1章14 『牢獄の空』
「七海ちゃんったら、こんな場所ではしたないですよ?」
そこに居たのは今朝も教室で視た顏の、
「み、みらい……」
「はーい。みらいちゃんですよー」
希咲は幼馴染でもあり妹分でもある彼女の姿を認め、盛大に顔を顰めた。
希咲の言動を見咎めたような口ぶりだが、彼女の表情はいつもどおりの笑顔で、にっこりと楽しそうに目を細めている。
彼女の表情を見たことで一気に頭が冷えて、それにより自分が今ここで何を口走っていたのかを正確に理解した。
羞恥が湧きあがるよりも先に『マズイ』という焦燥感が先に走る。
「み、みらい……。あの、これは違うの……」
よりにもよってマズイ奴にマズイところを見られたと、気ばかりが焦り弁明しようにも上手く言葉が出てこない。
拙い言い訳を受けた
「ふふふ、いいんですよぉ。大丈夫です。ちゃーんとわかってます」
「あ、あんた……! マジでやめてよ⁉ ホントに違うんだからっ!」
「えーーー?」
何かを恐れるように強調してくる希咲と対照的に、望莱はゆるい声で語尾をあげてコテンと首を傾げる。
そして今度はその顔を弥堂の方へ向けた。
「せーんぱい?」
「……俺か?」
「はい。弥堂せんぱい」
弥堂は彼女の発音する『先輩』という言葉のイントネーションから感じる甘ったるさに思わず顔を顰めた。
「……なんだ?」
「わ。見て見て七海ちゃん。すっごい嫌そうな顔されました」
見たことのない動物を発見した子供のように目をまん丸く開いて、楽し気に希咲へ報告をする。
希咲はそれには反応せず、ただサーっと顔を青褪めさせた。
(ヤバイヤバイヤバイっ……!)
この二人は絶対に関わらせてはいけないと思っていたのに、完全に油断していたと危機感に身を縛られる。
暴力事件的な意味では、もう一人の幼馴染の少女である
だが、そっちはまだわかりやすい。
それに比べて今現在、自分の目の前に居るこの取り合わせは、何が起こるかわからないという意味での危険性がある。
一体、何のつもりでここに現れたのかと、彼女の出方を窺いつつ、
そうしている間に望莱は弥堂にチョッカイをかけていく。
「ねー、“せんぱい”? わたしのこと知ってますか?」
「……紅月の妹だろ」
「はい。そうですよー。兄がいつもお世話になっております。苗字だと兄と区別がつかないので、わたしのことは『みらい』って呼んでくださいね? 弥堂せんぱいっ」
「………」
「わ。見て見て七海ちゃん。こんな露骨な無視、初めてされました!」
再度クルっと希咲の方へ顔を向けて、今しがたの弥堂とのコミュニケーションの成果を報告してくる。
傍から見れば、可愛い後輩――妹分が無邪気に懐いてきている姿に見えるが、希咲は彼女の笑顔に愛想笑いすら返さない。
「先輩はあんたに興味ないのよ」
「んま、七海ちゃんったらヒドイです」
「そういうのいいから。大体なんであんたここに居るわけ?」
「なんでって……ここ正門ですし。普通に帰ろうとしてるだけですけど。そしたら偶然七海ちゃんがえっちなことしてる現場に遭遇したんです」
「えっちなことなんてしてないから!」
「えーー? でもぉ……男の子に自分のパンツをリスペクトしろって強要するのはえっちですよね? わたしはそういう経験ないですし、そういう気持ちになったこともないから、よくわからないですけど……」
「ちがうからっ! 強要なんてしてないし!」
「そうなんですか?」
「そうよ! こいつがここで道行く女の子のパンツを無差別にリスペクトしてて、あたしはそれを止めてたの!」
「それは普通に性犯罪者なのでは?」
望莱はコテンと首を傾げつつ、一方の言い分だけで判断するのは不公平なのでもう一人の当事者にも事情を伺う。
「弥堂せんぱい? 七海ちゃんはこう言ってますけど、“せんぱい”は女の子と見れば誰彼構わずにパンツをリスペクトせずにはいられない不審者さんなんですか?」
「そのような事実はない」
「なるほど。七海ちゃん? そのような事実はないそうですよ?」
「あんた、あたしには口答えするくせに何でそいつの言うことはそのまんま受け入れるわけ⁉」
「そのような事実はないです」
「あんたホントなまいきっ!」
揶揄うような望莱の態度に希咲は目尻を吊り上げて怒りを露わにするが、彼女は希咲が怒れば怒るほどに笑みを深めていく。
「ところで、パンツをリスペクトってどういう概念なんですか? わたし実は全然わからないんですけど……」
「あたしに聞くな! あたしだって意味わかんないわよ!」
「ほう……では、“せんぱい”?」
「…………」
「わ。すっごい嫌そうな顏で無視されました」
「…………」
「あたしを見るな。助けないわよ」
望莱からの質問を適当に無視しようとした弥堂だったが、まん丸く開いた瞼に埋まった黒曜石のような瞳にじっと見詰められ、また対応を押し付けようとした希咲にも見放されたので諦めたように嘆息してから重い口を開く。
「……掟だ」
「なるほど。掟なら仕方ないですね。よくわかりました」
「わかるな! それでよくわかる人間がいるわけねーだろ!」
「んもぅ、七海ちゃんったらプリプリしちゃって。でも、そうですね、もうちょっと掘ってみましょうか。というわけで、“せんぱい”? もう少し詳しくお願いします」
「……詳しくは知らん。俺自身はお前らの股間を覆う股布のことなどどうでもいいと考えている。しかし、妙齢の女性の下着については敬意を払って『おぱんつ』と呼称するように上司に強く言われている。命令ならば仕方ない」
「なるほど。命令なら仕方ないですね。よくわかりました。それに……わたしも若輩の身ですが、下着に関しては自分なりに拘って選んでいるので、股布などと言われては確かにリスペクトが足りないな、と思いました。ダブルでよくわかりました。せんぱいはとても効率的な人ですね」
「ほう。わかるのか?」
「ええ。ふふっ、わたしたち、もしかしたら気が合うかもしれませんね」
『効率的』というフレーズが気に入って若干気をよくした弥堂と、彼が自分との間に立てたコミュニケーションの壁を若干下げてくれたことを感じ取って気をよくした望莱が和やかに向かい合う。
目の前のその光景を見た希咲は盛大に顔を顰めた。
「みらい。もういいでしょ。さっさと帰りなさいよ」
「えー? 何でわたしを帰そうとするんです? 何か都合悪いことでもあるんですか?」
「ないわよ。こいつはろくでもないクズだから、あんたと関わらせたくないだけ」
「んま。七海ちゃんったら本人の前でなんてヒドイことを。“せんぱい”が可哀想です」
「こんくらいで傷つくくらいのメンタルだったらもう少しマシなヤツになってるわよ」
「へぇー……随分“せんぱい”に詳しいんですね? わたし、今日まで七海ちゃんが弥堂せんぱいと仲いいなんて知らなかったです」
「別に仲良くなんてないからっ! あんたが面白がるようなことなんてなんもないし!」
「でもぉ、七海ちゃんはツンデレだしなー。強く否定すると益々怪しいです」
「その否定したらツンデレだからーで片付けるのやめなさいよ! あんたが最初にこれ言い出したのあたしちゃんと覚えてるからね!」
「えーー? そうでしたっけぇ……?」
コテンと首を傾げて記憶を探る素振りをみせるが、楽し気な彼女の表情を見れば、わかっていて惚けているのは誰からも明らかだった。
「“せんぱい”? 七海ちゃんはこう言ってますけど、どうなんですか?」
「どう、とは?」
「ですからー。二人は仲良しなんですか?」
「こんな女と仲がいいわけあるか」
「あんたの言い方、ホントむかつくわねっ!」
「ふふふ。どうですか、“せんぱい”? 自分で仲良くないって言っておいて、“せんぱい”にもそう言われると怒っちゃうこのメンドクサイところ。ちょーカワイイって思いません?」
「なんでそうなんのよ!」
「……面倒くさい女が可愛いという概念が理解できんのだが」
「またまたー。惚けちゃってー。わたしにはわかります。“せんぱい”はメンドクサイ女が好きな人です。そしてメンドクサイ女にしか好かれない人です」
「その、ような事実はない」
過去に思い当たる事実があるような気がしたが、気がしただけなら気のせいなので弥堂は男らしく最後まで言い切った。
「――あ! ところで、弥堂せんぱい?」
「……今度はなんだ?」
パンっと手を叩いてから、何かに気が付いた、もしくは思いついたといった風に話題を変えようとする彼女の仕草が、いかにもわざとらしかったので弥堂は不審な眼を向ける。
「わたしのパンツはリスペクトしなくてもいいんですか?」
「結構だ」
「……あんた何言ってるわけ?」
スカートの両端をつまんで僅かに持ち上げてみせながら、トンデモ発言をしてくる望莱に対して、弥堂は即答し、希咲は面倒ごとの気配を感じて警戒心を強めた。
弥堂も大分アレな男だが、この後輩も何を言い出すかわからない危険性のある子だ。それを二人合わせたら何が起こるかわからない。
早く望莱を帰らせなければと、焦りが募る。
「本当にいいんですかー? 可愛い後輩女子が拘って選んでる下着をリスペクトできる機会なんてそうそうないですよ?」
「結構だ」
「ちょっと、みらい! あんた何のつもり⁉ やめなさいよ!」
「えーー? ほら、七海ちゃんがさっき、“せんぱい”は無差別に女の子のパンツをリスペクトしたがる的なことを言ってたから、試してみたんですよ」
「何を試したっつーのよ」
「ほら、わたしって可愛いじゃないですかー?」
そう言って自分を指差しながらコテンと首傾げる望莱へ希咲はジト目を向ける。
しかし、彼女の言葉を否定しなかったのは、あざとい仕草が鼻につくものの、実際にその顔の造形が優れているのは事実だったからだ。
「その可愛いみらいちゃんがですよ? リスペクトおっけーしてるのにノッテこないのは、“せんぱい”は無差別リスペクト魔ではないということですよね」
「……あんた何が言いたいわけ?」
「つまり! です。“せんぱい”は七海ちゃんのパンツだけをリスペクトしたいってことになりますよね?」
「なんでそうなんのよ!」
「えーー?」
楽しそうにクスクス笑いながら希咲を揶揄いつつ、望莱はまた弥堂の方へ顔を戻す。
「どうなんですか? 弥堂せんぱい」
「そのような事実はない」
「ほんとうに?」
「神に誓って、そのような事実はない」
「えーー? ほんとうかなぁ……?」
丁寧な口調ではあるが、一切の遠慮もなく弥堂にズケズケと話しかける望莱の様子に希咲の焦りは加速する。
『風紀の狂犬』などという異名で呼ばれている弥堂だが、そんなものに恐れを抱くような子ではないと知ってはいたものの、このままでは非常にマズイことになると焦燥する。
「……みらい、もういいでしょ。何を勘ぐってるのか知んないけど、あんたが期待するようなことは何もないから」
「えーー? ほんとうですかぁ? ほらほら、わたしたちって幼馴染ではありますけど、同時に『紅月ハーレム』のメンバーであり、ライバルでもあるわけじゃないですか?」
「ちげーっつーの」
「正妻の座を狙うわたしとしては、お兄ちゃんの女が一人減るならそれに越したことはないですし? 的な?」
「あんたね……」
真実味が感じられないような軽い口調でドロドロとしたことを言う彼女へ胡乱な目を向ける。
「とにかく、違うから。こいつとはたまたまここで会っただけだし、普段も別に絡みないし」
「ふ~~ん……そうなんですかー?」
「そうよ」
「へぇ~~」
「……なによ、その態度っ」
希咲からの咎めるような視線を無視して、望莱は弥堂に問いかける。
「ねぇ、弥堂せんぱい? 七海ちゃんは違うって言ってますけど、実際のところどうなんですか?」
「何に対しての『違う』なのかがまずわからんのだが」
「こいつ絶望的にコミュ力ないから、機微みたいなの期待しても無理よ。てか、もういいでしょ。無理矢理にでも『そういうこと』にしたいみたいだけどムダだから。もう帰んなさいよ、みらい」
希咲が望莱の肩に触れ、無理にでも帰らせようとするが、彼女はそれもにこやかな笑顔で無視して尚も弥堂に絡む。
「ちなみにです。弥堂せんぱい。もしも『違くない』って言ってくれたら、今日はもう“せんぱい”に話しかけるのをやめてあげます」
「『違くない』」
「コラーーーーーっ⁉」
「まぁっ! やっぱりそうだったんですね!」
「あぁ。キミの言うとおりだ。帰れ」
「ちょっと! 弥堂っ、あんたはなんで――」
「んもぅ、七海ちゃんったら照れちゃってー。こういうところもカワイイって思いません? “せんぱい”」
「そうだな。帰れ」
「みらい! あんたふざけ――」
「“せんぱい”が喜ぶかもって七海ちゃんのカワイイとこ引き出してあげたんですよ? わたしって気の利く後輩だって思いません?」
「キミは素晴らしいな。もう帰れ」
「んま。“せんぱい”ったらヒドイです」
わざとらしく傷ついたフリをして望莱は下がっていく。
「七海ちゃんにも“せんぱい”にも帰れって言われちゃったことですし、わたしもう帰ります」
「ちょっとみらい! 待ちなさいよ! 違うって言ってんでしょ!」
「もう七海ちゃんったらワガママさん。ふふふ。大丈夫ですよ。わたしはちゃんとわかってます」
口元を手で隠し「ふふふ」と見た目だけは上品に笑いながら望莱はフェードアウトするようにその場を離れていく。
「待てっつってんだろ! あんた何をどうわかってんのよ! つーか絶対わかっててやってんだろ⁉」
希咲は離脱しようとする彼女を追おうとするが――
「では、な――」
それを好機と見たか、弥堂もこの場を辞そうとする。
望莱の行く方とは逆の方向へ。
「あっ⁉ こらっ! あんたなに逃げようとしてんのよ!」
弥堂の行動に気が付いた希咲はどちらを追うか迷い、どちらを追うことも出来ない。
「あーーーーっ! もうっ! やっぱりわけわかんないことになった!」
逡巡し、両方を止めることは難しいと判断して取捨選択をする。
そして彼女はガッと弥堂の制服の上着を背中から掴んだ。
「追わなくていいのか?」
「…………あんたに、用があるって、言ったでしょ……」
色々な感情を堪えながらどうにか冷静に声に出した。
「……あたし、こんなに疲れたのに、まだ用件すら言えてないんだけど……? ほんと、なんなの? あんた……」
「俺に言われてもな」
まるっきり身に覚えのない理不尽なことを言われたとばかりに、弥堂はその無表情顏に不愉快さを僅かに表す。
希咲はそんな男の背中を掴みながら上体を折って息を整えつつ、首だけを回して振り向く彼の顏を咎めるような目でジッと見上げる。
弾む息と共に疲労も身体の外へ抜けていってくれないものかと願った。
「それで? 結局お前は何の用なんだ?」
まるでこれまでの出来事など何もなかったかのように促す弥堂に希咲は応えず、ただ無言でジトっとした目を向けた。
「……あんた、ホントきらい」
「それが用件か。なるほど、お前の気持ちは理解した。これで終わりだな? 帰るぞ」
「んなわけないでしょ。バカじゃないの」
「じゃあ、さっさとしろ。何でそんなにトロいんだ。バカじゃねえのか」
どうしてこの女はいちいち余計な一言ばかり付け加えて先に進もうとしないのかと、いちいち余計な一言を付け加える男は苛立った。
当然希咲もそれに苛立つが、先に進まないのは事実なのでガックリと肩を落とし疲労感を滲ませながら切り出す。
「……あーー、うん、そうね……用件は3つあります……」
「多いな。ひとつにしろ」
「イヤよ。ここまで疲れさせられて完遂せずに帰れるか。バカ」
「チッ。早くしろよ」
「なんなの、その態度。マジなまいき……って、もういいや。一つ目は愛苗のことです」
「……水無瀬だと?」
希咲の口から出てきた名前に弥堂は眉を寄せる。
「イヤそうな顏すんな。マジ失礼」
「……で?」
「あーーと、あたしがさ、月曜からしばらく旅行でいないの知ってるわよね?」
「あぁ」
「は? なんで知ってんの? あたし、あんたにそんなこと教えてないわよね? キモいんだけど」
肯定の意を示した途端、何故か真顔になりシラっとした目を向けてくる彼女に今度は弥堂が疲労感を表に出す。
「あのな。直接聞いてなくても周りであれだけデカい声で喋ってれば嫌でも情報は入ってくるだろうが……」
「ふふっ……ジョーダンよ。ちょっと揶揄っただけ」
「余計な口をきくな。お前が旅行に行くにあたって、水無瀬のことで俺に何を頼むというんだ」
「もうっ、つまんないヤツね。まぁ、いいわ。あのね……? 愛苗のこと少し気にしてあげて欲しいの」
「まぁ、そうだろうな。だが、俺の答えも想像ついていただろう。断る」
弥堂にとっては決して好ましくないという意味で予想どおりの話であり、それを取り付く島もないほど端的に断る。
「もちろんそう言うと思ったけどさ。でも、お願い」
「……単純に面倒だからという点と、そんなこと頼まれる筋合いがないという点で断るというのを差し引いても、それ以前にまず人選ミスだろう。そもそも野崎さんたちに頼んでいただろうが、俺の出る幕などない」
「そんなことわかってるわよ。あんたにお願いしたいのは野崎さんたちにお願いしたこととは別のことよ」
頼む側の希咲としても断られるのは予想どおりだったので、用意していた回答を展開していく。
「あんたにお願いしたいのは、普通にクラスでひとりぼっちにさせないであげて――とかじゃなくってさ、もっとあんた向きの話よ」
「俺向き……だと?」
「そ」
訝しがる弥堂に人差し指を立てた手を見せながら理解を促していく。
「その……なんていうか、さ。あたし、ちょっと一部の子たちに恨まれてて。もしかしたら、あたしが居ない間にそいつらが愛苗にチョッカイかけてくるかもしんなくって……」
「護衛でもしろと言うのか」
「そういう言い方すると大袈裟だけど。まぁ、そういうことね」
「……それは依頼か? それとも取引か?」
「どっちでもないわ。ただの報告よ」
「報告?」
「そ」
恐らく彼女の想定どおりに話が進んでいるのだろう。少しトクイげな様子で堂々と喋るその顔を目を細めて視る。
「あんた風紀委員でしょ? 一般生徒が危険な目にあうかもしれない可能性があるって、今、あたしが、あんたに、報告したの。それを無視してもしも校内で事件が起きたらそれはあんたの責任よね?」
「……お前、性格悪いな」
「ホメ言葉として受け取っておくわ。まぁ……ちょっとイジワルな言い方しちゃったけど、普通にお願いしたいの。不良の男子とか嗾けてくるかもしんないし。あたしのせいなんだけど、さ」
「……仮に俺がそれを受けたとしても、だが、いいのか?」
「ん? なにが?」
ここからの弥堂の問いは想定外なのか、キョトンと猫目を丸くさせる。
「昨日。お前は色々と俺のやり方が気に食わなくて文句を言っていただろう。仮に俺がお前の代わりに敵を撃退したとして、それでまた『やりすぎ』だなんだと後からクレームを付けられるのは御免だぞ」
「ぷっ。なにそれ。自分で言う? ちゃんと自覚あったんだ。うける」
「おい」
悪戯げにクスクスと笑う希咲へ咎めるような眼を向ける。
「あはは、ゴメンゴメンて。そんなの気にしなくていいのに……てか、さ――」
「うん?」
一拍置いて楽し気に笑っていた彼女はストンと表情をフラットに落とした。
「むしろ『やりすぎ』なさいよ、手を抜こうとすんじゃないわよ、きっちり地獄を見せてやりなさいよ、そんなの当たり前じゃない」
「…………お、おう」
普段色鮮やかな宝石のような彼女の瞳から一切の光沢が失せて、平淡に早口にそう伝えられ、弥堂は無意識に後退りそうになったのを自覚した。
そのまま光のない瞳でジッと見てくる希咲に最大限の警戒をしていると、彼女は元の表情に戻る。
「まぁ、さ。四六時中張り付いてろなんて、そこまで言わないからさ。そういうことがあるかもって心に留めておいて、もしいざそうなったら、その時は風紀委員として出来る限りのことをしてくれればいいからさ……ね? ダメ……?」
つい数秒前とは打って変わって、じっと真摯に上目を向けてくる彼女の姿に、もしもここだけを見ていれば、それだけで言うことを聞いてしまう男もいるのだろうなと、見当違いな感想を抱きつつ嘆息する。
「……よく言う。俺が断れないような話の仕方を用意してきておいて」
「ふふっ。あたしも中々やるでしょ?」
「うるさい。少しは殊勝にしたらどうだ」
「して欲しい?」
「結構だ」
「そ? それじゃ頼むわね」
「あくまでも風紀委員としての範囲ならな」
「それで結構よ。ありがと」
そう礼を告げて微笑む今の彼女の表情は、先程の様に揶揄うような表情ではなく、言葉どおりの真摯なものであった
その笑顔を見て『本当に嫌な女だ』と弥堂は思った。
「だが、後で文句を言われても敵わんから最初に言っておくが――」
「ん? なぁに?」
「護衛に関しても人選ミスかもしれんぞ」
「? どゆこと?」
コテンと首を傾げる彼女へ、一応仕事のようなものを受ける上でのせめてもの誠意で言ってやる。
「俺は戦闘に関してはある程度プロフェッショナルだとは言えるが、こと『護衛』となると決して専門とは言えん。そこらへんの素人よりは多少はマシかもしれんがな」
「そなの?」
「あぁ。どちらかというと、護衛を雇っているような連中を襲撃する方が専門だったと謂えるかもしれんな」
「は? あんたマジでなにやってきたわけ?」
「それに答えるつもりはない」
希咲から向けられる胡乱な瞳に毅然とした態度で突っぱねる。
「もちろん、たかだか不良生徒相手に後れをとることはそうそうないだろうが。しかし100%の成果は約束できん。俺に頼むのならそれは頭の隅に入れておけ」
「……こんにゃろ。予防線貼りやがったな? あんたマジでヤなヤツっ!」
「褒め言葉として受け取っておこう」
先程とは立場が変わって、今度は弥堂が希咲へ、先に彼女が言った言葉をシレっと言ってやった。
「この条件以外では呑むつもりはない。それで二つ目は?」
「……まぁ、いいわ。んじゃ次はね――」
そう言った希咲はしかし、唇に人差し指をあてて「んーー?」と宙空に視線を遣ったまま中々話し出そうとしない。
弥堂はうんざりとした面持ちになる。
「……パっと出てこないんなら、それは実は大した用件ではないのではないか? というわけで終わりだ。帰るぞ」
「せっかち。うざ。ほんのチョットくらい待ってくれたっていいじゃん」
「予め用意してきたんじゃないのか?」
「そうだけどっ。どっちから話すか考えてたの!」
「……一応この後用事があるんだ。早くしてくれ」
この少女を相手にするとどこかで言い返すのを止めないと、延々と口喧嘩が続いてしまうということを、弥堂もようやく学習し始めていたので諦めて続きを促した。
「……そうね。じゃあ、愛苗のことなんだけど――って、あによ。その顏っ!」
「……お前気持ち悪いな」
「女の子に気持ち悪いって言うなボケっ! しょうがないでしょ!」
「そうだな。仕方ないな。早くしろ」
こいつ水無瀬のことしか考えてないのかと、気味の悪さを感じた弥堂だったが、努めて色々と飲み込み続きを話すよう要請した。
「んんっ。んとさ。あんた、次の月曜ちゃんとガッコ来るでしょ?」
「あ? どういう意味だ」
「いいからっ! 休む予定とかないわよね?」
「……今のところそんな予定はないが……なんだ? どういうつもりだ……?」
「そんな疑心暗鬼になんないでよ。別に罠かなんかにかける為にあんたの予定訊いてるわけじゃないから」
「……どうだかな」
「クラスメイトの女子に罠にかけられるかもって思っちゃうような生活改めなさいよ」
「うるさい黙れ。それで?」
弥堂の経験上、自身の予定を確認してくる相手は敵であることの方が多かったので警戒心を強める。
希咲はそんな彼に呆れた目を向けながら本題に入る。
「んーと……昨日もお願いしたことと似てるんだけどー。月曜さ、またちょっとだけあの子に優しくしてあげて……? おねがい」
「…………」
「だから、なんでそんなイヤそうな顏すんのよ! 大したことじゃないでしょっ!」
「……昨日もそうだったが何故もっと直接的な言い方をしない?」
「んーー……そこまではあたしが先に言っていいことじゃないから、かな?」
「昨日はあいつが俺に弁当を寄こすから邪険にするなということだったんだろう? ということは月曜にあいつがまた何かしてくるということか?」
「さぁ~……それはどうかなー? あたしわかんないなー?」
「おい」
「だから、そこまではあたしが言うことじゃないの」
「どこまでが何なのか、その基準がわからん」
「ぷぷっ、でしょうねー。特にあんたは絶対わかんないわ。うける」
唇を手で隠しながら悪戯げな目で笑う彼女に胡乱な眼を返す。
『大したことじゃない』と彼女は謂ったが、弥堂としては一つ目の願いよりもこちらの方がはるかに億劫になるような用件だと感じた。
なので、無駄な抵抗を続ける。
「……それを俺に伝えたら、逆に休むかもしれんとは考えなかったのか?」
「ん? あーー……確かにそれは考えなかったわ。でもだいじょぶでしょ?」
「何故だ」
「いつだったか愛苗が言ってた気がするんだけど、あんたってハチャメチャなことばっかするけど、意外とガッコは休まないでちゃんと来てるって。だからわざわざ休んだりしないかなってさ」
「……気がしただけなら気のせいかもしれんぞ。お前が見た水無瀬はもしかしたら妄想か幻覚の類だったという可能性はないか?」
「あるか! んなわけねーだろ。あんたね、みっともない抵抗の仕方すんじゃないわよ」
「抵抗しているのがわかっているのなら、面倒なことを頼むのはやめてくれないか」
「いいじゃん、こんくらい。やってよ」
「……雑にゴリ押すな」
その雑さがまるで気安さのようで不快だと、弥堂は考えた。
「……それで? これは依頼か? 取り引きか?」
「またそれー? お願いだっつってんじゃん」
「そうか。で? 俺がそれを受けたくなるような理由は用意してないのか?」
「なにそれ、うざ。そんなのなくたっていいじゃん。クラスの女子のちょっとしたお願いでしょ。いいじゃん、やってよー。ねぇー」
「やめろ」
恐らくふざけているのだろう。
悪戯げな声音で「ねーねー」と言いながら制服の袖を掴んで振り回してくる彼女の手を、弥堂は鬱陶しそうに振り払う。
すると彼女は「あん」と呻きを漏らし、手持無沙汰になった手をワキワキとさせながらこちらへ向けてくる。
「じゃれつくな。鬱陶しい」
「なによ。こんくらいでフキゲンになんないでよ。ちっさ」
「あのな……、相手を選んでやれ。こんなことをしても俺は勘違いをして言うことを聞いたりしないぞ」
「ん? かんちがい? どゆこと?」
「おまえ……」
惚けているわけではなく、本当に何を言われているのかピンときていない様子の彼女に呆気にとられる。
「あによ、そのアホ顏。てか、あんた意外と顔芸豊富ね。ちょっとおもろい」
「……芸じゃない。少々呆気にとられて呆れただけだ」
「なんで呆れられなきゃいけないわけ? イミわかんないっ」
「…………」
まさか無自覚なのか、無意識なのか、それとも本質的に気安い性質の人間なだけなのか。
確かめてみるかと弥堂は無言で彼女の手へ自身の手を伸ばした。
「ん?」
彼女の手は特に抵抗もなくとることが出来てしまった。
その後にどうするのかを特に考えていなかったので、何をされているのかわかっていない様子の彼女の目線の高さまで握った手を持っていってやる。
そして、やはりその後のことを何も決めていなかった為に特にすることがないので、なんとなく希咲の眼前で少しひんやりとした肌が手触り良く感じる彼女の手をニギニギとしてやる。
その様子をボーっと見つめていた希咲は数秒してからハッとした。
「なっ、なななななななにしてんのよ⁉」
ガッと弥堂の手を乱暴に振り払いながら我にかえった彼女は眉を吊り上げた。
「すんごく当たり前みたいに触ってくるから反応遅れたじゃない! どうしてくれんのよ!」
「と、言われてもな」
「なんなの⁉ 口で言い籠められそうだったからってセクハラでやり返す気⁉ サイテーっ!」
「そんなつもりはない」
「なんですぐえっちなことしてくんの⁉ マジでやめてよ!」
「えっちって……手を握っただけだろうが。小学生か」
「はぁ⁉ なにそれ、バカにしてんの! あんたの方がガキじゃない! 女の子に勝手に触っちゃダメって子供じゃなきゃフツーわかるでしょ!」
「男に手を握られるのは嫌なのか?」
「当たり前でしょっ! カレシでもないのにいいわけないじゃん!」
「そういうものなのか」
「そうよ! 昨日も言ったじゃん! ばかっ!」
「そうか……」
この様子を見る限り、特に男に対して気安い性質の女というわけでもないようだが、『自分から触るのはOKで、触られるのはNG』というその情緒なのか機微なのか、曖昧に過ぎる彼女のルールが弥堂には大変理解し難く事実を飲み込むのに苦しみ眉を寄せる。
すると――
「……なに難解そうな顏してんの……? そんな難しいこと言ってないでしょ? なんか逆に心配になってきたんだけど……、あんただいじょぶ……?」
「……うるさい。馬鹿にするなこのガキが」
「なによそれっ! 心配してあげたんじゃん!」
「黙れ。頼んでなどいない」
「やっぱあんたの方がガキ!」
恐らく言葉どおり、彼女の優しさや気遣いのようなものからの心配なのだろう。
それは弥堂にもわかった。
だが、何故か心の淵から『このガキ、ナメやがって……っ!』という謎の敵愾心や反骨心が湧き上がってきて、彼女からの施しのような心配を受け入れることは出来なかったのだ。
弥堂は自分でもよくわからないその感情を持て余しながら、プリプリと怒る希咲の顏をジッと視る。
「なによ! そんな難しいこと頼んでないでしょ! あんたこんなカンタンなことも出来ないわけ⁉」
「……出来ない、だと……?」
「いい歳してこんなことも出来ないもんだから、フキゲンなフリして誤魔化してんでしょ!」
「ふざけるな」
「ふざけてんのはあんたじゃん! そうやってヘンなことしてゴマカして逃げてんじゃん!」
「逃げてなどいない」
「逃げてんじゃん! ぷーーっ、やだやだ、びとーくんだっさーい。なさけないねー?」
「おまえ……ナメるなよ……?」
「じゃあ、やってみせなさいよ! 出来るんならいいでしょ?」
「いいだろう」
「……へ?」
決着のつかない口喧嘩、そのつもりで最早勢いで彼を詰っていた希咲は、弥堂からまさかの承諾の返事が出てポカーンと口を開ける。
「週明けに水無瀬を甘やかせばいいんだろう。その程度造作もない」
「えっとー……あの、いいの……?」
「あ? お前がやれって言ったんだろうが。不服なのか?」
「いや……そういうわけじゃないんだけど……」
「永続的にそうしろと言われれば絶対に断るが、一日くらいなら構わんだろう」
「そう、ですか……その、はい……でも、急になんで……?」
「……気に食わんのか?」
「いえっ、そんな、まさか……」
「こんなもの実にイージーな仕事だ。目にモノみせてくれる」
「はい、目にモノ、みます……」
「旅行から帰ってきたら、すっかりと俺に甘やかされた水無瀬を見て後悔するがいい」
「わ、わーーっ、すっごぉーい! びとーくんカッコいーいぃーーっ!」
「バカにしてんのかテメー」
「なんで怒んのっ⁉」
煽ればノってくるようなタイプには見えなかったため、何故彼が突然やる気を出し始めたのかは希咲には皆目見当がつかなかった。
しかし、それを深く尋ねて冷静になられても困るので、とりあえず彼に合わせて適宜煽ててみせたりもしたが、何故か彼の反発心は増すばかりだ。
彼女自身、思春期の弟を持つ身の上であるが、この年頃の男の子の情緒は難しいと、弥堂へ向けた苦笑いにも似た愛想笑いの裏で溜息をつく。
「じゃ、じゃあ、お願い……ね……?」
「あぁ。思い知らせてくれる」
「はい、あの、思い、知ります……」
いつも無表情でテンションの低い彼が見たこともないほど熱くなっているようで、希咲は戸惑いつつも正気に返ってもらっても困るとビクビクと顔色を窺いながらおべっかを使う。
すると間もなくして弥堂がハッとなった。
「――っ⁉ 俺は……なにを……っ⁉」
「あ。気付いちゃった?」
「俺は、何故、承諾をした……?」
「や。わかんないけど。でも、まぁ、もういいじゃん」
「いいじゃんってお前…………そうだな、もういいか……」
理由は定かではないが余程ショックだったのか、メンタルお化けだと思っていた彼が疲れたように諦めた様子に希咲はまた心配になった。
「えっと……その、だいじょぶ……? よくわかんないけど、落ち込まないで?」
「うるさい……いや、いい。問題ない。ほっといてくれ……」
「……そ?」
何かと口の減らない男だとは昨日知ったばかりではあるが、その彼が口答えをする気力すらないような様子に見えて、七海ちゃんはお顔をふにゃっとさせた。
ほんの軽いちょっとしたお願いのつもりだったのだが、まさかそこまで精神的な負担を強いてしまうとは思ってもいなかった。
それはまるっきり見当違いなのだが、どうしてこうなったのかは彼女も彼もまだ知ることはない。
とりあえずどうにか彼の気分をアゲてあげなきゃと、希咲は思考と視線をキョロキョロとさせ、やがて何かを思いつく。
「あっ!」
「……あん?」
不審な眼を向ける弥堂を他所に希咲はいそいそと自身のスクールバッグを漁る。
数秒もかからずそこから取り出したのは、何の変哲もない安物のボールペンだ。
「はい、これ――」
と、弥堂にそのボールペンを差し出そうとして、寸前で止まる。
弥堂は反射的に眼を防御した。
「うーーん……」
肩透かしを食った形になる弥堂からの警戒心たっぷりの視線にはお構いなしに、何かを考えながら手慰みに細長い指を器用に使ってボールペンをクルっ、クルっ、と回す。
「……うん」
そしてすぐに解決に至ったのか、今度はいそいそと自身の羽織ったカーディガンの袖を捲る。
弥堂は胡乱な瞳で彼女の様子を見守った。
露わになった彼女の細い右の手首に巻かれていたのは腕時計――ではなく、各色揃った何本かのヘアゴムだった。
「何してんだお前?」
「んーー?」
弥堂の問いには応えず、唇に指をあてたまま何かを見繕うようにカラフルな自身の手首を眺め、やがてその中から二本のヘアゴムを抜き取る。
胡散臭いものを見るような弥堂の視線を浴びながら、黄色とピンクの二本のゴムを結び付け、そしてそれをボールペンに器用にクルクルと巻き付けると、最後はリボンのように結んで締めた。
それをあらためて弥堂へ差し出す。
「はいっ。これあげる」
「…………」
「あげるっ!」
「いや、あげるって……」
「んっ!」
「……わかったよ」
昨日の缶コーヒーを貰う貰わないの一幕から、抵抗してもきっと無駄なのだろうなと潔く諦め、それを受け取ろうと考える。
が、その前に。
「……で? それはなんだ?」
「ん? んーーと、そうねぇ……」
また唇に人差し指をあて――癖なのか――宙空から答えを見つけ出すように視線を遊ばせる彼女へ不審な眼を遣る。
「まさかそれが報酬のつもりか……?」
「んーーー? そうねー、それでもいいんだけど……それはやめとく」
「……やめる?」
「んとね、報酬とかお礼とかじゃなくって。全然別の意味で、それ、あげる」
「ますます意味がわからんのだが」
抵抗は諦めたものの、最低限相手の意図くらいは訊いておこうと試みた弥堂だったが、彼女からの返答がより理解から遠ざかるようなものだったため眉を寄せた。
弥堂の顰められた顔に気が付くと、希咲は楽し気に「ふふっ」と笑い、そして悪戯げに目を細める。
昨日と今日で幾度か見た彼女のその表情。
彼女の顏や仕草に『そろそろ見慣れたな』などと感想を抱く。
そう考えながら、宝石のような碧みがかったその丸い瞳を半ば隠すように狭められた瞼。その端の目尻の上で跳ねる整えられた曲線を描くまつ毛に魅入った。
「ふふーん。意味わかんない?」
「……わからんな」
「知りたい?」
「……そうだな」
「へー、そうなんだー」
捕らえた獲物を弄ぶ猫のように勿体つけながら、弥堂の目の前で手の中のボールペンをクルっ、クルっ、と回す。
しかし、その次の瞬間――
回したペンが戻ってきたと同時に握り込み、そのペン先を弥堂の眉間目掛けて突き立ててきた。
「――っ⁉」
反射的に腕を顔面に回しながらバックステップを踏んだ弥堂だったが、完全に想定外のことだったので、反応が遅れたことを自覚し覚悟した。
負傷を受け入れた弥堂であったが、覚悟していた衝撃も痛みもこないことを不審に思ってガードの中から彼女を窺う。
すると、希咲は何事もなかったかのように会話をしていた時と同じ姿勢でそこに立って居た。
顏の横に持ってきた手の人差し指をピコピコと、どこか楽し気な調子で動かすと、今度は指先をピシッと突き付けてくる。
「やーい、ビビってやんのー。びとーくんだっさーい」
クスクスと笑みを漏らしながら、実に楽しそうな表情を形作る。
「お前――……ペンはどうした?」
言葉の途中で彼女の手の中に先程まで在った物がなくなっていることに気が付き、「どういうつもりだ?」と問い質すつもりが、何故か全然別のことを問いかけてしまった。
「んっ」
その質問に彼女は明確な言葉は返さず、伸ばしていた指の向き先を弥堂の顏から少し下に下げて、短い発声と共に強調する。
それが指し示すのが自身の胸元であると気付き、弥堂は希咲から目を離さないようにしながら目線を落とす。
「――っ⁉」
そこに在ったのは先程まで希咲の手の中に在ったボールペンだった。
(バカな――)
信じられないと、愕然とする。
一瞬で虚をついてペン先を突き立ててきた。そう見せかけて全く気取らせずにボールペンを弥堂の制服の胸ポケットに忍ばせてしまう。
その身体スペックの高さや身体操作の器用さ。
それよりもむしろ、事ここに至っても未だ彼女に対して、警戒心や敵対心が希薄なままであった自分自身に、『信じられない』とそういった心持ちになる。
もしも彼女がその気であったのならば、胸ポケットに納まっているこのペンは今頃自身の目玉を貫通し眼窩に納まっていただろう。
よくよく思い出すまでもなく、つい昨日も彼女の強烈な蹴りを喰らって無様に伸されていたのだ。
これまで、一度敵対したその相手を野放しにしておいたことなどはなかった。
その相手と対面をして、碌に攻撃を警戒することもなく呑気に世間話をするようなこともなかった。
そして、今も、疑心や敵意は彼女よりも先に不甲斐ない自分へと向いた。
昨日も今日も、『自分は緩んでいる』と自覚し反省をしたばかりなのにこの体たらくだ。
明らかに敵意の瞬発力が以前よりも衰えている。
もしかしたら。
これは緩んでいるのはなく退化をしていて、それをもう止めることは出来ないのかもしれないと、弥堂は俄かに喪失感に囚われる。
敵を目の前にして。
「ぷぷっ。制服にリボンつけてるみたい。かわい」
その敵は、手際よく弥堂をやり込めてやったことへの喜びか、あまりに滑稽な弥堂の姿を見たことからの楽しさなのか、とにかく実に気分がよさそうだ。
「なんかー、意識高そうな人たちのパーティに来た、勘違いベンチャー社長みたい。おもろい」
(……こうも無様だと逆にどうでもよくなってくるな)
一周まわって投げやりな気分になった弥堂は、気楽な調子で希咲に問いかける。
「それで? これはなんの芸なんだ?」
「ふふふーん。どう? すごいっしょ?」
「そうだな、すごいな」
「ねぇねぇっ、ビビった? ビビったでしょ? ビビってたよねっ?」
「そうだな。キミさえその気なら眼球を抉られていたと肝が冷えた」
「……グロいこと言うなし。なによ。せっかくちょっと楽しかったのに、台無しっ」
おどけて笑っていたと思ったらすぐにプリプリと怒りだす。
感情の移り変わりとともに彼女の瞳の色が変化する。
笑顔の時も今も、その瞼は細められたままなのに、瞳の色が変わるだけではっきりと胡乱な瞳になる。
その感情表現の器用さも中々に凄いなと感心をする一方で、「台無し」と彼女が言ったとおり、多少の報復をしてやれたような気がして一定の満足感を得た。
すると、彼女の目線が動く。
その目は自分の唇に向けられたように視えた。
『こいつ唇の動きを読む特技まで持ってねえだろうな』と疑いながら、なるべく唇の動きが平坦なものになるように、平淡な声を心掛けて問いかける。
「興味本位で訊くんだが。これはどうやってやった?」
「ん?」
弥堂が自身の胸元を指差して問うと、希咲の目は今度は丸く開かれキョトンと首を傾げる。
「単純に俺に見えない程の速さでやったのか? それとも何か仕掛けでもあるのか?」
「えーー? 教えたげなーい」
「そうか。では、結局このペンはどういうつもりで寄こしたんだ?」
「それも教えたげなーいよー、だ」
前者に関しては『まぁ、そうだろうな』と納得出来たのだが、後者に関しては不審感を募らせ、悪戯げな彼女の顏に今度は弥堂が胡乱な眼を向ける。
「まぁ、いいじゃん。あんたペンの一本も持ってないんだろうから嬉しいでしょ?」
「……ペンくらい持ってる」
「教室に?」
「…………」
「おばか」
弥堂はスッと眼を逸らした。
「……だとしても、お前がそれをどうにかする筋合いはないだろう?」
「そうね。ないわね」
「まさか盗聴器でも――」
「――仕掛けるかぼけっ。フツーに百均で買ったやつだわ」
「じゃあ、何のつもりでこんな安物を寄こした」
「シツレーなヤツね。確かに安物だけどっ」
二人、半眼でしばし見つめ合う。
そして、希咲は嘆息しながら話し出す。
「そんなに気にしないでよ。安物で大した物じゃないんだから大した理由なんてないわ」
「そうか」
「それに、多分数日もすれば理由みたいなのはわかるかもしんないわよ?」
「どういうことだ? お前は明日からしばらく居ないのだろう?」
「さぁ? そこまでは教えたげないよーだ。でも……そうね。あんたニブすぎてマジでわかんないかもだから、宿題にしようかしら」
「宿題?」
眉を顰める弥堂に希咲は悪戯でも思いついた子供のような瞳を向ける。
「そ。宿題。あんたがちゃんとわかったか、答え合わせしたげる」
「……お前が帰ってくるのは一か月後とか言っていなかったか? 随分と引っ張るな」
「安心しなさい。そんなにかかんないから。でも、そのために――」
言いながら希咲は弥堂へと手を差し出す。
掌を上に向けて。
弥堂はその手よりも、楽し気に目を細めた彼女の顏を視ていた。
「んっ」
そう言って出し出された希咲の掌には目もくれず、弥堂は彼女の顔を視る。
「チッ」
そして、すぐに彼女の意図するところを察し、舌を打ってから淀みのない動きで上着の内ポケットに手を突っこむ。
希咲は彼の態度に怒るでもなく、満足気に数回頷きながら弥堂が懐を探るのを見守る。
「おらよ」
やがて弥堂は目的の物を取り出し、ぞんざいな態度のまま彼女の掌の上に乗せてやった。
鷹揚な態度でそれを受け取った希咲だったが、その手に握らされた物を見てギョッとする。
「んな――っ⁉」
今日も彼から手渡されたのは、くしゃくしゃに丸められた何枚かの一万円札だった。
それを見た希咲は硬直し、ぷるぷると震え出す。
そしてすぐに――
「お、か、ね、で、遊ぶな、って、言ってんだ――って、あわわわわっ⁉」
弥堂から渡された金を握り込んだまま奴の顔面に右ストレートをぶちこんでやろうとしたが、彼女の片手には余るようでポロポロと掌から丸まった紙幣が零れ落ちる。
仕方なく弥堂へのお仕置きを断念し、それらが地に落ちる前に空中で全てを回収するべく素早く手を伸ばす。
しぱぱぱぱぱっ――と、残像でも見えそうなほどの高速のパンチコンビネーションのように右手と左手を繰り出し、焦ったような口ぶりとは裏腹に、全く危なげなく全てを回収することに成功してみせた。
「ふう」と、事無きを得たと息を吐いていると、全く悪びれる様子のない非常識男が口を開く。
「強欲な女だ。金が欲しいなら最初からそう言えと言っただろうが」
「金なんて欲しくねーから何も言ってねーんだろうが! なんですぐにお金渡してくんの⁉ バカなんじゃないの⁉」
「金の催促じゃないのか?」
「女の子が手を出してくる、イコール、お金欲しがってるって、そんなわけねーだろ、ぼけっ!」
「じゃあ、その手はどういうつもりだ?」
「お前がどういうつもりだ!」
弥堂はさっさと話を先に進めようとするが、希咲としては軽はずみに金を渡してこられるのが余程腹に据えかねたようで、女子のプライドにかけて問い質してくる。
「てっきり金を毟るためにこのペンを寄こしたものだと思ったんだ」
「んなわけねーだろ!」
「俺としてはこれを貰う意図がわからなかったからな。むしろ納得したのだが」
「あんたね! あたしをなんだと思ってるわけ⁉」
「すぐに怒るうるさい女」
「うるさいとはなんだーーっ⁉ あんたが怒らしてんでしょうがっ!」
両手を振り上げて全身で怒りを表現しながらガーっと怒鳴る希咲に、弥堂は声には出さずに『お前ほんとにうるせえな……』と独り言ちる。
「だいたいペン一本で何万円もするわけないでしょ⁉」
「このペンは実はオマケなのだろうと思ってな」
「……は?」
「本体はペンに巻き付けたこの無駄にカラフルなゴムだろう?」
「ムダっつーな。てか、え? なに? どゆこと? てか、そのゴムも百均よ? イミわかんない」
弥堂の言わんとすることが不明瞭すぎて、一旦怒りを引っ込め首を傾げて聞き返す。
「これは、とある有識者に聞いたことなのだが――」
「なにが有識者よ。どうせあんたんとこの部長でしょ? 変態クラブの変態部長」
「おい貴様。俺の上司への侮辱は慎め。このペンをケツ穴にぶちこまれたいのか」
「なななななな――っ⁉ 女の子になんてこと言うのよ!」
あんまりにもあんまりな弥堂の発言に、希咲は反射的にお尻を抑えてザザザっと後退った。
その反応が弥堂からは過剰なもののように見えて、『これは効いている』と判断し、胸ポケットから彼女に貰ったボールペンを取り出しその先端を希咲へ向ける。
「やめろ! こっち向けんなっ!」
「ほう。随分と警戒するじゃないか。もしやお前、ケツ穴が弱点か?」
「バカじゃないの⁉」
知性も品性も僅かほども存在しない質問に、七海ちゃんはびっくり仰天しておさげがぴゃーっと跳ね上がった。
「ドぎついセクハラかましてくんじゃないわよ! あんまりにも下品すぎてセクハラされてんの気付かなかったじゃない! どうしてくれんのよ!」
「別にセクハラをしているつもりはないのだがな」
「うるさい! こんな変態すぎる話には付き合わないから! さっさと進めて!」
「うむ。とある有識者によるとだな、どんなに原価の安い商品でも流通の過程で一度でも若い女が使用すれば、その末端価格は常識では考えられないような値段に跳ね上がるそうだ。特に、それが衣類であれば殊更に高額になるらしい」
「…………あんた……マジで……っ! マジで、どんだけあたしを、バカに……っ!」
結局、元の話題も明確なセクハラであったことが発覚し、希咲は処理しきれないほどの怒りにワナワナと身を震わせる。
感情のままに喚き散らしたい衝動に駆られるが、希咲は胸に手をあて軽く深呼吸をして気を落ち着かせる。
そしてスッと表情を落とした。
「弥堂君……? 昨日あれだけ言ったのに、まだわかっていないようですね……?」
「待て、わかった、俺が悪かった」
ななみ先生(27歳)の気配を感じ取った弥堂は即座に白旗をあげた。
ななみ先生はそんなデキの悪い生徒を無言でジッと見る。
時計の秒針の作動音を何度か幻聴させる間を置いて、「ふん、まぁいいわ」と彼女も鉾をおさめた。
「あんた、軽率にお金で済まそうとしてくんのやめなさいよ。なんか、あたしまですっごいイカガワシイことしてる気分になるから」
「あぁ。あれはそう誤解をしてしまったという話だ。決してキミが『そう』だと思っているというわけでもなければ、『そう』だと断じているわけでもない」
「……ホントに? あんたすぐにあたしのこと、そういうえっちなお店の女の子みたいに扱おうとすんじゃん。マジでシツレーなんだけど」
「神に誓おう。キミはえっちなサービススタッフでもないし、えっちな流通業者でもない。俺はキミにえっちなサービスを要求していない」
「……なんだろ。なに言われてもムカつくわ。あんたマジでなんなの」
「それはりふ――いや、善処しよう」
「あと、もういっこも謝って!」
「もう一個? なんのことだ」
「なんのって……ペンを、その、刺すって……」
「なんの話だ」
「だからっ! 言ったじゃん! ペンをあたしのお尻に――って! なんですぐ言わせようとすんの⁉ 言わないわよ⁉」
「なに一人で騒いでんだ」
「うっさい! もういい!」
そう言って希咲は話を打ち切ってプイっとそっぽを向いてしまったが、『それならそれで都合がいい』と弥堂は黙って彼女の横顔を眺めて機会を窺う。
「では、話は以上だな? 帰るぞ」
「以上なわけねーだろ。ふざけんな」
機を見てそう切り出してみたが全くを以て好機ではなかったようだ。むしろ彼女の機嫌はより悪くなった。
「本題に入ってもないでしょ? セクハラするだけして自分だけ満足して帰ろうとするとかなんなの? サイテーすぎ」
「じゃあ、さっさとしろ。お前の話は長いんだ」
「あんたが長くさせてるんでしょ!」
それは心外だと弥堂は尚も反論をしたくなるが、これ以上の長話は御免なので寸でで唇を結ぶ。
相手は所詮子供なのだ。年長者である自分が退くしかないと、より人間性の出来ている自分が堪える他ないと呑み込んだ。
「んっ」
そんなことを考えているうちに希咲がまた手を出してくる。
弥堂はその手を無言で視詰め――
「お金じゃないからっ」
何かを言ったり、したりする前に希咲から釘を刺された。
強気に斜めに傾く、綺麗に整えられた眉毛を無言でジッと視る。
「スマホ」
「あ?」
「スマホだして」
「何故だ」
「いいからスマホかしてっ」
「自分のがあるだろ」
「あんたのスマホ見せろって言ってんのっ」
「見せるわけねーだろ。アホか」
「いいからスマホ渡しなさいよ!」
両手を振り上げて怒りを示唆する希咲にガーっと怒鳴られる。
弥堂は無言で、現代を生きる日本人としての時代に合ったマナーやリテラシーが備わっていないと思われる女に軽蔑の眼差しを向けた。
「あによ、その目は⁉ はやくスマホちょうだい!」
「断る」
「なんでよ! どうせ他人に見せられないようなやましいことがあるんでしょ!」
「むしろスマホの中にやましいことがない人間など一人も存在しないだろう」
「あんた基準で決めつけんな!」
「じゃあ、お前のスマホ見せてみろ。寄こせ」
「はぁ? 女の子のスマホ見ようとかマジでキモいんだけど! バカなんじゃないの? 変態っ!」
「お前、それは理不尽だと自分で思わんのか?」
「うるさーーいっ! いいから見せなさいよっ!」
ダンダンっと地面を靴底を叩きつけて駄々をこね始めた少女に、呆れを抱きつつ嘆息する。
「だいたい、何故俺のスマホなど見ようとする? お前が見て楽しめるようなものは何も入ってないぞ」
「いいから貸しなさいよ。なんでそんなに嫌がるわけ?」
「嫌がらない奴などいるわけないだろうが」
「どうせえっちな動画とかいっぱい入ってんでしょ」
「そうだ。お前のようなガキがうっかり視聴したら一発で白目を剥くような、筆舌に尽くしがたいほどに官能的で猥褻なものが多く入っている。やめておけ」
「……ウソね。確かめたげるから寄こしなさい」
「……どうしてそう思う? 本当だったらどうする? こんな往来で白目を剥くだけではなく口から泡を吹きながらベロを突き出すようになるぞ。いいのか?」
「そんな変顔するわけないでしょ! 見ただけで卒倒するとか、そんなもん最早危険物じゃないっ!」
「ガキには刺激が強いからな」
「はぁ~? べっ、べつにー? あたし子供じゃないから、そういう動画くらい全然ヘイキだしー? 第一、もしあっても再生しなきゃいいだけだし? てか、再生したとしても別にだいじょぶだし?」
「そうか」
「そうよ、ナメんじゃないわよ」
ドモりながら早口で何やら捲し立ててくる希咲のどんなプライドに抵触したのかはわからなかったが、弥堂は年頃の少女の難しさを感じた。
「――写真っ」
「あ?」
「『あ?』っつーな。だから写真よ写真っ。あたしの写真の画像っ!」
「それがなんだ」
「なんだじゃねーだろ! あれ消すからスマホかして!」
「あぁ。あとで消しておく」
「ウソつくな! 昨日も消してって言ったのに何で消してないのよ! うそつきうそつきうそつき……っ!」
「うるせえな。忘れてたんだ。今日はやっとく」
「信用できるかボケーっ! あんた記憶力いいんでしょ? 何が忘れただバカっ!」
「お前にそう言われたということは覚えている。ただ、それを忘れずに実行をするために覚えておくということを忘れただけだ」
「いみわかんないこと言って誤魔化すなーーーっ! こうなったら、あたしにも考えがあるんだから!」
「……なんだと?」
強気で挑戦的な視線を突き刺してくる希咲に、弥堂も警戒感を強めた。
「先生に言うからっ!」
「……なんだと?」
強めたが、先生に言いつけると豪語するクラスメイトの女子の主張に即座に警戒心は霧散した。
「せっかくひとが大ごとになんないようにしてあげてんのにさ! 今朝みたいに写真使って言うこと聞かせようとしてくるとか、そんなの許さないんだから!」
「そうか」
「あんたみたいなタイプ相手に泣き寝入りなんかしたら、どうせ要求がどんどんエスカレートしてくるのなんて、ちゃんとわかってんだからねっ! さ、さっきだって……」
「さっき?」
「おっ、おおおお、お尻とか――っ! 最終的にそういうこと要求してくるんでしょ⁉ このクソへんたいっ! 絶対にさせないんだから!」
「何を言ってるんだお前は?」
顔を青褪めさせながら紅潮させるという器用な真似をしてくる希咲だが、その言葉選びには器用さは発揮されず弥堂には意味が通じなかった。
「だいたいっ! あんたのしてることって犯罪だからねっ! キョーハク!」
「それはどうかな」
「どうかなもクソもあるか! あたしが言ったら警察沙汰にだってなっちゃうわよ! いいの⁉」
「ふん、下手な脅迫だな。だが、お前こそいいのか?」
「はぁ⁉」
法に触れることをしている自覚のない野蛮な男はここに至ってもまったく悪びれる様子を見せず、その態度も一貫して開き直ったものだ。
そんな男には絶対に負けないと、希咲は強気に眦をあげて徹底抗戦の構えを見せる。
「教師でも警察でも弁護士でも何でも連れてくればいい。だが、その場合連中に見られてしまうぞ。お前の無駄にカラフルで装飾過多なパンツが証拠品としてな」
「ゔっ――⁉ そ、それは……」
「奴らも不思議に思うだろうな。これは本来人目に触れる物ではないはずなのに、何故こんなにも飾り立てるのかと。そして結論はこうなるだろう。『このパンツは他人に見せるためにこのようにデザインされているのだ』と。見せるためのパンツを見たところで何も問題はない。つまり、俺は無実だ」
「んなわけあるか! 頭おかしいんじゃないの⁉」
「そうか。お前はそう思うのか。奴らはどう思うだろうな? 教師、警官、検視官、検察官、裁判官に弁護士……どれだけの人間が関わることになるのかは知らんが、その答えが出るまでに一体何人の男がお前のあられもない姿をその目に映すのだろうな?」
「あんたマジで性格わるすぎっ!」
「あぁ。そうか。そういえば見せるためのパンツだったな。ならば問題ないか。だが、そうであるのならやはり俺の言った説が正しかったということになるな」
「なんないわよ! あたしが見せたがってるみたいに言うな!」
強気に挑みかかったが、屁理屈スキルがカンストしている疑いのある男の前に早くも劣勢だ。
「見せたくないのであれば、立件などやめておいたらどうだ? 確かにお前が勝つ可能性もあるだろう。しかし、勝ったところでお前は何を得るんだ? 金が欲しいのか?」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「だったら、尚更おすすめはせんがな。勝率が100%あるわけでもない勝負のために、不特定多数の男の前に下着姿を晒すのか? 下着姿を見られたことを訴えたのに? 実に本末転倒で割に合わないんじゃないのか?」
「なっ……なっ、な、なんなの、あんた…………」
警察沙汰を恐れないどころか、むしろこの程度のことは慣れたものとばかりに、逆に脅迫を重ねてくる無法の谷の民に希咲はドン引きした。
「それに。これは似たようなことを昨日も言ったかもしれんが。事件になどして騒ぎにでもなれば、事は多くの人間の知る所にもなるだろう。それはお前の周囲の人間も例外でもない。そうなればお前はよく知らん男たちにだけではなく、よく見知った男たちにも下着姿を見られ辱められ、そして女たちはお前を慰め気遣うフリをしながら心の底ではお前を見下し蔑むことだろう。それはお前も望むところではないだろう?」
「ぐぬぬぬぬぬ……っ!」
悔しそうに歯噛みする希咲だったがすぐに何かに気付きハッとなる。
「いや、そんなことになるわけないでしょ。大袈裟なこと言って怖がらせて騙そうとするとか完全に詐欺師の手口じゃんか。騙されそうになった!」
「ほう。そうか?」
「そうよ! 大体さ、仮に事件になってみんなに知られちゃったとしてもさ。写真撮られて脅されたって、そういうことがあったってことはバレちゃっても、写真自体みんなに見られるとかそんなことあるわけないじゃん! バカじゃないの!」
「そうだな。そうかもな」
「それに! 先生とかお巡りさんに言う時も女の人に言えばいいし、関わる人全員女性でお願いしますって言えばいいじゃん! やった、勝った! どうよ⁉」
「そうだな。俺もお前の言うとおりだと思うぞ」
「は?」
陰湿に自分を追い詰めるようなことを言っていた割には、こちらの反論に対してまるで他人事のようにあっさりと聞き入れてみせる弥堂に、希咲は逆に不安になり懐疑的な瞳になる。
「じゃ、じゃあ……スマホかしてくれる……?」
「ふむ……」
ここまでの関わりから、『何か罠でもあるのでは?』と警戒しながらおずおずと手を伸ばしてくる希咲に対して、弥堂はYESともNOとも答えぬまま顎に手を当て思案する。
別にここで希咲との口喧嘩に勝ったところで何かを得られるわけでもない。そして負けても特に何も失わない。
目先の勝敗よりも今後の彼女との関わりを考える。
色々と面倒な女だが、使える女であるのは間違いない。出来れば便利に利用をしたい。
その為には、別にこんな写真画像などなくても、彼女とは取引の上で仕事を手伝わせることになっている。
そして、希咲との関係とは別の事柄に関するデータなども大抵は消去済みで特に保存しているものもない。元々、不注意でスマホを紛失したり盗難されたりしても問題のないようにしている。
ならば、スマホごとき見られても構わないだろうと結論に至った。
「いいだろう」
彼女の掌に懐から取り出した見られても問題の少ない方のスマホを載せてやる。
「……なんで素直なの……? あやしいんだけど……」
要求に応えてやっても尚も懐疑的な目で希咲に見られるが、他人の言うことを聞いても聞かなくても、何をしても疑われることには弥堂は慣れていたのでその視線を無視した。
「んっ」
「……?」
そうしていると間もなく彼女から渡したばかりのスマホを突き返される。
「なんだ? もういいのか?」
「いいわけないでしょ。まだ見てないし」
「じゃあ、なんだ」
「ロック」
「あ?」
「ロック外してよ。あんたがやってくんなきゃ中見れないでしょ」
「……スマホを渡すとは言ったが中を見せるとは言っていない」
「はぁー? あんたまたそんな――」
「――いや、やっぱり冗談だ。貸せ。やってやる」
「……ねぇ。あんた今面倒だからって言うこと変えたでしょ……?」
「……そんなことはない」
彼女の胡乱な瞳からの視線が頬に刺さるのを無視しながら、手早く暗唱番号を打ち込みロックを解除したスマホを再び彼女へ渡してやる。
「おらよ」
「ちょっと! 投げんじゃないわよ! 自分のスマホでしょ」
「いいから早くしろ」
「なんでエラそうなの? あんたこれからあたしの写真で悪いことしてないかチェックされるんだからね?」
「わかった。さっさと済ませろ」
「もうっ、むかつくっ」
ぶちぶち文句を言いながら他人のスマホを弄り回す女へうんざりとした心持ちになる。
今しがたスマホのロックを解除した時に時計が見えたのだが、思っていたよりもかなり時間を消費している。
先程、彼女のことを『使える女』と評したが、この時間的コストの重いところは頂けないと、心中で希咲 七海の評価を4段階ほど下方修正した。
そして審問が始まる。
「……ねぇ?」
「……なんだ?」
「あんたウソついたでしょ?」
「どの嘘のことだ?」
「複数も心当たるな! クズ男か!」
「うるさい黙れ。なんのことだ」
「待ち受けっ」
「あ?」
「待ち受け、あたしの写真じゃないじゃん!」
「なんでお前の写真を待ち受けにするんだ?」
「あんたが言ったんじゃん! うそつきっ!」
「わかった。後でやっておけばいいんだろ?」
「やるなっつってんでしょ! バカなの⁉ えっちな写真でキョーハクだけでもクズなのに、ウソまで吐いてダマすとかなんなの? あんたサイテーすぎっ、死ねば?」
「わかった。後で死んでおく」
「うるさいっ! 減らず口ゆーな!」
「…………」
「あとさ。さっき色々ヘリクツ捏ねてたくせにやけにあっさり負けを認めたわよね? あれなんなの? 特に意味もなくテキトーなこと言ってただけってこと? あんたさ、あたしをイジメて喜んでるだけなんじゃないでしょうね? ガチで変態なの? キモいんだけど」
「…………」
彼女からのお説教のようなものは段々とエスカレートしていくが、弥堂は過去に異端審問を受けた時のことを思い出しながら聞き流す。
死刑判決が最初から決まっている審問に比べればこの程度のことどうということもない。
耳から入ってくる耳障りな女の声を言語として認識せず、ただの音として脳内で処理していく。
すると、代わりに周囲の者たちの話し声が耳から入ってきた。
「おい、希咲すげぇな。あの弥堂にキレちらかしてるぞ」
「あんだけ言われても大人しくしてるってことは、やっぱあいつら付き合ってんのかな?」
「だろうな。じゃなきゃとっくに報復してるだろ」
「女だからって容赦する奴じゃねえもんな」
「さすがの『風紀の狂犬』も彼女には勝てないということか……なんだろう、ちょっと失望してる自分がいる」
「それな。ちょっとわかるわ」
「でもよ。紅月とはどうなってんだ?」
「そんなの普通に二股に決まってんだろ」
「そんなの当たり前だよな。ギャルだし」
「つかよ。『あたしの写真待ち受けにしてっ』とか、意外とカワイイこと言うのな、希咲も」
「えー? 男子ってそういうの喜ぶの? 重くない? 確かにカワイイけどちょっとメンヘラっぽくない?」
「それなー? ギャルって結構メンヘラ多いよねー?」
「え? そうなんか?」
「そうよー? 見たまんまの陽キャばっかじゃないわよー」
「マジかよ……失望した。なんだろう。ギャルにはアグレッシブなビッチでいて欲しいと思う自分がいる」
「それは童貞の妄想よ。ファッションとして好きだからギャルしてるだけって子もいるからねー」
「そうそう。それに、意外と普段一人でばっか居て大人しい子とか。そういう子が実は外では遊びまくってるとかも、ありがちよねー」
「やめてくれよ! 色々想像して夢が壊れちまうだろ!」
「それよりよ、怖いよな。こんなとこでスマホチェックとか」
「あぁ、それな。てか、マジでいるんだな。スマホチェックする女」
「えー? フツーにするでしょ?」
「しないわよ」
「逆に自分の見られたら困るしねー」
「でもでもっ。希咲さんのあれはパフォーマンスかもよ?」
「ん? パフォーマンス?」
「あるかもー。あーやって人目につくとこでわざと目立って『この男は自分の』ってアピールして他の女を牽制してんの」
「え? なにそれ?」
「あー。私もたまにやるわー」
「やるやるー」
「浮気防止の努力よね」
「マジかよ……女子こえぇ……」
特に聞く価値のない話しか聞こえてこないので意識から断ち切る。
以前の出来事に比べればどうということもない。
ない、はずだが、何故かこちらの方がより屈辱的なような気がした。
気がしただけなら気のせいだろうと首を動かして上を見る。
以前に過ごしていた場所に比べれば、幾分か狭く感じる空。
それは恐らくただの錯覚で、きっとここいらの方が人も多く建物も多いためにそう感じるだけだろう。
見上げる空はこの世界のどこまでも続いていて、人間など所詮地を這う獣の一種に過ぎないのだと見下ろしている。
空は『世界』を覆う檻だ。
己という曖昧な自我は肉体という牢獄に閉じ込められていて、眼窩の窓から外の『世界』を覗くことが出来る。
仮にその牢獄の外へ飛び出してみたとしても、こうして『世界』に囚われたままだ。
生まれたことは罪で、死んでいないことは悪徳で、この身もこの自分もただの矮小な罪人に過ぎない。
ここでも、あそこでも。
どこで見上げても同じ空だ。
それは変わらず、ずっと変わらない。
どこまでも続く果てしない空に閉じ込められている気がしていた。
「――ちょっと! ちゃんと聞きなさいよ! あんたが悪いんだからねっ!」
――ほら。彼女もそう言っている。
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