1章15 『舞い降りた幻想』
「あんたなんかアプリ少なくない?」
「……さぁな。生憎他人のスマホなど見たことがないのでな。比較対象がないから多いか少ないかは判断のしようがないな。悪いな。他人のスマホの中身を見ようなどという意識の高い発想が出来なくて」
「……あんたスネてんの?」
「うるさい黙れ」
明確な目的があって弥堂のスマホを取り上げたはずの希咲だったが、何故かそれとは関係のないダメ出しをチョコチョコとしてきた。
そのため、弥堂の気分はささくれだったものになっていた。
「関係のないものまで弄るな。調子にのるなよ」
「あによ。こんくらいいいじゃん」
「さっさとしろ」
「はいはい。今ギャラリー開くわよ…………あ、一緒に見る?」
「なんでだよ。いいから早く済ませろ」
「そうは言うけどさー。男子のギャラリー開くのって結構勇気いるのよ? どんなエゲツないモン見せられるかわかったもんじゃないじゃん?」
「何を想像しているのか知らんが、そういう経験でもあるのか?」
「ないけど」
「じゃあ、それはただの偏見だ」
「しかもあんたの場合、違った意味でヤバイの出てきそうじゃん? 頭おかしいことばっかしてるし」
「偏見だ」
「そういう経験あるんだけど?」
「……うるさい黙れ」
「いぇーい、認めてやんのー」
「おい、いい加減に――」
「――はーい、アプリ開きまーす」
「…………」
そうコールして他人のスマホを操作する彼女は少し楽し気に見えた。
しかし、そんな希咲の眉はすぐに顰められる。
「なにこれ。画像フォルダの中にあたしの写真しかないんだけど」
「それしかないからな」
「あんた写真とかなんも撮らないの?」
「使ったことないな」
「スクショとかは?」
「……?」
「なんでわかんないんだよ。スクリーンショット! 画面の保存みたいなの!」
「自分で記憶しておけるものを他に残す意味があるのか」
「……あんたのそれあんま役に立ってないような気がするんだけど」
「役に立っているかどうかは俺が決める。てゆーか関係ねぇだろ。さっさとしろ」
「ぷっ。『てゆーか』って言った。なんかうける」
「もういいだろ。返せ」
「あん。待ってよまだ――って、さわんなボケっ!」
スマホを取り上げようとしたらガシガシと爪先を踏まれる。
地味に痛かったので思わず弥堂は手を引っ込めた。
「『てゆーか』。あたしの写真だけってのも逆になんか……」
「なんだ」
「うーん…………。や、他の子のこういう写真もあったらそれはそれでヤバイし通報するけど。フォルダにあたしの写真しかないってのは……そうね、はっきり言うとキモい」
「…………」
「うーん」と唸って画面とにらめっこする希咲の隙をついて、弥堂は無言で画面に映っている画像のサムネイルをタップした。
「ぎゃーーーーーっ⁉」
ふいに画面いっぱいに自分自身のパンチラ画像が表示され、希咲は悲鳴をあげる。
「あんた何してくれ――って! なに見てんだ変態っ!」
「さっき『一緒に見るか?』と言ってなかったか?」
「一緒に写真見ようってイミじゃないわよっ!」
「そうか。それは悪かったな」
「あんたわかっててやってるでしょ! なんでこんな下らないイヤガラセするわけ⁉」
「よかれと思ってのことだ。縮小されたアイコンじゃ別の写真と勘違いする恐れがあると思ってな。きちんと両者立ち合いの元で現物を確認した上で消去した方が間違いがないと、お前のためを思ってこうしたんだ。どうだ? 俺は優しいだろう?」
「やらしいっ! なんですぐセクハラすんの!」
「それは見解の違いだ」
「うそつけっ! 何が悲しくてあんたと一緒にじっくりと自分のパンチラ写真見なきゃなんないのよ! あんたセクハラに余念なさすぎっ!」
「失礼なことを言うな」
「シツレーはあんただ! なんなの? 3分に1回セクハラしないと死んじゃうわけ?」
「そんな奇っ怪な生き物がいるわけあるか」
「わかってるわよ! ばかっ! もうっ!」
少し前の楽し気に自分を揶揄ってくる姿とは打って変わって、ダンっと地面を踏み鳴らして怒りを示唆する彼女に弥堂は何故か一定の満足感を得た。
「もういい! もう消すからね⁉」
「だから早くしろと言っているだろう」
「うっさい! なんで口答えすんの⁉ ゴメンなさいでしょ⁉」
「ごめんなさい」
「むかつくむかつくむかつくっ! しねっ!」
「後で死んでおく。早く消せ」
「うっさい!」
プリプリと怒りながら彼女は手の中のスマホに目線を落とし指を動かす。
「消したっ!」
高らかにあげた声とともにスマホの画面を突き付けて、空になった画像一覧を見せてくる。
「うむ。ではもう用は済んだな」
そう言って弥堂は希咲の右手が掴むスマホに手を伸ばす。
しかし、彼女の手がスイッと避けて、弥堂の手はスカッと空ぶった。
無言でスマホを操作し続けている希咲の横顔を弥堂も無言で数秒見つめてから、もう一度彼女の持つスマホへ手を伸ばす。
すると今度はその手をぺちんと叩き落とされた。
弥堂は撃墜された自身の手の甲を数秒見つめ、それからようやく彼女へ声をかける。
「おい」
「…………」
「おい、希咲」
「うるさい。大人しくしてて」
「おい……」
何度か弥堂に声をかけられても、希咲は構わず無言でスマホを弄り続ける。
彼女にこちらを揶揄うような巫山戯た様子はなく、その表情は真剣なものだ。
「お前。用は済んだだろ。関係のないものまで漁るのは悪趣味じゃないか?」
「……済んでない」
「……お前、いい加減に――」
「――名前」
「あ?」
「画像ファイルの名前」
「……何を言っている?」
彼女の視線はスマホに固定されたままで、怪訝そうに眉を動かした弥堂には目もくれない。
「さっきの画像。サムネの下にファイル名出てたでしょ? 数字と英字がいっぱい並んだやつ」
「さむ……? なんだと?」
「……とぼけてんの? スマホのカメラで撮ったやつって数字だけじゃん? あんなに桁多くもないし」
「ちょっと何をいってるのかわからんな」
「下手な言い訳すんな。あれってこのカメラで撮ったやつじゃないってことでしょ? てことは他から持ってきたファイルってことよね? edgeのチャットとかに貼られた画像落とした時はやたら桁の大きい数字になるし、他のメッセアプリかなって思ったけどそれらしいアプリ入ってないし、どこだろ……元の画像消さないといくらでも増やせるからね。こんなんでJKを騙せると思うなよ?」
「……? ……?」
「まだしらばっくれる気? 別にいいけど。このままじゃ全部のアプリあたしに開けられるわよ? いいの?」
「……? ……? ……?」
「……あんた、もしかしてフツーにわかってない?」
「……わかってる」
「おじいちゃんか」
「うるさい。わかってるっつってんだろ」
「……うんうん、そうね。わかってるね」
希咲は出来る限りの優しい声でそう言ってやった。
「お前バカに――」
「――あっ! もしかしてメールかな。これ使ってる子あんま居ないけど」
「…………」
「……急に黙ったわね? 正解でしょ?」
「……そう思うのなら中を見てみればいい」
「そうするー……って、あれ? 受信箱0だ。なんもない」
「ふん。どうした? 随分と自信があったようだが、今どんな気分だ? マヌケめ」
「あれーーおっかしいなーーって、ほらあった」
「――なん、だと……っ⁉」
「……なにこれ? 変なアドレスからいっぱいメールきてるみたいだけど……」
「お前……何をした……っ⁉」
「や。なにお目めデッカくしてびっくりしてんのよ。そのまんま残ってんじゃん」
「バカな。全て削除したはずだ……っ!」
「や。だから、ゴミ箱にそのまんま残ってんじゃん、って言ってんだけど……?」
「――っ⁉」
「……んと。メールって受信トレイにあるやつ消したらゴミ箱にいくって知ってる? メーラーにもよると思うけど、大抵はゴミ箱の中もっかい削除するか、一定期間経たないと完全に消えないんだけど……?」
「――っ⁉ ――っ⁉」
「あ、もういいわ。わかったわ」
「……なにがわかったというんだ。貴様、ナメているだろ?」
「あんたが意外と底が浅いってことがわかった」
「うるさい黙れ」
「すんごい自信あったみたいだけどさ、今どんな気持ちー? ――って、あ、こらっ! やめろ、顏さわんなっ!」
「ぷぷぷー」と嘲笑う希咲の顔面を腹いせに鷲掴みにしてやろうとしたら、その手を掴まれて爪を立てられ、挙句に足をガシガシと蹴られた。
プロフェッショナルな風紀委員は、プロフェッショナルなJKにより窮地に追い込まれようとしていた。
「どうやら年貢の納め時のようね」
「…………」
得意げに顎を上げる希咲に弥堂は返す言葉がない。
「てか、もう諦めなさいよ。このメール全部開けちゃうわよ?」
「チッ」
業腹ではあるが彼女の言うとおりであると脳裡で計算する。
事ここに至っては最早言い逃れすることは難しいだろう。より被害を軽減する方向を模索する頃合いなのかもしれない。
見切りをつけて彼女へ手を差し出す。
「貸せっ」
「態度わるっ。でもダメよ」
「なんだと?」
スイッと弥堂の手からスマホを逃がす彼女へ怪訝な眼を向ける。
「ちゃんとあたしの見てる前で消して。あんたのこと一個も信じてないから」
「めんどくせえな」
「あんたのせいでメンドくさいことになってんでしょ。ばかっ」
言いながら希咲は弥堂へ近づいていくと、彼のすぐ目の前でクルっと身体の向きを変える。
背後からスマホの画面を覗き込みやすいようにだろう、ほぼ触れるか触れないかの至近にまで弥堂の胸に肩を寄せる。
「…………」
「……なに無視してんのよっ。ほら早く。どれ?」
まだ無駄な抵抗を続けていると思ったのか、肩を揺すって弥堂の胸を叩いて彼を促す。
顎先を希咲の髪が撫でていくと弥堂には馴染みの薄い香りがした。
彼女自身の香りなのか、洗髪剤のものなのか。それを確かめようと、頭頂部から肩へ流れていく彼女の髪の隙間の、その奥の頭皮が視えないものかと目を凝らすが当然ながらそんなものは視えない。
「ちゃんと見てよ」
そんな風に眼を細めている様子を勘違いしたのか、希咲はより画面が見えやすいようにとスマホを持つ左手の角度を変えた。同時に、意識してのことかはわからないが、寄りかかるように左肩を弥堂の右胸にのせる。
ほんの僅かに預けられた彼女の体重を実感した。
『自分から触るのはOKで、触られるのはNG』という、先程考えた彼女のルールのようなものがまた思い浮かび、ますますこの希咲 七海という少女のことがわからなくなる。
だが、特にそのことを指摘する気にはならなかった。
「んっ」
顔を上げて、少し振り返るようにしながら見上げてくる彼女の、催促する短い声に自然と右腕が動く。
「ダメっ」
彼女の身体を包むようにして前方に回した右手をスマホに近づけると、袖をギュッと握られその手をとられる。
「あたしが持ってるから、あんたは指で押すだけっ」
「……あぁ」
袖を握ったまま下に降ろされた手はそのまま抑えつけられる。
指に二つの感触が触れた。
一つは彼女の着用する学園指定の制服スカートの生地で、もう一つはそこから伸びる彼女の内ももの肌だろう。
触れていることに気取られないために手を動かさないように固め、爪から伝わる温度を意識から外す。
すると、今度は自分自身の腿に意識を持っていかれた。
右の腿に触れる柔らかみの正体に思考が縫い留められそうになりながら、左手の人差し指は吸い込まれるように近付いていく。
指の腹を軽く圧しつけ下方へ撫でる。
すると画面に表示される受信メールが日付の新しいものへと送られる。
「……なんか、登録してない変なアドレスからばっかメールきてる。あやしすぎ」
「…………」
「無視すんなし」
「……してない。聞いている」
「そ?」
「……あぁ」
脳が痺れていくような錯覚を打ち切るようなつもりで、一覧に表示されたものの中から適当に昨日の日付のメールをタップした。
「最初っからそうやって素直に…………ヒッ――⁉」
反射的に身体を後退らせた彼女の肩が、ドンっと強く胸を打つ。
腿に触れていた柔らかさがギュッと圧しつけられたのを感じながら、左腕は必要な行動をする。
何かに驚き身を強張らせた彼女が取り落としたスマホを空中で拾う。
次いで右手の甲に僅かな痛みを感じる。
そこに眼を遣れば、袖口を掴んでいたはずの彼女の手がいつの間にか弥堂の手を握っていた。
その手はまるで縋るように強く握りしめられ、彼女の爪が手の甲の皮膚に食い込む。
先程よりも広く、彼女の背中が接して。
先程よりも多く、彼女の体重を預かる。
自分ではない誰か別のモノに思考を奪われるような不快さを感じた弥堂は、八つ当たりで彼女を咎める。
「――おい、気を付けろ」
「――えっ……? あっ……スマホ…………ごめん……」
「……今度は急にどうした?」
「どうした……って――ちょっ⁉ まって! 近付けないで……っ! むりむりむり……っ! むりだから……っ!」
画面をこちらへ向けながら彼女にスマホを手渡そうとしてやると、手首をガッと掴まれ強く拒絶される。
「一体なんなんだ」
「なん、なんだ……って…………、だって、あんた、これ……っ!」
先程の様に振り返りつつ見上げてくる彼女の瞳には涙が滲んでいる。
その顔から眼を逸らしたくて、弥堂はスマホの画面へ目を向けた。
そこに映っていたのは――
『愛してる愛してる愛してる好き愛してる愛してる愛してる愛してるいつも見てる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる好き愛してる愛してる死にたい愛してる愛してる愛してる愛してる産みたい愛してる好き愛してる愛してる愛してる好き愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる気付いて愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる好き愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる欲しい愛してる愛してる愛してる愛してる見て愛してる愛してる愛してる愛してる私を見て愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる何でもします愛してる愛してる愛してる愛してる下さい愛してる愛してる欲しい愛してる愛してる欲しい愛してる愛してる愛してる愛してる爪が欲しい愛してる愛してる愛してる愛してる髪の毛が欲しい愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる唾液が欲しい愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる血が欲しい愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる全部欲しい愛してる愛してる愛してる愛してる死にたい愛してる好き好き愛してる愛してる愛してる殴って愛してる愛してる首を絞めて愛してる愛してる愛してる踏みつけて愛してる愛してる愛してる愛してる研いで愛してる愛してる愛してる愛し――
昨日届いたY’sからの文面であり、弥堂が明確に意思をもって選択をしたメールだ。
「ふむ……」
「『ふむ』、じゃないでしょぉ……っ?」
猟奇的な文字列を目にした七海ちゃんはふにゃっと情けなく眉を下げた。
「と、言われてもな。これがどうかしたのか?」
「どう、って……、えっ…………?」
何でもないことのような弥堂の口ぶりに、希咲はワンチャン自分の見間違いだったのでは? と、もう一度画面に目を向ける。
しかし――
「ヒッ――⁉」
再び彼女は息と悲鳴を呑んだ。
胸の中の希咲の身体はより縮こまり、弥堂の両手を握る彼女の両手により力がこもる。
「やっぱりダメじゃん……っ! ヤバイじゃんかバカぁ……うえぇ…………っ!」
先程以上に泣きが入った彼女に恨みがましい目を向けられ、弥堂は首を傾げる。彼女の髪が頬を撫でた。
「何が問題なんだ?」
「なにがって……あんた、だって、これ……っ!」
「だから、これの何が気に食わないんだ」
「は……? え……? いや、だって……、ヤバイじゃん! コワイじゃん! 頭おかしいじゃんっ!」
「……?」
「えっ……? なに? あたしがヘンなの……?」
掴んだ弥堂のスマホを持つ手をブンブンして、メールの文章のヤバさを強調する。
しかし、彼には全くその想いは通じず、希咲は別の不安感に囚われた。
「……もしかして、この文章のことを言っているのか?」
「もしかしなくても、それしかないでしょ⁉ なんで平気な顔してんのっ⁉」
「そう言われてもな……」
「なんであたしが困らせてるみたいになってんの⁉ おかしいでしょ! だってこれヤバすぎじゃん!」
「……ふむ……そうか…………」
「え……? なんで……? なんでわかってくんないの……?」
「いや、ちょっと待て……」
余りに共感性に欠けた弥堂のせいで強烈に膨れ上がった不安と孤独感に、七海ちゃんのお目めにくっついた涙がじわっと大きくなる。
弥堂はその彼女に制止の声をかけ、思案する。
一応Y’sのことは秘匿事項であり、奴から齎されるものは機密情報だ。
部外者である希咲にそのことについて詳細な説明をするわけにはいかない。
だが――
(こいつがどこまで使えるものか……)
先の可能性を考える。
昨日希咲に『自分の仕事を手伝わせる』と約束をさせた段階では、彼女には美人局のキャストをさせるだけのつもりでいた。
しかし、本日の昼休みの出来事を経て、もしかしたらもっと別の使い道もあるかもしれないと、そうも考えるようになった。
戦闘能力は申し分ない。頭も回る。
だが、口煩いのが難点で、その口煩さの要因となっているのは恐らく彼女の倫理観や正義感だろう。
その倫理観や正義感がどこまで彼女に自分との約束を履行させるか。
そこを懸念する。
しかし、それは――
(試してみればわかることか)
彼女にどこまでこちらの内側を開示しても大丈夫なのか。
どこまでなら大丈夫で、どこからが失敗なのか。
それは失敗してみればわかることだ。
失敗――最悪の場合でも自分か彼女か、もしくは別の誰かが死ぬくらいのことだろう。
それならば大した問題ではない。
「希咲。これはな――」
「えっ?」
言いかけて口を止める。
何故だか、自分は今正常な判断能力を持っていないような気がした。
通常ならば、しないような判断を下そうとしている。
そんな気がした。
だが、気がしただけならば気のせいだろうと、言葉を進める。
「――これはな、ただの暗号だ」
「あ、ん……ご……う…………?」
まるで生まれて初めて聞く単語のように、希咲はお目めとお口を大きく開けたまま、ただそれを復唱した。
「そうだ。これは機密情報の通信であることを隠すためのカモフラージュだ」
「かも……ふら…………」
譫言のように声を漏らしながら、希咲は茫洋とした瞳を文面に向ける。
「でも、これ……やばい…………。こわいもん……」
「そうだな。情報を掠め取ろうとこのスマホを手に取る盗人がいたら、きっと同じ感想を持つだろうな」
「……そう……なの、かな…………?」
「あぁ。そうなんだ」
「そう…………あん、ごう…………」
「暗号だ」
「あんごう……」
それっきり彼女はフリーズしてしまう。
なんとなく彼女の左手にスマホを持たせてやると、今度はちゃんと受け取ったが、手に握りしめたまま固まっている。
「おい」
空いた手で彼女のほっぺを摘まんでフニフニ動かしてやるが、それでも反応はなかった。
さっさと用を済ませて欲しい弥堂としては、どうしたものかと眉を寄せる。
その時、彼女の手の中の弥堂のスマホが短く震えた。
「ヒィっ――⁉」
着信を知らせる通知動作に希咲は激しく身を跳ねさせ、彼女の頭が弥堂の顎を打った。
それはちょうどメールの着信を知らせる動作であり、偶然にもメール画面を開いていた希咲は驚きから誤って親指を画面に触れさせ、その新着メールを開いてしまう。
「……いてぇな」
「あっ、ごめんっ。ビックリしてメールひらい…………――いやあぁぁぁぁぁぁぁっ⁉」
弥堂に画面を向けつつ同時に自分もその新着メールの文面を見てしまった希咲は大絶叫をあげた。弥堂のお耳はないなった。
非常に迷惑そうに表情を歪めた弥堂もそこに眼を向けてみると――
『うそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきちがううそつきにおいがちがううそつきうそつきゆるさないだましたうそつきうそつきうそつきでもすきそんなとこもすきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつき愛してる愛してる好き愛してる愛してる愛してる愛してるいつも見てる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる好き愛してる愛してる死にたい愛してる愛してる愛してる愛してる産みたい愛してる好き愛してる愛してる愛してる好き愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる気付いて愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる――』
「……ふむ」
いつもと多少文面が違うそれを見て顎に手を遣る。
「ひぐっ……うえぇぇぇ…………、これっ……これぇ…………っ! ぅあぁぁ、もぅやだよぅ…………っ」
「落ち着け」
完全に泣きが入った情けない顏で弥堂の顔面にスマホをグイグイ圧しつけてくる彼女を宥める。
「だって、あんた、これ……っ、これぇ……っ! アウトじゃん、完全にアウトじゃんかぁ……っ!」
「暗号だ」
「あん、ご、う……?」
「大丈夫だ」
「だい、じょぶ……」
「暗号だ」
「あんごう…………」
ゴリ押しをしてみたら、彼女はまたフリーズした。
茫然としてストンと両手を降ろした彼女は身体からも力が抜けてしまったようで、最早完全に弥堂へ体重を預けてしまっている。
すると、重心がズレたのか、彼女の身が横に倒れそうになる。
反射的に右腕を彼女の腹にまわしてそれを止めるが、完全に抱き抱えるような恰好になってしまった。
また叫び出すのではと警戒をしたが、希咲はただ「あんごう……」と譫言のようなことを漏らしただけだった。
この様子では正気に返るのに時間がかかりそうだし、返ったところでまた煩いのだろうなと、うんざりとした心持ちで弥堂は息を漏らした。
その溜息と彼女の譫言が偶然重なった。
何故だか、すぐに無理やりにでも立たせて覚醒させるという発想は思いつかなかった。
その後そのままの姿勢でしばらく待ってみたが、彼女が立ち直る様子はなく、自力での再起動は無理だと判断をした。
このままこうしていても、
「おい、希咲」
「……うん」
「その、なんだ、大丈夫か?」
「……うん、だいじょぶ」
「あれだ。消さなくていいのか?」
「……けす」
「立てるか?」
「……たつ」
言葉とは裏腹に背中で寄りかかる彼女が、弥堂に預けた体重を引き取っていく様子はない。
恐らく自分が今どういった状態でいるのかもわかっていないのだろう。
弥堂は見切りをつけ、刺激をしないようそっと彼女の左手をとり、彼女がその手に持ったままのスマホを彼女の手ごと目線の高さまで持ち上げてやる。
画面に映った文字列が視界に入ると、希咲がまた身を竦ませた。
腹部に回した彼女の身を抱く右腕から震えが伝わる。
その腕に何故か添えられている彼女の手がギュッと服の袖を握ってきた。
身体を強張らせた際に肛門でも締まったのか、弥堂の足の付け根近くに圧しあてられている彼女の尻が動き、左右の尻肉が柔く噛みついてきた感触を知覚する。
彼女が再びパニックを起こす前に声をかけてやる。
「暗号だ」
「……あんごう」
「そうだ。暗号だから大丈夫だ」
「……あんごう…………だいじょぶ……」
「ほら、お前のパンツを消すぞ。前のメールに戻れ」
「……ぱんつ……けす…………」
しかし、復唱はするものの彼女は一向に動かない。
焦れた弥堂は一つ舌を打ち、スマホを握る彼女の手の上から包み込むように自身の手を重ね親指で操作しようとする。
「……おっきぃ」
「あ?」
「……て」
「ん? あぁ。お前よりはな」
「……ん」
「…………」
ジロリと一度彼女の頭部を見遣ってからスマホの画面へ目線を動かし、先程着信した新着メールの文面を流して確認する。
わけのわからない狂気的な文章だけで他には特に何も記述はなく、またURLリンクなどもなかった。
「なんなんだこれは。仕事の連絡じゃないのか」
「……しごと、じゃない」
「見てんじゃねーよ」
「……いたい」
一緒になってスマホの画面を覗く希咲の頭を顎で小突いてやると、彼女からはそんな痛みを訴える声が無感情に発せられた。
「悪かったな」
「……うん、いいよ……?」
「…………」
いくら放心しているとはいえ、異常なまでに従順と表現していいのか、とにかくやけに大人しい彼女の気味の悪さに居心地が悪くなる。
その居心地の悪さの正体を考えないようにしながら、最初の怪文書メールからいくつか後に届いたメール本文を表示させる。
「……まぁいい。このメールだ。見ろ」
「……やだ。こわい」
「駄目だ。見ろ」
「……うん」
「…………これにはお前のパンツへのリンクがあるだけだ。おかしな文章はない」
「……こわい」
「……わかった」
弥堂は希咲の手の上から親指を画面へ伸ばして触れ、上方へ擦り上げる。すると、Y’sの用意した『希咲 七海おぱんつ撮影事件』の特設サイトへのハイパーリンクが表示される。
「おら、押せ」
「……うん」
「……押すぞ?」
「……うん」
弥堂は彼女の代わりにリンクを踏んでやった。
画面にどアップで表示されたのは、もう見慣れた気がするミントブルーの生地に黄色のリボンや刺繍の施されたパンツだ。
『今日もお前のせいでこんな目に……』と弥堂はそのパンツを睨みつけた。
「おら、確認しろ」
「……かくにん、する」
「これはお前のパンツで間違いないな?」
「……うん、ない」
「……それはどっちの意味だ?」
「……あたしの、ぱんつ……」
「よし」
「……りすぺくと?」
「違う」
「……りすぺくと、して」
「あ?」
「……あたしの、ぱんつも、して」
「…………」
余程に先程の件を根に持っていたのか、そんな言葉と同時に彼女に摑まれていた右腕が解放される。
弥堂はとても投げやりな気分になり、解放された右手で画面のパンツを指差す。
「……おぱんつ、よし」
「……よし」
「…………」
脱力するように右手を身体の脇に降ろすと、すぐにその手はまた彼女に捕まえられた。無意識の行動なのだろうが、ギュッと握られる。
弥堂は何か文句を言ってやりたかったが、何も言葉が思いつかなかったため止めた。代わりに厭味で溜め息を吐いてやったが今の彼女には伝わらないだろう。
「……では、確認したな?」
「……した」
「消すぞ」
「……けして」
とは言ったものの、元々これは消したつもりの物であった。
先程希咲が何やら特別な手順を踏まないと完全に消すことは出来ないようなことを言っていたが、その正式な手順とやらを弥堂は寡聞にして知らない。
知らないことを考えてみても時間の無駄だと即断し、知っている者に命じることにする。
「おい。これ消せ」
「……うん、けす」
自身の手を握っていた彼女の手を外して逆にその手の甲から掴み、その手をスマホへ近付けさせると、希咲の右手はスマホを操作し始めた。
「ついでだ。それ全部消してくれ」
「……うん、してあげる」
「…………」
明らかにおかしくなっているのは彼女なのだが、それに釣られてのことなのだろうか、弥堂は自分までどうにかなってきそうな錯覚を覚え、気を強くもった。
「……けした」
「あぁ。ご苦労」
「……えらい?」
「…………あぁ、えらい」
「……うん」
「……じゃあ、このスマホはもういいな?」
「……うん、ありがと」
「…………謝れ」
「……え……? ごめん、なさい……?」
「いや、いい。今のはミスだ」
「……うん」
弥堂は自分でも何故彼女に謝罪を要求したのかわからなかったが、とにかく言い知れぬ強烈な危機感を覚えた。
とにかくこれ以上はまずいという正体不明の強迫観念に急かされ、彼女の両肩を優しく掴むと丁寧にその身を離してやる。
「さぁ、もう立てるな? 足元に気を付けろ。手を離すぞ?」
「……え? あ、うん……ありがと」
慎重に希咲の身体から手を離して様子を見守っていると、ボーっと立つ彼女は数秒してハッとなった。
「えっ? あれ……っ? あたし今――」
「――どうやら体調はよくなったようだな。何よりだ」
「は? うん……ねぇ、あんた今抱き――」
「――無事に目的も遂げられたようでそれも何よりだ。よかったじゃないか」
「あ、うん。そうだけど……てかさ、なんであたし達あんなくっつい――」
「――これで和解ということでいいな? 俺としてもキミと敵対したいわけではないからな」
「え……? うん……、うん…………?」
何か、乙女として軽くスルーしてしまってはいけないようなことがあったような気がして、希咲は首を傾げる。
何やらお尻というか腰というか、そのあたりに変な感触というか違和感というか、よくわからない不快感が残っているのがやけに気になった。
しかし、それを問おうにも、弥堂があまりに平然としていて淀みなく喋り、まるで何でもないことのようにしているものだから、自分だけ大袈裟に騒ぎ立てるのはもしやダサいのでは? といった考えが過る。
そんな気がしてしまって、乙女的には大変アレだが、プロのJKとしてのプライドが邪魔をし、執拗に追及することを憚れてしまって七海ちゃんはお口をもにょもにょさせた。
やがて、不満は多々あれどどうにか色々と呑み込み、先程までの自分の状況を思い出して湧き上がる羞恥を隠して平然とした態度をとることを選択する。
また騒ぎ出されては面倒だと考えていた弥堂は、控えめにもじもじとすり合わされる希咲の太ももの隙間をジッと視て、どうやら思うような結果を得られたようだと一定の満足感を得た。
彼女が心変わりしない内に場を終わらせるよう行動する。
「それではお前の用件は以上だな。結果は約束できんがなるべく実行できるよう心がけよう。では、な」
「あぁ、うん……。じゃね…………って! 待てコラーーっ⁉」
彼女が完全に正気に戻りきる前に、迅速にこの場を離脱しようとしたがそれは叶わなかった。
舌を打って立ち止まる。
「なんだ?」
「なんだ? じゃないでしょ! まだ終わってないし!」
「終わりだろ。もう用件を3つ聞いたぞ」
「聞いてない! まだ2つ!」
「あ?」
彼女との認識の祖語に眉を顰める。
呆けている間にまさか記憶でも飛んだのかと懐疑的な眼を向けた。
「1つ目が水無瀬の護衛。2つ目が水無瀬を4/20の月曜日に甘やかすこと。3つ目がお前のパンツを消すこと。全部で3件だろうが」
「最初の2つはそうだけど、最後のは違うっ」
「なんだと?」
「3つ目のはお願いじゃないから! 当たり前の要求でしょ⁉」
「……百歩譲ってそうだったとして。じゃあ、なんだ? 本題でもないのにあれだけの時間をとらせたのか?」
「あ、あんたが素直に言うこときかないから悪いんでしょ⁉」
「…………」
「あ、こらっ! 無言で顏触ってくんな! てゆーか、聞き慣れてきちゃったけど当たり前みたいに『あたしのパンツ』って言うな! キモイんだよ変態っ!」
「いてーな、爪たてんじゃねーよ。そんなにパンツに触れて欲しくないのならもういっそ脱いじまえ」
「ななななななっ――⁉ バカじゃないの⁉」
「うるさい黙れ。昨日といい今日といい。何でお前のパンツはこんなにも俺に無駄な手間をかけさせるんだ。ナメやがってクソガキが」
「だからいちいちあんたのこと意識してパンツ穿いてねーって言ってんだろ! 勘違いしないでよね!」
「知ったことか。お前のパンツは効率が悪い。そんなものが存在するからこうなる。2度あったのならどうせ3度目もあるだろう。じゃあ、どうする? 簡単だ。この世から消してしまえばいい」
「わけわかんないこと――って、こらっ! あ、ああああああんたどこに手ぇ伸ばして……っ⁉ さわんな! 死ね! クソへんたいっ!」
「うるせえ。いいからパンツ脱げ」
「脱ぐかボケーっ! こんにゃろ、ぶっとばしてやる!」
ギャーギャー言い合いながら二人はもみくちゃになる。
1秒、また1秒と、希咲のパンツに関して対立する時間が増えていく。
「なぁ……俺ら、何見せられてんだろうな……」
「さぁ? つっても、勝手に野次馬してんだけどな」
「スマホのことで弥堂が詰められてたと思ったら、ビックリするようなイチャつき方しだして、そんで今……またケンカしてんのか……?」
「いや、あれもイチャついてんだろ」
「イチャついてるわね」
「なんかムカつくからよ。今、グルチャで言い触らしまくってるわ」
「あ、あたしもやってるー」
「やっぱパフォーマンスよねー」
「ここまでやんなくたって、別に弥堂なんかイカねーっての」
「それなー。顏悪くないけどちょっとね……」
「頭おかしすぎだもんね」
「パンツリスペクトされちゃうしね」
「やっぱ希咲ムカつくわ」
「紅月くんだけで足りねーのかよってね」
「でも、あのイカレ風紀委員を引き取ってくれてると思えばまぁ、多少は……」
「おぉ……女子コエェ……」
「まぁ、俺らも弥堂ムカついてるし、そういうもんなのかもな」
「もういいだろ。帰ろうぜ? クソが」
「あぁ、クソが」
二人を観察していた人々は口々に「クソが」と毒づいてこの場を離れていく。中には路上に唾を吐き捨てる者までいる始末だ。
お互いを罵り合うことに夢中な二人は、周囲が静かになっていっていることには気付かない。
お互いのことしか見えていなかった。
しばしの間、公道で人目も憚らず罵倒し合った弥堂と希咲だったが、その人目がなくなっていることに気が付き、どちらともなく休戦を申し出て場を納めることでお互いの意思を擦り合わせた。
「……ナットクできない」
「しろ」
「出来ないっつてんじゃん!」
「うるせえ。この『世界』に納得出来るものなど何一つとして存在しないと考えろ。そうすれば恙無く諦めて生きていける」
「なんでそんな人生送んなきゃなんないのよ!」
あまり擦り合ってなかった。
「いいから話を進めろ。何でお前一人にこんなに時間をとられなきゃなんねえんだ」
「はぁ? あんたのせいでしょ! あたしがあんたに構ってもらいたがってるみたいな言い方すんな!」
「わかった。構ってもらいたかったのは俺だ。もう十分構ってもらった。満足だ。胃が持たれるほどにな。おら、早く言え」
「なんなの! いちいちムカつく言い方ばっかして」
「言わねえんなら帰るぞ」
「言うわよ!」
ぶちぶちと文句を言いながら希咲は切り出そうとするが――
「言うけど。でも、その前にさ……」
「あ? テメェいい加減にしろよ」
「すぐイライラしないでよ!」
「お前のせいだろうが」
「なんであたしにだけすぐキレんの!」
「そんなことはない」
「あるもん! いつもムッツリしてて態度悪いけど、他の子にそんな風にキレないじゃん!」
「お前も大概だろうが。野崎さんたちと話していた時みたいに冷静に場を回せ。何故俺にはいちいち突っかかってくる」
「あんたの頭がおかしすぎるのが悪いんでしょ!」
またどんどんとヒートアップしていきそうになるが、弥堂が希咲へ手を向けて制止する。
「――待て。一回待て」
「あによっ⁉」
眦を上げた希咲に怒鳴られるが言い返したくなる気持ちを努めて抑える。
彼女に手を向けたままでもう片方の手で眉間を揉み解しつつ提案をする。
「もうやめよう。どれだけ言い合ったところで絶対に決着はつかない」
「そんなことわかってるわよ!」
「諦めよう。お互いに」
「またそれ?」
「落ち着け。これはとりあえずだ」
「……どういう意味?」
不機嫌そうに眉を寄せる希咲へ説明をする。
「いいか? このままでは俺達は殺し合いに行き着く。それしか解決方法はない」
「そこまでなの⁉」
「だから一旦この場ではお互いに諦めよう。気に食わないことや癇に障ることもあるだろうが、今日はもうそれは口には出さずに一旦持ち帰ろう」
「……それって結局なにも解決になんないんじゃないの?」
「あぁ。だから怒りや蟠りをぶつけるのは次に会った時にしよう」
「つぎ?」
幾分か落ち着いた様子の希咲を見て弥堂も手を降ろす。
「あぁ。幸いなことに俺たちは一か月近くだったか? 顔を合わせることはないのだろう?」
「だいたい半月くらいね」
「そうか。だからこうしよう。今日これから何か怒りを感じても今日はもう何も言わない。そして半月経ってそれをまだ覚えていたら、その時にぶつけあおう」
「……まぁ、そうね。自分でもわかってるけど、なんか知んないけどすんごいムカついちゃうだけで、しょうもないことでばっかケンカしてる自覚はあるわ。半月もすれば、どうでもよくなってるってことよね?」
「そうだ。大部分は時間の経過が誤魔化してくれる。解決するのを諦めよう」
「なんか後ろ向きなのが気になるけど、いいわ。それで手を打ったげる。感謝してよね」
「……お気に召さなかったようで悪いな。ありがたすぎて唾でも吐きたい気分だ」
「……汚いわね。別に気に食わないなんて言ってないでしょ。あんたにしてはまぁまぁいいアイデアなんじゃない?」
「……そうか。お前にしては理解が早くて助かる」
「…………」
「…………」
男女二人向かい合いながら見つめ合う。
しかしその空気はピリついたもので、二人ともにコメカミをビキビキさせ、その目はガンギマリだ。
そのまま数秒睨み合って、二人同時にハッとなる。
「こういうの……っ! こういうのやめようってことね……っ⁉」
「……そうだ。お前の気持ちはわかっている。だが、どうか今は抑えてくれ。俺も同じ気持ちだ。お前がムカつく」
「フフフ……、だったらぁー、なぁーんですぐそーゆーこと言っちゃうのかしらぁー? あたしだっていっぱいガマンしてるんだからー、あんたもチョットくらいガマンしてよー。あたしだってムカつくよ? あんたのこと」
まるで恋人同士が愛を囁き合うように熱っぽく視線を絡めて、お互いに嫌いだと素直に伝えあった。
「……ねぇ? あんたさ、ホントはあたしのことダマそうとしてんでしょ? そうやってウソついてあたしだけ黙らせて、自分ばっか悪口言おうとしてんでしょ?」
「疑り深いのはメンヘラの証拠だぞ? お前はメンヘラじゃないんだろう? だったら俺を信用することだな」
「ふふっ……うふふふ…………そうねー、もちろん信じてるー。てことはぁ、聞いてくれるのよね? あたしの話」
「…………」
「よね?」
「…………あぁ」
コテンと首を傾げて、煽るようにあざとい仕草を見せる希咲に弥堂は渋々頷いた。
希咲は一度目を閉じ、胸に手を当てて深呼吸をして気分を切り替える。
次に顔を上げて目を開けた時には怒りの表情は鳴りを潜めており、しかしその代わりに眉がふにゃっと下がった。
「それじゃ……えっと、その……あんた大丈夫……?」
「……どういう意味だ?」
「怒んないでよ! バカにして言ってるんじゃないのっ」
「じゃあ、なんのことだ」
「ほら、さっきの。メールっ」
「メール……? あれがどうした?」
「いや、だって、あれヤバイじゃん!」
「だから暗号だと言っただろう」
「暗号って……、じゃあ、あれ本当はどういう意味なの?」
「……そこまでは教えることはできんな」
機密情報にあたる為に弥堂は詳細を明かさなかった。
彼にもその機密情報がなんなのかわからないからだ。
「……ちなみにさ。あれって誰からなの?」
「……部員だ。情報を扱うことに特化した専門の者がいる」
「……女の子よね?」
「さぁな」
「それも教えらんないってこと?」
「いや。会ったことも声を聴いたこともないから知らん」
「は?」
どうせいつもの秘密主義かと思ったら予想外の答えに希咲は目を丸くする。
「同じ部活なんでしょ? そんなことってある?」
「と言われてもな。実際そうなのだから仕方ないだろう?」
「あたし部活やってないからわかんないけど、フツー名簿とかあるんじゃないの? いくらこのご時世個人情報とか厳しいって言ってもさ、クラスくらいはわかるでしょ?」
「残念ながら部の名簿に名前は載っていないな」
「いやいや、学園の手続き上そんなわけないでしょ」
「ヤツの仕事上その方が都合がいいからな。正体不明の部員だ」
「……それは部員ではないのでは?」
聞けば聞くほどに謎が深まり、希咲はメールを初めて見た時の恐怖がじわじわと蘇ってくるのを感じた。
「てか、名前くらいはわかるでしょ? 苗字しか知らないの? それとも中性的な名前とか……?」
「名前も知らんな」
「なにそれ……? あんたにしては危機感なさすぎじゃない?」
「俺とて一度部長に尋ねたことはある」
「そなの? それで?」
「部長は意味深に笑うだけで教えてくれなかったな」
「……あんたと部長って仲いいんじゃないの?」
「キミの言う仲がいいの意味と同じかはわからんが、関係は良好だ。しかし、それと仕事上の都合とは関係ない」
「どういう意味よ」
「彼が教えてくれないのなら、それは知る必要がないか、俺には知る資格がないか、そういうことだ。もしくは、知りたければ自分で調べろということかもな」
「闇の組織の者か、あんたらは」
「一応調べてみたことはある。学園の職員が管理する生徒名簿にはな、生徒の名前に紐づけて所属部活動も記載される。夜中に侵入して全生徒分の情報を閲覧したが、それらしき人物は存在しなかった」
ちなみに同じ方法で希咲や水無瀬の情報を調べたこともあるが、そのことについては特に言及しなかった。
「あんたそれフツーに犯罪……」
「必要なことだ」
「……今日はいっぱいいっぱいだから聞かなかったことにしてあげる」
「それが賢明だ」
「てゆーか、うちの生徒じゃないんじゃないの?」
「正体不明の生徒だ」
「正体不明の人は入学できないでしょ!」
混乱が極まってきて希咲は頭がクラクラしてきた。
「あんたの部活ってマジで一体なにを……いや、これは今はやめとくわ。情報量ヤバくて頭パンクしそう」
深入りすればするほどに頭がおかしくなりそうな弥堂の日常に触れ過ぎれば、また本題が遠のくと希咲は判断した。
「というか質問が多いな。結局何が言いたいんだ?」
「……うん、もうキッパリ言うわ。それさ、ストーカーじゃないの?」
「ストーカーだと?」
単刀直入に斬り込んだ指摘に眉を寄せる弥堂の顏を見て希咲は胡乱な瞳になる。
「なにそんな発想はなかった、みたいな顔してんのよ。どう見たってこれストーカーとかヤンデレの人とか、そんな感じじゃないっ」
「そんなわけがないだろう。言っただろう? 会ったこともないと」
「いやっ、向こうが一方的に知っててーとかあるかもしんないじゃん!」
「その可能性はあるかもしれんが、だが、そもそもストーカーとは不利益を齎す者だろう? 今のところはヤツから提供される情報などは一応は有益なものとなっている。問題はない」
「あのメールが送られてくる時点で不利益以外のなにものでもないと思うんだけど……」
「俺としては暗号が解りづらい以外には特に問題を感じていないな」
「それもどうかと思う。あんたメンタルどうなってんの……?」
怪物を見るような目を弥堂へ向ける。
「ねぇっ、やっぱ絶対ヤバイって……! 大体情報ってなんの情報よ」
「……詳細は言えんが、風紀委員の仕事に使える情報や、テストの出題予想に、スーパーの特売情報から住まいの地域のゴミの日の知らせなど多岐にわたる」
「確かにスーパーの特売は気になるけど、でも全然部活関係なくない……? てか、あんたばっちりプライベートに踏み込まれてんじゃん! 住んでるとこのゴミの日って、なに住所教えてんのよ!」
「教えてはないな」
「は?」
混乱する希咲へ弥堂は何でもないことのように説明をする。
「俺はヤツにパーソナルな情報は何も教えてはいない。勝手に調べたのだろうな」
「確定じゃん! ストーカーじゃん!」
「落ち着いて考えてもみろ。ヤツは腕利きの情報屋だ。それくらいのことは造作もないだろうし、またそうでなくては使い物にならん。むしろそのスキルを信頼できる。そうは思わんか?」
「頭おかしいと思う……」
「まぁ、確かにそういった言動も見受けられたが今のところは問題はないな」
「いや、あっちもだけど、あんたも頭おかしいと思う」
「それは見解の相違だな」
「うぅ……価値観がぁ…………価値観が違いすぎるよぅ……」
自分が普段何気なく日常生活を送る学園内で、あまりにも犯罪的で猟奇的な関係性が存在することを知り、七海ちゃんは泣きが入った。
「あんたさ、ケンカ強いから自信あるんだろうけど、相手が女の子だからって甘くみちゃダメよ? アブナイ子はいきなりグサっていくからね?」
「お前が何を気にしているのかわからんが、俺は相手が女でも油断はしないし容赦もしない。心配は無用だ。慣れているからな」
「……ホントに? だって、わかってないでしょ?」
「ナメるな。俺はプロフェッショナルだ。女に刺されたことなど何度かある。だからどんな女も信用はしないし、仮に刺されたとしても慌てることはない。確実に首を圧し折って道連れにしてやる」
「それ、もうダメじゃん…………」
なおも弥堂へ注意を喚起する反論を続けようとしたが、それ以上は言葉が出てこずやがて希咲は沈痛そうな面持ちで俯いた。
「……ごめん。あたしから言っておいてあれだけど、今日はもうこの話題ムリ……。なんかあたしどうにかなっちゃいそう……」
「そうか」
「また今度でもい?」
「半月後に覚えていたらな」
弥堂としては特に重要な話題でもないし、特に続けたい話題というわけでもなかったため、適当に肩を竦めて流した。
「で? 本題はなんなんだ? 今の話が関係するのか?」
「あ、うん……、全然関係ない」
「…………」
『じゃあ、なんのために』と口から出かけた文句を寸前で呑み込む。一応はそういう約束だからだ。
希咲の話は、衝撃的なメール文章を目にしたために弥堂を心配してのことなのだが、当然そんなことは彼には伝わってはいない。
「最後のも愛苗のことなんだけど……って、なによ、その顔っ」
「まだあいつを甘やかす気か? 今度はなんだ? おしめでも変えてやればいいのか?」
「……あんた愛苗にそんなことしたら絶対殺すから」
数秒前の心配顔はどこへやら、攻撃色満載の完全に殺る目を弥堂へ向ける。
そのまま数秒ジッと弥堂を見るが、溜息を吐いて力を抜いた。
「まぁ、いいわ。お願いしたいのは、あたしが愛苗の様子を聞いた時にそれを教えて欲しいのよ」
「……何故俺が。それこそ野崎さんにでも頼め」
「もちろんそうするけど、なんていうか念のためよ」
「いくらなんでも過保護すぎるだろう」
「いいじゃん。おねがいっ。そんな頻繁には聞かないから」
「そもそも連絡手段がない。無理だ」
「あるじゃん」
「あ?」
希咲はニッコリと笑って指を差す。
その細長い指が指し示す先は弥堂の手の中のスマホだ。
「ID交換しよ?」
そう言って笑顔を浮かべたまま彼女はほんの少し首を傾げてみせた。
弥堂は彼女のその顏を見て目を細めてから口を開いた。
「断る」
「へーー、やっぱそういうこと言っちゃうんだぁー、ふぅーん……」
「わかってるなら言うな。お前と慣れ合うつもりはない」
「えー? 連絡するのに必要だから言っただけじゃーん。慣れ合うとか言ってなくない? それともー、女の子にID交換しよ?って言われただけでそーゆーの想像しちゃうの? あんたでも? ふぅーん……」
「なんとでも受け取れ。揚げ足をとったところで無駄だ」
「そうねー。ムダそうだからもういいわ」
「……?」
てっきりまた逆上してくるものだと構えていたがそんなことはなく、意外にも彼女はニッコリと笑ってみせ、自分の肩から提げたスクールバッグに手を突っ込むと何やらゴソゴソと漁り始めた。
肩透かしをくったような形だが、弥堂は怪訝な眼を向けて警戒する。
潔いようなことを口にはしていたものの、彼女の浮かべた笑顔が完璧すぎて、弥堂にもわかるほどの作り笑顔だったからだ。
鞄から引き抜かれた希咲の手に握られていたのは、彼女のものと思われるスマホだ。
彼女はそれを取り出すと鞄の口は開けたまま、特に弥堂に断りを入れることなくシームレスにスマホの操作を始める。
弥堂は何か途轍もなく嫌な予感がした。
すると間もなくして、その予感を裏付けるように弥堂のスマホから『ペポーン』と間の抜けた通知音が鳴る。
基本的にほとんどのアプリは通知自体をオフに設定をしている。
例外的に通知を行うようにしているものもあるが、電話の場合はプリメロのテーマが流れる、メールの場合はバイブレーションのみだ。
今の様に短い通知音が鳴る時は――
「あれー? 弥堂くーん、スマホ鳴ってるよー?」
「……お前、まさか…………」
「なんだろねー? もしかしてedgeじゃないかなー?」
「…………」
弥堂はスマホを取り出しながら、大袈裟に首を傾ける仕草をする希咲から目を離さぬよう片目だけで画面を見る。
『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばーか』
希咲の指摘どおりSNSアプリであるedgeが
見覚えはない。だが、誰のものかは容易に想像できるIDからのメッセージだった。
「お前……」
「うわ…………、なにこれ……。一個も投稿ないし、誰もフォローしてないし、フォロワーも0って…………、なんかグロい……。あんた何のためにSNSやってんの……? かわいそう……」
「おい、お前なにをした……? 答えろ」
「あによ。あたしあんたの女じゃないんだから、『おい』だの『お前』だのって呼びつけんなって言ってんでしょ!」
理解の追い付かない事態が起きて事の次第を問い質すが、全く関係のないポイントで反発を受ける。
それに言い返してはまた無関係な言い争いに発展すると弥堂は学習をし、努めて冷静に次の言葉を選ぶ。
「そうか、それは悪かったな。では“nanamin”、お前は一体なにをした? 答えろ」
「誰が“ななみん”だっ⁉」
「ここにそう書いてあるだろうが。これはお前のアカウントじゃないのか?」
「そうだけどっ! それはただのアカウント名でしょ! 気安い呼び方すんな!」
適格に言葉を間違えた男に、自身のSNSアカウント名で呼ばれた少女はおさげをぴゃーっとさせて眦をあげる。当然コミュ障男は彼女が何故怒っているのかわからない。
「理解に苦しむな。お前は自分で『自分が“ななみん”である』と考え、『自分は“ななみん”である』と入力をし、『自分は“ななみん”である』と登録をしたのだろう? そして日々『自分は“ななみん”である』と名乗ってインターネット上で社会生活を営んでいるのではないのか? その上で『自分は“ななみん”である』が“ななみん”とは呼ぶな、だと? 一度専門の医師の診断を受けることをお奨めする。自我の整合がとれていない恐れがある。きちんと専門家に『希咲 七海は“ななみん”である』と診断書を作成してもらい、『自分は“ななみん”である』と自覚をして、これからは『自分は“ななみん”である』と胸を張り、一人前の“ななみん”として自信を持って生きていくといい。わかったな? “ななみん”」
「うるさーーーいっ! なんかそれっぽいことグジャグジャ言ってるけど、あんた絶対“ななみん”っていっぱい言いたいだけでしょ⁉ なんなの⁉ あんたの偶に出るその、何か言ってるようで何も言ってないコメントみたいなやつ! バカにすんなっ!」
「馬鹿になどしていない。俺はただ、お前が自分で自分のことを“ななみん”と書くくらいだから、そう呼んで欲しいのかと勘違いをしてしまっただけだ。名前で人を貶めるような下劣な趣味はない」
「うそつけっ! 昨日だって法廷院にやってたじゃん!」
「なんのことだ」
「とぼけんな! あいつの名前をイジリ倒しておちょくってたじゃん! やめてって言ってたのに!」
「言いがかりはよせ。俺は彼を取り締まっただけで、決して貶めるようなことはしていない。当委員会は人権を非常に重要視しており、人道に外れるような行いは決してしない」
「……あんたってマジでテキトーなヤツね。風紀委員ってみんなそうなの?」
「貴様、当局に不満でもあるのか? 発言には気を付けろ、反乱分子だと認定されたいのか」
「なにが反乱だ! バッカじゃないの!」
「そこまで言うのなら言ってみろ。俺が奴に何と言った?」
「はぁ? いいわよ、そこまで言うんなら言ってやるわよ。絶対謝らせてやるから。あんた法廷院のことホーケ――いにゃあぁぁーーーーーーっ! 死ねぇぇぇぇぇっ‼‼」
自信満々な様子でまるで巨悪の罪を暴くかのように喋り出した希咲だったが、どうしたことか、彼女は何か口にすることを憚れるような単語を言いかけてしまったかのように髪を振り乱して悶絶した。
弥堂は頭をグルングルンさせて、おさげをブルンブルンさせる少女を見下した。
「ふん、もう底が割れたか。俺は生まれてこの方『いにゃーしねー』などと発言をしたことは一度たりともない」
「うっさいっ、あたしだって初めて言ったわよ! あんたマジサイテーっ!」
「最低なのは人にありもしない罪を着せるお前だ」
「あんたがゆーな! それにあんたのは『ある罪』でしょ!」
「だからそれを説明してみろと言っている」
「だから……その…………」
「どうした? 法廷院の男性器の形状について並々ならぬ関心があるのではないか?」
「ないわよ! 人聞きの悪すぎること言うな! ってか、テメーこの野郎。やっぱわかってて言わせようとしてたんじゃん! 変態っ!」
「何故そうなる」
「だってすぐえっちなこと言わせようとすんじゃん! 変態クズやろーじゃん!」
「理解に苦しむな。そんなことを言わせようとした覚えはないのだが」
「今やってただろ!」
「それは見解の相違だな。俺は『包茎』は別にえっちなモノではないと考えているが、お前はそうではないということだな。つまり、お前は『包茎』はえっちだと、そう考えているのだな?」
「うるさいっ! もういいっ! だいっきらいっ!」
癇癪を起したようにダンっダンっと地面を蹴りつけて、希咲は明確な回答を拒否した。
弥堂はその様子を見て満足気に頷き話を進める。
「もういいのであれば、次は俺の質問に応えてもらおう」
「その前にさ――」
「――ダメだ」
「――ダメよ。あんたさー、女の子のアカウント名イジるの禁止ね。サイテーだから」
「……女の子とはいいご身分だな」
「そうよ。いいご身分なの。だから禁止ね」
「……ふん。では、こちらの話だ。お前、どうやって俺のアカウントを特定した?」
「ちょっと! ちゃんと『わかりました』って言いなさいよ! そうやってまた有耶無耶にする気でしょ? わかってんだから」
「しつこいぞ。大体何故呼ばれたくない名前を自分で設定する? 馬鹿なのか?」
「バカはあんたでしょ! なによっ、あんたなんてどうせ実名まんまとかでアカウント作ってんでしょ? ぷぷー、ださーい」
「そんな馬鹿なことはしない」
「そ? じゃあ、あんたのこともアカウントで呼んであげる。えっと、どれどれ……?」
そう言って嬉々として自身のスマホに表示される弥堂のプロフィールページを閲覧した希咲だったが、すぐにその眉は不審そうに歪められた。
「なにこれ…………わけわかんない数字と英字いっぱい並べまくった名前。診断したら『このパスワードはとても強固です』って言ってもらえそうね……」
「そのとおりだ。だからこのアカウントを探し出してこれを俺だと結び付けられるはずがない」
「なんでちょっと自慢げなのよ。パっと見てあんただってわかんなかったら名前の意味ないじゃん」
「ふ、素人め」
「や、素人だけど。てかさ、あんたこれ捨て垢か裏垢でしょ? 本垢教えなさいよ」
「捨て、た……裏、本……? なんだと?」
「……わかんねーのかよ。あんたの方が素人じゃない」
プロフェッショナルなJKである七海ちゃんは、異言語に初めて触れて混乱したように頭を悩ませる男子高校生に呆れた目を向けた。
「これ……見れば見るほどにグロいわね…………投稿なし、FFなし、名前読めない……、お手本みたいな捨て垢じゃない」
「うるせえな。どうでもいいだろ」
「いいけどさ……でも、名前ちゃんとして少しは何か投稿するとかすれば?」
「必要性を感じんな。というか、俺がいつどこで何をしていたかという情報を、誰もが見れるように自分から記録を晒しておけと言うのか? そんなことをしても不利にしかならんだろう。正気を疑う」
「あんたはまず自分の価値観を疑いなさい。それで不利になるような生活改めなさいよ」
「ほっとけ」
「あとさ、自分から誰かフォローするとかしないと誰もフォローしてくんないわよ? これじゃあんたの普段の生活そのまんまじゃない。ネット上でも同じことやってんのね」
「……自分から自分を監視する者を増やすのか? イカレてるのか?」
「本気でわかんないって顏してるし…………うぅ……あたしのやってるSNSとちがう……」
同じ学校の同じクラスに通う弥堂くんと希咲さんは、現代の若者らしくSNSについてお喋りをしてみたが、双方の見解を一致させ歩み寄ることは非常に困難であることがわかった。
「あんたマジでなんでedgeやってるの……?」
「仕方ないだろ。風紀委員の連絡用でそうせざるを得なかったんだ。やりたくてやっているわけではない」
「でもそれにしたってさぁ、わざわざこんなアヤしいアカウント作んなくても――」
「――この話はもういい。それよりもその怪しいアカウントをどうやって特定したか早く答えろ」
「あぁ、うん。特定っていうか、さっきあんたのスマホ触ってる時にedge起動してあたしのプロフ検索してフォローしたんだけど」
「…………なんだと?」
その答えを聞いて反射的にスマホに眼を遣る。
すると、アカウント作成以来常に0のままであったはずのフォロー数が、いつの間にか1になっていた。
人差し指で画面に触れフォローしているアカウントの一覧を表示させると、当然そこには今までは見たことがない『@_nanamin_o^._.^o_773nn』の文字列があった。
「…………」
あまりに想定外の出来事で、あまりに見事にしてやられたために頭の回転が鈍り、次に何を言うべきか言葉を探していると――
『ペポーン』とさっきも聞いたマヌケな音が鳴る。
その音とほぼ同時に弥堂のスマホに表示された自らのedgeのプロフィール画面の上部に被るように通知がポップアップされる。
『@_nanamin_o^._.^o_773nnさんにフォローされました』
「…………」
弥堂はポップアップが消えた後もしばし無言で画面を見つめる。
何となく希咲の方を見てみると、彼女は何やら気まずげに目をキョロキョロさせた。
「えっと……なんかかわいそうだから、あたしがフォローしたげるね……?」
弥堂は長い溜息をつきながら空を見上げ、数秒してからスマホに目線を戻して親指で画面を二回叩く。
その行動の結果が画面に書き出される。
『@_nanamin_o^._.^o_773nnさんをブロックしました』
危険を察知するよりも先に爪先に痛みが走る。
その痛みに気付いて対処を考えるよりも早くネクタイを掴まれ引っ張られる。
驚愕に見開かれる眼がグイと引き寄せられる先に待つのは、敵意が煌めく攻撃色の瞳だ。
頭突きでもするように額に額を押し付けられ、至近距離から睨めつけられる。
「おいこらてめー、なにブロックしてんだ」
「…………」
「無視すんな」
いつものように無視をしたわけではなく、気が付いたら懐に踏み込まれ拘束をされていたという事態に驚き言葉を失っていた。
彼女のスペックについては高く評価していたつもりだったが、それでもまだ自分の見積もりが甘かったと知る。
「……離せ」
「放して欲しかったらブロック解除しなさいよ」
「別にいいだろ、それくらい」
「……それくらい?」
すぐ近くで視界のほぼ全てを占めている希咲の瞳に一層の力がこもる。
「いい? 憶えときなさい。ブロックすんな! ミュートすんな! フォロー解除すんな! 女子にそれやったら戦争よ!」
「……そこまでのことか?」
「そこまでのことよ! JKナメんな!」
「JKとは随分好戦的で野蛮な種族なんだな」
「うっさい! 繊細で傷つきやすい種族なの!」
「……そうか」
「わかったらブロック解除してもっかいフォローしなおせ……って、もういい! あたしがやる。かせっ」
そう言って彼女の目玉が下を向くと弥堂のネクタイを引っ張る方とは逆の手に、これまたいつの間にか弥堂の手にあったはずの彼のスマホが握られていた。
「…………」
それにも驚いてもいいのだが、それよりもふいに虚しさに襲われる。
自分よりも背の低い少女に首根っこ抑えられ、その少女とおでこを合わせながら自身のスマホがいいように弄ばれているのを共に眺める。
この状況に弥堂は強い屈辱を感じたが、何故だか怒りは湧いてこなかった。
ただ、彼女の細く綺麗な指が高速で動くのを無気力に観察していた。
「これでよしっ」
希咲はすぐに作業を終えると、弥堂のネクタイを放し彼の胸にスマホを押し付けるようにして軽く突き飛ばす。
大してバランスを崩すこともなく、危なげなく姿勢を保つ彼の姿が少し気に食わなくて「むっ」と眉を寄せた。
「もう二度とすんじゃないわよっ」
「……善処しよう」
「ちゃんと『わかりました』って言いなさいよ」
「……わかりました」
「ふんっ、もうこんなヒドイことすんじゃないわよ」
鼻を鳴らしてプイッとそっぽを向く彼女を弥堂は胡乱な眼で見る。
「そうは言うがな。他人のスマホを奪って勝手にSNSを操作するのは酷いことではないのか?」
「だってフォローされてないとDM受け取れない設定にしてるんだもん」
「そういう問題か?」
「そういう問題じゃなくても、こうでもしないとあんた絶対ID教えてくんないでしょ? しょうがないじゃん」
「……ふむ、まぁ、そうか」
希咲はぱちぱちと瞬きをする。
自身の供述に対して何故か納得の姿勢を見せる弥堂へ意外そうな目を向けた。
「えっと……怒んないの……?」
「……なにがだ?」
「んと、正直に言うと、自分でもかなり強引なことしてる自覚はあってさ。絶対怒るだろうなって思ってたから」
「……そう思うんならやるな」
「だってしょうがないんだもん!」
「それだ」
「えっ?」
目を丸くする希咲へ説明をする。
「そうだな。確かに俺の視点で見れば自分に都合の悪いことをされているのだから、不愉快にもなるし憤りもする」
「……そこまで言わなくてもよくない? 女子にフォローされて不愉快になんな」
「口を挟むな。いいか? 逆にお前の視点で見てみれば、普通にやっても要求は通らない。だから普通でない方法を選択する。それは当たり前のことだろう」
「あたり、まえ……?」
「そうだ。つまり、お前は目的の為なら手段を選ばない女であり、俺はそれを評価しただけだ」
「どうしよう……? なんかすっごく罪悪感が……」
「そんなものは野良猫にでも食わせてやれ。お前が襲撃側、俺が防衛側。お前はあらゆる手段を講じて勝ち、俺はそれに対する準備や対応が不足していたから負けた。それだけのことだろう?」
「ごめん……こんなこと言える立場じゃないかもしんないけど。頭おかしいと思う……」
褒めてやったというのに何故かシュンと肩を落とす希咲にただ肩を竦めてやった。
(無論――)
心中で付け加える。
無論のこと、『目的の為ならば手段を選ばない』、そんな危険人物が敵方にいれば絶対に五体満足にはしておかない。
しかし、それが味方ならば話は別だ。
今後彼女には自分の仕事を手伝わせ、便利に利用する予定がある。
その人物が目的の為に手段を選ばないのは非常に都合がいい。
便利に使い潰していつでも捨て駒に出来る。
それを味方と呼ぶのは語弊があるかもしれないが、その程度は誤差だと考える。
弥堂 優輝は脳内で希咲 七海の評価を9段階ほど上方修正した。
「……いま悪いこと考えてたでしょ?」
「……そんなことはない」
見事に勘づかれ希咲にジト目で見られると、彼女から目線を逸らしながら彼女の評価を2段階下げた。
「えっと……じゃあ、このままでオッケーってことよね……?」
「……不本意だがな」
「せっかくだからついでに名前ちゃんとしたのに直したげよっか?」
「大きなお世話だ」
「いいじゃん。なんかこう、おっしゃれーな、プッ……感じに、してあげるわよ……? フフっ……」
「笑ってんじゃねーか。不要だ」
「だってさー。そんな変な文字列の人とメッセしてたら、なんかイカガワシイことしてる気分になりそうで……」
「知るか。大体それを言うのなら、お前の名前にもおかしな文字列があるだろう」
「は? そんなのないし」
「あるだろ。“nanamin”の後によくわからん記号かなにかが――」
「――あっ、これー? えへへ、ねぇねぇ、聞いてよ。これねー――」
「――お、おい」
弥堂は焦った。
女が「ねぇねぇ、聞いてよ」などと言って喋り出すと大抵は長いだけで内容など何もないどうでもいい話だからだ。
「あのね、これちゃんと見てほしいんだけどー、これネコさんなの。ほらっ、見えるでしょ?」
「あぁ」
「ふふ、でしょー? これね、愛苗が作ったのよ。かわいくない?」
「キミの言うとおりだ」
「そうなのよ。んとね、一年生の時にまだ友達になったばっかくらいなんだけどー、愛苗がねedgeやり方わかんないからできないーって言っててね。だからあたしがやったげるーって」
「そうだな」
「ちゃんと聞きなさいよ! そんで、アカウント作ってあげてる時にね、愛苗がこうすればネコさんみたいーって言って、あたしがそれかわいーって言って。んで、あたしも自分のアカウント弄って同じの付けてね、おソロにしたのっ。いーでしょ? かわいーでしょ?」
「………………………………そうか…………そう、だな…………」
弥堂はすかさずオートモードで切り抜けようとしたが、それすら許してもらえずに自主的な同意を強要され、どうにか絞り出すようにして肯定の言葉を口にした。
一気に疲労感が全身に広がる。
「あのさ、よかったら愛苗ともID交換したげてよ」
「……お前な」
弱り目に的確に追撃をしかけてくる彼女の残虐性に顔を顰める。
「そんな顔しないでよ。いいじゃん、そんくらい」
「俺のそれくらいをお前が決めるな。というか、断られるのはわかっているだろう? どうせならさっき一緒にあいつのIDも勝手にフォローさせればよかっただろうが」
「うーん……そうなんだけどさ……」
言葉を探しながら、言葉を選びながら、少し宙に視線を泳がせて希咲は話す。
「そこまではあたしがやっちゃダメなとこかなって……」
「……お前らの関係性がわからん」
「そんなのトモダチに決まってんじゃん。親友よ」
「……」
そのわりには二人の間に立つ天秤が片方に傾いているように弥堂には思えたが、余計なことかと口を噤んだ。
「あの子あー見えてさ。結構遠慮しぃだから、出来ればあんたの方から言ってあげて」
「お前過保護すぎるだろ」
「わかってるけどさ。でもしょうがないじゃん」
「……これは取り引きか? お願いか? もう3つ聞いたぞ?」
「お願いだけど、無理やり聞いてもらいたいお願いじゃなくて、あんたの意思でそうなったらいいなーってお願い……みたいな?」
「……よくわからんな。目的のためなら手段を選ばんのじゃないのか?」
「それはあんただけ! これに関してはあたしの意思でどうこうしちゃダメなことだから、これでいーのっ!」
「やはり、わからん」
「……まぁ、今はわかんなくていいわ。そのうちわかってくれたら嬉しい」
「…………」
何か言うべきかと思ったが、言葉が見つからず弥堂は黙った。
希咲もそれを特に気にすることもなく、気楽な風に話を戻す。
「というわけで、もしかしたらあんたに愛苗のことでメッセ送るかもだから、ちゃんと返信しなさいよ」
「……あぁ」
「既読無視も絶対女子にしちゃいけないことだからね? 戦争だからね?」
「……わかった」
「そんなにイヤそうにしないでよ。女子とメッセできるのよ? あんたも少しは男子高校生らしく嬉しがったりとかないの?」
「……問題ない」
「そ? まぁ、喜ばれてもキモいし、別にいーけど。あたしこれでも結構男子からID教えろとか言われるのよ? 全部断ってるけど。それ自慢するわけじゃないけどさ、そこまであからさまにイヤそうにされるとちょっとモニョモニョする――」
「――うるさいっ!」
「――わっ⁉ なによ! なんで怒鳴るのよ! いきなりおっきい声出さないで!」
「チッ」
「舌打ちもしないで! なんなの⁉ やっぱ怒ってんじゃん!」
「怒ってない」
「怒ってる! うそつきっ! 怒ってないみたいなこと言ってたくせにっ!」
「うるせえんだよ――いや、待て。一回待て」
「あによっ!」
弥堂は眉間を解しながら希咲へ手を向けて制止をした。
「……わかった。俺が悪かった。キミの言うとおりにする」
「……なに? どういうつもりよ?」
「気に入らないこともあるだろう。だが、それは半月後にしよう。今日はもう勘弁してくれ」
「……なんかシツレーじゃない……?」
数年ぶりに泣きを入れた絶望感と戦いながら、懐疑的な目を向けてくる希咲を刺激しないよう弥堂は慎重に説明を試みる。
「……考え過ぎだ。今日はもうキミも疲れているだろうし、俺もうんざりしている。このまま話しても何も生産性はないだろう。時間が経てば流せることもあるかもしれない。だから一旦距離を置こう」
「なんなのその言い方っ! あたしがフラれたみたいじゃない! バッカじゃないの!」
「……そんな、つもりは、ない」
「もういいっ! 帰るっ!」
「助かる」
「なんだとー⁉」
「待て、今のは、ミスだ」
「ホンット、ムカつくっ!」
言い捨てて、希咲は乱暴に道路を踏みつけながら先へ歩いていくが、数歩進んでクルっと振り返る。
「あたし、あそこの橋渡って向こうに帰るから! 一緒に歩きたくないから、あんたは遅れて歩いて!」
「……あぁ」
「あと、『もういい』って言ったのは、メッセしなくていいって意味じゃないからねっ。あとでヘリクツ言わないでよ!」
「……わかってる。だが、下らないことで気安く送ってくるなよ? 関係ないメッセージ1件につき指を1本圧し折るからな」
「メッセくらいでそんなキレんの⁉ ビョーキなんじゃないの⁉」
「……もういいだろ」
「フンっ」
鼻を鳴らしてこれ見よがしに大袈裟に踵を返して、今度こそ彼女は歩いていった。
昨日この道を歩いた時と同じ程度の距離を空けて弥堂も歩き出す。
何だかんだで3つも要求を呑まされた上で何故このような態度をとられなければならないのかと、世の無常と理不尽さに思考を巡らせようとすると、上着の内ポケットに仕舞おうとしていたスマホが鳴る。
嫌な予感を感じながら画面に目を遣ると例によってポップアップが表示されている。
『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばーか』
先程見たものと全く同じメッセージが表示されていた。
一度見た通知がもう一回出ることがあるのかと眉を顰めていると
『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばか』
『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかばか』
『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかばかばか』
『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかばかばかばか』
『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかばかばかばかばか』
次々とメッセージ受信の通知が表示されていく。
その度に『ペポペポペポペポペポーン』と連動する間抜けな音に激しく苛立つ。
思わず前方の希咲へ眼を向けると、彼女は立ち止まってこちらをジっと見ていた。
「…………」
もしかして自分はとんでもなく誤った選択をしたのではないかと絶句していると、彼女はまた歩いていってしまった。
今からでも追いかけてメッセージのやりとりだけでも断るべきかといった考えが頭に過るが、その決断を下す前に希咲は横断歩道を渡り道の反対側へ行ってしまった。
美景台学園の敷地沿いに走る国道。
その国道と途中まで平行するように流れているのが、弥堂の立つ場所から見て道の反対側の土手の向こうにある美景川だ。
希咲は橋を渡って帰ると言った。
橋を使って越えた川の向こう側はここ10年ほどで開発されてきている新興住宅地だ。そこに彼女の自宅があるのだろう。以前に夜中に職員室に忍びこんで勝手に調べた彼女の個人情報とも一致するので嘘ではないだろう。
あちら側まで追いかけてまで撤回するほどでもないかと諦め、弥堂は自分の道を進む。
数分ほどするとまたスマホが『ペポーン』と鳴る。
半ば惰性的に無心で通知を確認する。
『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばいばい』
足を止め橋の方へ眼を向けると、歩道から繋がる階段を昇りきったのだろう、橋の手前で希咲が立ち止まりこちらを見ていた。
弥堂が自分を見たことに気が付いた彼女は、この距離からでもわかるほど――わかるようにか――大袈裟にプイっと身体を振って橋を渡り出した。
弥堂は橋の中央辺りを視る。
それからスマホのロックを解除し通知のポップアップをタップしてedgeを起動する。
すぐに表示された希咲からのDMが連なるメッセージルームを見ながら、何か言うべきかと考える。
だが結局、関係ないかとスマホの画面を落としポケットに突っ込むと帰路の続きを踏んだ。
歩きながら眼を閉じ何かを思う。
ドッドッとアイドリングをするような自身の心臓の音を幻聴してから、眼を開けて横目で橋の方へ目線を飛ばす。
橋をいくらか進んだ希咲がもう少しで中央辺りへ到達する頃合いだった。
目線を横に向けながら歩く。
希咲が中央部を抜けたのが視えた。
目線を前へ向け歩き続ける。
何秒かしてもう一度橋に眼を遣る。
ちょうど希咲が橋を渡り切って、向こう側の道路へ降りていく階段の中へ身を沈めていくところが視えた。
彼女は一度も振り返らなかった。
弥堂は一度眼を閉じてから前方に視線を戻す。
心臓の音も間抜けな通知音も、もう鳴らない。
やるべきことをやるため、向かうべき場所へ向かうだけだ。
――あの後、
『今日も散々だった』と思いながら足を進めていると、気が付いたら目的地に設定していた新美景の駅前に辿り着いており、とりあえず適当な路地を曲がって路地裏に侵入しながら『どうして自分がこんな目に』と考えていると、その答えが出るよりも先に複数人の男たちに行く手を阻まれた。
「イギャアアァァァァ――っ⁉ イダイっ……、イダイィィィっ!」
そして今、その内の一人の耳障りな悲鳴を聴きながら、『まぁ、この程度のことならいつものことか』と俺は納得を得ていた。
ここいらをナワバリにして追い剥ぎのようなことを生業にしている連中だろう。
路地裏に入って一つ目の角を曲がると待ち受けていた様に進路を塞いでおり、月並な台詞を吐いて恐喝をしてきたのだ。
最後まで話を聞くのが面倒だったので、とりあえず一番手近な者の鼻と耳朶を繋ぐ、何のために装備しているのかわからない細い鎖を掴んで引き千切ってやったところだ。
悲鳴をあげた男が上体を折って顔を両手で抑えて蹲るのを見て、奴の仲間たちが遅れて事態を呑み込み口汚い罵声を叫びながら殴りかかってくる。
遅い。素人め。
不格好に右を振り回しながら突っ込んできた男の腕を首を捻って潜り、合わせるだけの掌底を相手の顎に当てて叩き割る。
先鋒があっさりと沈められたのを見て、次の男は思わず足を止める。
その体重が乗った前足の膝を横から踏みつけ圧し折る。
この連中に呼び止められたのと同時に、退路を塞ぐように背後から現れていた男が踵を返して逃げ出したのが視界の端に映ったが、あえて見逃すことにする。
無事な敵はあと一人。
あっという間に全滅した仲間たちに茫然としながら、緩慢な動きでズボンの後ろポケットへ手を回すのが視えた。
最初から抜いておけ、間抜けが。
無防備にガードを空けた腹に前蹴りを叩き込んでやるとあっさりと白目を剥いて倒れる。
その身体の脇には玩具のようなチャチな折り畳みナイフが転がっている。
そのナイフを爪先で奥へ蹴り飛ばしながら、未だに悲鳴をあげている最初に無力化した男の髪を掴んで無理矢理顔を上げさせた。
「おい」
「イダあぁぁぁぃい……っ! イデェよぉぉぉ……っ!」
「無視してんじゃねえよテメェ。殺されたいのか?」
「だっでぇぇぇ……だっでぇぇぇぇ……っ! 鼻がぁぁぁぁっ、オデの鼻と耳ぃぃ、とれちゃっだぁぁぁぁあっ!」
「とれてねえよ」
「だっでぇぇぇ。血ぃぃぃっ。血ぃいっぱいででるぅぅぅっ!」
「それは鼻水だ」
自らの鼻を指差しながら出血を訴えてくるクズにそう言ってやると、男は手で確かめるように顔を触ってその手に付着したものを見る。
「やっぱり血ぃぃぃっ⁉ 血ぃ出てるぅぅぅっ⁉」
「そうか。それが出てるということはお前は生きているということだ。出なくなったら死ぬ。よかったな」
「デメェェェェっ! どこのモンじゃゴラァァァっ! オレにこんなことしてタダですむと思うなよ⁉」
「そうか。それは恐いな。で? 誰が俺をタダで済まさないんだ?」
「アァっ⁉ そんなの決まってんだろ! ここには俺の仲間ダヂが……」
周囲に目を遣りながら息を巻く男の声が尻すぼみに消えていく。
「仲間? どこにいるんだ?」
「……嘘だろ…………一瞬で全員ヤったってのか……?」
「ようやく状況がわかったか。ところで、これからお前の鎖骨を圧し折ろうと考えているんだが問題ないな?」
「まままま、まってくれっ! やめてくれ! どうしてこんな……っ!」
「どうして?」
打って変わって命乞いをする男を睨みつける。
「ケンカを売ってきたのはお前らの方だろう? 金を置いていけとか言ってなかったか?」
「ち、ちがうっ! あれは違うんだ……っ!」
「そうか。違うのか」
「そ、そうなんだ……! だから、な……? カンベンしてくれよ」
「許して欲しいのか?」
「……えっ?」
「許して欲しいのか、と訊いている」
ふと、これまでに何度こいつらみたいな連中と、このようなやりとりをしただろうかと思いつく。
全ては記憶の中に記録されているので、やろうと思えば一つ一つの出来事を掘り起こして数えることも出来るのだが、そんなことをしても意味はないので考えを振り払う。
うんざりするほど繰り返していようが、必要があるのならば俺はこれからも何度でも繰り返すからだ。
「ゆ、許してぇ……っ! 許してくれぇ!」
「そうか。じゃあ、許してやる」
「えっ……? あっ……、えっ?」
ルビアに習ったチンピラを痛めつける時の作法のようなものの一つだが、俺自身としてはどんな意味があるのかということは実はよくわかっていない。だが一定の再現性と効果があるのも事実だ。
そして今目の前にいるこいつも、これまでの大多数と大体同じ反応をしている。
「許してやると言ったんだ。不服なのか?」
「いっ、いや、そんな……とんでもねぇ……っ!」
しかし、どうせ追加で痛めつけるのならば最初に全部やってしまった方が効率がいいように俺には思えるが、そういう問題でもないのだろう。
そういえば、別の話だが、エルフィーネから拷問のやり方を教わった際に、初っ端で生存を諦めてしまうような大怪我をさせてはいけないと習った。
「どうだ? 俺は優しいだろう?」
「……あ、あぁ……っ」
対象に生還の希望を抱かせたまま、情報が出てこなくなるまで少しずつ人間としての機能を奪っていけと言われた。
「笑ってんじゃねえよクズ」
「ウボェェっ……⁉ ヴェェェっ! ウゲェェェっ!」
それも加味して考えれば、やはり手順というものは大事で、最初に総ての結果を持ってきてはいけないということなのだろうなと考えた。
「……ん?」
思考を切って足元を見れば会話をしていたはずの男が悶えている。
いかんな。
こういった場面でまで集中力が散漫になっている。
いくら実力差があろうと、こういった油断一つであっさりと殺されてしまうこともある。
ここのところ何度もそうしているように、気を引き締めねばとは思うが、結局のところそうしてまで達成しなければならないような目的がもうないので、きっとどうにも変わないのだろう。
それに、死んではいけない理由も特にないので別に構わないか。
そんなことを考えつつ、そういえばこの男に追撃は与えただろうかと目線を宙空に遣る。
ルーティンのように流れで対応してしまったのでそのあたりが定かではない。
それに鼻血が溢れて顔を抑えていたので、こいつが笑っていたかどうかもちゃんと見ていなかった。
記憶を探れば確認は出来るが、その工程すら面倒なので念の為蹴っておくかと、悶絶する男のケツに一発ぶちこんでやるとエビ反りになって地を転がった。
運がなくて可哀想な奴だと思うが、まだ気絶してもらうわけにはいかない。
俺の用件はここからだ。
複数の男の呻き声や泣き声が響く路地裏を見渡し、どいつでもよかったのだが一番近くに落ちていたので、今しがた蹴った男の髪を掴んで顔を上げさせる。
「ヤベデっ……! もうヤベデくだざい……っ!」
「ふざけるな。俺の用件は済んでいない」
「よっ、用件……っ?」
涙を流して懇願する汚い顏に近づきしっかり目を合わせて視線で拘束する。
「そうだ。用もないのにお前のようなゴキブリしかいない汚い場所に来ると思うのか?」
「グッ……! じゃ、じゃあ、オレ達に何の……?」
歯を噛み締めながらも男は下手に出る。ここで激昂しない程度の知能はあるようだ。
まぁ、最終的には同じ結果になるのだが。
とっとと過程を消化してその結果へ辿り着くことにしよう。
「おい、お前ら。誰に断ってここでデカいツラしてる?」
「はっ……? え? いや、ここはオレたちの……」
「ここは佐城さんのシマだ。お前らギャング気取りのゴキブリはとっとと出ていくか、さもなくばショバ代を払え。そうすれば存在することは目溢ししてやる」
「さ、佐城だと……? テッ、テメェっダイコーか! 佐城んとこのモンかよ⁉ こんなことしてタダで済むと――」
「――タダで済まさねえって言ってんのは俺だよ。マヌケが」
「ち、ちくしょう……っ! なんで……、なんでこんなことに……っ」
「なんで? 簡単なことだ――」
掴んだ髪を引っ張ってしっかりと俺の眼を見えるように男の頭を調節し、逆の手で拳を握る。
「――運がなかったのさ」
「ギャヒィェっ⁉」
必要なことは言ったので男を昏倒させる。
「おい。とっととこいつを連れて消えろ。お前らの飼い主に伝えるといい。ここらは外人街の領地になり、そしてそれを管理するのは佐城さんだとな」
残った連中にデマを吹き込んで追い払う。
奴らはヨタヨタとしながら呪いの言葉を吐いて逃げて行った。
とりあえず、ここでのタスクは終了だ。
こうして適当な奴の名前を出しながら目に付いた全ての勢力の連中を片っ端から殴っていく。
それにより各勢力は疑心暗鬼になり、あちこちで小競り合いが起きるだろう。元々仲がいいわけではない連中だ。そうなるのは容易に想像が出来る。
俺の正体に気付かれる前に、どこの勢力とどこの勢力が出会っても抗争が起きるくらいの地獄が出来上がればまぁ上々といったところだろう。
こんな嘘はすぐにバレるだろうが、しかしだからといって、それまでの間に自分が殴られたことを奴らは忘れない。
怨恨はいつまでも燻り各勢力の関係性は必ず悪化するだろう。
その後のことはそれから考えればいい。
どうにかして例の新種のクスリとやらの出所と、出来ればその製法にまで辿り着きたい。
それまでせいぜい不安定なこの街の路地裏の情勢を利用させてもらうこととしよう。
さて、これからどうするかと辺りを見渡す。
引き返して別の路地裏に入ってもいいし、このまま進んでもいい。
ここらの路地裏ならどこに入ってもさっきの連中のようなギャングどもに会えるだろう。奴らはこの辺をナワバリにして、各所に10人以下で組ませたチームをうろつかせている。
この美景市の街では様々な理由があり大体15年ほど前から、ここらの闇社会を仕切っていた地回りのヤクザの力が落ちていっている。
暴力団に対する取り締まりを強化したことが最も大きな要因だが、奴らの影響力が削がれるに連れて別の勢力が幅を利かせるようになった。
その一つが不法入国者や不法滞在者などが多くを占める、この駅の反対側の北口の奥をスラム化して根城にしている外人街の連中であり、もう一つがさっきの連中のような昔のままだったらそのままヤクザの手下になっていたはずの不良のまま大人になっちまって行き場を失くした所謂半グレどもだ。
悪を一つ消したところで別の悪がそこに住み着くだけだ。
人間が一定数いればそこには必ず犯罪がある。
それを解決しようとは全く思わないし、何なら俺自身はある程度は必要だとも考えている。
それを誰かと議論するつもりもなければ、その命題に対する答えにも興味はない。
ただ、そこにあるのなら利用させてもらうし、必要性があればいくらか滅ぼすことも時にはあるだろう。
路地裏の奥へ眼を遣る。
後にして考えてみればきっとここからの選択が誤りであったのかもしれない。
昨日新美景駅の南口の繁華街の路地裏の入り口を視て、酷く空気が汚れていると感じた。
今居る場所の奥はさらに汚く視える。
引き返してもいいし、奥に進んでもいい。
この時点で俺に未来を予測することは出来ないし、結果はどっちに転がる可能性もあっただろう。
だから、結論としてはただ運が悪かっただけのことであり、そしてだからこそ救いようがない。
さらに言うのならば、だからこそ俺という――弥堂 優輝という人間に非常に相応しいと云える。
俺は路地の奥へと進むことを選択した。
この新美景は治安が悪いと有名だ。
先に述べた理由から一般的にもそう知れ渡っている。
だが、俺に謂わせれば、かつて俺が過ごしていた場所に比べれば遥かにマシと謂えるだろう。
メインストリートからこうして路地裏に入っても、すぐに大人・子供入り混じった物乞いに囲まれ財布をスラれることもない。
そこから一つ角を曲がっても、そこにはすでに抜刀済みの武装したチンピラの集団が待ち受けていたりもしない。
ここにはさっきの奴らのように、敵と戦闘状態に入ってから慌ててエモノを取り出すようなマヌケばっかりだ。
さらにもう一つ角を曲がっても路上に座り込んだり横たわったりしている麻薬中毒者や餓死寸前の者も一人もいない。
ここまで奥に歩いて来ても死体の一つも見かけはしない。
この街はとても綺麗だ。
足を止めて道の奥を、路地裏に入ってから3番目となる角を視る。
この奥は一層と汚れている。
そしてそれに懐かしさすら感じる。
だが、この奥に進んだところできっと何もないのだろう。
水無瀬 愛苗に一層干渉され、希咲 七海に頻繁に絡まれるようになり、どうしてこうなったと嘆いてみたとしても、それは所詮日常の延長であり範疇だ。
ここでの日常であり、かつての日常ではない。
そう安易に考えて不用心に足を進める。
ある程度歩を進め曲がり角に近づくと、頬と耳の付け根あたりにピリッと微弱な静電気のようなものが走ったような感覚がした。
いつだったか。
6年前だか7年前だったか。
あの時もこうして暢気にアホ面下げて道を歩いていて、不意に闇の中へ引きずり込まれたというのに。
『世界』の路地裏、ヒトの闇の中へ。
まったくを以て学習をしない。
そのように反省をするのはこの時よりもう少し後なのだが、この時点での俺は曲がり角に近づくに連れて大きくなる異変の気配に気をとられていた。
それでも足を止めなかったのは、ガキのように日々に退屈していて刺激でも求めていたか、それとも別のなにかを求めていたのだとは決して認めたくはないが、しかし後から何を思おうが起こった事実は変えられない。
最初に異変を伝えてきたのは音だ。
音というか声。
人間の話し声ではなくナニカの鳴き声。
甲高く、ガラスを擦った時のような不快で耳障りな鳴き声。
それとともに何かが破砕するような破壊の音に、重量のあるものが駆けまわっているような振動。
距離が縮まるに連れて大きくなる異音とともに、ドッドッドッドッ――とこの胸に納まった心臓の音が頭蓋骨の中で反響していく。
眼球の裏側に鈍痛を感じながら、それを無視して角を曲がった。
そこはちょっとした広場のようになっていた。
無計画に無秩序に適当に建てたようにしか思えない4つの雑居ビルの壁で描かれた、不格好で歪なひし形のような場所。
広場とは言ったが、そこまで面積があるわけでもない。
そこの入り口に立つ俺からは全体が十分に見渡せる。
しかし俺はその全体を俯瞰することはなく、その中の一点を凝視していた。
一瞬、思考を失う。
俺がこの広場に入ると同時くらいだろうか。
広場の中央付近の上空から何かが落下してきて、それは地を滑って向こうのビルの壁に激突をした。
そいつに視線を奪われる。
それは獣。
四つ足でほぼ全身に毛の生えた――体長1m前後だろうか――かなりサイズのある大型犬よりも大きな獣。
ギィギィと耳障りな声を鳴らしている。
先程からの異音はこいつのものだったのだろう。
しかし、俺が瞠目しているのは、その大きな獣は犬などではなく、サイズを考慮しなければどう見てもドブネズミにしか見えなかったからだ。
ネズミにしか見えないがネズミには有りえない大きさ。
珍種や変異種などではなく、誰が見ても一瞬で理解出来るほどの純粋な異質。
この空間において圧倒的な存在感を放ちながらも、何故か生命力を感じさせない歪さ。
その姿を目にした者に、この世にいてはいけない生物だと直感的に悟らせる異様さと悍ましさ。
血走った目玉、歯の隙間から零れる涎。
完全に興奮状態だ。
本来であればとっとと逃げるなり身を隠すなりするべきなのだろうが、間抜けにもヤツに見惚れたように棒立ちで俺は突っ立っていた。
こんな所にこんなモノが居るのかと、意外というか、感心したというか、どう表現していいかわからない感情の処理に手間取っていた。
ギョロリとヤツの目玉がこっちを向く。
完全に目が合った。
こんな所にボーっと突っ立っている脆弱な人間など、ヤツにしてみれば割のいいエモノ以外の何物でもないだろうが、特にこちらに襲いかかってくるようなことはなかった。
異質な獣の目玉が俺よりも上にずれて上空を向く。
俺がヤツに夢中になっていたように、ヤツもまた何かに夢中のようだ。
他にも何か異質な存在がいるのかと、ヤツの視線を追って俺も上空へ眼を向けた。
しかし、そこに居る者を視界に捉えるよりも速く、空から光が堕ちる。
光といってもそれは光弾。
サッカーボールほどの大きさだろうか。
ピンク色の球体がネズミ目掛けて落ちてきた。
それはネズミの立つ地面の手前に着弾し、アスファルトの地面を弾けさせごく小規模なクレーターを生み出しつつ、衝撃で破片ごとヤツをビルの壁に叩きつけた。
そのショックとダメージからヤツが立ち直るよりも速く二の矢が迫り、今度は獣の身に直撃した。
ガラスを擦り合わせたような不愉快な断末魔をあげ、ソレはあっさりと絶命した。
乾いた泥人形が崩れるように細かくバラバラになりながらネズミは砂に還っていく。
その砂のような粒は空気に溶けるように消えていき地に積もるようなことはない。
どう見ても尋常な現象ではなかった。
そうして、ネズミの化け物だったモノはその存在が
ヤツが居た場所にはその存在の、魂の欠片すら残っているようには視えず、ただピンク色の光弾により抉れた地面と、砕けたビルのコンクリの壁が残っているだけだ。
その現場を凝視していると、信じられないようなことが起こる。
スマホでもPCでもTVでも、何でもいいが、映し出されていた映像が次の映像に切り替わったかのように、パっと今しがた俺が視界に捉えていた破壊跡が綺麗さっぱり消え失せた。
地面も壁も元通りに戻っている。
まるでこの場には何も居なかったかのように、何事もなかったかのように。
なかったことにされた。
在ったはずのモノがなくなる、あるはずのない出来事。
そんなよくわからないことが目の前で起こった。
俺はもう一度上空に視線を動かした。
先程は視ることの叶わなかった、恐らくこの現象を起こしたと思われる存在がそこに居るはずだと。
そこに居たのは、空中に立つように浮かんでいたのは少女だった。
俺のほぼ頭上、そこにこちらに背を向けて立っている。
背というか尻か。
地面に立つ俺から見れば下から覗く恰好になるので、角度的にまともに視認出来たのはヒラヒラとした短いスカートの中のピンクと白の縞々おぱんつだ。
空飛ぶ尻という在りえない存在がそこに居た。
ここでもおぱんつが俺の前に立ち塞がるのかと場違いな感想が浮かびうんざりとするが、これも希咲のせいだと脳内でここには居ない彼女に責任を擦り付け、改めて頭上をよく視る。
無秩序に建てられた4つのビルの隙間から覗く空。
歪な四角形で切り取られたその空は、まるでヒトの魂を閉じ込めた牢獄に空いた眼窩の窓から覗く外の『世界』のようだった。
そこに舞い降りたその少女は、惨めに収監された俺という罪人を救いに来た――のではないのだろう。
きっと、俺という罪人を断罪しに訪れた天使なのだと、直感的にそう思ってしまった。
そいつを睨みつけてみれば、それはただの錯覚だとすぐにわかる。
彼女の姿恰好から見覚えのあるものを連想させられる。
あのネズミが何で、この少女が何なのか、確定的な事実は何一つわからない。
一つだけわかることは、退屈で代り映えのない日常は今この瞬間に終わったのだということだけだ。
だが、それでも、これが意味のあることなのかは、それもまだ俺にはわからない。
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