第266話 明けの明星 2
入道が呼びにやった医師とは、あの恐ろしい京の大火で目を患い、数年前から明石に療養に来ているという、そんなうわさの医師であった。
彼は、内裏での救助活動に奔走している時に、運悪く煙で目をやられ、日の光に耐えられぬ状態で、ここへきた当初は、自分も含めてみなは、かなり不気味な印象を持ち、外にも出ぬ彼を、遠巻きに様子をうかがっていた。
それでもこの明石の周辺には、ちゃんとした医師もおらぬゆえ、以前、知り合いの受領の北の方が、酷く患った折に、仕方なくその医師を呼ぶと、彼は夜遅くに訪れたという。
小さな燭台の灯りのひとつですら、目に辛い様子で、常にうつむき加減にしていたが、北の方の女房が症状を伝え、いくつかの質問のあと、彼が用意してくれた薬を飲むと、まるで何事もなかったように、北の方の病はピタリと治っていた。
そしてその時の医師の優雅な物腰と、どことなく品があり、吸い込まれるような、魅力のある穏やかな口調に、側仕えの女房たちは、あの方は名医であるのに、本当にお気の毒な方だと、今度は正反対のうわさをする。やがて周囲に住む者たちも、なにかあれば彼を呼び、頼りにするようになっていた。
彼は、お気の毒な『京の医師』と呼ばれ、誰ひとり、顔をはっきりと、見たこともないままではあったが、いまでは彼を皆が信頼している。
「あの方ならば、北の方の
入道は女房にそう言うと、自分の部屋で、ひとり閉じこもる。元皇子の訪れを心待ちにして、光源氏が到着した時には、御告げの通りだと、大いに歓迎していた入道であったが、姫君を失ってからは、彼に露骨に嫌な顔を隠さなかった。
それでも帝から預かった『元皇子』だと、最低限の世話をしてはいたが、ある日、彼の供をしてきた
「わたしにあった御告げは、偽物であったのか……?」
何刻もの間、暗い気持ちで、脇息にもたれていると、遠慮がちな女房の声がする。
「“京の医師”がいらっしゃいました」
「ああ、すぐにお通しを。それから北の方のあとでよいから、わたしも見ていただけぬかと、聞いておいておくれ」
入道は、女房にそう答えると、大きなため息をついて、文机の上に数珠を投げるように放り出す。
それから数刻後、「“京の医師”がいらっしゃいました」そう女房に声をかけられ、慌てて彼の目に触ってはいけないと、灯りの数を減らすように指示をした。
小さなひとつだけの、ロウソクの灯りの向こうに、ぼんやりと幻影のような彼が現れた。愚痴めいた相談を長々としたあと、薬を処方してもらう間、しきりに入道が恐縮していると、普段は口数の少ない医師は、元第二皇子のうわさを聞いたことがあると、珍しく病に関係のない話題に口を開く。
「ご、ご存じでしたか?! いや、貴方は、元は内裏にお勤めの立派な医師、それはそうでございましょうな! で、ど、どんなうわさを?」
「あまり、臣下が申すような話ではないのですが……」
彼は、そう言いながらも、熱心に入道に問われると、貴方には、お世話になっていることであるし、もう臣下になられた方であるからと、『ここだけの話』そう言い置いて、話をはじめた。
光源氏は、先帝の愛を一心に受けて、その寵愛ゆえに、国を混乱に陥れていた、自分の母である
恋愛を、趣味のひとつと割り切る者も多い。どこにでもある話といえば、どこにでもある話であったが、彼に実家の家宝や財産を、父親に内緒で貢いでしまった姫君の話を聞いて、入道は、冷静ではいられなかった。
数多い恋愛や、多くの妻を持つのは、雅な趣味のひとつではあるが、相手の家を傾けてしまう、そんな行為は許される物ではない。
いくら一夫多妻制、婿君の世話をするのが、妻の実家の役目とはいえ、それは婿君の立身出世を願う、ひいては妻となった自分の娘や、今後の家の隆盛を願うゆえである。
あの、今楊貴妃と呼ばれた
「…………」
「とうに京を離れている自分には、真偽の判断はできませぬが、当らずといえども遠からず、そう思います……」
「それは、なぜゆえにございますか?」
「出入りの薬草を扱う者によると、この度、明石に来られることになったのは、彼が言っている帝の母、皇太后の怒りや嫉妬ではなく……なにやら帝の女御に懸想して、大きな不祥事を起こしたとか……」
「え……?」
「その者は典薬寮にも出入りしておりますから、真実に近い話かと、わたしは思います」
「それで、あの侍は、御代が代わっても帰れぬ身と……」
「静かにお暮しだった、こちらの姫君も、光源氏の目にとまったばかりに、お可哀想なことに……」
「いえ、それはすべて、わたくしの責任でございます。この度は無作法な話を持ち出して、申し訳ございませんでした……どうぞお忘れ下さい……」
入道がそう言って、つらそうな口調で謝罪すると、暗がりにボンヤリ形だけ浮かんでいる“京の医師”は、少し会釈をして、いつもの“菩提樹の薫り”を残し、優雅に立ち去って行った。
『やはりわたしが見た夢は、霊験などではなく、怨霊が見せたものであったか!』
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