第147話 追走曲 14

 一方の姫君を追った中務卿なかつかさきょうと“六”は、突如として渡殿に現れた高くそびえる塀にゆく手を阻まれていた。すぐに渡殿を降りて庭に回るが、彼らを阻むように、庭も同じような塀にぐるりと囲まれている。


 そしてなぜか、広大な庭にいたのは刈安守かりやすのかみだった。

 中務卿なかつかさきょうは、もしやこの男も、この度の事件に関わりがあるのかと、胡乱な眼差しを向けて、太刀に手をかけてから詰問きつもんをする。


「なぜ、ここにおる?」

「先程まで貞観殿じょうがんでんでの仕事の帰りに、登華殿とうかでんにて雨宿りをさせて頂いておりましたが、この異常事態に、やかたにひとり残している妹が心配で、後宮の裏門から自分のやかたに帰ろうといたしましたところ壁に阻まれ、この有様にてございます」


 刈安守かりやすのかみは、もちろん「尚侍ないしのかみを捕獲しようと思っておりました」なんて言わなかった。


“六”は刈安守かりやすのかみの横を見る。とてつもなく長く大きな槍。どこから引きずってきたのか、うしろの地面には巨大なナメクジが這ったような、モグラが掘り起こしたような跡が、土の上についている。


「それは“深緋こきひ”ではないのか?」

「さようにございます。貞観殿じょうがんでん兵司ひょうしに保管されておりました、帝の大身槍おおみやり(大槍)“深緋こきひ”にございます」


 彼の返事に中務卿なかつかさきょうはあきれ返っていた。


「そなた帝の宝物ほうもつを、勝手に持ち出したのか?」

「さすがは帝の宝物、すべてが紙の世界になる中でも、正しき姿を保っておりましたので、なにか役に立たぬかと持ち出し、目の前の壁を壊そうかと思ったのですが、残念ながらわたくしには重過ぎて、引きずるだけで精一杯でございました」

「帝の槍を引きずった?」


 唖然として呟いた中務卿なかつかさきょうに、平然とそう答えた刈安守かりやすのかみの様子に、“六”は「頭がおかしい」と思ったが、この障壁を壊すのは自分の力をもってしても、かなり消耗しそうである上に、いつの間にか壁の上には、どこからか現れた禍々しい気配のする白い猿が、一匹、また一匹と姿をあらわし、姫君のいるであろう壁の向こうへと向かっている。先が見えぬいま“深緋こきひ”が目の前にあるのは吉兆であった。


「職務上、薬箱を手放す訳にも参りませんし、ここまで引きずってくるだけでも大変でした」

「このような時ゆえ、薬箱の方は手放すべきだったな」


 移動させるだけでも、大の男がふたりがかりの大身槍おおみやり(大槍)、もちろん“六”にも扱える訳はなかったが、期待を込めた視線を中務卿なかつかさきょうに向けた。


「これ、扱えますよね? この際ですから、これで猿と壁を、なんとかしてもらえませんか?」

「……二人とも巻き添えにならんように、頭を低くしておけ」


“六”は、ため息をついた中務卿なかつかさきょうが“深緋こきひ”を両手で持ち上げるのを見て、やり大仰おおぎょうさやを取り外すと、言われた通り刈安守かりやすのかみと共に、素早く地面に身を伏せた。


 宮中の宝物、大身槍おおみやりの“深緋こきひ”は、刈安守かりやすのかみの記憶の正しさを証明するように、ギラリとした輝きを放つ穂先(刃の部分)に龍が彫刻され、まるで彼を睥睨へいげいするかのような威圧感を見せている。


 大きく深呼吸をした中務卿なかつかさきょうは、その名の由来である暗い紫がかった深緋 こきひ色の柄を両手で高々と持ちあげ、大身槍おおみやりを一度、頭上で大きな音を立てながら、ぐるりと回して大きく風を切った。


 ひゅうと、大きくうなるような音がして、ふりしきる藤の花弁はなびらは、“深緋こきひ”の穂先に触れた途端、チリリと焼け焦げてはかなく消えた。


 中務卿なかつかさきょうはニヤリと笑い、壁の上を飛び越えて、姫君を追いかけようとしている猿の群れを大槍で威嚇する。

 案の定、突然現れた敵である彼に、牙をむいて飛びかかる猿どもを、彼は次々と薙ぎ払い、刺し貫いていった。


 内裏での流血はご法度であったが、もうこの際であったし、葵の君と違い、彼には怨霊であっても人であっても、先の反乱平定でも見せたように、手を汚すことができる、血で血を洗う戦場を乗り越えた強さと覚悟があった。


 しかし不思議なことに、猿は切られると同時に消えてゆき、その場に飛び散ると思われた血しぶきは一滴もなく、ここでも黒い墨のあとのようなものが残るだけであった。


 ふところの短刀を出したものかどうか、大いに悩んでいた刈安守かりやすのかみは、この分だと大丈夫だと判断し、いかにも文官らしい、いまの出来事を怖がっている表情で薬箱を抱え持ち「やはり尚侍ないしのかみを手に入れるには、目の前の男を先に始末せねば」そう思いながら、ことの成りゆきを見守っていた。


 やがて中務卿なかつかさきょうが、あたりすべての猿を成敗し、彼が“深緋こきひ”を壁に振り下ろして、壁の向こうにゆくために破壊していると、刈安守かりやすのかみは、ぽっかりと壁の間にできた隙間に視線をやりながら、ふと呟いた。


「大丈夫だろうか……」


 刈安守かりやすのかみは猿が消えたのを見て、自分が箱に隠している“珍しき女”は消えていないだろうかと心配して、思わず口に出してしまったのだが、幸いなことに中務卿なかつかさきょうも“六”も、彼の言葉は妹君のことを心配する言葉と受け取り、破壊された壁の向こうに現れた、外につながる内裏の裏門を通って、妹君のところへゆけと言う。


「いえ、わたくしも朝廷に仕える身、なにかお役に立つこともございましょう」


 彼はそう言って、手にしていた大層な細工の施された金細工の槍のさやを、その辺に放り投げると、薬箱を手に、ついてゆくことを告げた。尚侍ないしのかみを手に入れる千載一遇の機会を逃す訳にはいかなかった。


「忠義、ご苦労である」


 そう言った中務卿なかつかさきょうは、いざとなれば記憶を“六”に消させればよい、いまは他に人手もなしと、彼の同行を許可し、“深緋こきひ”を担いだまま、葵の君の消えた方角へと向かう。


「随分と時間を無駄にした。葵の君はご無事だろうか?」

「急ぎましょう!」


 三人は庭の壁を乗り越えて、姫君が消えた方角に向かった。少し大回りにはなるが、一丈(十尺/約3m)もの大身槍おおみやりを持って移動するには、庭を回る方が早かったのである。

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