序-19 『剥き出しの幻想に包まれし者たち』

 弥堂 優輝びとう ゆうき法廷院 擁護ほうていいん まもるは対立し対峙する。


 彼らの保有する暴力装置であった元空手部の高杉は弥堂によって倒された。それにより『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』のメンバー達が劣勢に震える中で、彼らのリーダーである法廷院だけは不敵な態度を崩さず弥堂の前へと立った。



 放課後の私立美景台みかげだい学園の敷地内東側にある、主に文化系の部活動の活動場所となるこの文化講堂にて、交友のある上級生への所用を済ませた希咲 七海きさき ななみが、下校をするため生徒用の昇降口棟へと向かう目的で、文化講堂から南側に隣接する文化系クラブ用の部室棟へと繋がる講堂内の二階連絡通路を通行しようとした時に、この集団――『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』と名乗る法廷院率いる一団に行く手を阻まれた。


 希咲に用があると彼女の行く手を阻んだ一団の中の一人の女生徒――白井 雅しらい みやびが過去に希咲から受けた被害により恨みを抱いていると申し立て、一方的な言い分から仲間とともに希咲を取り囲み糾弾をした。

 所以なき罪過で理不尽に贖罪を強要された希咲だが、明確な冤罪ではあるものの、この場には彼女の味方はおらず大きく心を揺るがすこととなる。そして危ういところでその場に介入してきたのが、クラスメイトである弥堂 優輝であった。


 風紀委員会に所属している弥堂は、放課後に部活動などの正式な活動目的があるわけでもなく、不用に居残りをしている生徒が校舎内に居た場合、その者に対して速やかな帰宅を促すことが通常業務である為、職務に従い校内の見回りをしていたのだ。

 その見回りでここ文化講堂を訪れた際に、希咲と法廷院一行との間で起こっている騒乱を発見し状況に介入した。


 校則の下に帰宅を命じる弥堂と、権力を行使する風紀委員への組織的な敵対を宣言する法廷院。『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』という迷惑行為を働く新勢力がいるとすでに報告を受けていた弥堂は、彼らがその組織であると名乗ったことにより、粛清・捕縛を決断した。


 偶発的な遭遇ではあったが、構成員の一人である高杉 源正たかすぎ もとまさは弥堂によって潰された空手部の元部員であると名乗り、弥堂が以前に行った空手部に対する指導の強制執行について問い質した。

 話は決裂し暴力を以てぶつかり合った両者であったが、結果は弥堂の圧勝であった。


 しかし勝利はしたものの、過剰で悪辣で卑劣な弥堂のやり方に憤慨した希咲は彼を糾弾した。

 だが、あまりに冷淡な態度をとり続ける弥堂に対して、クラスメイトでもある彼を心配する想いもあり道理を説くが、何を言ってもまるでとり合ってもらえず、現況の立場上は彼は自分を助けてくれた味方であるはずなのに、そのあまりの不透明さから心乱される。


 そんな希咲の心境を置き去りにしたまま、彼女を中心として起こったはずのこの対立は弥堂 優輝と法廷院 擁護の対峙によって今、希咲 七海の目の前で確実に終幕へと向おうとしていた。





 口火を開いたのは弥堂へと粘着いた視線を絡めて、挑戦的に歯を剥いた法廷院であった。


「まったくひどいことをするねぇ、狂犬クン。高杉君は空手部解散の真相を知りたいと言っていたのに、それを教えてあげもしないまま殴り倒すだなんて。こいつは大問題だぜぇ? だってそうだろぉ? 風紀委員ってのは生徒を守るもんじゃあないのかい」


「違うな。風紀委員が守るのは風紀、つまり貴様らグズに規律・校則を守らせるのが仕事だ」


「その校則ってやつは生徒みんなが快適な学園生活を送るためのものだろぉ? いくら決まりだからってそのためには個人の気持ちや主張を蔑ろにしてもいいって、キミはそう言うのかなぁ?」


「生徒が規則を守るものであって、規則は生徒を守るものではない。社会――この場合は学園を正常に維持するために規則は存在する。貴様ら一人一人の意思などどうでもいい。生徒などいくらでも替えがきく。そんなものに個別に構っていられるか、効率が悪い」


「おいおい、キミだってその生徒の一人だろぉ? 色々噂は聞いてるぜぇ? キミはその規則とやらを守らせるために随分と規則を破ってるんじゃあないのかぁ? それは許されるのかい? 自分は特別だとでもぉ? そんなの『不公平』じゃあないかぁ」


「誰の許しを得る必要がある? 規則を破る連中相手にこちらが規則を守ってやる義理などない」


「それって本当に風紀委員会の方針であり総意なのかい? そんなことをしてるのはキミだけじゃあないのかぁ? キミのやってることが表沙汰になったら処分されちゃうんじゃないのかなぁ? それでも構わないんだよねぇ? だってそうだろぉ? 生徒なんていくらでも替えがきくって言ったもんなぁ」


「そうだ。俺の代わりなどいくらでもいる。不要となれば切られるだろう。だが、現状そうはなっていない。つまり貴様らのようなクズをもっと粛清しろという意味だ」


「なんてこった。粛清だなんて野蛮だねぇ。そのためなら暴力も脅迫も厭わないって言うのかい? 」


「俺の役目は学園の風紀を守ることだ。結果的にそうなるのであれば、それまでの過程や手段などどうでもいい。大事なのは現在治安と風紀が維持されているという事実と実績だ。それを乱すものを全て消してしまえば治安は守られているということになる」


「ハハハハッ! こいつは参ったね、まさしく狂犬だっ! イカレまくってるぜぇ!」


「狂ってなどいない。正常で優秀な犬だ。お前らを潰すことでまた一つ俺の有用さを証明することができる。お前らクズが何かの役に立つことなど、お前らの人生の中でこれが最初で最後だ。俺が有効活用してやる、感謝しろ」



 途切れることなく矢継ぎ早に応酬される弥堂と法廷院の問答。


 希咲はそれを何とも言えない気持ちで見守っていた。



 成り行き上というか立場上、どう表現するのが最適なのかわからないが、一応は立ち位置的には弥堂は自分の味方ということになる。首をかしげたくはなるが、仮にも所属としてはクラスメイトでもあるし、風紀委員会の報告にあがるような迷惑集団に絡まれていた自分を助けてくれたような形にはなっている。だから多分、自信はないけどきっと、限りなく味方に近いニュアンスがそこはかともなく見てとれるような気がするかもしれない感じの何かなのだ。


 その味方的存在のここまでの発言を聞いていると、何というか、どこぞの軍事力によって圧政を布いている独裁国家の軍部が民主化を求める自国民を既得権益を独占するために弾圧しているかのような台詞ばかりが、ポンポンと弥堂の口から飛び出してきていたものだから、希咲は味方的な立場の自分まで何かとてつもなく悪いことをしているような気がしてきて、大変に居心地が悪くなっていた。弥堂は自信満々に断言口調で色々言い放っているが、希咲の持つ普遍的な常識や知識の中にある一般的な風紀委員とは決してそういうものではなかったはずだ。


 法廷院たちも法廷院たちで十二分にアレなのだが、ここまでの展開だと4:6くらいで、まだ向こうの方がマシなような気もしなくもなくて、正しさとは一体何なのかという答えの出ない命題の沼に沈んでしまいそうだ。

 このまま弥堂に喋らせていてもいいのか、もう止めた方がいいのではないか――その判断は非常に難しく、また先程弥堂に対してかなり本気で声を荒げてしまった気まずさも手伝って軽口をはさむのも憚れてしまい、七海ちゃんはお口をもにょもにょさせた。


 そうして希咲が逡巡している間にも二人の舌戦は続いている。



「大体ね、ボクらが一体何をしたっていうんだい? 何の罪に問うって言うのさ?」


「この時間にここに居る時点で規則違反だ。何度も同じことを言わせるなグズが」


「おいおい、風紀委員だってのに校則を正確に把握してないのかい? 部活や委員会のない生徒の速やかな帰宅ってのはあくまで『推奨』だろぉ? 強制ではないはずだぜぇ? まさかそこんとこ勘違いして指導してるってんならこんな間抜けな話はないよなぁ! そこんとこどうなんだい? 狂犬クゥン?」


「間抜けはお前だ。いいか? 推奨とは望ましいということだ。この場合、我が校の理事長並びに生徒会長閣下が貴様ら生徒どもが速やかに帰ることを望んでいるわけだ。この意味がわかるか?」


「ああん? だから強制はしないってことだろぉ?」


「ハッ――無能が。頭の悪いお前に教えてやる。強制ではないだと? 阿呆が。推奨と表現しているのは、こうしてお前らのように学園の支配者や上司の望みを汲み取ってそれを実行することの出来ない役立たずを炙り出す為だ。そして――その足手まといを始末することが俺達風紀委員会の役目だ」


「ハハッ――頭おかしすぎるぜぇ! そんな学校組織あるはずないだろう? そんな教育機関のどこに正義があるっていうんだい」


「正義だと? 反抗勢力を名乗っておいて白々しいことを抜かすな――慈善家気どりのテロリストが」


「反抗勢力だって? おいおい、変なレッテルを貼るのはやめてくれよぅ。誤解されてしまったらどうしてくれるんだい? ボクらはあくまで『弱者』を守るための活動をしているだけだよ。なにせキミたちがやらないからねぇ。それどころか『権力』を自慢げに振りかざして『弱者』を生み出しているみたいじゃあないか」


「一人歩きしている生徒を取り囲んでわけのわからないことを喚きたてることが弱者の救済になるのか? 随分先鋭的な活動だな」


「それは『弱者』の知恵ってやつさぁ。せめて数的有利でないととても『強者』には挑めないからねぇ。ボクたち『弱者』の手で『強者』を倒して同じ場所まで引き摺り降ろすのさぁ。均等に均すためにねぇ。まさか正々堂々一対一で正面から挑めと言うのかい? でもさそれじゃあ『公平』にならないと思うんだぜ。だってそうだろぉ? 普通に戦ったら絶対に『強い』方が勝つに決まっている。そんなの『不公平』じゃあないかぁ。『強い』者しか勝てないだなんて、『強い』者の言い分しか通らないだなんて、そんなの『ひどい』じゃあないか。そうやってキミたち『強者』がボクたちに『弱者』でいることを強いているんだぁ。『平等』にボクらにも勝利する機会を寄こせよぉ。『ズルい』じゃあないかぁ。ボクら『弱者』にはいつだっていつまでだって負け続けていろとでも言うのかい?」


「被害者ぶるなクズが。これも勘違いしているようだが、強い者が勝つのではない。勝った者が結果的に強かっただけだ」


「それこそ『強者』の理屈だぜぇ。勝っているからこそそんなことが言えるのさ。だってそうだろぉ?」


「いいや、違うな。お前らは弱いから負けるのではない。そこで無様に寝ている男が負けたのもそいつが弱いからではなく、ましてや俺が強いからでもない」


「はぁ? じゃあ何だっていうのさ? 何の故あってボクらは常に不遇なままで煮え湯を飲み続けていなければならないと言うのさぁ。納得のいく理由を説明してごらんよぉ。何故だよぉ?」


「何故だと? 簡単なことだ――」


 何の感情も宿さない冷酷な瞳が法廷院を見下す。


「――運がなかったのさ」


「そんなことが認められるかよおおぉぉぉっ‼」



(うぅ……ひどすぎる……)


 延々と続くかと思われた二人の言い争いは趨勢が見え始める。


 冷淡にすぎる弥堂の言い捨て方に法廷院は激昂し、そして弥堂の味方的なポジションの希咲は、その味方のような関係でいることが恥ずかしくなってきて両手で顔を覆ってしまった。

 厭味ったらしい減らず口で人を怒らせることに関して天才的だと思った法廷院が、まさか口下手だと思っていた弥堂にいいように煽られて冷静さを欠き言い負けてしまうとは。


 とは謂え――だ。このまま放っておくわけにもいかない。


 口で負けてしまった以上、暴力で戦えない彼らではもう弥堂に対抗できる手札は何一つないであろう。情に薄く、融通なんて概念自体持ち合わせていなさそうな弥堂が、彼らに対して譲歩することは絶対にありえないだろうし、あれだけ熱くなってしまった法廷院には最早引き際が見えていないだろう。


 おそらくもう少ししたら全員弥堂に問答無用に殴り倒されて終わりだ。


(無茶苦茶な理屈で被害者ポジ確保してわけわかんないマウントとってくるあいつらもすっごいやりづらかったけど、それ以上に身も蓋もなさすぎて、ついでにモラルもない弥堂の方が厄介って……てか、一番話が通じない奴が勝つってどうなのよ……)


 暴力も含んだ荒事と呼べる種類の揉め事には慣れていたが、今回の彼らのようなタイプは初めてで自分は対処の仕方がわからなくすっかりと彼らに翻弄されてしまった。もしも次に同じような状況に巻き込まれた場合、今回の弥堂のやり方は参考になったと言えなくもないが――


(あれをあたしがやるの……? うぅ……それもやだなぁ……)


――とてもではないが、良心が咎めて真似をするのには相当な開き直りが必要そうだ。


(まぁ、今はそれは置いといて――)


 彼らとは一悶着あって希咲としても思うところは多分にある。だが、だからといってこのまま状況を静観し続けて、見た目からして貧弱そうな彼らや女の子である白井が、高杉のような大男を一撃で殴り倒した弥堂の情け容赦のない暴力に曝されるのは、いくらなんでも可哀想だと思うし見殺しにするのは忍びない。


 希咲は「はぁ」と気が重そうに溜め息を一つ吐くと介入をすることに決めた。



「ちょっと法廷院、落ち着きなさいよ」


 大分熱くなって弥堂に対して声を荒げている法廷院に声をかける。身も蓋もなさすぎる弥堂よりも敵である法廷院の方がまだ話が通じると思ったからだ。しかし――



「やめろおおぉぉ! ボクを苗字で呼ぶなと言っただろおぉぉっ⁉」


「わっ、びっくりした。えと、ごめん、悪気はなかったの」

「ふん、敵の嫌がることをするのは当然だろ、法廷院よ。そんなこともわからないのか法廷院。だからお前らは負け犬なんだ法廷院。わかったか法廷院。どうした? 返事をしろ法廷院」

「こらっ、どうしてあんたはそうやってすぐ煽るのよ! やめなさいって」


 助け舟を出すつもりで話しかけた希咲だったが、図らずに地雷を踏んでしまったようであった。そしてそれが効果的と見て取るやすぐさま相手の嫌がることを連呼して攻撃する弥堂。そんな彼を希咲は窘めるがすでに遅く――


「うああああああっ! 殺してやるうううぅぅっ‼‼」

「ていっ」


 法廷院は血眼で弥堂に飛び掛かった。ゴンっと鈍い音が鳴った。



 それは法廷院が弥堂に攻撃をヒットさせた音ではなく、弥堂が法廷院にカウンターを見舞った音でもなく、希咲に突き飛ばされた弥堂が先程自分が高杉を叩きつけた壁に、今度は自身の顏を強かに打ち付けた音であった。


 弥堂が向かってくる法廷院を情け容赦なく迎撃するであろうと予測をした希咲が、彼がカウンターを放つ前に弥堂を突き飛ばしたのである。弥堂を壁際に追いやったことで空いた弥堂と希咲との間のスペースを法廷院は通り抜けて、そのままその奥に倒れている高杉の足に躓いて無様に転んだ。

 びたーんっと床に貼り付く音がした。


「ギャアアアアアァッ‼ 足があぁっ! 足があああぁぁっ‼」

「だっ代表っ!」


――マリーシアだ。


 法廷院は足を両手で抱えながら、まるでペナルティエリア内で自分で勝手に転んだのに相手のファールをアピールする南米出身の選手のように転げまわった。高杉を介抱していた西野と本田が倒された味方選手に駆け寄るが、しかしこの場にレフェリーは居ないので特に誰にもカードが提示されることはなかった。


 

 顔面から壁に突っ込んだ弥堂は当たる瞬間に額で受けるようにしたので、鼻などを打ち付けることはなく特にダメージはなかったのだが、何か言いたそうな不満顏で希咲を見遣る。


「あはー。さっきの仕返しぃー。これでおあいこね」


 希咲は悪びれることなく、そう言ってぱちっとウィンクして悪戯げに笑った。


 弥堂は彼女に対して何か言ってやろうかと口を開きかけるが、転げまわっていた法廷院がPKはもらえなかったと判断して、何事もなかったかのようにスクッと立ち上がったので、チッと舌打ちをして希咲から目線を移した。



「やってくれるじゃあないか、この『差別主義者』どもめ。名前のことで弄るなんて典型的な『いじめ』の始まりだぜぇ」


「それがどうした、法て――ぐむっ」

「――あははー、ごめんねぇ。悪気はなかったのよ。もう言わないから許してね」


 今しがたアホみたいなパフォーマンスをしていた割に立ち上がった法廷院の目が完全にガンギマリしていたので、希咲は弥堂がまた余計なことを言い出す前に、彼の口を右手で塞ぎ法廷院へと謝罪した。左手で弥堂の身体を突きながら「あんたももうやめなさいよねっ」と小声で注意する。



「ボクにだって許せないものはある。自分の姓のことで弄られるのは我慢がならないんだ! それこそ呼ばれるだけでも虫唾が走るほどに‼ どうしてだかわかるかい?」


「えっと……どうしてって…………ごめん、わからないわ」


 何かしらの家庭の事情なのだろうかと思いついたが、安易に口に出して触れるのはデリカシーがないと判断し、希咲は回答を控えた。顔を振って希咲の右手から逃れた弥堂が口を開いて何か言いかけたので、今度は左手を素早く彼の口元へやり人差し指と中指で弥堂の唇を挟んで黙らせた。


「いじめだよ」


「えっ」


「ボクは小学校時代からずっとこの苗字をバカにされていじめられていたのさ‼」


「……それは、その……えっと……」


 センシティブでヘヴィな話が飛び出してきて希咲は気まずそうに眼をキョロキョロさせた。


 無意識に弥堂の口元を抑えていた手にきゅっと力が入る。希咲の指の隙間から弥堂の唇がうにょっと無様にはみ出した。弥堂の瞼がピクピクと震え険しい視線で希咲を見るが彼女は気付かなかった。

 先程彼女の指を掴んでどかしたら足を蹴ってきたので、この女にどう対処するかと弥堂は内心で考え始めた。



「その経験があってからね、例え悪気がなかろうとも、姓を呼ばれるだけで当時の体験がフラッシュバックして恐怖と屈辱で胸が痛むのさ! なぁ、狂犬クンさぁ、これはボクが悪いってのかい? 弱いからいじめられるんだとか言うのかい? それとも運がなかったと諦めろと⁉」


「ちょ、こらっ、あんたは黙ってなさいっ――え、えっとね、ほ、じゃなくて、んーと、せ、先輩? 先輩は悪くないと思うわよ。うん。悪くない……あと、こいつには話振らないで。悪気しかないから」


 怒りをぶつけてくる法廷院に弥堂がすぐさま言い返そうとしたが、希咲はまたも言葉のパスコースに入りインターセプトをして勝手に代弁をした。いくら喧嘩をしているとは言っても、過去のいじめ体験を貶めるような無神経なことを言わせるのは彼女のモラルが許さなかった。


「小学・中学とこの名とボクの名誉を貶められ続けて、ボクは地元から離れたこの高校へと逃げるように進学をしたのさ。そして過去の傷は癒えないまでも痛みが少しひいた頃に思ったのさ――ボクのように苦しめられている『弱者』は他にもたくさん居て、ボクはそんな人達を一人でも多く救いたいと……ボクのような想いをする人を一人でも減らしたいと」


「その考えはとても立派だけど、ちょぉーっとやり方が、そのぉ、少しだけアレかなぁ、とか……」


 完全にやり方を間違えていると希咲は考えていたが、いじめ体験を引き合いに出されると強くは指摘できなかった。

 七海ちゃんは気まずそうにお口をもにょもにょさせて、弥堂の口を抑えてる指をうにょうにょさせた。彼女の手の下の弥堂の口の端がビキっと吊った。



「で、でもさ……その、あんたの苗字、確かに珍しいとは思うけど、そんなバカにされるような――「ホーケーインポ」――へぁ?」


 法廷院の顔色を窺うように話を切り出し、「変な名前とかじゃないし気にすることないよっ」といった着地点に持っていこうとしたのだが、耳を疑うような単語が聞こえた気がして希咲はフリーズした。



「ホーケーインポだよ。小中学時代のボクの渾名さ……ひどい名前だと思うだろぉ?」


「んーと、えーと……ごめん、ちょっとあたしわかんないかなぁ……」


「カマトトぶってんじゃないわよおおぉぉっ! ヤリ〇ンのくせにっ‼」


 希咲は性的なワードについての言及を避けたが、何故か暫く大人しくしていた白井さんがキレた。



「『ほうていいん』を『ホウケイインポ』。なんとなく語感を合わせただけの実に小学生らしい下らないネーミングさ。覚えたての下ネタワードを言いたいだけのクソガキどものやりそうなことだよ‼ 小学校の間だけならばまだいい。百歩譲って許そうじゃないか。だけど! 色々と性に目覚めるお多感な中学時代まで、ずっとこんな渾名で呼ばれ続けた惨めなボクの気持ちがキミにわかるかい⁉」


「えぇ……なんというか、その、大変痛ましく思います……」


「男連中だけじゃなくて終いにはキミのようなギャルたちにまで弄られる始末さ! 経験人数がそのままステータス値になると勘違いしてるようなメス猿に囲まれて、こんな名前で侮辱される気弱な童貞の心の痛みなんてキミたち『強者』にはわからないだろおぉ!」


「いやだから、あたしはそういうのじゃ――」


「インポはまだいいよ! ボクは逆境の中でも勃ち上がれる男だってことはボク自身よくわかっているし、それは毎晩自分で確認してるからね!」


「そういう情報マジでいらないんだけど」


「でもね! 包茎は仕方ないだろ!? 身体的特徴なんだからしょうがないじゃないか! それとも手術しろとでも言うのかい? 関係ないんだから放っておいてくれよ! だってそうだろぉ? ボクが包茎で、男が包茎でキミたちに何か不都合があるっていうのかい? どんな不都合か具体的かつ詳細に説明してみなよ!」


「そ、そんなのわかんな――っていうか、あんたそれ普通にセクハラよ!」


 本日最高にヒートアップしている法廷院はこれまでの己の中に蓄積した負の感情を全て吐き出さん勢いだ。



「大体さぁ! 包茎はボクだけじゃないだろぉ!? 日本人男性の7割だか8割だかは包茎だってデータがある! 念入りに調べたからね! ボクをそう呼んでバカにしてた奴らも計算上ほぼ全員包茎なはずだし、この学校の男子だって7割以上は包茎なんだ! クラスに15人の男子が居れば10人は包茎なはずなんだよ! みんなみんな包茎のくせにボクだけバカにしやがってちくしょう‼」


 高度に医学的な統計データを用いた法廷院の弁論に、彼の脇に控えていた本田君と西野君が俯き気味に目線を逸らしソワソワした。何かしら身につまされることでもあるのかは不明だが、彼ら二人は可能な限り自身の存在感を薄めて早くこの話題が終わってくれることを心から願った。


「キミにならわかるだろう⁉ 希咲さん! 毎晩別の男の上でスクワットをして、様々な棒状の器官を取り扱ってきたキミになら! 包まれた器官と包まれていない器官のリアルな比率をキミは膨大な回数の臨床試験の中で目撃してきたはずだ‼」


「見てねぇっつってんでしょーが! あんたたち何べん同じこと言わすのよっ‼」


「嘘つくんじゃないわよ、この救命セックス病棟24時が! ギャルとはそういうものだって臨床データが上がってるのよ」


「白井てめー、調子こきやがって――」


 またも在りもしない不名誉な性経験とレッテルを押し付けられ、この手の話になると必ず絡んでくる白井への怒りで思わず手に力が入る。そのせいで無意識だが、弥堂の口を抑えていた左手の指が強張り彼の顏に爪が食い込んだ。

 弥堂は額に青筋を浮かべいい加減我慢の限界だと、彼女の指が動いたことで拘束が緩んだ唇の隙間から舌を出し、舌先から押し付けるようにして希咲の指を舐めあげた。


「――ぶにゃああああああああああああぁぁぁぁっ⁉⁉」


 希咲は白井へと反撃の罵詈雑言をぶつけてやろうとしていたが、突如意識外から左手の指に感じた他人の舌の体温の熱さと、ねとっとした湿めった感触に驚き奇声をあげる。反射的に背筋を反らしながら伸ばしてつま先立ちになり、足先から順番に上半身の方へと背筋を急速にブルブル震わせ、髪のサイドのしっぽをぴーんと上に伸ばす。


 彼女の性格的に怒り狂って反射的に殴りかかってくるかと弥堂は備えていたが、体験したことのない感触に驚きすぎてしまって、希咲はへなへなっと腰から脱力をすると、その場の床にぺたんとお尻を着けて座り込んでしまった。


「なんでなめたのぉ……?」


 女の子座りでへたり込んでしまった体勢のまま右手で左手の手首を力なくつかみ、左の掌を向けて弥堂が舐めた指の湿った部分をこちらに見せながら、気の強い彼女が見せたことのない表情で放心したようにこちらを見上げてくる。

 ふにゃっと眉と大きな猫目の目尻を下げて、その瞼に涙を浮かべながら情けない声音で抗議をしてくる希咲 七海の姿に、弥堂は胸の奥底の方から何か得体の知れないドス黒いものが湧き上がってくるような気がしたが、気がしただけなら気のせいだろうと彼女を無視し、法廷院へと向いた。



「おい、ホーケーインポ」


「あああぁぁぁん⁉」


 初手から躊躇することなくNGワードを使用していく。


「ふん、弱いからだなんだと、日頃から自分がやらなくてもいい、出来なくてもいい理由を探すことにだけ四六時中全力を注ぐ、腑抜けのお前にぴったりの名だ。そうだろう? ホーケーインポ」


 弥堂の血も涙もない煽りに法廷院は怒声を爆発させそうになるが、寸前で飲み込み湧き上がるものを必死に抑え込むと、ガクンと上半身を折り曲げ、そこから頭だけを上げて前髪の隙間からギラついた視線を妖しく輝かせる。



「フッフフフッフ……つっつつつつつつつよがるのはやめたまえよ、狂犬クン」


「なんだと」


 自分に煽られ怒りに翻弄されるばかりであった法廷院の様子が変わったのを弥堂は敏感に察知した。


「ククク……見えたぜぇ、勝利への道筋ってやつがぁ……キミはもう終わりだよ、狂犬クン」


「…………」


 不敵に眼を光らせる法廷院の言葉に弥堂は慎重に真意を探る。


 その弥堂の足元では床にへたり込んだままの希咲が「うぅ……」と涙目で情けない呻きをしながら、弥堂のズボンの膝上あたりで先程舐められた手をゴシゴシしており、そしてさらにその希咲の様子を見て、白井が舌打ちをし苛立たし気にガリガリと爪を噛んだ。



「まさかこんな諸刃の剣があったとはね……だがこうなった以上はキミも道連れだ。ボクと一緒に高杉君の待つ地獄へ行こうゼェ」

「代表、高杉さん死んでないです」

「しっ――バカっ本田、声を出すな。気付かれるぞ」


 勝利を確信したかのように不敵さを取り戻した法廷院を向こうにして弥堂は油断なく見据える。



「フフフ。ボクのことばかり言ってくれるけどね、狂犬クン。そういうキミはどうなんだい?」


「……どういう意味だ」


「ハハハッ、さっき言っただろう。日本人男性の7・8割は包茎だって! ここには男子が5人いる。計算上その中で4人は包茎だってことさ」


「それがどうした」


「ククク……つまりボクはこう言っているのさ。ねぇ狂犬クン――キミも包茎なんじゃあないのかなぁ?」


 法廷院のその言葉に『どん』っと空間に激震が走ったかどうかは定かではないが、少なくとも法廷院の仲間である西野と本田はキョドった。確実に話の流れがマズイ方向になってきていると敏感に察知した彼らは、必死に己の存在感を薄めてどうか自分に話が回ってきませんようにと祈った。


 弥堂は何言ってんだこいつという気持ちで無言で眉を顰めたが、その弥堂の無言の隙を『効いている』と捉えた法廷院は俄かに調子づいた。



「だってそうだろぉ? まぁ8割って言ったらほぼ全員って言ってもいいかもねぇ。ひょっとしたら全員包茎だって可能性も十分にあり得るぜぇ? 『平等』に『公平』にみぃんな包まれているのさぁ! 素晴らしいことじゃあないかぁ」


 ドヤ顏で持論を展開する法廷院の言葉に西野と本田はビクっと肩を竦ませた。そんな彼らの様子を白井さんはじっと見ていた。


「ねぇねぇ、狂犬クンさぁ、キミはどうなんだい? キミも『包まれ棒』なんだろぉ? 恥ずかしがらずに言ってごらんよぉ?」


「下らんな。お前と一緒にするな包茎院」


 その呼称に包茎院はコメカミにビキっと血管を浮き上がらせるが、かろうじて笑顔を保ちスルーした。ここで仕留め損なえば自分たちはもうノーチャンスだ。今有利なのは間違いなく己なのだと戒める。慎重かつ確実に事を進める必要があると彼は感じていた。


 心底から下らないとつまらなさそうに返答する弥堂の股間部分を白井さんはじっと見ていた。


「ちょっと男子ども! そういう会話は女子のいないとこでやってよね」


 少しばかり気を持ち直したらしい希咲が、まだ床にぺたんと座ったままだが咎めるように軽蔑の眼差しで、お手本のような女子台詞でコンプライアンスの重要性を訴えるが、法廷院はそれを無視して続ける。


「一緒にするなって? それはどういう意味なんだい? まさか自分は『むきだし棒』を所有しているとでも主張するのかな? おいおい、見栄を張るなよぉ。いいじゃないか、ほんとぉのことを言ってごらんよぉ。なぁに、恥ずかしがる必要なんてないんだ。みぃんな同じなんだよぉ。ねぇ、西野君、本田君?」

「え⁉ いや、それはまぁ、そういうデータが出ている以上そういう事実が存在する可能性は高いと、客観的にはそう捉える必要があると言わざるをえないかもしれませんね」

「あー、高杉さんが動いたー目を覚ましたのかなー? あれー違ったー、勘違いかー」


 西野君と本田君は明確な回答を避けた。



「ほら彼らもこう言ってるじゃあないかぁ。キミもそうなんだろぉ? 正直に言ってごらんよぉ」


「同じことを何度も言わせるな。この質問に何の意味がある」

「サイッテー」


「おいおいおい、話を逸らそうとするなよぉ。もしかして必死かいぃ? もう素直に認めちゃいなよぉ、狂犬クゥン。自分は『包まれし者』だってさ。キミがいくら『むきだし』の申告をしてもボクらには真実はむきだされないからねぇ。だったら信頼の出来る機関がむきだしたデータの方を信じちゃうよぉ。だってそうだろぉ? キミが『包まれし者』ではないと証明しようとするならもう実際にむきだすしかないんだ。でもそんなの出来るはず――「――見せなさいよ」――えっ⁉」


 完全に勝利ムードの法廷院が畳みかけようとした時、なんか知ってるパターンで白井が口を挟んだ。先程同様に『弱者の剣』男子メンバー3人はギョッとして白井の方へとバッと顔を向けた。



「何よ。見せればいいじゃない。証明なんて簡単でしょ? むきだせばいいじゃない」


「白井さん、キミはその方向性でいいのかい?」


「あんた完全に痴女じゃない……そこまで追い詰められてるの……?」


 希咲と法廷院が同情の眼差しを向けたが白井さんは自分に向けられる憐憫には気が付かなかった。何故ならば、彼女は先程からずっと目ん玉かっ開いて弥堂の股間を凝視し続けていたからである。彼女はもう誰にも救えない。



 完全に正気を失っているとしか思えない白井が常軌を逸した要求を弥堂へと叩きつける。


「どうしたのよ、弥堂 優輝。さっさとむきだして見せなさいよ。いつまで包まれているつもり?」


「この女はイカレてるのか?」


「アハハハ、そ、そうなんですよ。彼女ちょっとおかしくて……」

「ほ、ほら、白井さん。下がりましょう。普通に殴られますよ」


 西野と本田が弥堂へと卑屈な笑みを浮かべ誤魔化すようにしながら白井を回収しようと彼女に近づく。


「邪魔をするなああぁぁぁっ」

「あぁっ」

「ひぃっ」


 しかし、腕をぶん回した彼女にあっさりと振りほどかれ、続いてギンっと血走った眼を向けられると彼ら二人はあっさりと引き下がった。

 

「さぁ、邪魔者はいなくなったわ。心置きなくむきだすのよ、弥堂クン……だってずるいじゃない? あなたさっき私のむきだしのお尻を鑑賞した挙句にその足でじっくりと感触まで楽しんだじゃないの。私にも見るくらいの権利があるはずだわ」


「お前程度の女の尻で俺を楽しませられたとでも思っているのか? 思い上がるなよブスが」


「んっ……なんてオレ様なの……嫌いじゃないわ。でもこれは貴方の為でもあるのよ? 弥堂クン」


「なんだと?」


 公衆の面前でむきだすことで何かしらのメリットが自分にむきだされるようなことがあるのかと、弥堂はつい聞き返してしまった。


「むきだしてみてもちょうだい――考えてみてもちょうだい。このコンプレックス拗らせたクソ童貞どもは何としてでも貴方を貶めてやろうと必死なのよ。きっとこのままいつまででも粘着してくるわ、他にやることがないから。だったらさっさとむきだしてしまった方が、貴方的にも他の仕事に早く取り掛かれるから効率がいいと思わないかしら」


「ほう、一考の余地はあるな」


 自分の仲間を貶める発言をしてでも男子の男子的な部分を目視したい。花も恥じらうはずの地味系JK白井さんは欲望と好奇心を剥き出しにして必死だった。

 彼女は普段は比較的大人しく真面目に学園生活を送っている生徒なのだが、この『弱者の剣』の活動中は何かが開放されるのか、普段被っている一般人の皮の中身が剥きだされすぎてしまう傾向があった。



 その白井の説得に弥堂は一定の理解を示す。効率がいいというフレーズが気に入ったのだ。


「ちょっ、ちょっと弥堂もなに納得してんのよ! そんなのダメに決まってるじゃないっ」


「黙りなさいよクソビッチが! なに? 自分はいつでもそんなもの好きなだけ見放題だからって余裕を見せつけているわけ⁉ 見下さないでちょうだい‼――あ、弥堂クン、ちなみにむきだしてくれたら私は知ってること何でも喋ります」


「誰がクソビッチよ! あたしだってそんなもん見たこと――「――よし、いいだろう」――は?」


 気のせいかと思いたくなるような弥堂の了承の声が聞こえ、そんなバカなと頭がフリーズするが、次いで聞こえてきた『カチャカチャ』という異音にすぐに再起動する。


 その金属と金属が擦れるような音は希咲の顏のすぐ真横で聞こえてきた。いまだ床にお尻を着けて座り込んだままの姿勢の希咲はバッとその音の方向――弥堂 優輝の方へと慌てて首を回した。


「ちょちょちょちょーっとおぉっ! 弥堂あんた、嘘でしょっ⁉」


 どう見てもベルトを外しているようにしか見えない弥堂の仕草にパニックになる。サイドのしっぽがぴーんと上に伸びた。


「あんたっ、ばかっ、やめなさ――あほおおおっ!」


 慌てて彼を制止しようと声を上げるが、続けて聞こえてきた『ジッ』とファスナーを下ろすような音にびっくりしてもうまともな言葉も並べられない。完全に混乱した彼女はどうにかこの蛮行を止めなければとズボンを下ろそうとする弥堂の手を摑まえようと手を伸ばした。


 ここまでの動作を白井はまばたき一つせずに目ん玉かっぴらいて焼き付けようとしていた。


 しかし、希咲の努力むなしく、あえなく『ズルっ』と下着ごと弥堂の制服のスラックスは彼自身の手によってズリ下ろされた。

 

「ぎゃあああああぁぁぁぁっ」

「キャアアアアアァァァァッ」


 複数の悲鳴が響く中でついに衣服によって包まれていなければならないモノが公共の場にてむきだされた。


 弥堂を止めようと彼に向って半ば飛び掛かるように両手を伸ばした希咲だが、寸でのところで間に合わず、目の前でズボンが下ろされていくのがスローモーションで見えたような気がした。何とか決定的なモノだけは目に映さないようにと彼女は悲鳴を上げながら顏をバッと下に向ける。ちなみに「ぎゃあー」と叫んだ方が希咲だ。


 勢いよく頭を動かしたために彼女の頭の左側で括ったそこそこ長さのあるサイドテールがぶんっと振り回される。


「いてっ――何すんだ希咲」


 何故か弥堂が希咲へと抗議の声を挙げたが、希咲はもう何も考えられないくらいにテンパっていたので返答は不可能だった。



「キャアアアアっ、イヤアァァアっ、なにそれっ、なにそれえぇぇっ⁉ 知らないっ! そんなの知らないぃぃぃっ」


 乙女のような悲鳴を上げて泡を食っているのは法廷院であった。自身の包まれたものとはあまりに形状の異なる、弥堂のむきだされしものを目にして彼はショックと恐怖のあまり泣きだしてしまった。

 それは西野や本田も同じようで、男3人尻もちをつきながら身を寄せ合い身体を震わせながら金切り声を上げる。


「おい、これで満足か?」


 弥堂が問いかけたのは白井だ。


「はい。大変結構なお手前でございました」


 白井さんはまるで憑き物でも落ちたかのような清らかな微笑みで満足した旨を伝えると、深々と頭を下げた。最敬礼だ。自身の身体の両側に左右の手を指まで綺麗に揃えてそれぞれ真っ直ぐ伸ばし、背筋と首が曲がらないよう意識をしながら45度の角度で腰を折ることで、むきだされしご本尊へと最大限の敬意を払った。


「しまってよおぉぉっ。もうそれしまってよおおぉぉっ」


 法廷院の方ももう十分だと涙ながらに訴えているようだったので、弥堂は下ろした下着とズボンを直した。



 希咲 七海は床にぺたりと座り込んで、顔を上げないように視線を床へと縫い付けたまま完全にフリーズしていた。身体の動きは止まっていたが現在彼女の頭の中は絶賛大混乱中である。顔を下に向けているので他の誰にもその表情は見えなかったが、左手の甲に右手を重ねるようにして、口元を両手で隠して顔中を真っ赤に染め上げていた。


 視線を下げることで視界に映っていた弥堂の足元から、彼の手が昇っていくのに連動して肌色が制服のズボンによって塗り替えられていく。頭の上からまた聞こえてきた『カチャカチャ』というベルトを弄る音にさらに追加で羞恥が湧き上がってきて何故か目に涙まで浮かんできた。


(見ちゃった見ちゃった見えちゃったっ! どうしてくれんの――いや違う、見てないあたしは何も見てない。見てないったら見てないもんっ‼)



 緊急回避で顔を下に向ける直前。何やら今まで生きてきた中で、一度も目にしたことのない何かがボロンっとまろび出た一部始終が目に入ったような気がするが、気がしただけなのできっと気のせいだ。


 ぶっちゃけ何かよくわからない黒いシルエットが見えただけ――どころの話ではなく、色々と詳細にはっきりくっきりと形状からその動きまで記憶に刻まれているが、見ていないものが記憶にあるわけはないので、絶対に気のせいなのだ。


 床にお尻を着けて座っていたせいで目線の高さが度し難いほどに丁度よく、また彼の行動を阻止しようとほぼ正面から彼に向って身体を前のめりにしながら腕を伸ばしていたことで、距離感としても冒涜的なほどにアリーナ最前列席であったが、何が何でも気のせいったら気のせいなのだ。


 希咲は自分の優秀すぎる動体視力を心の底から呪ったが気のせいなのでセーフだ。そう自分に強く言い聞かせていた。



 問題はそれだけではない。


 勢いよく頭を下げた際にサイドテールが派手にぶん回された。あの時の弥堂の『いてっ――何すんだ希咲』という台詞。


 これはダメだ。絶対に深く考えてはいけない。禁忌に抵触する。あの時に振り回された髪の先の方で『ぺしっ』という何か肉を打つ手応えが感じられたような気がするが、真相にまで辿り着かなければそんな事実は存在しなかったことになるので、乙女の意地にかけて絶対に考えてはいけないのだ。

 そうしなければ自分の乙女生命は終わってしまうという強い危機感があった。


(気のせい気のせい絶対に気のせいなんだからああぁぁぁっ)


 混乱のあまり大声で叫びだしたくなる衝動を堪えるために、口元に当てた左手の人差し指をガジガジして気を紛らわせる。強い刺激を与えることで少し落ち着けたのだが思っていたよりも痛かったので、そのまま痛みの残る人差し指の基節部を唇で挟み込んで、歯形のついた皮膚を舌先で舐める。目をぎゅっと強く瞑って動悸の早まった胸の鼓動に必死に耐える。


(うぅぅぅっ、ばかっ、ばかっ、びとうのばかっ。なんでこんな日にこんな場所で初めて――いや違う、それは違うわよ七海っ。セーフ、セーフだから。だってあたしなんにも見てないもん、見てないったら見てない。だから全然だいじょ――)


 思考の中で言い訳を羅列していたら、ハッとあることに気付き――気付いてはいけなかったことに気付いてしまい、そろーっと恐る恐る自身の口元へと目だけを動かす。今、現在進行形で唇ではむはむしながら舌先をチロチロ当てている左手の人差し指を見る。


(えっ、えっ……ちょっと待って、この指ってさっきあいつが舐め――)


「――うにゃああああぁぁぁぁぁぁっっ‼‼」


 本日一番の混乱に陥り本日一番の絶叫をあげた。


「おい、うるさいぞ希咲」


「うるさいばかっ! ばかばかばかっ! あほせくはらへんたいばかしねええぇぇぇっ‼‼」


 希咲はとんでもないことをしてくれた不埒者に対してそこまで罵声を浴びせたところで、とうとう処理能力が限界を迎え『びえー』と泣き出してしまった。


 完全無欠なギャン泣きであった。



 弥堂は、いつも無表情で何があっても動じることのない彼にしては珍しく茫然とした。


 今年高校二年生となり、いい年をしてと謂ってもいいような年頃の娘が、床に尻をつけて座り込みながら、まるで女児のように突然に脈絡もなく大声を上げて泣きだす様を見て驚いていた。

 しかも弥堂から見ても割と大人びている少女だと思っていた希咲 七海がそのような痴態を演じているものだから、どうしたものかと呆気にとられてしまった。



 弥堂はその偏った経験上、自身の目の前で女が泣き出した場合ほぼ9割自分が悪いということを知っていた。

 以前に自身の保護者のような役回りをしていた大雑把な緋い髪の女はそもそも泣くようなことはなく、むしろ当時の弥堂の方が泣かされていたのだが、彼の師のような立場にいた別の女は、その強大な戦闘力に似合わず何かにつけてよく泣く女で、その度に彼女から口を酸っぱくして弥堂からしてみれば耳にタコどころか、鼓膜が拒否反応を起こすくらいにクドクドとしつこく弥堂が悪いと言い聞かされていた。


 実際に、出会った頃は感情など持ち合わせていない冷血人形にしか見えなかったメイド服姿のその彼女が、自分と深く関わるようになってから時が経つにつれて、事あるごとにめそめそとよく泣くようになっていったのを継続的に見ていたものだから、弥堂はもう女が泣いたら自分が悪い、これはそういうものなのだと大雑把に認識していた。


 反論したり否定したりを試みた時期もあったが、そうすると余計に泣かれるのでもう面倒だからそれでいいやと、大変不誠実な受け入れ方をしていた。



 そんな姿勢でいるものだから、自分が悪いという風に認識をしてはいても、では具体的に何が悪かったのかという点においては弥堂に理解が出来たことは極めて稀で、今回もその例に漏れず自分の何が悪かったのかがさっぱりと不明で、どうしてこうなったと深く溜め息を吐いた。


 他所を見てみれば法廷院たち3人も何故か泣いている。



 弥堂は仕方なく白井 雅へと声をかけた。


「おい、これのどこが効率がいいんだ?」


 無駄だとわかってはいたが、誰か他の者に責任を押し付けたくなったのだ。


 しかしその問いに白井は言葉では応えず、黙って清らかで清楚な微笑みを浮かべた。



 弥堂は天井を見上げた。


 どうしていいかわからない。こんな風に思うのは一体何年ぶりであろうかと過去を想った。



 その背中に夕陽が差し込む。


 窓の外を見遣れば大分日が傾いてきており完全下校時刻が近づいてきているようであった。


 オレンジ色に染まりつつあるその風景の先へと郷愁の念を込めて遠く目を向ける。



 ただ一度その衣服という名のベールに包まれたものを剥きだしただけで、高校生4人を号泣させてしまったその男の背中には虚しさだけが残った。

 

 しかしその背中に確かに漂っていた哀愁を、清らかな微笑みを浮かべた白井が満足気に見守っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る