第34話 Influencer 2
「誰も怪我はありませんでしたか?!」
「あ、はい、多分……」
慌てた表情の姫君が、最初に口に出したのは、筆頭の予想とは違い、まさかの事故の怪我人を心配する言葉であった。
事故をしでかした者のことなど、心の中でののしっただけで、どうなったかまでは知らない。
京の
葵の君は大きな怪我がなければいいなと思いながら、慌てた母君のあとについて、布地用の
「これも駄目、あれも駄目、そうね……全部駄目!!」
暗い表情の母君と、筆頭をはじめとする女房たちは、
母君の静かに怒った顔が怖すぎる。
全部綺麗なのに……。そう葵の君は思いながら、ふと横によけられていた織物に手を伸ばす。
「あ、姫君、それは去年の夏物の残りにございます」
「夏物……」
ふ――ん、これが夏物。本当だ、向こうが透けて見える! 細かな模様の入ったオーガンジーみたい。
保育園のお遊戯会を思い出した。妖精の役をしたのだ。オーガンジーのスカート履いて。
「あ!」
「どうかしましたか?」
葵の君は前世の記憶を、もうひとつ思い出していた。
それは、早すぎて女子部員一同が驚いた、卒業後すぐに結婚すると発表した四回の先輩が、多過ぎて悩んでると言いながら、見せてくれた結婚式のドレスや着物の画像。
世の中には、和装、洋装、こんなに色々な種類があるのかと、お洒落に普段あまり縁のない女子部員一同、大騒ぎをしていたが、その中でみなが一番ビックリしたのが、先輩が気に入りすぎて、悩んでいると見せてくれた『オーガンジーとレースの
真っ白な着物の花嫁衣装の本体は、綺麗な白いレース生地で、一番上の
なぜ覚えていたかというと、とても綺麗だった&レンタル代が7ケタ越えという、衝撃価格だったからである。
「自動車が買えますよ?! てか、先輩、留学できますよ?」
「ちょっとまって! これで新しい洗濯機と冷蔵庫と掃除機と、あとあと……」
「買うんじゃないんですよね? 借りるだけですよね? 夢だ、これは夢だ……」
美しさと価格の破壊力に、稽古のあとで、すっかり疲れ切っていたにも関わらず、狭い部室を先輩のスマホを持って、女子部員一同、右往左往した記憶があった。
「これを使いましょう……」
「え?」
母君をはじめ、皆は幼い姫君の洩らした言葉に耳を疑い、母君はさすがにたしなめるが、姫君は、なにかに取り憑かれたように、夏用の織物を自分にあてて、身振り手振りで説明をこころみ、姿を消したかと思えば、一生懸命に説明しながら持ってきた紙に、筆で下手ながらも絵を描いている。
しばらくすると、塗籠の中には、全員の頬が紅潮してゆくような、恐ろしいほどの高揚感が充満していった。
筆頭は姫君の提案は、いままでの
母君は内親王であった時代も、降嫁したいまも、平安貴族社会の『お洒落番長』とも『インフルエンサー』ともいうべき存在であったが、これは素晴らしい
「そうね、姫君の言うとおり、
芸術の才に溢れていた母君は、葵の君とは違い、絵師にも引けを取らぬ腕前であった。
ちなみに
「大宮、宝物殿を開けるように、
筆頭は、姫君の変な絵を手にしたまま、大宮に願い出る。
「もちろん好きなように……ああ、そうね、関白が確かもっと様々な
さらさらと母君が書いた書状を持って、女房は文字通り走ってゆく。
隣とはいえ、サッカースタジアム2個の
『どこまでやる気なんだろう?』
葵の君は暴走しだした周りの勢いに、いささか怯えたが、とにかく
ちょっと前まで受験生だったから、タイトルは知ってたけど、眠たくなるなぁ、楊貴妃がどうしたとか知らん!
そんなことだから国が傾くんだ! いい加減、目を覚ませばよかったのに。
楊貴妃のいなくなった悲しみを詠んだ美しい歌に、葵の君は、身も蓋もない残念な感想しかなかったが、まだまだ現役の脳内に素早く記憶させた。
しかし色々な知識を知っていても、普段は知らないふりをするのが『女のたしなみ』って、どういうこと? 漢字を知らないふりをするのが、素敵な大人の女君の第一歩ってなに? じゃあ、はじめっから勉強しなくていいやんか!
そんなこんなで勉強に運動にと、あっという間に一日が終わり、夜遅くに、ふと裁縫部のある方に目をやると、
自分ひとりのために、どれだけ沢山の人が、頑張ってくれているんだろう?
彼女は裁縫部に向かって合掌した。
そしてなんとなく自分の部屋(壁ないけど!)に置いてある、ピラミッドのように積んである
そんな訳で、根が真面目な彼女は翌朝からも、地道に頑張る日々を送っていたのであった。
『また受験生のような毎日に戻ってしまった!』
「誰か
「………」
翌朝、葵の君の部屋にある
やがて蓋は、昼過ぎに裁縫部から礼状つきで、帰ってきたのであった。
『見ツカッテ、シマイマシタネ』
「わ!!」
火取香炉の蓋を入れ物にしてはいけませんと、母君に少し注意されたあと、ひとりで黙々と勉強していた葵の君は、“ふーちゃん”が、いきなりしゃべったので、思わず筆を取り落としていた。
「話せるの?!」
『………』
“ふーちゃん”は返事をしてくれなかった。
そんな彼女に、本当の地獄が訪れたのは、もう少しあとのことである。
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