第32話 姫君の嗜み 2

「わたくしが、なにか国家へ貢献など……」


 数日前、久しぶりに左大臣家を訪れた関白は、愛らしい笑顔を浮かべていた姫君が、春の裳着と出仕の話に絶句したあと、困惑を顔に浮かべながら、そう口にするのに目を細めていた。


 姫君は美しいだけではなく、愛らしくたしなみ深い。


『薬師如来の具現』とも言える、不思議な夢見の力がなくとも、正に“国母”にふさわしい姫君ではないか。


 彼はそう思い、黒い扇子をもてあそびながら口を開く。


「帝を支え補佐をする国家的重要人物の“関白”を、ここまで復帰させた功績は、充分に国家的な貢献、謙遜けんそんは無用」


 全身をおそう、刺すような痛みに失われていた、往年の鋭い頭脳を取り戻した関白は、「尚侍ないしのかみの件を押し通してよかった、怨霊に姫君の命を奪われて失うのは、国家としても大変な損失である。内裏であらば、いかようにも対応ができよう」そう考えて、満足げにうなずいていた。


 差し出された水をひと口、そしてついと菓子に目をやる。


 葵の君も素早く用意された菓子に目をやると、女房に取り換えるように指示を出してから、関白を心配げに見上げた。


「でも、お体の方はまだ……」

「うむ、さすがに毎日の参内は難しいゆえ、来年の秋に、正式に関白の座は引退し、陰で帝と政治を支えるつもりである」


 自分で自分のことを、『国家的重要人物』とか言っちゃうんだ!


 葵の君は、ちょっと内心ビックリしながら、内裏に行った疲れの見える関白を、上目遣いに見上げた。


 糖尿病か、はたまた“帝王病”とも言われる痛風か、素人の自分には分からないけれど、御祖父君の菓子は蜜柑みかんと取り換えてもらった。


 βーカロチン、リコピンが含まれている蜜柑は、血液中にある尿酸の吸収をおさえてくれる。残念そうだが命には代えられない。手に入る季節の間は、菓子には蜜柑みかんを食べてもらう。


 現代にいた頃に食べていたような、大きくて甘い蜜柑みかん(温州みかん)は、いまのところは量産されてはいないが、“突然変異蜜柑とつぜんへんいみかん”として存在していたらしく、蜜柑みかんの取れる季節には、左大臣家には珍しき蜜柑みかんとして、届けられていたのであった。


 下げられた唐菓子(小麦粉や米粉を甘味料と一緒に揚げたお菓子)を、少し残念そうに見送った関白は、それでも葵の君が蜜柑みかんを丁寧にく姿を見ると、なにも言えずに優しく見守って、差し出された蜜柑みかんの一房を口にしていた。


 はじめは半信半疑であったが、加持祈祷をやめて、姫君の言うとおりの食事を取って酒をやめ、規則正しく生活することで、日々体調が戻ってきたのは、自分自身がよく分かっている。


「姫君の春の裳着もぎまで、もうひと働き、大切な葵の君に、なにかあってからでは遅い……」


 そう言いながら、自分を見つめる目は、あまりにも優しくて、いつの時代も祖父は孫娘に甘いんだなと、ちょっと前世の自分のおじいちゃんを思い出して、うるっとしてしまった葵の君であった。


 そして目の前の御祖父君は、自分のおじいちゃんと違い、生まれながらの大貴族なんだと、次の台詞せりふで思った。


尚侍ないしのかみとしての出仕は、姫君の身の安全を図るのが一番。しかし内裏に出仕していただくことは、国家にとってよきことであろう。みなが伏して感謝を述べ守護するのは、しかるべきことゆえ、なんの遠慮もせずに、気楽に出仕されるとよいが、姫君が困らぬ程度には、ひととおりのことは教授と差配をしておこう」

「はあ……」


『薬師如来の具現』


 自分の孫である姫君を、そう思い込んでいる、自分で自分のことを、と言ってしまう御祖父君は、まさに政界のフィクサーといった悪い笑みを浮かべると、脇息きょうそくにもたれながらそう言った。


 スポーツは自己肯定感を高めるというのは、よく耳にする言葉だけど、この人はスポーツしなくても、絶対大丈夫だと思う!!


 そう葵の君は思った。


『格別に特別な存在であるわたし!! そして、そのわたしの孫娘も、格別に特別な存在!!』


 そんなところであろうか? 生まれながらの有能な権力者って凄いな。


 父君は優しい人だけど、今回のことといい、有能かどうかは残念ながら疑問がつく。そして、誰に似たんだろうと思っていた兄君は、実は御祖父君に顔が似ていた。


 中身はどうなんだろう? 兄君にもらった干しシイタケで、わたしの食生活には幸せが訪れたけど。


「もったいなきお話でございます……」


 わ――、どうしようかな――、元気になったのは嬉しいけど、引退しても影のフィクサーとして、孫馬鹿オーラ全開になりそうな……。


 葵の君は色々考えながら、とりあえず行儀よく、品よくお辞儀をした。


「来年の秋での出仕が最短かと思いましたが、さすがの帝も、ご自分が東宮になるのに尽くし、いままで国家を支えた父君の誠意は、お忘れでなかったようで、ようございました。あとは中務卿なかつかさきょうがよきに計らってくれるでしょう」


 自分の不甲斐なさを棚に上げ、母君に朗らかにそう言う父君に、葵の君はわたしの『神/アイドル』が過労死したらどうしようと思った。


 中務卿なかつかさきょうは、超忙しい部署のトップなんだって!


 そんなこんながあり、過密を極める春を見越した紫苑は、姫君と一緒に出仕するために、自分も裳着もぎを済ませてくると、恐縮しながら、遠い実家に帰ってゆく。

 

 紫苑も受領(地方貴族)の娘で、実家に帰れば、れっきとしたお嬢様、いや、お姫様なのだ。裳着もぎ(成人式)を、すっ飛ばす訳にはいかないらしい。


 荷物になるので祝いの品を、あとから送ると約束して、寂しいながらも短い別れを迎えたのであった。


「そしてわたしは、今日も御堂おどうにこもる……」

「どうかなさいましたか?」


 紫苑の代打を引き受けている女房が声をかけてきた。


「いえ、独り言です、御堂おどうには、誰も中に入れぬように」

承知しょうちいたしております」


 実直な女房は、御堂おどうの扉の内側へ姫君が入ってゆくのを見送ると、再び渡殿(廊下)を戻り、誰ひとり通さぬように、御堂おどうにつながる母屋側の渡殿の真ん中で腰を下ろした。


 一方の葵の君は準備運動をしてみたり、たい転換てんかんなど、基本的な合氣道の体捌きを反復する。


 御堂おどうの中にある薬師如来坐像の横には、くだん御神刀ごしんとう。九歳の体には重すぎて、いまのところ、なんともできないが、毎日、持ち上げようとしてみたりもしている。兄君の竹光でできた古い飾り太刀も、一本、手に入れたので、木刀がわりにして自主練もしている。


『いざとなったら、十二単じゅうにひとえで、御神刀ごしんとうを振りまわさないと!!』


 正直、光源氏に会うのは、断固絶対勘弁して欲しいところであったが、せっかく健康を取り戻したいま、素性も分からない怨霊に殺されるのは、もっと勘弁して欲しい。


 陰陽師おんみょうじ中務卿なかつかさきょうの助けは、大いに期待しているが、帝の周囲で怨霊のことを探るという任務もあるので気は抜けない。


 そんな話が源氏物語にあったっけ? 多分ないよね?


 まだ育ちざかり、身長が伸びれば、いつか御神刀ごしんとうを自分で振り回すこともできるだろうと思う。牛乳もたくさん飲もう!


 そんな訳で葵の君は、毎日、ひとりで稽古に励み、筋肉痛に悩まされながらも、いつしか前世と同じくらいの素早い動きを、この『お洒落は我慢』、ひたすら美しさに全振りされた、重量級の美しいころもを身につけたまま、できるようになった。


『万歳!』


 ついでに言うと少林寺拳法部の親友、花音かのんちゃんに教わった、うろ覚えの突きを繰り出したり、回し蹴りすら長い袖やはかまをなびかせながら、繰り出せるようにもなった。


 多分、全然違うけど、なにもできないよりはマシなはず!! 姫君が回し蹴りするなんて、意表をつけると思う!!


 脳内で人体のツボを浮かべてイメトレもする。


 かくして御堂おどうを確保? した葵の君は、『優雅な鶴の皷翼はばたき』と称される美しい身のこなしを、地道な努力と食生活の積み重ねで手に入れた。


「ただいま戻りました!」


 十二単姿じゅうにひとえすがたも初々しい紫苑が、そう言いながら戻ってきたのは、もう少し先、葵の君が『困らぬ程度の一通りのこと』を身につけるために地獄を見た、正月が開けて早々のことであった。


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