1章11 『after school』

「それではみなさん。今日のHRはこれで終わりです。気を付けて帰ってくださいね」



 担任教師の木ノ下の言葉で本日の2年B組の学課は締め括られた。


 学級委員である野崎さんの号令のもと生徒たちは「さようなら」と挨拶を揃える。



「くれぐれも寄り道はしないでくださいねー」



 木ノ下がそう補足するがもう生徒たちは聞いていない。


 そこかしこで既に始まっている雑談で教室内の音はガヤガヤとひずみ、誰もがこれから始まる放課後の時間に夢中だ。



 そんな話し声の雑踏を浴びながら水無瀬 愛苗みなせ まなはせかせかと自身のスクールバッグに荷物を詰め込んでいる。


 急いで荷造りをしてはいるものの、それは彼女なりであり、のんびりした性格であまり器用ではないその手元は他から見ればモタモタとしたものであった。



 希咲 七海きさき ななみはそんな自身の親友の元へ近づく。



「おつかれ、愛苗」


「あ、ななみちゃん!」



 作業を完全に止めて身体ごとこちらへ向けながら「おつかれさまー」とにこやかに挨拶してくれる彼女へこちらも微笑みかけた。



「ゴメンね。あんまり時間なくって。出来れば昼休みに言ってたこととかも話したかったんだけど……」


「ううん。だいじょうぶだよ。他のお友達にも挨拶しなきゃなんだよね? 大変だと思うから私はあとで平気だよ」



 それは言葉通りなのだろう。


 彼女は気持ちが顔にでやすい。


 今のにこやかに喋る様子からは言外の感情は感じ取れなかった。



 それも少し寂しいなと内心で苦笑いを浮かべながら、表の表情は固定したまま話す。



「そか。ま、とはいっても休み時間で粗方お片付け出来たから、あとは正門前で何人か捕まえればお仕事完了ね」


「そうなんだ。よかったね」



 にへらーと笑う彼女に、二っと笑い返す。



 希咲の用事とは学園内のちょっと面倒そうな『友人』への挨拶まわりだ。



 今月末からはG.Wの大型連休があるのにも関わらず、それよりも10日ほど早く極めて私的な事情で、明日から幼馴染たちと共に半月近くの日数をかけて旅行に行くことになっている。


 別にそれだけなら、学園の許可がとれているのなら他の者には関係のない話であるのだが、希咲の所属するコミュニティがちょっと特殊な集団であるため、周囲との関係性に気を配る必要があった。



『紅月ハーレム』



 希咲の幼馴染の一人である紅月 聖人あかつき まさとを中心として集まったグループで、その名前のとおり彼の保有するハーレム、という風に周りには認知されている。


 当然、この日本国においてそのような如何わしい集団が認められるわけがなく、実際にそのような事実もないのだが、件の紅月 聖人がちょっとどうかしてるくらいに異性におモテになるものだから、また幼馴染メンバーの男女比が女性側に傾いていることもあり、外から見るとそのように見えてしまうらしい。


 周囲もそれを咎めるどころか、自分がスーパーなイケメンのただ一人の彼女の座に就くことは現実的に不可能であるとシビアに考えた女子たちが、『ハーレムメンバーの一人としてならイケるんじゃね?』と打算を働かせ、ハーレムというものを公然の事実とするために各所でそれぞれが好き勝手に盛って盛って盛りまくった結果、現在の誰もハーレムを否定できないような状況になってしまっていた。


 男子たちも女子多数に袋叩きにされることを恐れ、表向きはハーレムなどというイカれたコミュニティに文句をつけづらくなっている。




 希咲としては聖人と付き合っているわけでもなく、それどころか恋愛感情に類するものが何一つないため非常に心外なのだが、公的には自分は聖人の彼女として認識されており、それをどれだけ否定してもツンデレ芸として流されてしまうという憂き目にあっていた。



 そういった状況から逃れるためにいっそ彼らから距離を置くという選択肢もあったのだが、それにもいくらかの事情があり選びづらい。



 頭のおかしい幼馴染たちが色々な場所でトラブルを起こす問題もあるが、希咲が現在最も懸念しているのは嫉妬に狂った女どもの逆恨みだ。



 何かと悪目立ちをするメンバーと集団なので、昔から周囲と摩擦を起こさないように人間関係を調整する役割を希咲が不本意ながら負っていたのだが、そのデメリットとして希咲にヘイトが集中するようになってしまった。


 メンバーを悪目立ちさせないようにと、あちこちに顔を出して交渉・調整をした結果、自分が目立ってしまったのだ。


 そうして今では、聖人との恋人関係を否定するどころか、ハーレムのボスだの正妻だの大奥だのと不名誉なレッテルを貼られ、嫉妬の的になっている。



 自分が参加するためにハーレムを認めはするものの、それとこれとは別、とばかりに嫉妬はしっかりとする。


 女のメンドくさい部分の受け皿となることを希咲は余儀なくされていた。



 人としての道を踏み外しかけている他のメンバーと衝突されるよりはマシと、ある程度現状を受け入れてはいたものの、2年生となった現在では、希咲には恐れるものが出来た。



 それが今目の前に居る自身の親友の存在だ。



 嫉妬をされて的にされる、とはいっても、希咲自身がケンカが出来ると周知されており、ギャルちっくな見た目も威嚇の効果を発揮していて、正面からケンカを売ってくるような者は少ない。


 恐いのは自分の周囲に手を出されることだ。



 憂いをこめて水無瀬を見つめると彼女はにっこりと笑う。



 希咲自身をどうこうしたくても出来ない連中が、自分が不在の時に水無瀬に手を出すのでは、と不安になる。



 彼女とは1年生の途中から当時所属していた委員会で出会って仲良くなり、それから友達を続けている。


 2年生になってからは同じクラスになり、それはとても嬉しいことでもあったのだが、その分一緒に過ごす時間も増え、自分と彼女は親しい間柄にあるとかなり知れ渡っていることだろう。



 希咲が普通はしないような挨拶まわりをして、「旅行に行く」「二人きりではない」「家族ぐるみでの昔からのイベント」「恋愛イベントではない」などと事前に言って回るのは、事実誤認を防ぐため、ではない。


 いくら言っても信じない奴には何を言っても無駄なのだ。



 それよりも重要なのは、『自分はあなたに気を遣っています』『下手に出て顔色を窺っています』『こうして許可をもらいに来るほどあなたを重要視しています』というポーズをしてみせることだ。


 これをするだけで、好かれはしなくても決定的な攻撃行動に出られるような事態はかなり防げる。



 そうはいってもその可能性はゼロには出来ない。



 だからそれをよりゼロに近づけるために――



「大丈夫だよ、希咲さん」


「あ、野崎さんだー」


「ののかもいるぞー? まなぴー!」



 いつの間に近づいてきていたのか、昼休みを共に過ごした彼女らが傍に寄ってきていた。



――より可能性の穴を狭めるためにこの彼女たちに、自分の留守中のことをお願いしたのだ。



「お昼休みにも言ったけど、水無瀬さんのことは私たちに任せて?」


「そうそう。悪い虫は近付けないから」


「むしろののかのモノにしちまうかもだぜ?」


「もしかしたら私の妹になっている可能性もあるわね」



 口々にそう言葉をかけてくれる彼女らに希咲は「あはは」と苦笑いを返す。


 当事者のはずの水無瀬だけが目をぱちぱちとさせた。



 そして、自分もみんなとおしゃべりしたいと愛苗ちゃんはコテンと首を傾げたまま疑問を口にする。



「なんのお話?」

「ふっふっふ……まなぴーを七海ちゃんからNTRしてやるぜって話だよー」


「えぬてぃーあーる?」

「ののかの方が七海ちゃんより、まなぴーと仲良くなっちゃうよーってことだよー」


「えっ⁉ こまるよ!」

「えー? まなぴーはののかと仲良しになりたくないのー?」


「なりたい、けど…………でも、ななみちゃんは一番のおともだちだし……」

「…………まなぴー、ちょっとチューしようぜ?」


「えっ⁉ ダメだよ! チューは好きな人としかしちゃいけないんだよ⁉」

「えー? まなぴーはののかのこと嫌いなのー?」


「そんなことないよ! 好きだよ!」

「じゃあよくない?」


「あっ! ホントだ! …………じゃあ、いいの、かな……?」

「…………七海ちゃんごめん。ののかぶっちゃけ内心で『過保護じゃね?』って思ってたけどこの子アブナイわ。全力で保護します!」


「私あぶなくないよ?」

「甘いよ、まなぴー! もしもののかがNTRおじさんだったら、まなぴーなんか30分後にはダブルピースだよ! 全力で保護します!」



 こちらへ向けて凛々しい顏で敬礼をしてくる早乙女と、「だぶるぴーす?」と首を傾げながら顏の横で左右それぞれの手で作ったピースをチョキチョキと動かす水無瀬の会話へのリアクションに困り、希咲は「あははー……」と苦笑いで濁す。


 そうすると、「余計な知識を教えるなと言ったでしょう?」と低音ボイスで静かに怒る舞鶴に顔面を鷲掴みにされ早乙女は退場した。


 希咲は感謝をしたい気持ちはあるものの、内心で二人に白い目を向ける。



「なるべく一人にさせないようにするから」

「私もたくさん話しかけるようにするし」


「二人とも本当にお願い。ありがとう」



 希咲は野崎さんと日下部さんに心から頭を下げた。



「ななみちゃん。もしかして私のこと、心配してくれてるの?」

「…………うん。ちょっと心配……」


「だいじょうぶだよー。みんな仲良くしてくれるって言ってるし」

「そう、なんだけど…………あのね? 知らないおじさんは勿論なんだけど、同じ制服着てて相手が女子でもガラ悪い子とかに話しかけられたら一人で着いてっちゃダメよ?」


「なんで?」

「……悪いこと考えるヤツもいるかもしんないから……」


「そんなことないよ。この学校みんないいひとばっかりだよ?」

「う、う~~ん…………」



 希咲は迷う。


 どこまで言うべきか。



 紅月 聖人のことが好きで。


 彼女になるには希咲 七海がいるから無理で。


 妥協してハーレム入りしようにも、ハーレム拡大を阻止する希咲がやっぱり邪魔で。


 直接希咲を攻撃してやろうと男をけしかけたら返り討ちにあって。



 そのような事情で希咲を憎しと思っている女生徒が複数存在しており、そんな連中が自分が不在の時に八つ当たりで水無瀬にちょっかいをかけてくるかもしれない。



 そう説明したとしても、ぽやぽやした女の子である水無瀬には実感が湧かないかもしれない。



 お花畑ガールの彼女にはそういった人の悪意は想像がつかないだろうし、それ以前に彼女は――自分も他人様のことをとやかく言えないが――恋愛的な情緒も小学校低学年レベルで止まっている疑いがある。


 こういった女子のよくあるドロドロした関係の拗れは、今ここで説明をしたところで理解することは難しいだろう。



 先程の弥堂と約束をしていた『頭ナデナデ』にしてもそうだ。


 女子同士の人間関係どころか男女の線引きも怪しい。



(そういえば……愛苗ママもわりとのんびりした人なのよね……)



 一般家庭の――というかよそ様の家庭で、そういった性に関わる問題をどのように教育しているのが普通のことなのか、それに関して希咲は寡聞にして知らない。


 こうなったら旅行から帰ったら自分が徹底的に彼女に教育を施していこうと、希咲は心に決めうんうんと頷く。



「……とにかく! あたしが居ない間だけでもいいから注意して? 帰ったらそのへんちゃんと教えたげるから」


「うん、いいよ。それも約束だね。えへへ」



 無邪気にはにかむ親友の顏を見て「こりゃ骨が折れそうね」と苦笑いを浮かべる。



 彼女は他人の悪意に鈍感だ。



 それどころか、そんなものはこの世界に存在していないとすら思っていそうなきらいさえある。


 追々それも伝えていかねばとは思うが、そういう純真なところが彼女のいいところだ。


 出来ればこのまま変わって欲しくないとも思うが、ずっとこのままで無事に生きていけるわけがない。そう考えてしまうのはきっと身勝手な願望だ。



 もう高校二年生にもなったことだし、そのあたりの機微を知るにはなんなら遅すぎるくらいだ。



 そしてそれは今でもいいのかもしれない。



 平穏に過ごして欲しいという想いと変わって欲しくないという願い。


 どちらも相手のことを考えてのことなのに矛盾を引き起こす。



 その矛盾が決断を躊躇させ出足を遅らせる。



「ななみちゃん、時間だいじょうぶ?」



 急に黙ってしまったからだろう、心配そうな顔をして声をかけてくれる。



「ゴメン、ちょっと考えごと。ボーっとしちゃってゴメンね?」


「ううん。私は平気だよ。ななみちゃんは大丈夫? 忙しくて疲れてない? アルバイトもあって大変なのに」


「んーん。だいじょぶ。今日は休みだし」



 器用に笑ってみせるとにっこりと嬉しそうな笑顔がかえってくる。




 アルバイト――



 自分が生活費を稼ぐためにしているそれは、まさに今しがた考えていた、人の悪意というか汚れを取り扱うような内容の仕事だ。


 今のところ水無瀬にはどんなアルバイトをしているのかという点は、事務のバイトという風に伝えて詳細を濁している。


 別に特殊な仕事内容という程には特別な仕事でもなんでもなく、ある意味この世の中にいくらでも溢れているようなものである。



 いつかはそれを話す時が来るのかもしれないが、それでも彼女には何をしているのか知られたくないなと、心中に差す陰が色濃くなる。



 しかし、それは今考えることではないと先延ばしにした。



 想像の中で自身の両頬を叩き、切り替える。



「とにかく! あたしは元気よ!」


「えへへ。それならよかった。旅行でリフレッシュしてね」


「ん。ありがと。じゃあ、あたしそろそろ行くわ」


「うん。気を付けて行ってき…………あっ⁉」


「ん?」



 一時の別れを告げようとした言葉の途中で水無瀬はハッとし、自身の隣の席をションボリと見る。



「弥堂くんがもういない……」


「あー。あいつ権藤先生に呼び出されてたからね。職員室じゃない? なんか用あったの?」


「ううん。バイバイしたかっただけなんだけど、いつもHR終わって私がモタモタしてる間に居なくなっちゃってバイバイ言えないの……」


「あー、ね。あいつ用ないとすぐどっか行きそうね」


「私が片付け遅いから悪いんだけ……ど…………」


「? 愛苗……?」



 今度はどこか遠い目で何もない宙空を見つめた水無瀬の言葉が止まる。


 希咲が怪訝な目を向けるのにも気付かない様子で一点を見たままだ。



「ちょっと……? 愛苗? どうし――」


「――ごめん、ななみちゃん! 私行かなきゃ……っ!」


「えっ――⁉」



 戸惑う希咲に構わず彼女は慌てたように自分のバッグを引っ掴みかみ、教室の出口へと駆け出す。



「ちょっと――⁉ 愛苗⁉」


「ごめんねっ。あとで連絡するから!」



 ぽかーんとする希咲と女子4人組を置いて、彼女の性格には似つかわしくないような急かしさで水無瀬は立ち去ってしまった。


 数秒そのまま開けっ放しになっている教室の戸を茫然と見ていると、立ち去ったはずの水無瀬がパタパタと駆けて戻ってきて――



「ご、ごめんなさーーーいっ!」



――謝罪の声をあげながらその戸を閉めた。



 一瞬見えたところ、すでに息が上がっている様子の彼女は閉められた戸の向こうでまたパタパタと足音を立てて今度こそ立ち去っていった。



 希咲はまるで引き留めるように伸ばしていた自身の手に気が付く。



「あたしが先に出ようと思ってたのに……」



 ぽつりと呟いて所在なさげにその手をワキワキと動かした。



「おやおやフラれちゃったのかい? どう? これからおじさんと遊びにいかない?」


「うっさいわよ。そんなんじゃないってーの。てかさ、ののか。あんたその変態おじさんキャラでいくつもり? キツイわよ?」


「うぅぅぅぅっ! だってさぁ! まなぴーってば、不思議ちゃんキャラまで持っていこうとしてるんだもん! こんなのってないよ!」


「あ、あんたも難儀ね……」



 ほんの軽口のつもりで傷つけるつもりなどなかったのだが、ワッと泣き出した早乙女を希咲は引いた目で見る。


 扱いに困っていると日下部さんが彼女の肩を抱いて回収していってくれた。



 希咲はもう一度彼女たちに「来週からよろしくお願いします」とペコリと頭を下げ、別れの挨拶とお土産の約束をしてから自分も荷物を持って教室を出た。



 目指すは真っ直ぐ学園の正門前だ。




 シューズを履き替え昇降口を出ると、なにやら騒がしい声が聴こえる。



「ベルマークの寄付をおねがいしまーーっす!」


「学園の車椅子が不足してまーーーっす!」


「普段食べてるお菓子の外袋に付いてないか見てみてくださーーい! 切り取りが面倒って方はそのまま引き取りまーーっす!」


「おいおいおいおい、そこのキミぃっ! そうキミだ! キミ今ボクと目が合ったよね? なんで無視するんだよぉ? 聞いてたろぉ? 学園で貸し出す車椅子が足りないんだぁ。それをベルマーク集めてゲットしようって話なんだよぉ。とっても『いいこと』だろぉ? そうは思わないかい? 思う? 思うよね? そうだよねぇ! でもさ、それなのにキミは無視して立ち去るだなんて、そんなのとっても『ひどいこと』じゃあないか! え? ベルマークなんて持ってない? おいおい、ベルマーク持ってなくても100円玉くらい持ってるだろぉ? 現金での募金も大歓迎さぁ! なのにキミはそれもせずに聴こえないフリで乗り切ろうとしている。車椅子が必要で困っている人がいるのにも関わらず! なんてこった! もしかしてキミは『差別主義者』なのかい? だってそうだろぉ? たった100円を惜しんで足早に立ち去るキミに、車椅子が必要なのに持っていない人は追い付くことなんかできないからねぇ! キミと同じ速さでは進めないのさ! なんて『不公平』なんだ! そうやって『弱者』を置き去りにして、自分の視界に入れないようにして、自分の見たいコンテンツばかりを見るんだろぉ? 目に入らない人は知らない。存在しないだなんてそんなのとっても『非人道的』で『人権』を無視した極悪な行為だぜぇ! その100円は何に使うんだい? お気に入りのVにスパチャ? それとも3日貯めて単発ガチャでも引くのかい? 足が不自由で苦しんでいる人がいる現実から目を背けて? それは本当に必要な使い道なのかい? その100円は本当にキミに必要な100円なのかい? え? くれる? おいおい、『やる』って言い方はおかしいだろぉ? まるでボクが強請ってるみたいじゃあないかぁ! だってそうだろぉ? これはあくまでも『募金』なんだぁ! 『弱者』を救済するための社会的に有意義な活動なんだぜぇ? どうだい? これを機にキミもボクらの団体に参加…………え? もう100円? くれるの? もうカンベンしてくれ……? 募金のご協力ありがとうございまぁーーーっす! こちら1名様200円入りましたああぁぁぁぁっ‼‼」


「「「ありがとうございまあぁぁぁっす‼‼」」」



 希咲は反射的に極限まで自身の気配を隠し、持っていたバッグでサッと顔を隠す。


 バッグで隠すことに直接的な隠形の効果などないが、絶対に見つかりたくないという心からの願いが彼女にそう行動させた。


 居酒屋も斯くやといった風に野太く束ねられた男たちの声から逃れるように足早に立ち去る。



(昨日初めてエンカウントしたけど、あいつら普段もこういうわけわかんない活動してんのね……気を付けなきゃ……)



 もう二度とあいつらとは関わり合いになりたくないと強く思い、もう二度と昨日のような目には遭いたくないと左右のおさげを括った白黒の水玉シュシュを不安げにいじいじする。



(昨日あれだけあいつと権藤先生にこっぴどい目にあわされたのに、全っ然懲りてないのね……呆れるわ)



 コソコソと歩き安全圏まで来ると頭部を守るスクールバッグを下ろす。


「てゆーか、ベルマークって集めても個人で交換できるのかしら?」と心中で首を傾げながら学園の正門を抜けて外に出た。



 そしてその正門前の歩道のガードレールに近寄る。



 門から近くて出入りする人が見える距離、且つ昇降口前で騒いでいたバカどもからは死角になる位置。


 そんな場所を選んでガードレールにお尻をのせ、スマホを取り出す。



 さて、待ち人はどれくらいで出てくるだろうか。





「失礼します」



 心にも思っていない挨拶を告げて、その言葉の真贋を見極められる前に戸を閉める。



 職員室から出てきたのは弥堂 優輝びとう ゆうきだ。



 昼休み後の数学の授業を担当していた権藤に、放課後に自分のところに来るようにと命じられていたからだ。



 部活を理由に一度断ったのだが、どうやら事前に弥堂の所属するサバイバル部の部長である廻夜朝次めぐりや あさつぐに今日の活動予定を確認してきていたようで、弥堂としては悪手を選ばされた形になった。



 内容としてはとるに足らないもので、ちょっとした確認と擦り合わせのようなものだった。



 無駄な時間をとらされたと内心で唾を吐き、弥堂は昇降口棟へ向かって歩き出す。



 本日の放課後はサバイバル部の活動も、風紀委員会のシフトもない。



 だが、かといって完全にオフなわけでもなく、今日の放課後は来週からの『寄り道はやめようねキャンペーン』に備えて、自身が狩り場にする予定の新美景駅周辺を下見する予定だ。



 職員室のある事務棟と昇降口棟を繋ぐ空中渡り廊下へ入ったところで弥堂は足を止める。



 前方に立ち塞がるように二つの人影が進路の先、廊下の真ん中で立っていたからだ。



 通常であれば前方に人が居ただけのことで弥堂がいちいち足を止めることなどない。


 ここで今そうしたのは、そこに居る者どもがこの場に似つかわしくない者たちだったからだ。



 眼を細めてその異質な存在を視る。



 まずパっと見で最初に目を惹くのは服装だ。



 メイド服。



 学生服でも教職員のような服装でもなくメイド服だ。


 高校生を通わせる私立美景台学園高等学校の校舎内の廊下に、メイド服姿の二人の人物が居る。



 だが、それはまだいい。



 この学園では専属の清掃員が雇われていて、その清掃スタッフたちのユニフォームのようなものにこのメイド服が採用されているようだ。


 入学したばかりの頃、一番最初に校内でメイドを見かけたときはなにかの見間違いかとも思ったが、それが高等学校というものの一般的な光景なのかという点はともかく、数週間もすればすぐに見慣れた。



 だからこの場に居る目の前の二人のメイドどもに関して問題視すべき点は服装ではなく、その年齢だ。



「いよぉ、“ふーきいん”。久しぶりダナァ? こんなとこで会うたぁ奇遇じゃあねえか。なぁ? “うきこ”?」


「それは違う。私たちはお嬢様から言伝を預かってここで“ふーきいん”を待っていた。もう忘れたの? “まきえ”」


「あぁ? そうだっけかぁ? こいつと戦うために待ち伏せしてたんじゃねぇのか?」


「お嬢様からそんな命令は受けていない。やるなら勝手に一人でやればいい。そして泣かされればいい」



 弥堂を待っていた。


 そんなようなことを言いながらも、弥堂をそっちのけにそのまま言い合いのようなものを始める二人のメイドの顏を見るために、弥堂は視線を大分下方に下げた。



“まきえ”と呼ばれた、威勢のいいガラの悪い話し方をする赤い髪のメイド。


“うきこ”と呼ばれた、表情のない顏で無機質に囁くような青い髪のメイド。



 まるで生き写しのようにそっくりな顏の造型をしていながら、その髪色と立ち振る舞いからその双子のメイドは対照的に映る。


 そして問題は彼女らの幼げな見た目だ。


 二人はどこからどう見ても完全に女児だった。



「あぁ? 誰が泣かされるって? テメー、ナメてんのか? “うきこ”。オレはサイキョーだぜ?」


「それは違う。むしろ“まきえ”が勝ったところを私は見たことがない」



 まるでチンピラのような口調で『オレ』などというその声は、言葉のガラの悪さとは裏腹にまったくドスの効いていないソプラノボイスで。


 その声に淡々と落ち着いた口調で返すもうひとつの声も、無機質ながらもどこか気だるげな印象の話し方だが、その声は鈴が鳴るように可憐だ。



 キンキンと耳に煩い甲高い声で言い合う2匹の女児に、弥堂は不快げに眉を歪めた。



 目の前で子供がケンカをしていたら、止めてやるのが年長者としてとるべき行動だが、弥堂は彼女らとは既知の間柄であり、このちびメイドたちは会うたびにいつもこうして言い合いをしているので、特になにもせず経過する秒数を数えてやり過ごそうとする。



 弥堂から見ても少々『まとも』ではないと感じるこの学園において、この女児メイドたちの異質さは最たるものだ。



 別に学校にメイドが居ても構わないとは思う。



 しかし、本来どう見ても義務教育の課程の只中にある小学校中学年程度の子供を、平日の昼間から小学校に通わせるどころか高校に行かせて高校生が汚したものを清掃する仕事に従事させるなど、どう考えても尋常なことではない。



 弥堂は自身の持つ経験から、このことに『人身売買』に類する犯罪の匂いを嗅ぎつけ、一度理事長を問い質したことがある。



 義務教育の大切さと児童虐待の凄惨さを説明し、このままでは正義感によって齎されるストレスに耐えきれず然るべき場所に相談をしてしまいそうだと訴える弥堂に対して、この私立美景台学園の所有者である理事長は、弥堂の手に包みを握らせてただ「大丈夫です」とだけ言った。



 そして弥堂は、学園の持ち主が大丈夫だと言うのなら大丈夫なのだろうと十分に納得をした。


 決して手渡された物の中に、弥堂にとって十分に満足のいくものが包まれていたからではない。


 目上の方がそうと謂えばそうなのだ。



 礼儀を弁えた高校生である弥堂は目の前のちびっこたちに意識を戻した。



「あぁん? テメー生意気だぞ“うきこ”。ぶっとばされてーのか?」


「それは違う。生意気なのは“まきえ”の方。馬鹿のくせに偉そう」


「アァっ⁉ んだコラァっ!」



 淡々と言い返す“うきこ”を“まきえ”が大声で恫喝する。


 初見の者には剣呑にも映る光景だが、これもいつものことだ。



 赤髪のメイドの“まきえ”は短気で好戦的だ。


 青髪のメイドの“うきこ”は口調こそ穏やかなものの言葉は刺々しく、そして口が減らない。



 弥堂から視ればどちらも生意気なクソ餓鬼なのだが、この二人はいつもこうしてマウントをとり合っている。



 弥堂が知る限りでは、大体好戦的な“まきえ”の方からこうして諍いを仕掛けるのだが、その“まきえ”には致命的な欠陥があった。



「テメー、“うきこ”。自分の立場がわかってんのか? テメーはオレの妻だろ。オレの三歩後ろで黙ってろよ」


「そう。そうする」


「あ?」



 端的に了承の意を告げた“うきこ”は、ちっちゃなお手てをギュッと握り、短いその腕をぶんっと振った。



「ゴハァ――っ⁉」



 10歳前後に見えるちっちゃな肉体から繰り出された幼気な拳が、後方斜め下から突き上げるように“まきえ”の脇腹にめりこんだ。



 “まきえ”は脇腹を抑えながらよろめくように三歩前に進むと膝を着き蹲る。


 その姿勢のまま顏だけ振り向くようにして“うきこ”を睨みつけた。



「テ、テメーいきなりなにを――」


「――えいっ」


「――ぶげぇっ⁉」



 突然の暴力に対する抗議を言い切るよりも早く、人中を狙って無造作に爪先を伸ばした“うきこ”の無慈悲な追撃が顔面にぶっ刺さる。


 あまりの痛みに“まきえ”は顔面を抑えて悶絶する。



「な、なにするんだよぉ……」


「言われたとおりにしただけ」


「オレを蹴れなんて言ってないもん…………うぇ、えぐっ……」


「ふっ、“まきえ”は“ざこ”」



 鼻面を抑えながら非情な暴力により中断させられた抗議を再開するが、その声は先程までとは対照的に随分と弱気だ。


 ポロポロと涙を溢し嘔吐く“まきえ”はもう既に泣きが入っている。



「ひっく…………こんな、本気でぶたなくたって、いいだろ……?」


「本気じゃない。“まきえ”ごときに本気はださない」


「ウソだよ……だってほら。鼻血でてるだろ」


「それは鼻水」



 やたらと挑戦的な言動で、弥堂にも出会うたびに戦いを挑んでくる好戦的な彼女だが、その最大の欠点として『致命的に弱い』という点があげられる。



 彼女のパートナーである“うきこ”に対しても、高圧的な発言をしてはこうしてよく泣かされている。そして泣き止めば全てを忘れたかのように元の粗暴キャラに戻るのだ。



 そして、“まきえ”のそんな習性を最もよく見ているであろう“うきこ”は、彼女の見た目の年齢にそぐわない冷酷な目で、頭の悪い自身のパートナーを見下ろす。



「私に三歩後ろにいろと言ったのは“まきえ”。下がるのが嫌だから“まきえ”を三歩前にぶっとばした」


「頭おかしいこと言うなよ! こえぇよ! …………おいっ! “ふーきいん”!」


「…………なんだ?」



 自身のパートナーの欠落具合に戦慄した“まきえ”は、途中で弥堂へ水を向ける。



「お前のせいだぞ、“ふーきいん”!」


「ふーきいんではなく、ふうきいいん、だ」


「うるせー! んなこたどーでもいいんだよ! お前のせいで“うきこ”の頭がおかしくなってってんだ! こいつどんどんお前みたいになってんだよ!」


「“まきえ”。まるで私がそこの薄汚い雄犬の真似をしているみたいな言い方はやめて」


「まるで俺が普段から頭のおかしいことをしているみたいな言い方はやめてもらおうか」



 涙ながらに訴えられる“まきえ”の切実な声は、常識のある者がいないこの場では満場一致で否定された。




 やがて、幾分落ち着いたのか、グズグズと鼻を鳴らしながら“まきえ”が立ち上がる。



 エプロンのポッケからティッシュを取り出し鼻をビーっとかみ、そうしてようやくメンタルを完全に持ち直した。



「オレと勝負しろ! “ふーきいん”!」



 威勢よく拳を突き付けてくる赤い方のちびっこへ弥堂は白い目を向けた。



「“まきえ”は馬鹿だからさっきのことはもう忘れた」


「……そうか」



 解説するように話しかけてきた青い方のちびっこに、そうとだけ適当に返事をした。



「あぁ? 誰がバカだって? テメーはオレをナメてんのか? 泣かされてーのか? “うきこ”」


「また泣くのは“まきえ”の方。でも何度ヘコませても元通りになる“まきえ”のことは好き」


「お? そうか? へへっ、まぁ、テメーはオレの妻だからアタリマエだよなぁ!」



 抜群の皮肉耐性をもつため、逆に光速で調子にのった自身のパートナーへ“うきこ”は冷めた瞳で続ける。



「でも“まきえ”。どうやって私に勝つ? “まきえ”はさっきも無様にぶっとばされて、惨めに泣いたばかり」


「へっ! まさかこのオレがなにも考えてねーとでも思ってんのか?」


「思ってる」


「そうだぜ! オレには『ひさく』があるんだぜ!」


「馬鹿は話が通じない」


「おい! “ふーきいん”!」


「…………なんだ」



 キャッチボールではなく、お互い横並びになってそれぞれで壁当てをするような会話を繰り広げていた二人を視ていた弥堂に突然水を向けられる。



「テメー“ふーきいん”。アレ教えろよ。お前の“必殺技”!」


「そんなものはない」


「ウソつくんじゃねーよ! テメーだろ? 文化講堂の壁ぶっ壊したの」


「なんの話だ」


「すっ呆けんじゃねーよ、このクソ野郎。オレが何度あれを直してっと思ってんだ。もうぶっ壊れ方見ればテメーの必殺パンチだってわかるようになっちまっただろ。ふざけんなよ!」


「あぁ、“零衝ぜっしょう”のことを言ってるのか」


「白々しいんだよテメー。あちこちで色んなモンをよぉ、人も物もお構いなしにぶっ壊しやがって。全部オレが直してんだからな? いい加減にしろよ」


「そうか。それはご苦労だな」


「アァ? なんだそりゃバカにしてんのか? お嬢様が目溢ししてくれてっからってあんまチョーシのんなよ?」


「馬鹿になどしていない。優秀なお前にしかできないことだから大変だなと、感心して労ったのだ」


「優秀? へへっ、そうか?」


「あぁ。これからも頼むぞ」


「おぉ! まかしとけよっ!」


「では、失礼する」


「あぁ! またな!」



 快諾して手を振るちびっこに見送られながら弥堂はこの場を辞そうとする。


 しかし、わりとすぐに“まきえ”は「ん? なんかおかしくねーか?」と首を傾げてからハッとする。



「イヤイヤイヤっ! またな、じゃねーよ! ふざけんなよテメー!」



 慌てて背中に浴びせられた制止の声を受けて、弥堂は足を止めて一度舌打ちをしてから振り向く。



「なんだ? 用があるならさっさと言え。何故他人の時間まで無駄に消費させる? いい加減にしろよ無能が」


「ビックリするくらい言うこと変わるよな! テメーは! やっぱりオレを言いくるめやがったな! ヒキョーなことすんなって言っただろ! オレが騙されちまうからやめろよ!」


「じゃあ、なんだ。さっさとしろ」


「テメーのせいで忘れちまったよ!」



 淡々と冷たい言葉をかけられる年端もいかぬ見た目のメイドはゼーゼーと肩を上下させる。



「とにかく、あれだ。学園のモノを壊すなよな。ここはお嬢様の所有物だ。それをぶっ壊すってことはお嬢様のことをナメてるってことだからな。いくら“ふーきいん”でもやりすぎたら許さねーぜ? お嬢様が許してるからってチョーシにのんならオレがテメーをぶっとばす」


「そうか。善処しよう」


「おぉ。“キモ”にめーじろよな!」



 弥堂が適当にした許諾の返事だが、彼女は特にその言葉を疑わず手打ちにしてくれた。


 物騒な宣告をされたものの、特に事が荒立つこともなく状況が流れそうだが、茶々を入れる者があった。



「待って。“まきえ”」


「あん? なんだよ“うきこ”」



 静観していた青い方のちびっこだ。



「テメーも“ふーきいん”にヤキいれんのか? オレがキツく言ってやったからもうカンベンしてやれよ。オレに怒られて“うきこ”にも怒られたらこいつ泣いちゃうかもしんねーだろ。それはかわいそうだぜ」


「勘違いしないで、“まきえ”。私に怒られるのは“まきえ”の方」


「はぁっ⁉ なんでだよ! テメー、こいつの味方すんのか⁉」



 味方だと思っていた者が味方ではないかもしれない。その可能性に行き当たり“まきえ”はびっくりした。



「それも勘違いしないで。私はそこの野良犬の味方なんかしない。世界中が“ふーきいん”の味方をしても、例えお嬢様も“ふーきいん”の味方になっても、私だけは“ふーきいん”の敵でいる」


「いや、それはダメだろうよ。お嬢様に怒られるぞ」


「怒られるのは“まきえ”」


「だからなんでだよ!」



 “うきこ”は冷めた表情で淡々と説明をする。



「“まきえ”は言った。お嬢様の持ち物を壊すのはお嬢様をナメていると」


「あぁ? そんなのアタリメーだろ?」


「そう。当たり前。だけど“まきえ”は“ふーきいん”をぶっとばすと言った」


「おぉ! 今日はトクベツに許してやっけど、あんまお嬢様をナメたらぶっとばしてやんぜ!」


「でも、“まきえ”。よく考えて。“ふーきいん”はこの学園の生徒」


「それがどうしたんだよ?」


「生徒は学園の所有物。つまり“ふーきいん”はお嬢様の所有物」


「は? え?」


「その“ふーきいん”をぶっとばそうとする“まきえ”はお嬢様をナメてることになる」


「なんだって⁉」



 理路整然とイチャモンをつけられた“まきえ”はびっくり仰天して、頭上のメイドカチューシャがポンっと跳び上がった。



「なんでそうなんだよ! おかしいだろ!」


「おかしくない。いい? “まきえ”。よく考えて。頭の悪いやつには考えてもわからない。でも頭のいい“まきえ”なら、よく考えればわかるはず」


「え? よく?」



 “まきえ”は混乱しつつも腕を組み、「うんうん」唸りながらよく考えた。



「――あっ⁉ ほ、ホントだ! オレお嬢様をナメてた!」



 ややすると、彼女の中で何が何にどう繋がったのかは不明だが、“まきえ”はハッとなって“うきこ”の主張を認めた。



 ああいう言い方をすれば、わからないと言えば頭が悪いことになり、逆にわかると言えば頭がいいことになる。


 そのような状況に追い込めば、頭の悪い彼女は考えたフリをしてわかったフリをする。



 思った通りの反応を得られた“うきこ”は「ふふっ」と満足げに笑みを漏らした。



「どっ、どどどどどうしようっ⁉ オレお嬢様をナメちまったよ! どうしたらいい⁉ “うきこ”!」


「本当なら薄汚い裏切者の“まきえ”は今すぐそこの窓から身を投げて自害するべき。でも今日は特別に『罰』を受けるだけで許してあげる」


「おぉ! ホントか⁉ どうすればいい? なんでも言ってくれ!」



 ドンと威勢よく胸を叩く“まきえ”を見る、“うきこ”のジト目に嗜虐的な光が灯る。



「仕えるべき主に無意識に反抗的になるのは“まきえ”の魂が不健全だから」


「そんなことねーよ! オレは元気だぜ!」


「そんなことある。健全な肉体には健全な魂が宿るとネットで見た。つまり“まきえ”の魂が不健全なのは肉体が不健全だから」


「まだるっこしいぜ! 何をすればいいかさっさと言えよ! “うきこ”!」


「スクワット」


「よしきた!」



 快諾するや否や、“まきえ”はその場でスクワットを開始した。



 やたらとキレイなフォームで反復運動をする女児と、それに対して厳しくコーチングをする女児。


 二人のちびメイドを見ながら弥堂は、自分は今、何故ここでこうしているのだろうと考えそうになったが、そういえば昨日も同じようなことを考えたなと思い出し、ならば考える必要などないと気を持ち直す。



 昨日わからなかったことはどうせ今日もわからない。



「遅い。もっと速く」


「うおおぉぉぉぉぉっ!」


「口先だけ。“まきえ”は嘘つき。違うと言うならもっと気合を見せるべき」


「オレはうそつきじゃねえぇぇぇぇっ!」



 トレーナーの煽りに反発し、スクワットの速度が上がる。



「腿が! これ腿がやべぇ!」


「泣き言なんか聞きたくない。なに? その筋肉インフルエンサーみたいなそれっぽいカッコいいフォームは? “まきえ”のくせに生意気」


「どうすりゃいいんだよ!」


「両手を頭の後ろで組んで。足を開いて。もっと無様にガニ股になって。カッコつけようとしないで」


「こうか⁉」


「そう。フフッ…………お似合い。“まきえ”、すごくいい」


「よっしゃああああぁぁっ!」



 二人は子供らしく元気いっぱいで楽しそうな様子だが、弥堂にとっては他人に見られたら説明が難しい状況になってきた。




 放課後の廊下にハッ――ハッ――と小気味よく息を吐き出す声が響く。



「ピキって! “うきこ”! 股がピキっていった!」


「“まきえ”の嘘つき。股は喋らない」


「嘘じゃねーって! ムリっ! もうムリっ!」


「やっぱり嘘つき。『無理』は嘘つきの言葉ってネットで見た」



 ガニ股スクワットに励む“まきえ”が限界を訴えるが“うきこ”は取り合わない。



「嘘つきには罰を与える」



 それどころか“まきえ”の腿に足をのせさらに負荷をかけた。



「ギャアアァァァッ⁉」


「“まきえ”。うるさい」


「ハムストリングが! ハムストリングがビリビリする!」


「忠誠心はハムストリングに表れる。この程度で壊れるなら“まきえ”のお嬢様への忠誠はその程度」


「“ふーきいん”! たすけてくれっ!」



 グッグッと甚振るように体重をかけられ“まきえ”は堪らず弥堂へ救助を要請する。



 か弱き子供に助けを求められた風紀委員の男は、その人格に欠片ほどの正義感もヒーロー性も構成されていないため、ただ冷たい瞳のまま無言で踵を返した。



「お、おいっ、待てよこの野郎っ! 無視すんなよ!」


「失礼する」


「なにバックレようとしてんだ! テメーに用があるって言っただろ!」


「バックレようとしてるのは“まきえ”。これは罰。逃れられない」


「え? そ、そうなのか? おい、“ふーきいん”。スクワット終わるまでちょっと待ってろよ!」


「失礼する」


「あっ⁉ テメー! 待てって言って――ギャアアァァァァッ⁉ つった! あしつったーーーっ⁉」



 ゴリ押しでこの場を辞そうとする弥堂を慌てて追いかけようとした“まきえ”は、負荷がかかっている時に急に体勢を変えたためか、足に激痛を感じゴロゴロと床を転がる。



「フフッ。“まきえ”、すごくいい。殺虫剤かけた蝿みたいで可愛い」


「“うきこ”助けて! グッてして! 足グッてして!」


「フフッ」



 応急処置を求められた“うきこ”は、藻掻き苦しむ“まきえ”のふくらはぎに足を乗せ一度グニグニと踏み躙る。


 音量の上がった悲鳴に満足そうに笑みを浮かべる。それからようやく“まきえ”の足首を雑に掴み、彼女の身体を足でひっくり返して仰向けにさせた。


 ピンと伸びた爪先を戻してやりながら体重をかける。



「うぅ、イテェよ…………なんでこんなヒドイことすんだよぉ……」


「フフッ。“まきえ”ださい。はしたなくてお似合い」


「おい! オレの足で遊ぶなよ!」



 もう片方の足首も持って“まきえ”の両足を開いたり閉じたり動かして遊ぶ“うきこ”へ抗議をするが、彼女は聞いてくれない。


 無表情で平坦な口調だが、その声にはどこか悦に入ったような色がある。



「フフ。“まきえ”みっともない。“ふーきいん”に見てもらうといい。黄色い線が入った“まきえ”のダサい“こどもぱんつ”を」


「誰が見るか。そんな汚いもの」


「アァっ⁉ 汚くねーよ! テメー“ふーきいん”、ふざけんなよ? ちゃんと見ろよ! オレはションベンなんか漏らしてねーだろ!」



 弥堂を社会的に失墜させるような発言をする“うきこ”に対しての反論だったが、まさかのご本人から完全にアウトなことを要求された。



 弥堂は溜め息を漏らすと“まきえ”の足で遊ぶ“うきこ”をどかして、適当に襟首を掴んで“まきえ”を立たせてやった。



「お? アリガトな! “ふーきいん”」


「あぁ。もういいか?」


「ダメだ! 必殺技教えろよ!」


「あれは必殺技ではない」


「こまけーこたいいんだよ! テメーはほんとダメな! 屁理屈ばっかで!」



 彼女のしつこさにどうも逃げきれそうにないなと弥堂は嘆息する。



「お前には無理だ」


「はい、嘘! 『無理って言うヤツは嘘つき』ってさっき“うきこ”が言ってたぜ!」


「俺があれを教わった時は、まず自分がくらって覚えるという手順だったんだがいいのか?」


「あぁ? ナメてんのかテメー。そんなのでオレがビビると思うなよ?」


「ゲロ吐くぞ」


「え……? マジかよ……オレ、ゲロはやだよ…………やっぱやめようかな……」


「そうすることをお勧めする」



 威勢のいいことを言っていたわりにすぐに“まきえ”は引き下がろうとする。


 彼女の人としての品性や女性体としての恥じらいなどに一切の期待をしていなかっただけに望外のチャンスだが、このままお流れになることを弥堂は期待する。


 しかし、それを邪魔する者がある。



「バカにしないで、“ふーきいん”。“まきえ”はゲロくらいでビビらない」


「えっ⁉」


「…………」



 “うきこ”のフォローを受けて“まきえ”は驚愕に目を見開き、弥堂は胡乱に眼を細めた。



「“まきえ”ならイケる。“まきえ”はサイキョー」


「え? そうか?」


「そう。それに。もしもお嬢様が“ふーきいん”に必殺パンチされそうになってたら“まきえ”はどうするの? ゲロ吐きたくないからって逃げるの? “まきえ”は腰ぬけ」


「アァン⁉ 逃げるわけねーだろ! ナメんなよ!」


「でも“まきえ”はビビった」


「ビビってねーよ! おい“ふーきいん”! こいよ、撃ってこいよ!」


「…………」



 極めて容易に操られた“まきえ”にノーガードの腹を押し付けられ、弥堂は“うきこ”の方に迷惑そうな視線を送る。



「フフッ。“ふーきいん”やっちゃって。大丈夫。“まきえ”は頑丈。絶対に壊れない玩具。壊れても直る玩具」



 よほど自身のパートナーが苦しんでいるところを見るのが好きなのか、弥堂の方へ向ける“うきこ”の平坦な表情の中で、その瞳だけが隠しきれない期待でキラキラと輝いている。



 弥堂はうんざりと息を漏らし――



「いいだろう」



――承諾をした。



 こいつらとはいずれ敵対することもあるかもしれない。


 試しに一回殴っておいても損はしないだろうと判断をした。



「お? マジか! アリガトな! “ふーきいん”!」


「…………」



 自分から殴ってくれと頼んできて、これから殴られるとわかると礼を述べる。


 信じ難いほどに頭の悪い子供を視て、弥堂はやはりここでメイドの仕事をさせるよりも義務教育を受けさせるべきだと思ったが、まぁ関係ないかと切り替える。



「もう少しこっちに来い」


「おぉ! へへっ、ひとつ頼むぜ」



 無防備に寄ってきた女児の前で片膝をつき、左手で彼女の肩を掴み右手を腹にあてる。


 すると“まきえ”はグッと腹に力をこめた。



「おい、“ふーきいん”。どーよ、オレの腹筋は! かてーだろ? 鍛えてんだ!」


「…………立派だな」



 言われて彼女の腹を少し押してみるとぷにぷにとした感触が返ってきたが、弥堂は適当に返事をした。相手は満足そうな表情だ。



「一応手加減はしてやる」


「なんでだよ。本気でやれよ! “ふーきいん”、テメーはいつもそうだ。効率とかわけわかんねーこと言ってすぐに手を抜こうとするんじゃねーよ。全力でこい!」


「…………」



 何故にこいつはこんなにも自分に殴られたがっているのか。



 この生き物の考えることが理解しがたいが、どうせ考えても理解できるはずがない。


 効率のわるいことはすべきではないと考えないようにする。



 そもそも、本当に全力で“零衝”を打ち込めば絶命させてしまうのだが――チラリと“うきこ”の方へ視線を遣る。


 “うきこ”は何やら意味ありげな顏で『わかっている、大丈夫だ』とばかりに頷いてきた。



 弥堂は意志の疎通を図るのは諦める。



 どうせ自分の技量では片膝をついたままでは大した威は生み出せないし、それに、まぁ最悪の場合でも、二人いるし一人居なくなっても別にいいかと投げやりに結論付けた。




「よっしゃあ! こい! “ふーきいん”」



 気合十分のかけ声には応えず、弥堂は無言で技を行使した。



 空中渡り廊下の床に着けた右膝から捻り、膝を立てた左の足首、腰、肩と捩じる。


 それによって生じた威をメイド服ごしに彼女の腹部へ、薄い肌と筋肉の奥へと徹す。



「ぼげぇっ――⁉」



 奇怪な悲鳴をあげて“まきえ”は吹っ飛び、すぐ背後にあった壁にぶつかった。衝突のショックで背中が弓反りになり後頭部をゴチンと壁に打ち付けると、“まきえ”は後頭部と背中を抑えてのたうつ。



「イテェっ! あちこちイテェっ!」


「…………」



 陸に揚げられたエビのようにビッタンビッタン暴れる彼女には一瞥もせず、弥堂は自身の右手を視る。



(…………ミスったか……?)



 想定していた手応えとは乖離があり、不審に思う。


 また想定していた結果とも実際に起こった現象にはズレが生じていた。



(奴の体内に衝撃を徹したつもりだったが……)



 実際は今目の前で苦しむ彼女が抑えている背中の方に衝撃は徹ったようだ。



(無理な体勢で行使したせいか、単純に俺の技量不足か…………)



 思案し、そこでようやく彼女を視る。



「フフッ。まきえ。痛い?」


「イテェよ! めちゃくちゃ! 助けてくれ!」


「任せて。とぅっ!」


「ぐぺっ――⁉」



 助けを求めるパートナーの顔面へ向けて“うきこ”は容赦なく爪先を刺した。


 “まきえ”はブリッジのような体勢で顔面を抑えて仰け反る。



「ギャアアァァっ!」


「エビの次はカメ。ひっくり返ったカメみたい。“まきえ”は芸達者」


「鼻血がーー! 鼻血でたっ!」


「大丈夫。それも鼻水」


「な、なにすんだよ⁉」


「“まきえ”が助けてって言うから楽にしてあげようと思った。でも“まきえ”が頑丈なせいで意識を刈り取れなかった。“まきえ”のせい」


「ムチャクチャ言うんじゃねーよ! テメー、マジで“ふーきいん”の真似はやめろよ! 頭おかしすぎてコエーよ!」


「真似じゃない。私はこんな男の真似なんてしない」



 ごもっともな非難を受けるも“うきこ”はツーンと澄まして聞く耳をもたない。



「真似してんだろ⁉ テメー前まではそんなじゃなかったじゃねーか! このクソ野郎と会ってから無表情作ったり喋り方変わっ――」


「――ていやっ」


「――ぅぼっ⁉」



 “まきえ”の口から語られる証言は、無慈悲な飛び蹴りが鳩尾に突き刺さり途中で切られた。


 極めて高精度な照準で水月を直撃されたことにより、“まきえ”の言葉どころか息が詰まる。



 悶絶して沈黙した自身のパートナーを尻目に、“うきこ”は手近な窓をカラカラと開け放つ。


 そして床に転がる“まきえ”の襟首と腰元のエプロンの結び目を乱暴に掴むと彼女を持ち上げた。



「ぽいっ」



 “うきこ”は、今目の前で起きたことは見間違いかと錯覚するような可愛らしいかけ声で“まきえ”を窓の外へ投げ捨てた。



「…………」



 弥堂は一応生死くらいは確認すべきかと窓へ向かいそうになったが、そういえば前にこいつらに遭遇した時も屋上から“うきこ”が“まきえ”を投げ捨てていたなと思い出す。


 その後もこうしてピンピンしていたなら今回も別に問題ないだろうと、進みだそうとしていた足を止めた。



 どうせ問題があっても自分のせいではないし、関係ない。


 相手が子供の姿をしていようとも彼はブレなかった。



 それよりも――



「フフッ。やっと二人きりになれた」



 こちらに向けられるジト目の中に隠れた嗜虐的な光から目を離すべきではない。そう判断をした。


 生贄が居なくなった以上、この頭のおかしいメス餓鬼の次の標的は自分になる可能性が高い。


 弥堂は警戒心を強める。



「そのためにわざわざこんな回り道をしたのか? ご苦労なことだな」


「勘違いしないで。別にあんたと二人きりになりたかったわけじゃないんだからね」


「二言目で発言が矛盾するのはどういうことなんだ」


「フフッ。これはサービス」



 どこかで聞いたような言い回しを棒読みで発する女児に眉を顰める。



「サービスだと?」


「“ふーきいん”はツンデレ好き。サービス」


「オレの人生の中でそんなものが好きだった時間は1秒たりともない」


「フフッ。強がっちゃって。“ふーきいん”可愛い」



 会話を成立させることが絶望的に難しいちびメイドに弥堂は激しく苛立つ。


 彼女の場合、本気で対話が不可能なのか、こちらをおちょくっているのか、その判断がしづらいことが余計に厄介だ。



「…………生徒会長閣下からの言伝、だったか」


「フフッ。いつもそうやって素直に聞けばいい」



 適当に誤魔化して彼女らの用件を無視するつもりでいたのだが、それを看破されてこのように誘導されたのかと疑心を抱く。



「“まきえ”ではないけれど。“ふーきいん”。お嬢様に少し気に入られているからってあまり調子にのるな」


「…………」


「お嬢様には私たちがいれば足りる。お前がお嬢様への敬意を欠くこと、お嬢様の不都合なことをするようなら、私がお前を殺す」


「そうか。善処しよう」


「フフッ。怯えてるの? “ふーきいん”。可愛い」


「さぁな。試してみるか? だが、それはお前の用件だろう? お前のお嬢様の用件ではない。簡単な伝言すら果たせずに自分の欲求を優先させるような間抜けが配下ではもの足りないから彼女は俺を使うんじゃないのか」


「“ふーきいん”は本当に口が減らない。泣かして言うことをきかせる」



 変わらない平坦な表情と口調。


 だが確かに空気を通してヒリつくような殺意が伝わってくる。



 そのことを心中で『素人め』と見下しながら弥堂は右肩を引いて半身になる。




 両者しばし無言のまま対峙する。




 そして弥堂はさりげない動作でポケットに手を入れ、取り出した物を“うきこ”の目の前にぶちまけた。



「――っ⁉」



 “うきこ”は反射的にごく短く息を呑み、ジャラジャラと目の前に散らばる小銭にバッと飛びついた。



「“ふーきいん”。お前はヒキョーもの。こんなことで許しを乞うなんて。浅ましい」



 浅ましく床に這いつくばり、こちらを見もせずに夢中で小銭を拾い集めてはエプロンのポッケにせっせと詰めていくちびメイドに弥堂は胡乱な瞳を向けた。



「――あ、お嬢様が“ふーきいん”に来て欲しいって言ってた」



 さも大事な伝言かと勿体つけていた用件を、ついでのように告げられた。



「まったく“ふーきいん”はしょうがない男。でもお前の気持ちはわかった」



 常軌を逸した速度で全ての小銭を拾い終えた女児は立ち上がると、パンパンになった前掛けエプロンのポッケを満足げに撫でながらそう言ったが、弥堂には彼女の言うことが何一つわからなかった。



「“ふーきいん”は要するに私と“ぱぱかつ”がしたい」


「あ?」



 やっぱり何を言っているのかわからなかった。



「“ふーきいん”にそこまで求められたら私も吝かではない。都度7k、おにごっこのみ」


「何言ってんだお前」


「“ふーきいん”はやらしい。仕方ない。どうしてもと言うなら、おままごとホ別30k、別途おぷしょん。特別に交通費は込みにしてやる」


「意味がわからん。わかる言葉で話せ」



 聞き覚えのない言葉の羅列に苛立つが、何故か弥堂はその意味をあまり知りたいと思えなかった。



「私もわからない。でも。こう言えば年上の男から金を貰えるとネットで見た。“ふーきいん”は私に金を払うべき」


「…………」



 変わらず意味はわからなかったが、弥堂は数々の修羅場を潜り抜けてきたその経験から、意味を明らかにすることに多大な危険があると察知し、黙って胸元の内ポケットを探る。



 そうして取り出した一万円札を“うきこ”の目の前に差し出し、よく見えるようにゆっくりと左右に動かす。


 彼女の目線はそれに釘付けで、万券の動きに合わせて眼球の向きを変える。



 弥堂が万札を彼女の目の前に吊るしたままゆっくりと窓の方へ歩き出すと、彼女は両手を伸ばしながらフラフラと着いてきた。



 弥堂は慎重に“うきこ”の全身の動きを監視しながらタイミングを測り、一万円札を窓の外へ放った。



「とぅっ」



 全く気の入っていないような声をあげ彼女は重力に引かれる日本銀行券を追って窓の外へ消えていった。



「…………」



 弥堂は酷く気怠さを感じながらも努めて自制をし、無言でカラカラと窓を閉ざし鍵をかける。



 そして一歩下がって閉じた窓の様子を数秒監視し、何事も起きないことを確認すると目的地へと向かって空中渡り廊下を歩き出した。



 何歩か進んだところで、背後からパリンと乾いた音が鳴る。



 素早く身を翻すと、うっとりとした表情で一万円札に頬ずりをする“うきこ”が窓枠から校舎内へ上半身を乗り出していた。


 窓付近にはガラスの破片がいくらか散らばっている。



「フフッ。“ふーきいん”。お嬢様は生徒会室」


「…………そうか」


「怖がらなくていい。“まきえ”が下で干からびたカエルみたいにひっくり返ってたから、私はこれから撮影で忙しい。今日は見逃してあげる」


「そうか」



 言葉通り特に交戦の意志はなさそうだったので、弥堂は構えを解き窓枠のクソ餓鬼に背を向けて再び歩き出した。



「せいぜいお嬢様の役に立つといい。そうすればご褒美にかくれんぼで遊んであげる」


「…………」



 弥堂はその言葉には応えず無言で、しかし背後に意識を向け続けながらこの場を離れていく。



 少しして背後に変化を感じ肩越しに視線を遣ると、窓際にはもう誰もいなかった。



「…………」



 目を細めて数秒視て、また昇降口棟へと歩く。



 空中渡り廊下が終わり、床の継ぎ目を踏んで昇降口棟へ入る。


 そのまま2階の廊下を歩いていくつかの部屋の前を横切って行くと、『生徒会室』と書かれたルームプレートが見える。




 弥堂はそのプレートから目線を切り、そのまま生徒会室を通り過ぎた。




 そして1階へ繋がる階段を降りて下駄箱へと向かう。




 生徒会長閣下が何か自分に用件があるようだったが、自分は特に彼女に用はないので今回は無視する。



 これであのちびメイドどもの信用は落ちるだろう。



 会長閣下は優秀な女だが、昔からお付きのメイドとして使っているあのメイドどもに甘すぎるようだ。


 こうしてコツコツと閣下の周辺の人物の信を落としていけば、誰が真に自分にとって役に立つ者なのかが彼女にもわかるだろう。


 そうすれば弥堂にとってより良い条件や待遇が引き出せるはずだ。



 それがスパイである自分にとっての正解の行動であると弥堂は心中で確認し、シューズを履き替えて校舎を出た。



 昨日同様に、シューズロッカーを開けた際にまた色々と中に混入されていた物が床に落ちたが放置する。



 こうして、あの遊んでばかりいる無駄飯喰らいのちびメイドどもに仕事を与えてやるのは、目上の者としての正解の行動だ。

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