第149話 追走曲 16

「ご無事か!!」


 そう言いながら駆け寄ってくる第一皇子の姿に、光る君の目は潤んだ。第一皇子は邪魔ではあるが、美しいお顔であると今更ながらに思う。

 尚侍ないしのかみは別にして、美しいものは神聖で、だから誰もが誰よりも美しく愛らしいわたしに、優しくしてくれるのだ。


「一瞬、お姿を見かけた時は、胸が潰れるほどに心配いたしました」

「あの……」


 しかしながら、当然のことながら、朱雀の君の視線は、光る君の横、葵の君の上にあった。


「渡殿を通り抜ける尚侍ないしのかみ尋常じんじょうならざるお姿を見て、この恐ろしい出来事の中、御仏みほとけ尚侍ないしのかみに降臨されたと確信いたしました。わたくしも微力ながらお力になれればと、駆けつけた次第にございます」

「……」


 葵の君は自分の左手を両手で握って(右手は光る君を引っ張っていた。)真剣な眼差しで、自分を見つめている朱雀の君にとまどっていた。


 やはり帝の血脈というのは、この世界では神聖で、この異常事態にも光る君と同じく、帝の皇子である第一皇子には影響していないようだ。この分だと中務卿なかつかさきょうも無事かもしれない。


 大内裏の中務省なかつかさしょうにいるはずの彼のことが、心配でならなかったが、第一皇子の姿を見て、葵の君は少しだけ安心した。あとは聞き分けのない光源氏を連れて飛香舎ひぎょうしゃに行くだけである。


「ほら、第一皇子もご無事でございます。第二皇子にも、なんの差しさわりもございません。お二人は神聖な存在、わたくしにほんの少し、飛香舎ひぎょうしゃ(藤壺)で、助力を頂ければ大丈夫です」

「ほんとに?」

「姫君のお言葉で、空から藤の花弁はなびらが降りしきる理由に納得しました。尚侍ないしのかみ飛香舎ひぎょうしゃにこだわるのは、怨霊がそこにいるのですね!」

「え、えっと……多分、はい……」


 こんな性格だっけ? かなりしっかりした様子の第一皇子に、葵の君は再びとまどう。


 彼がここまで性格が変わったのは、実のところ、葵の君の魂が入れ替わったきっかけである病のために、後宮を出て大和国への道中で、実感として民草の苦しみを理解し、下らぬ派閥の競りあいよりも、国や民のために、自分になにができるかと考える日々を送っていたからである。


 そんな訳で、第一皇子である朱雀の君は、あまり周囲には理解されないながらも、元の物語よりも堅実で、弘徽殿女御こきでんのにょうごや右大臣に振り回されるだけではない、実にしっかりとした考えの人物になっていた。


 彼には葵の君が民を思い、さまざまなおこないをしているといううわさは、かねがね右大臣を通して耳に入っており、出仕前から大いに好感を持っていた上に、昨夜のうたげで見た、ひとつ年上なだけとは思えぬほどに、臈長ろうたけて美しい尚侍ないしのかみに、すっかり心を奪われていたのである。


「さあ、参りましょう!! 光る君もご一緒に!!」

「あ、はい……」


 従姉弟いとこではあるが、臣下である尚侍ないしのかみと違い、自分よりも身分が高い、第一皇子に言われては、断ることもできぬ。


 光る君は「御息所」と心の中で三回唱えてから、自分の宝物である筆を、慌てて箱ごと懐にしまうと、ふたりのあとについて飛香舎ひぎょうしゃに向かった。


 光る君は途中、先頭に立つ尚侍ないしのかみが、背負っていた刀を抜いて、現れた白い猿を退治するのを見るたびに、意識が遠くなったが、第一皇子に手を引かれて、なんとかついてゆく。


 こうなっては、桐壷に置いてゆかれても、自分で猿と戦う羽目になりそうだ。そんなことは絶対に無理だと彼は思った。


 切り捨てられた猿は、黒い墨のような染みを残して一瞬にして消えてゆく。第一皇子はうしろに続きながら、「やはり尚侍ないしのかみは、薬師如来の具現、十二神将じゅうにしんしょうすらその身を通して使役なさっていらっしゃる」そんな風に、胸をときめかせていた。



〈 中務卿なかつかさきょうの一行 〉


「葵の君は、桐壷には、いらっしゃいません!」


 庭から上がった“六”が、桐壷をのぞいて叫んだのは、彼女たちが姿を消したあとだった。


「まだ先か……」


 この先は殿舎も多い。中務卿なかつかさきょうは少し迷ったが、空から舞い降りてきた藤色の鳥に目を止めて薄く笑った。


 それは葵の君が中務卿なかつかさきょうに放った“ふーちゃん”。


「ゆく先は飛香舎ひぎょうしゃ! 念のため、“六”は渡殿をゆけ!」

「はっ!」


 庭から聞こえた大声に反応して“六”は渡殿に出る。うしろから聞こえてきた足音に顔を向けると、走ってくる蔵人所くろうどどころの別当の姿があった。手には金色の光を放つ見覚えのある数珠。


「だ、第一皇子を見かけませんでしたか?!」

「恐らく飛香舎ひぎょうしゃかと思います」


 葵の君の姿がよぎった渡殿の途中には、第一皇子が暮らす襲芳舎しゅうほうしゃがある。そして、ここにいるはずの第二皇子もいない。ふたりの皇子の姿が見当たらぬのは、姫君と一緒だと考えるのが自然であった。


中務卿なかつかさきょうは、いかがされた?」

「庭から行くとおっしゃっていました」

「ああ、その方が近いか……」


 槍があるから……そう言っていいのかどうか、走りながら考える“六”だった。


 アレを持ち出したのは、中務卿なかつかさきょうではないが、国宝を勝手に振り回しているのだ。正直に伝えるのは少し悩んだのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る