1章78 『弥堂 優輝』 ⑫


 俺が召喚された異世界は本当にクソッタレな世界だ。



 年中どこかで戦争をしているし、仮に国と国の戦争で完全に決着がついた際には、敗戦国は民族浄化をされる。


 その国に根付いた文化や歴史は物理的に全て燃やされるし、その国の人間も基本的には皆殺しにされる。そしてそれをやった国も他の国に敗ければ同様の目に遭う。



 だから文明は発展せず文化も継承されず、歴史は教会が編纂しているものしか続かない。


 何千年も続いている世界のはずなのに、いつまで経っても中世レベルから脱却できないのだ。



 当然そんな世界では誰一人として人権などというものは持っていないし、だから他人のそれを尊重することもありえない。



 俺もあの世界でそれなりに酷い目に遭ってきたし、俺の出会った人々も大抵は酷い目に遭っていた。


 そんな中で、エルフィーネは俺の知っている限り最も酷い目に遭っている人だ。


 クソッタレなあの世界で最も虐げられていた人だと思う。



 その理由としては、やはり彼女がハーフエルフだからだろう。


 人間の利権を守る為の魔族差別、そこから派生したエルフ差別、その欺瞞を隠す為のハーフの差別。


 ハーフエルフというのは人間の醜さの象徴だ。



 ちなみに“エルフィーネ”というのは名前ではなく言葉だ。


『エルフの女』という意味で、名前ですらない只の『人間ではない』ことを表すための記号でありタグだ。


 人間社会において彼女は何者としても扱われない。



 そして、人間の醜さの象徴であるハーフエルフ――それに対する皮肉かのように彼女たちは美しい。


 欺瞞から生まれた嫌悪ではその美しさに抗うことは出来ず、彼女らは人間社会の中でしばしば性の処理道具として消費される。



 俺の師であり恋人であるエルフィーネもそうだった。



 彼女は教会の保有する最も特殊な孤児院で育ち、暗殺者として育てられた。


 人殺しの技術だけでなく教会の聖典に記された教義も強く教育されている。



 彼女は表向きの身分を偽装する為に修道服を着ることがあるが、ハーフエルフである彼女はシスターとして認められていない。


 並の司祭よりも教義への理解が深いが、決して認められないのだ。



 彼女は教会が異端だと認定した者の内、表だって糾弾出来ない標的を始末することを主な役目とされてきた。それ以外の時はシスターとして通常の業務を行っていた。


 スパイ活動の中で、グレッドガルドにメイドとして潜り込んだが、標的にしたイカレ女がイカレ過ぎていた為に逆に洗脳され、今では教会暗部から出向した護衛ということになっている。


 一応セラスフィリアの言い訳としては、教会の洗脳があまりに強かったから、より強い洗脳で上書きするしかなかったと供述している。


 俺はそれを信じてもいないし、疑ってもいない。



 そんなエルフィーネの仕事は上記の内容だけではない。



 それは性処理道具として聖職者どもの玩具になることだ。



 彼女は暗殺者として身分を偽装し標的の寝床に潜り込むこともあるので、“そっち”の技を身に着ける必要があるとして、まだ幼かった時からそういう訓練を施されてきた。


 クソッタレな建前にも聞こえるが、彼女の任務の性質上の必要性を問われれば、もしかしたら必要な訓練なのかもしれない。


 心情的に俺は反論をしてやりたいが、彼女のやっていることを考えれば強く否定することも出来ない。



 だがそれでも、やはりこれは建前であり詭弁なのだ。



 聖職者というのは――特に要職に就く者は純潔であることを求められる。


 神に童貞や処女を捧げているらしい。



 これは聞く価値のない戯言だが――


 性行為の定義とは、新たな生命を神から授かる為に男女が目合うことである。


 だから、相手が人間でなければ性行為をしたことにならないそうだ。



 このクソみたいな詭弁を成立させる為に、ハーフエルフや亜人は人間社会で長い間一定の需要を保たれてきた。



 孤児院で育てられた時期はそうやって複数の変態ジジイどもの玩具にされ、暗殺者として運用されるようになってからも部屋に呼び出され個別に相手をさせられていたようだ。


 エルフの女は聖職者たちからだけでなく、当然他の立場の人間からも抱き枕として評判が高い。教会が癒着をする各国の権力者たちにも提供された。


 それはグレッドガルドに潜伏してからも変わっておらず、教会からの指示で同様の行為をすることもあれば、セラスフィリアが会談に訪れた賓客へ彼女を提供することもあった。



 セラスフィリアはエルフだからとエルフィーネを蔑んだりはしない。


 だが、それとは別で使えるものは何でも有効に使う。


 俺はあのイカレ女のそういうところを高く評価している。そして同時に強く軽蔑もしている。



 だから娼婦をしていたルビアや、枕営業をしていたリンスレットと比べても、エルフィーネは相手をした男の数が飛び抜けて多い。数えきれないほどだろうし、数える気にもならないだろう。


 彼女自身が望んでそうしたことは一度もなかったのだから。



 エルフィーネに纏わるその事実を俺が知ったのは彼女と恋人になってからで。


 そしてそれを聞かされたのは本人の口からではなく、セラスフィリアからだった。



 不誠実なエルフィーネが恋人である俺に黙っていることに見かねて――などでは当然なく、目的は俺への嫌がらせだ。



 この時期の俺はセラスフィリアにとって、どうも手綱を握りづらいと思われていたようで、よく「命令を拡大解釈するな」だとか「常識で考えろ」だのと理不尽な文句を言われていた。


 世界一治安のいい国で生まれた俺に対して、こんな野蛮な世界の民度の低い国の為政者が常識を問うとは酷い侮辱だ。俺は遺憾の意を表明した。


 だから俺を弱らせる目的だったのだろう。


 俺はこれでもセラスフィリアやエルフィーネを見習って徹底的に仕事をすることを心掛けていたのに。


 あとはセラスフィリアへの嫌がらせのために彼女の妹に手を出したことを根に持っていたのかもしれない。



 俺はある日イカレ女に呼び出される。


 指定された場所は賓客に提供する寝室だ。


 その部屋で待っていたのはセラスフィリア一人で、護衛のジルクフリードも居なければエルフィーネも連れていない。



 何のつもりだと警戒する俺をイカレ女は併設された隠し部屋へ連れ込んだ。


 そこは護衛や刺客を潜ませる為の、小部屋と呼べるかどうかも怪しい狭いスペースで、隣のVIPルームの様子がこちらからだけはよく見える。



 俺と一緒にそのスペースに潜り込んだセラスフィリアは、しばらくこのまま待つように俺に命令した。


 俺はこのイカレた女が生理的に無理なので、こんな奴とこんな狭い場所で密着するのは嫌だったのだが、命令だから仕方ないと従う。



 すると、しばらくして隣のVIPルームに人が入ってくる。


 エルフィーネと高級そうな服を着た肥満男だ。



 説明するまでもないが、そういうことだ。


 セラスフィリアは嗜虐的な笑みを浮かべながら、俺の耳元でその聞くまでもない説明を囁いた。



 正直に言うと、目の前の光景に俺はそれなりにショックは受けていた。聞かされた事実にも。



 とはいえ、その女が男に慣れているかどうかは抱けば大体わかる。


 俺が身体の関係を持ったのはルビアやリンスレットを筆頭に慣れている女が多かったが、ルナリナやセラスフィリアの妹のように男を知らない女もいた。


 行為中の反応の差を見比べれば慣れているかどうかはすぐにわかる。


 だから、エルフィーネが男に慣れていることは当然わかっていた。



 俺がショックを受けていたのは、彼女の男性遍歴や性処理道具として扱われていた事実に対してではない。



 俺との行為中、エルフィーネは基本的に自分からは何もしない。


 恥ずかしそうに後ろめたそうにしながら声を潜めてされるがままになっている。


 それがこの時はどうだろう。



 見た目の年齢通りにまるで天真爛漫な少女のように、可憐にあどけなく、そして少しか弱そうに無垢に振舞っている。


 普段の彼女は表情に乏しく、実年齢相応の知性を以て、抑揚のない喋り方をする。


 その彼女が豚男を悦ばせる為にこう振舞っているのだ。


 そのギャップに俺は打ちのめされたのだ。



「素晴らしい」と、思わずそう小声で漏らした俺に、セラスフィリアは不可解そうに眉を寄せた。


 こうまで仕事に対して徹底的に完璧に演じきれるとはリスペクトに値すると――



 そうコメントした俺に、イカレ女は口を半開きにして数秒固まり、それからまるで化け物を見るような目を向けてきた。


 なんだこいつと、内心軽蔑をしながら俺はエルフィーネの仕事に目を向ける。



 自分の女が他の男の相手をしていることに何か思うことがないわけではないが、しかしそれを言いだしたら大体の女は基本的に俺と出会う前に既に他の男とナニかしらの行為に及んでいるのだ。


 だからそんなことを気にしても全く意味がない。



 俺はそういう風に考えているし、それにそもそもルビアが毎晩色んな男とヤっているのを聞かされてきたのだ。十分耐性が出来ている。


 そういえばルビアは俺に「女を教えてやる」と言った。


 もしかしたら「女なんてこんなもんだ」「夢見てんじゃねえよ」ということを、俺に教えていたのかもしれない。


 8割はあのクソ女の趣味だろうが。



 しかし、それはそれとして――



 だとしてもだ。


 これはエルフィーネ自身が望んだことではないだろうし、見ていたらなんかイライラしてきた。



 なので、エルフィーネの苦しみを少しでも味わわせてやろうと、俺はこんなことを企てたイカレ女に手を伸ばし、性的な嫌がらせを行うことにした。



 セラスフィリアはすぐに俺に殺意の籠った目を向けてきたが、「声を出せるものなら出してみろ」と彼女を脅迫し、エルフィーネの嬌声に合わせて「まるでお前があの豚に犯されてるみたいだな」と辱め、執拗にイカレ女を責め立てた。


 ついに俺がイカレ女をやり込めることが出来たようにも思えるが、実際これは俺にも誤算だった。



 俺とて、この鋼の精神を持った女が生娘のように悲鳴をあげるとは思っていない。


 だから魔術で俺を氷漬けにするなりで、すぐに止めてくると思ったのだ。



 だが、セラスフィリアは悪態を吐いたり、口では毒づいてはいるものの、碌な抵抗をしてこない。


 なんなんだこいつ。


 おかげで俺は引き際を見失う。


 見失ったし、だからといって俺から止めるのはまるで負けたような気になる。



 自分の女が豚に玩具にされているのを見ながら、この世で一番嫌いな女にセクハラをするという、意味がわからないというか、地獄のような時間を経験をした。


 全てイカレ女が悪い。


 最後までしなければ浮気にならないし、この女を抱いたことにもならないと自分に言い聞かせ、俺はこの屈辱的な行為を耐え忍んだ。




 当然だが、エルフィーネほどの達人が、壁一枚向こうでこんなことをしていれば気が付かないわけがない。


 次の日の晩に、彼女は俺の部屋に来るなり泣き始めた。



 恋人関係になってから、彼女は何もなければ基本的に夜は俺の部屋に来ていた。


 来ない日は、まぁ、そういうことだったのだろう。



 だがそれが仕事である以上やらねばならないし、俺にはそれに文句をつける気はない。


 そのように伝えると彼女は何故かもっと泣き始めた。


 なんでだよ。



 どうやら彼女は傷ついているようだったので、俺はフォローすることにした。


 俺が隣にいることに気付いているのに、それをおくびにも出さずにあのキャラを演じきれるのは称賛に値すると、そのように彼女を褒めたら壊れたように泣いた。


 本心から褒めたつもりだったのだが、どうしてこうなる。


 意味がわからなかったが、彼女はもしかしたらメンヘラというやつなのかもしれない。


 だったら仕方がない。



 俺は面倒になりとりあえず彼女を一回抱くことにした。ヤればなんとかなるとルビアが言っていた。



 彼女は抵抗することなく押し倒される。


 そして「ごめんなさい」「ごめんなさい」と泣きながら繰り返した。



 エルフィーネは普段謝る時は「申し訳ありません」と言う。


 彼女は泣くと言葉遣いが幼くなる癖があった。


 そして行為中はこうして「ごめんなさい」と繰り返すのだ。



 俺は一つ思いつき、彼女の耳元へ口を寄せる。


「昨夜はそんなんじゃなかっただろ? 俺とじゃやる気が出ないのか?」と囁いたら、彼女の瞳から光が消えた。


 そして子供の様にギャン泣きをする。



 おかしい。


 てっきりそういう性癖なのかと思って喜ばせようとしたのだが、どうも逆効果だったようだ。



 エルフィーネは泣き笑いを浮かべながら、昨夜のような演技をし始める。


 だが昨夜とは打って変わって演技が下手くそになっており、なんか非常にマズイことをしているような気がしたので止めたら、何故か「何でもするから捨てないで」と縋りつかれた。


 俺も俺で段々イライラしてきたので、滅茶苦茶なことをしてしまった。



 女の考えていること――というか、人の気持ちがさっぱりわからない。


 他人の嫌がることを見抜くのは大分得意になったつもりだったが、その逆はまるでわからなくなってしまった。



 エルフィーネはその業と同様に、ある種超越した精神を持っているのだとばかり俺は思いこんでいたが、全然そんなことはなかったようだ。


 彼女はずっと傷ついていた。


 だが、それを強烈な信仰心と洗脳の効果で抑え込んでいたのだ。



 彼女は人間社会の中で一人だけ蔑まれ、ずっと独りぼっちで生きてきた。


 何十年もの間ずっと張りつめていたものが、俺とこうなったことで緩んでしまったのだろう。


 だからよく泣くようになった。



 それがいいことだったのか、悪いことだったのかは今でもわからない。


 どっちだとしても同じだ。


 彼女はもう生きていないのだから。



 俺はエルフィーネのことを愛していた。それは間違いなく神に誓える。


 だがやっぱり恋はしていなかったのだと思う。


 そして、それは彼女も同じだと思う。



 俺たちは形上は恋人だったが、だが二人とも出来損ないの生き物なので、その関係もやっぱり出来損ないだった。



 俺たちの関係は結局傷の舐め合いだ。


 この国、この世界の中で、何処に行っても異物にしかならない同士。


 自分よりもどうしようもない生き物を目の前に置くことで、自分を慰めていたのだろう。


 俺も、彼女も。



 俺はこう思っているんだがお前もそうか? と尋ねると、彼女はまた泣き出して謝罪を繰り返した。


 やはり確認するまでもないことのようだった。


 気にするなと彼女を許してやる。




 そんなエルフィーネにある日、街に出かけようと誘われる。


 それは教会の総本山である聖都に仕事で訪れていて、それが終わった時だった。



 彼女は基本的に何もしていない時は余計な口を聞かずに、静かに俺の声が届く範囲にただ居る。


 だからこんな風に彼女の方から自己主張のようなことを言ってくるのは初めてのことだった。



 俺は特に何も考えずに了承する。


 特に他にすることもないし、俺たちの関係を考えればそれをするのは別に不自然なことではない。



 女が普段と違う言動を急にしたら、それは疑うべきことなのだと、そんな簡単なことが俺にはわかっていなかった。


 そして、この時のことでそれを学んだ。



 適当に街を見ながら歩いて市場に行く。


 適当に露店を冷かしてから、安い蒸し芋を二人分買って適当な所に並んで座って食べる。


 それからまた適当に歩く。


 行き先は彼女が決めていた。


 任務中以外はいつも後ろを着いてくるだけの彼女に手を引かれて歩いた。



 やがて人通りの少ない場所に来る。


 まばらに立ちんぼの女が立っている。辺りの建物は連れ込み宿のようだ。


 聖都にもこういう所はあるのかと考えていると、エルフィーネに手を引かれてその内の一軒に連れ込まれる。


 彼女の方からこういう誘いをするのは増々珍しいなと呑気な感想を浮かべた。



 板で仕切っただけの狭い部屋には黴臭いベッドが一つ置かれているだけだ。


 両腕を首に回され俺は彼女に引き倒される。




 突然話が変わるようで申し訳ないが、ここで“刻印魔術”を一つ紹介しよう。


 俺の知る限り最も最低な魔術だ。



 “刻印魔術”は下等な魔術だとされている。


 その中でもとりわけ“反射魔術アンダースペル”は蔑まれている。


 その理由は前に説明した通りだ。



 だが、その時に説明しなかった、“刻印魔術”が蔑まれるもう一つの理由がある。



 それはとある“反射魔術アンダースペル”とその使い方のせいだ。



 ある刻印を身体に刻む。


 その刻印に他人が触れると、刻印を打ち込まれた者の魔力を燃料にして爆発するというものがある。


 要は自爆用の刻印で、これは主に暗殺に使われた。


 適当にその辺の物乞いの身体に刻んで対象に近づける方法がある。俺も何度かやられた。スラムの子供に集られたと思ったら爆発し、殺されたことがある。


 しかし、これが最も恐れられたのはハニートラップに使われる時だ。



 女の身体の外からは見えない場所に刻印を刻む。


 そして標的の男がまんまと侵入して“そこ”に触れれば――



 これの標的になるのはやはり立場のある者たちだ。


 だから教会や魔術協会から規制と圧力をかけられ、忌み嫌われるものになったのだ。



 俺はエルの上に覆いかぶさる。


 彼女は俺の首を引いて一度口づけをすると、俺の頭を抱き込むようにして耳元で何かを囁いた。


 何かどこかの場所のように聴こえたが、それを聞き返す前に彼女は力を緩めて俺の頭を解放した。



 そして俺の眼を見つめてくる。


 あとでまた聞けばいいかと、俺は流すことにした。



 腰をずらして位置を調節して狙いを定めて押し当てる。



 エルは俺の眼を見つめながらうっすらと涙を浮かべ、



「申し訳ありません」



 と、そう言った。



 いつもは顔を逸らしているのに、今日は本当に珍しいなと馬鹿な感想を抱いて、俺は彼女へ進む。



 そして、“そこ”に触れた――




――その瞬間に何もかもが真っ白になる。



 意識どころか身体ごと。



 快楽以上にトべる灼熱と衝撃が何もかもを吹き飛ばした。



 何かが起きたことに気付いたのは、『死に戻り』をしてからだ。



 だが、何が起きたのか、まるで理解が追いつかない。



 意思と生命が戻った時にはそこら中が瓦礫の山で、火の手も上がっている。



 魔術師に建物ごと攻撃をされたのかと考えたところで、エルのことを思い出す。


 慌てて下に眼を向けると、そこにはあまり何も無い。



 血と肉片が飛び散って、一目で彼女とわかるようなものは何も無い。



 反射的にそれを視ようとした右目を抉り出す。


 だが、そんなことをしても無駄だ。



 ポツ、ポツと雨が落ちてきて、すぐに土砂降りとなった。



 やめろ、彼女を流すなと地面を手で押さえようとすると、何かが手に触れる。



 それは十字架ロザリオ


 灼けて拉げた銀の細工が残った十字架だ。


 ほんのわずかに肉と髪がこびりついている。



 俺はそれを握りこむ。


 すると周囲が騒がしくなっていた。



 この時ここまでの経験で、俺はあらゆる異常事態に場慣れしてきていた。


 ルビアの時とは違い、もう慣れてしまっていた。



 身体は勝手に動き出し、勝手に記憶を再生しエルが謝罪の前に何と言っていたかを思い出す。


 速やかな逃走を開始した。



 彼女に指定されていた場所は別の区画の一部屋だった。


 当然彼女がそこで待っていることはない。



 そこには纏められた荷物が用意されていた。



 あるのは何点かの着替え、旅の必需品、まとまった金、黒いナイフが二本、そして手紙だった。



 俺は震える手で手紙を開く。



 それは俺に宛てたもので、そして遺書だった――



 謝罪から始まり、何があったかが説明される。



 彼女は教会から俺を殺すよう命令されていた。


 やらなければ彼女が守っている孤児院の子供たちを皆殺しにすると脅迫され、ただし達成すれば子供たちは暗殺者にはせずに普通の子供と同じように育てると餌をぶらさげられた。


 そして刻印を仕込まれたと。



 エルフィは俺の『死に戻り』を知っている数少ない人だ。


 だが彼女にだけは俺は『死に戻り』の欠陥を教えていた。


 だから彼女は殺そうと思えば俺を殺すことは簡単だった。



 そこには彼女の苦悩が綴られていた。


 結局彼女は俺を殺すことも、子供たちを見捨てることも選べなかった。


 だから自分が死ぬことにした。


 そして俺と子供たちを解放することを選んだのだ。



 最後に彼女の願いが書かれていた。



 このまま死んだことにして逃げて欲しいと。



 国に戻ってもまた教会から刺客を向けられ続ける。


 逃げても“聖痕”のせいですぐに生存がバレるだろうが、魔族の国にリンスレットが遺した商会の者を手配しているから、そこまで行けば当面はどうにかなると。


 故郷には帰れずとも、戦争からは離れて少しでも平穏に生きて欲しいと。


 そう願われていた。



 俺は手紙から顔を離して近い天井を見上げる。



 涙は出ない。



 なんて馬鹿な女なんだと腹が立った。



 一人で勝手に決めて、一人で勝手に逝きやがって。



 教会がそんな口約束を守るわけがない。



 俺にしたってこれまでにどれだけの数の魔族を殺したと思っているんだ。その巣窟に紛れて生きられるわけがない。



 そんなこともわからないほどに彼女は追い詰めらていたのだろう。



 何故一言相談しないと、腹を立てる。



 だが、何よりも自分自身に腹が立った。



 そんな彼女の様子に全く気付かなかった。



 少し記憶を再生すれば普段との差異を見つけ出すことなど造作もないはずなのに。



 だが、俺自身がそれを思いつかなければ、記憶などなんの役にも立たない。



 そして次に、情けない気持ちになる。



 今まで生きてきて一番自分に情けなさを感じた。



 彼女が俺に何も言わなかったのは、結局のところ俺が無力だからだ。



 何の力もなく、頼りがいがまるで無いからだ。



 自分の女にそんな風に見限られ、守ってくれと頼まれることも、一緒に戦ってくれと頼まれることもなく、ただ守られる。



 一人で死ぬことを選ばれる。



 こんなに情けなく惨めなことはない。



 だが、そんな情けなく惨めな奴が俺なのだ――



 自分で何かを考え、決めて行動することなど出来なかった女が――



 ずっとただの操り人形だった女が――



 初めて自分で考え自分で決めて、初めて命令に背いた。



 それが自殺だった。




 俺は手紙に火を点け床に放る。



 そして彼女が用意した荷物から服を出す。


 黒い革のバトルスーツ。


 教会の暗部の基本装備だ。



 黒いナイフが二本――


 一つは俺が随分前に彼女から貰ったモノ。


 もう一つは彼女が使っていたモノだ。



 二本ともナイフを腰のホルダーに差した。



 ブーツを履いて外套を頭から被り外へ出る。



 向かう先は教会だ――




 一人何処かで平穏に生きるなど出来るはずがない。


 俺も彼女のように――彼女たちのように戦ってそして死ぬのだ。



 だがその前に地獄に送らなければならない連中が山ほどいる。


 彼女らが願った戦争の終わり、その先にある世界に不要なモノ、邪魔なモノがある。


 掃いて捨てるほどにこの世界に溢れている。



 魔族も人間も全て邪魔だ。



 俺に残ったのは『戦争を終わらせる』という目的のみ。



 セラスフィリアの命令、それに背負った怨念を注ぎ込む。


 たとえ敵わなくても、俺も彼女とたちと同じように最期まで戦って、それから惨めに死ぬのだ。


 せめて彼女たちの願いの続きをして。


 それくらいしないと俺のせいで死んだ人たちに、死んだ後で顔向けが出来ない。



 教会と人間と魔族。



 こいつらを殺し尽くせば戦争は終わる。



 まずは俺の女にナメた真似をしやがったクソッタレどもを血祭りにあげる。



 そう決めて俺はエルフィのことに関わった教会の者、無関係でも、偉そうなヤツなら誰でもいいと手当たり次第に忍び込んで首を狩る。


 そして重要な建物にその首を打ち付けて晒す。


 聖都を血で穢し続けた。



 頭がパーになっていたので勢いで始めたが、どうせそんなに殺せずに先に殺されると思っていた。だが、どうやら俺の力は暗殺にはとことん向いていたようだ。


 自分を諦めるというルビアの教えがようやくわかった気がした。


 生き残ることを考えなければ実力以上のことが出来る。



 運がよかったとしか言い様がないが、当時の教会の首脳どもの半数以上を殺すことができ、聖都は大混乱に陥った。


 もっと混沌に堕としてやると、囚われの罪人を解放し、一般人も殺して、建物に火を点け、十数日に渡って俺は教会にゲリラ戦を仕掛けた。



 聖都の主要ポストを総入れ替えにするほどに殺した頃、セラスフィリアを通して停戦が申し込まれた。


 新たにポストに就いた者たちにしてみれば、自身の出世を阻む目の上のタンコブがいなくなったことと同義でもあるので、これはヤツらにもメリットがあることだった。


 だが、手打ちにするにはこれ以上のラインは譲れないとのことだ。



 知るか馬鹿がと、俺はそれを突っぱねようとしたが、最強の騎士ジルクフリードを送り込まれ俺は叩きのめされ、そしてセラスフィリアに説得されてしまった。



 俺は反発しそうになったが、頭の中で計算をする。


 戦争を終わらせるという目的のためには、ここで抵抗しても無駄だ。


 自分のエゴを殺せばもっと人を殺せる。


 俺は停戦を受け入れた。



 この時のことをきっかけに俺は教会に恐怖と怨みを植え付けた。


 これまでに何度か異端認定を受けたが、今回ははっきりと敵対をした。



 表向きは何もなかったことになり、裏ではセラスフィリアが賠償金を支払い、必ずその男に魔族を討たせろという命令を受け、そして教会との力関係が不利になった。


 だが俺には関係ない。


 どうせどちらも滅ぼすのだ。



 教会、国、魔族。



 これらの内最低2つの勢力を潰せば戦争は終わる。



 その為には――



 グレッドガルドに連れ帰られた俺は、その為の行動を開始する。


 シャロを追い返し、身を隠して一人で行動をする。



 国内の穏健派の貴族を暗殺し戦争が激化するように仕向ける。


 セラスフィリアに反する派閥の奴らも派手に暗殺して、内戦を煽る。



 国中で指名手配をかけられ全ての勢力から刺客を向けられるようになり、俺は国を出た。


 向かう先は最前線――そしてその先の魔族の国だ。



 道中で刺客に襲われ続ける。


 そいつらを殺しながら進む。


 多くの人を殺し、そしてその何倍も殺される。



 何度死んだのかわからない。


 数百は下らないし、数千、もしかしたら一万回以上死んだかもしれない。


 記憶を辿れば数えられるのかもしれないが、馬鹿々々しいのでそんなことはしない。



 魔族の陣営に忍び込んで偉そうなヤツの首を集める。


 周囲の霊子に干渉して僅かに自分の気配が伝わりにくくする小細工を施しているからこんな真似が出来る。


 だが子供騙しだ。


 それでもバレても構わない。


 バレても殺されるだけだ。


 死んでもまた戻ればいい。


 殺されれば殺し易くなる。



 ここでようやく一つ俺に都合のいいことが起こる。



 魔族とは古代では悪魔信仰をしていたエルフの一族だった。


 ダークエルフと呼ばれていたらしい。



 その悪魔の文化の名残があるのか、ヤツらは悪魔が禁忌とする『死者蘇生』を人間よりも必要以上に怖れるようだ。


 奴らは俺が死んで戻ると、恐慌状態に陥った。


 何て運がいいんだと、俺は奴らの大嫌いな神に感謝をしながら聖剣で首を切り落として集めた。



 そして集めた首をグレッドガルドの国旗のついた槍に団子状に刺して、奴らの都の前に突き立てて、その死を辱めて挑発をする。


 全面戦争に――


 総力戦に持ち込むために。



 リンスレットが遺した密偵の情報だと、魔族どもは強いが数が人間ほど多くない。


 奴らもまた長く続く戦争で疲弊しており、国内でも一時的な停戦か決戦かで割れていたそうだ。


 そんな時に俺のやった挑発行為は効果覿面だった。



 宿敵であり、侮蔑と畏怖の対象である人間に同胞の亡骸を辱められ、ヤツらの民意は決戦に傾いた。



 やれば出来るじゃねえかと笑いながら俺は再びグレッドガルドに向かう。



 もう何も怖れるものはない。



 他人も、大切なものも、自分の生命も、もう何も失うものがない。


 自分が生き残ることも、何もかもを全てを諦めてしまえば何でも出来る。



 出来なかったとしても、それで持っていかれるのは自分の生命だけだ。


 そんなものはもういらない。


 こんなヤツは生きていてはいけない。


 敵も味方も自分も全てがクソッタレで、どのクソッタレが死んだところでどうでもいい。



 戦争が終わるまで殺し続けて死に続ける。


 それが出来なくなるまで死に続ける。



 本気でそれを願い死んでしまった人たち、俺なんかのために死んでしまった人たちの代わりに死ぬまで死に続ける。


 それで本当に死んでしまったら、その後のことはもう知ったことではない。


 派手に死体を戦場に晒せば、きっと彼女たちも許してくれることだろう。



 戦争は、戦いをするどちらか片方が滅びれば終わる。


 それが可能な地獄を作り出す。



 もっと多くの人を死なせて終わりに近づける。



 お前らが俺にそれを望んだんだ。


 どいつもこいつも勝手に自殺すればそれで済むことを、わざわざ他所の世界から俺を浚ってきて押し付けやがって。


 こんな出来損ないに夢を見て希望を抱くから、そのせいでバカどもが死んじまったじゃねえか。



 望み通りどいつもこいつも死なせてやる。



 その為の手段は問わない――

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