第148話 追走曲 15

〈 その頃の葵の君 〉


 中務卿なかつかさきょうが聞いた大きな物音は、葵の君が巨大な壁ができる前に、渡殿を袴が滑った勢いで、貞観殿じょうがんでんと襲芳舎(雷鳴の壺)を高速でとおり過ぎ、止まり切れずに飛香舎ひぎょうしゃ(藤壺)の前にある妻戸(両開きの扉)に派手にぶつかった音であった。 


「わっ!!」


 葵の君は跳ね返った勢いで、盛大な音を立てて檜の板でできた渡殿に叩きつけられていたが、この程度の衝撃なら、コンクリートの上に叩きつけられても大丈夫! そんな受身上手の彼女には、怪我のひとつもなかった。


 床から素早く起き上がると桐壷きりつぼに入り、紙になった女房たちを無視して、大声で光る君を探しながら奥に進む。


「第二皇子は、いらっしゃいますか?!」


 光る君は驚きに目を丸くしていた。なぜなら、誰かが自分を呼ぶ声に、ふと昼寝から目が覚めると、自分の周囲が絵のようになってしまっていたのだから。


 恐れと驚きのあまり、意識が再び遠くなっていると、なぜか自分を徹底的に避けていたはずの尚侍ないしのかみが、とんでもない恰好をして現れた。


 驚かない方が無理というものである。姫君は相変わらず美しいが、絵物語に現れる山賊のような姿をしていた。


『やっぱり“推し”は無事か!!』


 葵の君は心の中でそう思うと、光源氏を飛香舎ひぎょうしゃ(藤壺)で『たて』に使えるのではと思いついたのは、大正解だと思った。


「一緒にきて下さい!!」

「えっ、や……いや、いやだ!!」


『このクソガキ!!』


 藤壺での戦力になると踏んだ“光源氏”は、幼くも美しい悲し気な表情で、目に涙を浮かべている。

 まだ六歳だと思えば、しかたのないことだし、少しは胸も痛むけれど、夢の中の『レイプ未遂事件』を思い出した彼女は、慰謝料の替わりだと割り切ることにした。


 自分に対する『運命の女神』の怒りで、この大切な世界を、自分丸ごと地獄のふちに突き落とされかねないいまの状況を思い、彼女が蜘蛛の糸を垂らしてでも助けるであろう“光源氏”を無理やりにでも連れてゆこうと、彼をキッと睨みつける。


 中務卿なかつかさきょうに連絡を取ろうと、“ふーちゃん”を飛ばしはしたが、中務卿なかつかさきょうも、“六”たちも、帝を守ることで手が一杯かもしれないし、ひょっとしたら既に“紙”になっているかもしれないのだ。使えるモノは、なんだって使う!!


「この世界が消えてもよいのですか?!」

「………」


 自分の言葉を聞いて、立ち上がった光源氏に、葵の君は彼を一瞬だけ見直したが、生憎と光源氏は、柱にひしと掴まりに行っただけだった。


「~~~~!!」

「わたしの関わることではない、探せばそのあたりに動ける武官もおろう?」


 弱々しくそう言う光源氏を、葵の君は本気でぶっ飛ばしそうになったが、心の中で「コンプライアンス」と呪文を三回唱えて、なんとか我慢すると、ふと思いついたことを、優し気な口調で彼の耳元でささやいた。


「皇子を心から愛して下さる帝が、どうなってもよいのですか?」

「駄目だ!」

「では立ち上がって下さい! 大丈夫、貴方は神聖な力を持つ、帝の皇子様ですから!!」

「でも、こんな無粋で美しくないことに関わるのは嫌だ!」

「~~~~」


 葵の君は再び「コンプライアンス」の呪文を唱えてから、『ムチが駄目なら飴を使うしかない』と思い、光源氏の手をしっかり握って、耳元で再びささやいた。


「一緒にきて下されば、桐壺更衣きりつぼのこういをすぐに“御息所みやすどころ”にして差し上げると言っても? わたくしの横で立っているだけでよろしくてよ? 皇子に根性なんて期待していないので、大丈夫ですけれど?」

「母君を御息所みやすどころに……」


『根性って、なんだろう???』


 なにも知らない、でも、本来ならば物語の主人公で、運命の女神の“推し”である光る君は、根性がなにかも知らなかったが、それでも帝の地位すら意のままに扱える摂関家の姫君が、すぐにでも母君を“御息所みやすどころ”にしてくれると言った言葉に大いに心が揺らぐ。


 柱を片手で掴み、もう片方の手を口元に当てて悩んでいると、足音が聞こえて、こちらに向かって近づいてくる。


「ご無事ですか?!」


 聞き覚えのある声は、腹違いの兄君、第一皇子の声だった。なにがなんだか分からないけれど、とりあえず光る君は大きな安堵のため息をついた。


「(尚侍ないしのかみから)助けて――!!」


 光る君は、邪魔なだけの存在であった腹違いの兄の顔を見て、これほどまでに嬉しいと思ったことは、率直に言って生まれてはじめてであった。

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