第33話 Influencer 1

 葵の君は、『出仕して、光る君に出会ってしまったら、ゆっくりと六条御息所ろくじょうのみやすどころを押してゆくプラン』も考えてみる。


 二人が相思相愛になってくれれば、世の中の大体は丸く収まり、わたしの身の安全も、かなり保障されるはず!


『引くのが無理なら押してみよう!』葵の君は、そんなことを思った。


 母君が裳着もぎに向けた、わたしの十二単じゅうにひとえ意匠いしょう(デザイン)を考える横で、一緒に意匠いしょうを考えたりもしている。


 見ている分には本当に十二単じゅうにひとえは、どこまでも綺麗な衣装だなぁ……。(正式名称は、裳唐衣もからぎぬなんとからしいです。)


 来年十歳だけど大人の仲間入り! 本当は十九歳だったから心の中では、二十歳の成人式!


 母君は心労のあまり、今度はご自分が寝込みそうな勢いであったが、姫君と帝の命にかかわることと、ご自分をなんとか納得させて、気丈に振る舞っていらっしゃる。


 時間がないこともあり、姫君の裳着もぎ尚侍ないしのかみ十二単じゅうにひとえ意匠いしょう(デザイン)を、毎日、熱心に考えているご様子だった。


 そんな訳で、葵の君も母君に気を遣って、意匠いしょうの話に耳を傾け、頑張って口を開いているのである。


「母君、唐衣からぎぬの襟の部分の相談を、聞いていただけますか?」


 唐衣からぎぬというのは、十二単じゅうにひとえの一番上にくるころものことで、襟の部分を返して裏地を見せるため、裏地にもかなり気を遣う部分であった。


「あらあら、どんなご相談かしら?」


 普段は大人しく用意されたころもを着ている姫君が、いつになく積極的に言ってくれるのが母君は嬉しかった。


 染色や織などに関わる教養をみがくことも、貴族の姫君として立派な学びのひとつ。興味を示してくれるのは、よい機会だと思いながら、ほほえんだ。


「目立つ色の裏地に、刺繍を施して頂くのは可能でしょうか?」

「刺繍?」


 母君のけげんな顔は、もっともだった。襟の返しは大切なアクセント、抜かりなく考えを巡らしていたが、姫君が紙に描きつつ説明する、大胆かつ華やかな刺繍は、いままで試みられたことはなかった。


 葵の君が言っているのは、現代のお雛様に時々見られるデザインで、襟の返しの部分、二重織りの裏地の見えるところに、刺繍を施したいというものであった。


 成人式の振袖の半襟の刺繍のような感じ! と葵の君は言いたかったが、そもそも振袖がない。説明は困難を極めた。


「重たくなりますよ?」


 ようやく理解してから、目から鱗の素敵な考えだと大宮は思ったが、からかうように姫君に言うと、早速、女房に担当の者に話を通すよう言いつけた。


 うけたまわった側仕えの女房は、『裁縫部』に話を持ち込む。


 話を伝え聞いた裁縫部の女房たちも、素晴らしい衣装ができ上がるとは思うが、何分初めてのこころみゆえ、集まってしばらく思案していたが、裁縫部を取りまとめる筆頭の女房は、少々時間がないこともあり『尚侍ないしのかみ』として初出仕される時の、正式な十二単じゅうにひとえ裳唐衣もからぎぬ)として、一旦は引き受けて、大宮と姫君と、考えを煮つめることを申し出た。


 内裏で衣装が足りなくなるという、本末転倒な不測の事態にそなえ、残りの十二単じゅうにひとえ唐衣からぎぬは、ひとまずいままで通りの仕立てで内裏に持ち込み、出来上がり次第、刺繍の入った唐衣からぎぬのみを持参。


 順次、内裏にて入れ替えの予定で、お届けすることに決定した。


「大変なご苦労になりますが、体には気をつけて下さいね」

「もったいなきお言葉にございます」


 裁縫部の筆頭をつとめる女房は、姫君に直接頂いた言葉に、真面目に返事をして御前を下がったが、内心は感動で一杯だった。


 さすがに左大臣家では、そのような話は聞いたことがないが、使えなくなった使用人など、道端に捨てるなり、体よく追い出す家の方が多いこの時代、貴族社会の頂点にあらせられる姫君のお言葉は、もったいないを通り越したものであった。


 自分たちのような裏方の仕事をしている者が、主家の姫君と顔を会わすこともまれである。


 伝え聞くだけであった、姫君の幼くも既に備わった見識と、うやうやしい姿、優しい心配りをのせる、透き通った声に『薬師如来の具現』とのうわさもなるほどと思う。


「姫君の周りに後光がさして見える」そんな気がした。


 使命感にかられた筆頭は、『織部司おりべし/※織物や染色、刺繍にたずさわる国家最高機関』の知りあいにツテを求め手紙を送ると、数日後には刺繍を担当していた技術官に、好条件を提示して、四人も引き抜くことに成功し、委細決定次第、姫君の『尚侍ないしのかみ』出仕までに完成させるように、一心不乱に刺繍に励んでもらうことにした。


 自分たちは、姫君の出仕用の十二単じゅうにひとえの製作に加え、関連の膨大な衣装の製作に突入する。


 裳着もぎに姫君がまとう十二単じゅうにひとえは、大宮がご自分で手掛けるとおっしゃったが、自分たちは尚侍ないしのかみとして出仕する、『摂関家の姫君にふさわしい十二単じゅうにひとえ』を、数多く仕立てねばならぬ。


 新年の準備も佳境、これは彼女たちをしても、かなりの負担であった。


 裳着もぎに出席する公達きんだちに、左大臣家からの返礼として配るための衣装製作もある。筆頭をはじめ裁縫部一同は、寝食を忘れて仕事に没頭する日々がはじまった。


 姫君のうしろに見えた後光は、ひょっとしたら、仕事のし過ぎで、目がチカチカしていたのかもしれない。


 出仕用の姫君の十二単じゅうにひとえ関連の衣装製作は、忙しいながらも順調に進み、目途も立とうかという、そんなある日、邸内の取次を担当しているひとりの女房が、常になく慌てた様子で『裁縫部』に駆け込んできた。


「どうかしましたか?」

「筆頭に申し上げます! 姫君の唐衣からぎぬ用の織物が……」

「それは今日明日にも届く予定……ああ、届きましたか?」


 早めに届くと助かる。そう思っていた筆頭は、機嫌よくそう答える。


 裁断のあと、織部司おりべしから引き抜いた技官たちに、先に刺繍をほどこしてもらわねばならぬ。早ければ早い方がよかった。


「京のすぐ近くまで搬送されていた織物が、荷崩れを起こし川に……川に転がり落ちたそうです」

「織物はどうなりました?!」

「生憎、滑り落ちた時の衝撃と、荷車が乗り上げた重みで傷物に……一応は届いておりますが……」


 女房と一緒に筆頭は、荷下ろし専用の庭に慌てて足を運ぶ。まだ凍っていなかったのであろう。川に流れる水を吸って、“ボロ”になり果てた織物を乗せている荷車に、筆頭は絶句した。


 これではお話にもならない。姫君の唐衣からぎぬに使う織物を、急遽、別で用意せねばならぬ。


「すぐに、とにかく、いますぐ塗籠ぬりごめの在庫を調べてみましょう……」


 筆頭はそう言いながら、布地用の塗籠ぬりごめに足を運ぶが、顔色は悪かった。


 十二単じゅうにひとえの一番上、唐衣からぎぬに仕立てる織物は、二陪織物ふたえおりもの(地文様を織りだした織物の上に、さらに地文様とは別の、鮮やかな色糸で浮織をする二重に文様を織り出した絹織物)で、ことのほか注意して特別に用意するべき品。


 本来ならば、とても春に間に合う訳はなかったが、今日、明日にも届く予定だった品は、大宮が毎年あつらえている、春を意識した常よりも明るく華やかな色柄の品で、姫君の年頃であれば、日頃の内裏での正装に丁度よいと思い、その中から大宮と姫君にお見せして、選んでいただく予定にしていた。


 案の定、塗籠ぬりごめに残っていたのは、出仕する女房用の、華やかながらも落ちついた物、左大臣や贈答用の男君用。


 大宮によくお似合いになる、艶やかな大人びた女君用の二陪織物ふたえおりもの。 


 その他、まだまだ潤沢に数は残っているが、十歳という幼さで裳着もぎを迎えて出仕される姫君には、あまりにも大人びた、いかにも不釣り合いな品しか残っていなかった。


 かと言って、姫君の汗衫姿かざみすがた用に、用意してあった品では、まだまだ女童めわら気分が抜けていないと、内裏だいりで軽んじられるのは、目に見えている。


 それほどに身にまとう衣装のセンスが重要視される時代であった。ましてや姫君は、関白が無理やりねじ込んだともいえる中でのご出仕。ゆき届かぬ支度では、摂関家の面目が丸つぶれである。


「筆頭……」


 同じく裁縫部の女房たちが、塗籠ぬりごめの中を探し回っていたが、女房ならば立派過ぎる品もあれど、姫君にふさわしいと思われる品は見当たらず、筆頭をはじめ皆は茫然としていたが、事故の報告もせねばならぬと、大宮の側仕えの女房に、簡単に経緯いきさつを伝え取次をたのむ。


 訳を聞いた側仕えの女房は委細承知と、こちらも大慌てで姿を消した。


 そして筆頭は足取りも重く、大宮と姫君の待つ昼御座を訪れると平伏し、重い口を開く。


「不備をお詫び申し上げます、姫君の出仕のために、ご用意する十二単じゅうにひとえ唐衣からぎぬ用の織物が、運ばれている途中で事故にて、すべてご用意が不可能となりました……」

「なんと……」


 先程から姫君の手習いを、のんびりと指導していた大宮の手から、驚きのあまり筆が落ちた。


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