1章78 『弥堂 優輝』 ⑲


 妹は――



――きっと彼女なりに歩み寄ろうとしてくれていたのだと思う。



 態度や口調には棘があれど、懸命に俺に話しかける機会を作っていたのだろう。


 ただ、俺が彼女の期待に応えられなかっただけのことだ。



 中学生の女の子が必死に頑張っているというのに実に情けない話だが、彼女が探しているかつての兄との共通点を表現してあげることが、俺には出来なかった。


 多分妹は少しでもそれが見つけられれば、それで妥協して折り合いをつけてくれようとしていたのだと思う。



 だけど、俺の中にはもうそれは無かった。



 “魂の設計図アニマグラム”にの中には、こんなに鮮明に残っているのに。



 実際どうにかならないものかと、俺の方も記憶にあるクソガキの過去の台詞を読み上げるなど努力はしてみた。


 だが、それはただ彼女を気味悪がらせ、やがて完全に敵意を持たれるようになってしまった。


 そして妹は、もう俺を居ないものとして振舞うようになった。




 父は――



――何でもないことのように振舞おうとして失敗していた。


 日を追うごとに彼は疲弊していった。



 日中、父は仕事で妹は学校。


 だからすることのない無職の俺が家事などを手伝うようにして、仕事量的には父の負担は減ったはずだ。


 だが、家の中の空気が以前よりも明確に悪くなったことが、父には堪えたのだろう。



 ちなみに家事を手伝うといっても、俺には大したことは出来ていない。


 洗濯機も掃除機も満足に扱えない俺は、こっちの世界でもただの役立たずのままだった。



 別に使い方を覚えられないわけではないのだが、科学文明のない世界で原始的な暮らしを長くしていたせいか、何故かこういった機械類に気後れをしてしまう。


 料理をしようにも現代的な調理の仕方や、多種多様な調味料を把握出来ていない。


 そんな俺に作れるようなものを出してしまえば、きっと家族は嫌な気分にしかならないだろうと思って積極的には手が出せないでいた。




 それ以外にも、俺はここでの日常生活に様々な支障をきたしていた。



 トイレは流す。電気の点け消し。手を洗う時は石鹸を使う。手の水気はタオルで拭う――等。


 全部上げればキリがないが、現代日本人としての一般的な振舞いを意識して行動しないと全て抜け落ちてミスをしてしまう。


 それに、何処に居ても聴こえてくる何かしらの機械音に、非常に落ち着かない気分になる。



 だから、久しぶりの実家は俺にとっても非常に居心地が悪い場所だった。



 そうして家に居ることが多いから、昼間は母の相手をすることにもなる。




 母は――



――基本的には自室に引き籠っているので、食事の時間に囚人にそうするように、部屋のドアの隙間から彼女へ適当な飯を渡すくらいの接点だ。


 だが、彼女はたまに部屋から出てきて俺に恨み言をぶつける。



 どうも何日かの間に母の中では、俺は息子を殺した犯人、という認知に落ち着いたようだ。あながち間違いでもないので俺もそれを否定しない。


 彼女は他に誰も居ない時にだけ、俺に向かって詰る言葉を延々とぶつけてくる。


 俺は特にそれを避けることもなく、言われるがまま黙って聞いていた。



 すると母は無抵抗な俺に味をしめたのか――どうかはわからないが――日中は部屋から出てくる時間が増えた。当然その目的は俺へのクレームだが。



 俺は何度か異端審問を受けているし、公開処刑をされたこともある。


 だから罵詈雑言を他人から向けられても、今さらどうということはない。


 あの狂った世界のキチガイ宗教団体の追い込みに比べれば、心を病んだ日本人主婦の恨み言など大したことがなく、特に何も感じない。



 こうして彼女の裡に溜まったモノを吐き出させ切れば、もしかしたら母が元に戻ることもあるかもしれないと考え、試しに彼女の好きにさせていた。


 ちなみに父や妹が居る時は母は絶対に俺に話しかけてこないので、二人はこのことを知らない。



 そうしている時のとある日、このことが裏目に出る。



 俺に対して憎しみを吐き出し続けていた母が、興奮しすぎて刃物を手に取ったのだ。


 大切な息子を殺した憎き卑劣漢に向かって、彼女は包丁を構えて突進してくる。



 まぁ、俺という生き物は母が創った生き物なのだし、別に殺されてやっても構わないかと――俺は抵抗をしなかった。


 母は俺を滅多刺しにした。



 そして当然だが、俺は一度死んで、戻ってしまう。



 腰を抜かす母に「今ならもう一度殺せば殺せるぞ」と伝えて、彼女が取り落とした包丁をその手に握らせてやったのだが、これがよくなかった。


 彼女は恐怖のあまり完全に正気を失ってしまった。


 それからは、母はほとんどの時間をただ目を開けて茫っと過ごしているだけの植物のような生物に為ってしまい、父や妹が話しかけても反応しなくなった。


 唯一、俺が視界に入った時だけ、恐慌状態に陥って暴れるようになってしまった。


 そして母は隔離病棟に入れられ、もう出て来られなくなった。



 この時にあったことは誰にも言っていない。



 父にも医者にも『俺を殺したら生き返ったので母が正気を失った』などとは言えない。まだ『異世界に行って帰って来た』と言う方がマシだ。


 一応、現場は父や妹が帰ってくるまでには片付けて隠蔽をしたが、どこまでちゃんと隠せたかはわからない。



 ここまでで、俺は自分の対人コミュニケーション能力に欠陥があることに気が付いた。


 妹にしても、母にしても、やろうと思えば彼女らの問題点をあげつらうことは出来るのかもしれない。


 しかし、それ以上に俺の方が圧倒的に悪いと思った。



 普通なら日本で中学に入ってから高校を出るまでの期間を――


 文明も、倫理や道徳も、碌に発展していないような野蛮な異世界で、俺は戦争しかしてこなかった。


 俺にとっての人との関わりとは、殺し合うか騙し合うかしかないのだ。基本的には。



 向こうの世界でなら、それをしている内にどうせ自分も死ぬからと、何も問題に感じていなかった。


 だが、こっちの世界では俺のこのコミュニケーション能力は致命的な欠陥だ。




 また少し日が経って、父が一人の男を家に連れてきた。


 フリーランスのライターだそうだ。



 中学一年生男子の失踪事件は、当時少しの間だけは地元紙でも記事になったりしていたのだそうだ。


 だが警察の捜索も一向に進展しない中で、すぐに風化していった。



 この記者はそんな中でも定期的に父に会いにきて、事件の進捗を記事にして発信してくれていたそうだ。


 彼には世話になっていたので、父は息子が帰ってきたことの報告を、今までの礼とともに伝えたらしい。


 そして今日、結末を綴る最後の記事を書くために彼は取材に来たのだ。



 余計なことを――



 俺が居るせいで家の中の空気は最悪になり、そのため段々と誰も俺に話しかけなくなっていた。


 そのおかげで、『俺が失踪中どこで何をしていたのか』ということも家族に聞かれなくなっていた。


 俺はそれをとても都合がいいと考えていた。


 だがそれをいいことに、聞かれた時の答えも特にまだ用意していないままだった。



 俺は記者の質問にも例によって適当に答える。



 とりあえずアメリカに攫われてギャングの抗争に巻き込まれていたと答える。


 この世界のことは、なんか大体アメリカが悪いと言っておけばいいように思い込んでいたからだ。



 すると記者に色々と突っこまれる。


 それに対してまた適当に答えていると、今度は中国で捕まって洗脳され工作員にされていたことになってしまった。


 なんかよくわからないが大体中国が悪いらしい。



 余計なことはもう言わない方がいいなと適当に頷いていたら、その後俺はロシアに潜入して東南アジアでゲリラに参加していたことになってしまった。


 なんかよくわからないが、ロシアも大体悪いらしい。



 完全にわけのわからない経歴が作り上げられてしまって困惑していると、興奮した記者が色々と勝手に喋り出した。


 世界の歴史のことについて何か言っていたようだが、なんかよくわからないがつまり大体イギリスが悪いということか? と、感じたままを質問してみたところ記者は首を横に振った。



 彼が言うには、大体全部日本が悪いらしい。


 そういえば小学校だったか中学校だったか、そこで渡された教科書にも日本が悪いというようなことが書いてあったように大体思い出す。


 そしてその教科書を造ったヤツが誰なのかということを考えれば――


 

 なるほど――つまり、こっちの世界も、大体どいつもこいつもクソッタレだということかと、俺は納得した。



 ある程度話をして記者は帰っていった。



 俺が諸外国で得体の知れない経験をしてきたことを知って、ショックを受けた父が言葉を失くして動揺していた。


 俺も少々困る。


 何が困るって、さっきの眉唾話以上に真実の方がもっと荒唐無稽なのだ。


 あの程度の話を咀嚼出来ないのなら、やはり本当のことはとても言いだせたものではないなと見限った。




 父がオロオロしているようだったので、俺は気を遣って散歩に出かける。



 そして、先程の記者の跡を尾けて、人気のない場所で始末した。



 話していて、彼は悪い人間でなく、本当に俺のことを心配してくれていたのだということは伝わった。



 だがそんなことは関係ない。



 余計な情報を世に発信されても俺には何の得にもならないのだ。






 別のある日――



 父に誘われて買い物に出かけた。妹は着いてこなかった。



 まず母の病院に見舞いに行く。


 俺を見ると母は暴れ出すので、ロビーで父が戻ってくるのを待った。



 それから買い物に行く。


 父は一生懸命俺に話しかけてくる。


 流石に申し訳ない気持ちがないわけではないが、俺は彼の期待には応えられない。


 今も昔も。



 クソガキと同じように振舞えればいいのかもしれないが、俺としてもそれだけは絶対に出来ないのだ。



 その帰り道。


 路を歩いていると急に前方が騒がしくなる。


 そちらへ眼を向けると、どうも引ったくり事件が起こったようだ。



 犯人だと思われる男がこちらへ走ってくる。


 その手にはチャチなナイフが握られている。


 こちらを向いた犯人の目が俺たちを映した。


 そしてナイフを構えたまま突っ込んでくる。



 男がナイフの切っ先をこちらへ向けた瞬間、俺の身体はほぼ反射で動き出す。



 ナイフを突き出すために手を後ろへ引いたのに合わせて、俺は足を一歩踏み出す。


 軽く掌を前に出して男の顎を打ち抜いた。


 その衝撃で男の上体が反るのに合わせて足を払い、力の方向を操って地面に引き倒した。


 男の手からすっぽ抜けて宙へ飛んだナイフをキャッチして、シームレスに男の腿に突き刺す。


 ナイフで傷口を掻きまわすと男は悲鳴をあげる。


 その頬を無言で叩き男を黙らせる。


 そのまま痛めつけながら背後関係を吐かせた。



 だが、どうもそういった背後事情はなくただの衝動的で突発的な単独犯のようだったので、もう用済みだと判断し、男の腿から抜いたナイフをそのまま首筋へと持っていく。


 刃を引いて男を殺そうとした直前、父から制止の声をかけられた。



 行動を邪魔されたことに苛立ちを覚えながら、顔だけで父の方へ振り向く。


 そして眼に映った父の顔を見て、「やってしまった」と、俺は自分が失敗をしたことを悟った。



 そういえば、そうだった。



 この国では――というか、こっちの国では。


 人を殺してはいけないのだった。


 すっかり忘れていた。



 目の前で息子が奮った躊躇いの無い暴力に父は強いショックを受ける。


 そうして固まる父と一緒に、遅れてやってきた警察官に連れて行かれ、また聴取を受けた。



 運よく男に傷害の前科があったことで正当防衛で通りそうだった。


 無駄に時間を消費して父とともに家に帰る。


 会話はもうなかった。



 道を歩きながら考える。


 この国は便利だが窮屈だ。



 家の外であってもその辺に唾を吐き捨ててはいけないし、ゴミを投げ捨てるのは以ての外だ。


 そこらに置いてある物を勝手に持っていくこともしてはいけない。


 人を殺したり、人から金や物を奪ってもいけない。


 それどころか、気に入らない顔をした奴を挨拶代わりにぶん殴っただけで事件になる。



 6年ぶりに帰ってきた日本は本当に居心地が悪かった。





 その日の夜。


 夕飯の食卓には食器を鳴らす音とテレビからの声だけが鳴っている。



 すると一件のニュースが眼に留まった。



 俺が殺害した記者の死体が発見されたというニュースだ。


 俺は表情を動かさないようにしながら、頭の中で認識を改める。



 この国の警察やら司法やらをナメていた。


 一応厳重に死体を処理したつもりだったが、こんなにも簡単に見つかってしまうとは思っていなかった。



 チラリと父の顔へ眼を遣る。


 父は今日のことで落ち込んでいるのだろう。ニュースには気が付いていない。



 すると妹が席を立つ。


 何も言わないまま彼女は自分の食器を流しに運んで、そのまま自室へと帰っていった。


 父の溜息が聴こえる。



 俺は即座に見限った。



 俺はこの社会に適合出来ない。


 そこらの一般的な日本人のように振舞うのは、俺にはもう無理だ。


 身体にも魂にももう染みついてしまっている。



 俺は異世界から帰ってきた日本人ではなく、異世界から日本に迷い込んだグレッドガルド人だ。


 もうそういう風に人格が完成してしまっている。



 そう判断して、すぐにその場でこの家を出ていく旨を父に伝えた。



 父は驚いた顔をした後、俺を止めてくる。



 優しく責任感の強い人だ。


 ここに至ってもまだそんなことが言えるとは。


 だが彼はもう限界だろう。



 俺は適当に口を回して、俺が居ると妹によくないと言い訳を与える。


 父はばつの悪そうな顔をした。


 自身の疲弊を俺に気付かれ気遣われたことを察したのだろう。



 貴方たちの息子はもう死んだこと。


 俺はもう違う人間に為ってしまったこと。


 このままではお互いのためにならないこと。



 そんなことをつらつらと語り、話を終わらせた。



 顔を俯けたままの父を置いて席を立ち、三人分の食器を洗ってから部屋を出る。


 父は顔を上げなかった。




 翌日、父が仕事に出かけてから家を出る。


 仕事から帰るまで待つ約束だったが、当然知ったことではない。


 多分父もそれに気付いていた。


 玄関にある俺の靴の中に封筒が入っており、それは数十万円ほどの金だった。



 俺は彼のことを狡いとも思わないし、咎める気持ちも全くない。


 彼はもう解放されるべきだろう。



 廊下の奥から妹がこちらを睨みつけていた。


 俺は封筒から一万円だけを抜いて、残りは封筒ごと妹の靴に突っ込んだ。



 彼女に何か言おうかと思ったが、特に何も思いつかなかったのでそのまま玄関を出た。


 妹も何も言わなかった。



 母は部屋から出てこなかった。



 父も母も妹も、もしかしたら俺も――



 これは誰も悪くない。



 それでも、決して良くはならないから仕方がない。



 だけど、強いて言うのなら、やっぱり俺が悪いのだ。 




 適当に歩いていたら駅があった。


 だから適当に電車に乗って、適当な駅で降りた。



 そこは隣町で、新美景駅という場所だった。



 適当に降りた北口からは、汚れた空気と汚いニオイが伝わる。


 この国の清潔感と潔癖感に居心地の悪さを感じていた俺は、その穢れに引かれてフラフラと街を歩いた。



 世界は違うが、知らない街に来た時にどうすればいいかはわかっている。


 適当に路地裏に入って少し歩くと、揉め事に遭遇した。


 ルビアに教わった流儀はここでも通用しそうだ。



 素人じゃないがプロでもない。


 暴力組織同士の争いだ。



 俺は適当に現場に近づいていって、とりあえず一番ムカつく顔をしたヤツをぶん殴った。


 そのまま片方に肩入れをして、敵対する連中をぶちのめした。



 俺が加勢した奴らは皐月組だと名乗った。


 運がいいなとその時は思ったが、そうでもないことを後日に知った。



 世間知らずな俺は、この国の裏道を仕切る者といえばヤクザだと――そう相場が決まっていると思っていた。


 だから強い方に味方をして恩を売ったつもりでいたのだが、実際は逆だった。



 強められた規制によってヤクザの力はとっくに削がれていて、今は裏道で幅をきかせているのは半グレという不良や、その背後にいる海外マフィアたちなのだと後で聞かされた。



 ヤクザというのは、一昔前に比べれば随分と肩身の狭い思いをしているようだ。


 早速貧乏くじを引いてしまったカタチだが、別に大して変わらないかと諦める。



 そして俺はそのまま皐月組の客分として、暫くヤクザの世話になることとなった。

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