「あれ? 大人しくなったし」
「んなぁ……」
捨てネコが悲しげに鳴くと、ネコさんに優しいギャルがナデナデしてくれた。
その気持ちよさに目を細めてウットリとしていると、小腹も膨れたばっかりなこともあってウトウトと眠くなってしまう。
そのままメロは水無瀬家へとギャルに連行されて行った。
「――こんにちわーっ。おばさん、七海です」
「あら? いらっしゃい七海ちゃん」
町のお花屋さん『
(あばばばば、ヤベーッス……!)
メロは内心焦りながらも、ニンゲンさんに狩られて連行される鹿さんのように全てを諦めてグデっと脱力した。
「メロ見つけたので捕まえてきました」
「あらーメロちゃん。なんだか久しぶりねー」
家猫が数日居なかったというのに、水無瀬ママは随分とのんびりとした口ぶりだ。
その様子に希咲は苦笑いしてしまう。
「メロちゃんお腹空いてない?」
「あ、さっきあたし“ちゅっちゅ”あげときました」
「あらあら、ありがとう。よかったわねメロちゃん」
「う、うなぁ~……」
まるで返事をするようにメロが鳴くと、希咲と水無瀬ママは顔を見合わせて笑った。
「わざわざゴメンね? 七海ちゃん」
「いえ、いいんです。あたしもメロのこと心配だったし」
「私たち人間は見えるところに居てくれないと不安になっちゃうけど、ネコさんたちは自由だしね」
「えっ? あぁーっと、はい……?」
どこか会話に噛み合わなさを感じて希咲は曖昧に相槌をした。
そういえば先日ここを尋ねてメロのことを話した時にも同じ違和感を覚えた。
そのことを思い出したので、水無瀬ママにもう少しメロのことを聞いてみようとするが――
「――あら?」
「ん……?」
その水無瀬ママがコテンと首を傾げる。
彼女の視線は目の前の希咲ではなく、その背後へと向いていた。
「もしかしてお客さん?」と希咲も振り返って背後を確認する。
そうだったとしたら自分はお仕事の邪魔になってしまうので、退散しなくてはならない。
だが、背後に居たのは思っていたものとは違うものだった。
何故一目でそれがわかるのかというと、希咲の背後――『
「え……?」
「なんでパトカーが?」と疑問を感じると同時に、助手席側のドアが開く。
そこから降りてきたのはトレンチコートを着た男だ。
「あら、山元さん。お疲れ様です」
「こんにちは奥さん。今日もお美しいですな」
「いやですよ山元さんったら……」
(刑事さんかな……?)
刑事のように見える40代ほどの男は、登場するなり流れるようにセクハラをかました。
しかし、水無瀬ママがにこやかにその刑事に応対したので、希咲は身を退いて道を譲る。
「あ、こりゃ気を遣っていただいて。すいませんね。可愛いお嬢さん」
「あ、あはは……」
きっとこのオジさんに悪気はないのだろうと、希咲は曖昧に笑ってスルーした。
「お忙しいとこすいません奥さん! 本日はよろしくお願いします!」
すると、パトカーからもう一人男が降りてきて、駆け足で近づいて来る。
目の前で立ち止まり、ビシッと敬礼をした。
おそらく彼が運転をしていたのだろう。こちらの警官は制服を着用していた――
「――ん?」
――着用していたと思ったのは上半身だけで、下は何故か青のケミカルウォッシュを履いていた。
あまりのダサさに希咲は反射的に叫んでしまいそうになるお口をパッと両手で押さえた。
洋服屋の娘さんである七海ちゃんは、ファッションにはそれなりに厳しいのだ。
お口チャックをしながらそのケミカルウォッシュをジッと見てしまう。
「ご苦労さまです!」
「あ、はい……、ごくろうさまです……」
すると、顔を俯けていた希咲が会釈をしてくれたと受け取ったのか、制服警官は希咲の方にもビシッと敬礼をした。
七海ちゃんはとりあえずペコリと頭を下げ直す。
「あの……、おばさん? 何かあったんですか……?」
突然の警官の訪問に何やら物々しい雰囲気を感じて、希咲は水無瀬ママに恐る恐る尋ねた。
「そうなのよー。おばさん家ね? ちょっと強盗に入られちゃって」
「へぇー、それはたいへん……、って、えっ――⁉」
頬に手を当てて困ったように溜息を吐く水無瀬ママの物言いが、「最近レタスが高くなっちゃって」くらいのノリだったので、希咲は思わず流してしまいそうになる。
だが、途中でその意味に気がついて、遅れてビックリ仰天した。
七海ちゃんのサイドテールがぴゃーっと跳ね上がると、ポンコツ警官コンビの山さんと青芝巡査はそれをジッと見た。
「全然ちょっとじゃないじゃん! おばさん大丈夫だったの⁉」
「わわわ……っ」
思わずガァーっと声を荒らげてしまう。
すると、水無瀬ママは記憶にない娘と同じようなリアクションをした。
「ケガとか……、ヒドイことされたり……」
「あ、それは大丈夫だったのよ。どこも痛くないし、何も持っていかれたりしてなくて」
「あ、そうだったんですか。よかった……、って、あれ?」
安堵するも束の間、すぐに首を傾げてしまう。
「強盗が来たのに何も持っていかれなかったんですか?」
「そうなのよ。不思議ねー」
「ふ、不思議って……、あの、気付いてないだけで実は何か無くなってたりとかは?」
「それがないのよ。それどころかね? 逆にお金もらっちゃって……」
「はぁ……?」
あまりにも理解不能な証言に希咲は言葉を失くした。
暴力も振るわず物も盗らないのに強盗に入り、むしろお金を置いていくだなんて意味不明な人間などこの世に存在するのだろうか?
どうにも想像が出来ず「うーん」と唸ってしまう。
「そんなことってあるんですか……?」
「いやー、実は本当にあったんだよ」
思わずお巡りさんに尋ねると、刑事っぽいオジさんが頷いた。
「お巡りさんたちもね、意味わかんないからね。今日また改めて話を聞きにきたんだ」
「あ、そうだったんだ。なんか、大変な時に来ちゃってゴメンなさい」
「いいのよ気にしないで。事件? があったのももう4日前のことだし」
「そうだったんだ。あたしがこないだお邪魔した日の前の日だったんですね。そんなことがあったなんて……」
「ビックリよねー」
「ビックリだし、お金置いてくってのがマジ意味わかんないですよね。いくらあったんです?」
「それがね、聞いてよ。おばさんビックリしちゃって。お巡りさんに数えてもらったら二千万円入ってたんだって」
「にせっ――⁉」
衝撃の金額に七海ちゃんのサイドテールがまた跳ね上がる。
「すっごい頑丈なケースに入ってて。開けるの恐いから触らないでおいたんだけど、まさかそんな大金が入ってたなんてね」
「こ、こわすぎ……」
自分のママの借金額と同じ数字を聞かされて、か弱きJKの七海ちゃんはプルプルと怯えた。
恐怖に震えたのは彼女だけではない。
(あばばばば……、にゃべーッス……!)
希咲に抱っこされたままのメロも、ニンゲンさんたちの話に顔色を悪くした。
ただしメロの場合は他の者たちとは恐怖の種類が違う。
(な、なに考えてやがんだあのヤロウ……ッ!)
今の話はメロには思い当たることがありすぎた。
間違いなく弥堂と一緒に水無瀬家に押し入り強盗をして愛苗ちゃんのパンツを盗んだ件のことであろう。
そういえばあの時、あの男は何かイカついケースを去り際に置いて行った。
まさかそんなイカレた大金が入っていたとはと、ネコさんは震える。
弥堂的にはこれまで愛苗を育てる為に投資をしてきた両親への手切れ金のようなつもりで、一応彼なりの誠意のつもりでもあった。
だが、金の渡し方と金額が最悪だったので、常人には到底理解が及ばない。
何も言わずにそんな大金だけ置いて行かれても普通の人は恐怖しか感じないのだ。
そしてその金は無事に警察に押収され、さらにこれを払ったことで弥堂がコツコツと悪いことをして貯めていた資金はほぼ半減していた。
あの件がしっかり事件化していることを知り、気の弱い動物であるネコさんのSAN値はいよいよ限界を迎える。
「にゃにゃにゃーッス!(こんな物騒なトコにいられるか! ジブンは部屋に帰らせてもらうッス!)」
「あ、メロ――」
躰をヨジヨジとさせて、放心したままだった希咲の腕から抜け出す。
そして次の被害者になりそうな捨て台詞を吐いてダッと逃げ出した。
「あらあら」
「ゴ、ゴメン、おばさんっ。あたし今捕まえてくるから……!」
「あら、いいのよ」
「え?」
希咲は慌ててメロを追おうとするが、水無瀬ママはのんびりとそれを制止した。
先程の違和感がまた沸き上がり、希咲は思わず走りだそうとする足を止めてしまう。
「お腹が空いたら顔を出すと思うし。野良ちゃんだから仕方ないわ」
「は……? え? おばさん何言って……」
「奥さん。そろそろよろしいでしょうか?」
「あ、はい。どうぞ入ってください」
希咲が呆然と聞き返すが、そこに警官が割り込んでしまった。
彼らを店の方へと通すと、水無瀬ママは申し訳なさそうな顔を希咲へ向けた。
「そういうわけだからゴメンなさいね、七海ちゃん。せっかく来てくれたのに」
「い、いいえ。そんな、あたし……」
「じゃあ、おばさん行かなきゃだから……」
「あ、はい……」
納得のいかないことが胸に溢れているが、警察との話を邪魔するわけにもいかない。希咲は努めてそれを吞み込んだ。
「――あ、そうだ」
しかし、店の中へ戻ろうとした水無瀬ママが思い出したように振り返る。
「あの、七海ちゃん……」
「はい」
「あの、おばさんたちね……」
「……?」
何かを言おうとして水無瀬ママは言い淀んで黙ってしまう。
「……ううん。ごめんなさい。なんでもないわ。また来てね?」
「あ、はい……」
そしてまた困ったように笑ってそう言うと、今度こそ警官を追って店の中へ戻って行った。
「…………」
周囲に居た者たちが皆いなくなり、希咲は店先にポツンと残される。
しかしここでこうしていても仕方ないので帰ることにし、やがてトボトボと歩き出した。
新興住宅街の中を希咲は一人歩く。
元々は駅前へ買い物に行く予定だったが、今からそちらに戻っては夕飯に間に合わなくなってしまう。
なので、今日は古い方の商店街で買い物を済ませようと、中美景橋の方へ向かっていた。
その足取りは重い。
納得のいかないこと、考えなければいけないことがずっと頭の中を巡っていて、既に見失ってしまったメロを探す気にはならなかった。
(どういうこと……?)
希咲の頭を悩ませているのは夕飯の献立でもなければ、先ほど聞いた意味不明な強盗の件――
――でもなく、メロのことだ。
(メロが野良ってことになってる……?)
そのことが強く引っ掛かっていた。
(なんで……?)
今にして思うと、前回水無瀬家を訪ねた際に水無瀬夫妻と話した時――
その時の二人の口ぶりに感じた違和感の正体もこれだったのだ。
二人とも何故か飼い猫が居ないことに、大して心配をしていないように見えた。
その理由は先ほどハッキリとした通り、メロのことをたまにエサをもらいにくる野良猫だと思っているからだ。
それならば二人の態度にも納得は出来る。
納得がいかないのは――
「――なんでメロが……?」
飼い猫でなくなってしまったのだろうという点だ。
事実と認知が変わる。
この現象自体は不思議ではあるが既視感はある。
最近そんなことが身の周りで多いからだ。
特定の人物の立場や関係について、他の人々の認識が変わる。
例えば、希咲と弥堂がまるで友人かのように周囲に思われてしまっていたりなど。
似た現象は希咲自身にも身に覚えがあった。
では、その現象は何のために起こっているものだったか。
(愛苗が居なくなったことの辻褄合わせのため……)
それらの現象は、全てが『水無瀬 愛苗の存在がなかったことになった』ということに帰結する。
そういった事実の改変が行われるのは全て水無瀬に関する事柄だった。
彼女が居なくなったことに誰も疑問を思わない。
まるで最初からずっとそうだったかのように辻褄を合わせる。
そのためにこの現象が起きているのだ。
水無瀬家の飼い猫だったメロが野良猫に。
そんな風に事実が変わってしまったのだとしたら――
(――なに……? なんの辻褄を合わせたの……?)
逆に考えると、何かが不自然にならないように、そういうことになる必要があったということになる。
(なんで? メロが野良猫になると、なんの辻褄が合うようになるの……?)
そこまでを考えたところで、別の不自然さを思い出す。
「事件の日、メロは弥堂の隠れ家の近くに居た……」
ポツリと、口から漏れる。
そして――
「……今日も。そうだ……。弥堂を尾けてたら、何故かメロが居た……」
不自然と不自然が結びついていく感覚があった。
「これって全部、偶然……?」
そんなわけがないと、強くそんな気がした。
「やっぱり、愛苗の手がかりは弥堂に――」
思わず足を止めてその確認が口から出る。
だが、それは最後まで声にすることは出来なかった。
途中で確信に疑問を持ったわけではない。
足を止めたことで、進行方向――視線の先に誰かがいることに気が付いたからだ。
いつの間にかもう美景橋の上まで来ていた。
その橋の真ん中に人影がある。
まるで希咲を待ち受けるようにして、こちらを向いてそこに立ち止まっている者たちが居た。
「あんたは――」
それは希咲の知っている者だった。
希咲が“彼ら”を見て、そう声を漏らすと、彼らは希咲の方へ近づいてくる。
ガラガラと――
コンクリートの橋の上で車輪の音が鳴る。
「――やあ、随分と待たせてしまったみたいで悪かったね。希咲さん――希咲 七海さん」
「え――」
座ったままこちらへゆっくりと近づいてくるその男はそう気安く声をかけてきた。
「法廷院……?」
希咲がその名を呼ぶと彼は優雅に片手を上げる。
そうすると、法廷院の座る車椅子を押す高杉は歩を止めた。
完全に車輪の音が止んでから法廷院は口を開く。
「そうだよ。ボクだ。キミがとても弱っているだろうと思ってね。このボクが是非会いに行って差し上げなければならないと、そう思っていたのさ! だってそうだろぉ――?」
大仰な仕草で彼はバッと両腕を広げる。
「――ボクたちは『
まるで王座から睥睨するようにその男は――
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