第35話 姫君の気配りと兄君の事情

 左大臣家に仕える二百人近い女房の中から、姫君と一緒に出仕するべく、特に選ばれた何十人にものぼる女房たちも、仕事の合間に用意された生地を手に、それぞれ一心不乱に自分のころもを縫う。


 最近では皆、食べる時間も惜しいと、食事すら携帯食の頓食とんじき(蒸した米で作ったおにぎりのようなもの)を持ち込んで、とどこおりがちと伝え聞いた葵の君は、女房たちの体を心配して、食事を担当する台盤所だいばんどころの長を呼ぶよう、側仕えの女房に声をかけた。


 頓食とんじきといった一般的な携帯食ではなく、一日程度の日持ちでよいので、栄養バランス重視、その上、見た目も美しく、おいしいもの。


 欲を言えばキリがなかったが、要はいつも自分が用意してもらっているような食事を、持ち運びしやすく、もう少し品数を吟味して……と、御簾みす越しに女房を介して伝える。


 いちいち伝言ゲームみたいなやり取りは面倒だけど、本来はそういうモノなんだって!


 仕切りのある四角の塗箱ぬりばこ(松花堂弁当の箱)の絵を描いて、毎日二回、必ず女房たちに届けてもらうように伝え、台盤所だいばんどころと試行錯誤の末、基本の数種類の組み合わせを考えた。


「わぁ素敵、本当に『御弁当おべんとう』 あと、絶対に冷ましてから、蓋をするように伝えて下さいね」

「かしこまりました(御弁当?)」


 台盤所だいばんどころとのやり取りを担当していた女房は、姫君の口走った言葉に首を傾げたが、きっとわたしの知らない“唐”の書物かなにかからの引用だと勝手に思う。


 そして心配顔で評価を待っていた、台盤所だいばんどころの担当者に、塗箱を返しにゆくと、したり顔で「このような『御弁当おべんとう』でよい」とのことでしたと伝えた。


 担当者は担当者で、『御弁当おべんとう』ってなんだろうと、渡された塗箱ぬりばこを手に考えていたが、手伝いのひとりが、きっとそういう品物が“唐”にはあるのでは? と言うのを聞いて、きっとそうだろうと納得した。


 この時代、まだまだ紙は貴重品な上に、本を手に入れるには、写本するしかない時代であったので、割と皆アバウトであった。


 それからしばらくすると、簡単な塗箱ぬりばこ台盤所だいばんどころに大量に用意され、主家の皆様の二度の食事、菓子、そして、女房をはじめとした使用人たちの簡素な食事に加え、忙しい使用人に、特別に用意してもらえる『御弁当おべんとう』作りの新しい部門が増え、台盤所だいばんどころは増築された。


御弁当おべんとう』作りの責任者は、手伝いを入れて三人で、毎日、基本を外さずに、色々な汁気を出さない料理を、何十もある『御弁当おべんとう』の塗箱ぬりばこに詰めた。


 責任者は、元々は焼き物係 兼 菓子担当者で、プリンをはじめ、味噌と蜂蜜を混ぜて薄く塗って焼いたキジ肉料理、鹿肉と野菜に、たっぷりの蘇と蜜柑の薄く切った物を乗せた焼き物など、『風味は豊かに、塩は少な目』を力説する、左大臣家の姫君が喜ばれる調理を創作することにけた若者であった。


「冷ましてから蓋をする……なるほど!」


 姫君の指示を不思議に思った彼は、暑いまま蓋をした『御弁当おべんとう』と、冷ましてから蓋をした『御弁当おべんとう』を、取り置いて比較してみると、冷ました方の腐敗が遅かったので理由に納得した。


 姫君が読んだ唐の料理本を、ぜひ拝見してみたかったが、蔵書には見当たらず、姫君もうろ覚えのご様子と、女房から伝えられる。


 前世の記憶の中にあった『御弁当おべんとう』だから、言う訳にもいかないのが実態だったが、彼は、本は諦めて姫君のご希望を最大限に尊重し、自分で試行錯誤することにした。


 予算の関係で、米は雑穀米、あとは、梅干し、たっぷりの温野菜、玉子焼き、魚、肉類、海藻、豆類。


御弁当おべんとう』と言う概念がない女房たちにすれば、この豪華で簡単に携帯できる食事は感涙ものだった。


 日替わりで、夜の警備に左大臣家に来ている、真白ましろ陰陽師おんみょうじたちも、御弁当おべんとうを、いつも曹司に夜食として用意してもらえるので、楽しみにしていた。


 そして素敵な『御弁当おべんとう』のうわさは、左大臣家の女房たちから、あちらこちらの使用人の間に広がってゆき、それに気がついた公家の女主人たちは、自分たちも女主人としての心構えから、出さぬ訳にはゆかぬとの同調圧力が働いた結果、『御弁当おべんとう』は、多忙な時に出してもらえる特別な食事として、貴族の使用人たちに広がって行った。


 簡単に持ち歩け、日持ちはしないが、頓食とんじきなどよりは、格段に味も秀出ていることから、公家の中でも、特に武官を務める家の女主人たちは、宿直とのゐ(しゅくちょく)の夫に、まるで競うかのように、豪華な塗箱に入った小さ目の『御弁当おべんとう』を、美しい布に包んで持たせるようにもなった。


 彼女たちの夫の中には、先だっての地方で起きかけた反乱の鎮圧に、軍として駆り出された者もいる。


 頓食とんじきをかじりながら頑張るしかなかった武官たちは、食べるより食べない方が上品とか言わないし、なんなら平時くらいは、おいしい物が食べたいと、普段から口にしていたゆえからの、北の方や恋人たちの気配りの『御弁当おべんとう』だった。


 いきおい武官たちの間では、宿直とのゐの巡回の間、詰め所にて頓食の代わりに、お互いに持ち寄った『御弁当おべんとう』の美しさやおいしさを、あれこれ語るのが流行となってゆく。


 そしてこの時代は政府の高官、文官たちも分番して、宿直とのゐをすることは、ままあることであったので、そんな悲しい思い出とは、なんの関係もない者たちも『御弁当おべんとう』の存在に気づく。


 彼らは前出の武官たちのように、食事に深いこだわりはなかったが、小さな箱庭のような『御弁当おべんとう』に『みやびで小さな風景』を思わせる美しさを感じた。


 小さく、そして整った物に『美』を見出すのは、万人に共通する美意識なのかもしれない。


 どこそこの少将の妻は、パッとしたところのひとつもない方とのうわさであったが、少将の『御弁当おべんとう』の品のよさを見るに、目立つことを嫌う、ゆかしく慎み深い方に違いない。


 昨日の誰それの『御弁当おべんとう』は、北の方の評判通り、少し変わっていた。


 などと、次第に『御弁当おべんとう』の内容から、用意した人物の姿や人柄まで、想像が膨らむのは、歌を詠み風流と趣味に生きるのを是とする平安貴族たちの“さが”であった。


 やがて宿直とのゐの巡回の間で、頓食を食べているのは、妻や恋人に嫌われたか、愛想を尽かされたあかし、とさえ言われるようになり、中には、さも誰かに用意してもらったかのように振舞いつつ、密かに自分のやかたで作らせている者まで出る始末だった。


 そして葵の君の兄君、結婚しても京中の姫君のアイドル、蔵人少将くろうどのしょうしょうは、宿直とのゐがある日もない日も、左大臣家に十以上の『御弁当おべんとう』が届く。


 さすがに婿入り先の右大臣家には、遠慮があるのであろうと思われた。


 兄君は、ひとつひとつに礼状っぽい歌を詠んで届けさせるという内職のような作業が、日常生活に増えるという悲喜劇に見舞われ、多すぎる御弁当は、彼の側仕えの女房たちが、おいしく頂いていた。


「今日も凄いですね」


 西の対に顔を出した葵の君は、兄君の文机の横に積み上げられている『御弁当おべんとう』の山に驚き、ひとつひとつ、丁寧に歌を詠んでいる兄君に、モテるって、それはそれで大変そうだと感心していた。


「わあ――綺麗――」


 思わず葵の君が行儀悪く、そんな声を上げながら、のぞき込んだ美しい『御弁当おべんとう』は、美しい四つの椿の花が蒔絵で描かれた正円の黒い漆塗りの塗箱で、艶々とした蓋を開けると、中は九つに仕切られている。


 それぞれに彩りも美しい、塩分控えめっぽい主菜や副菜、小さく丸められた小豆あずきご飯などが入っていた。


 どことなく我が家、左大臣家の食事に似ている。これはデジャヴュ?


「あ、それは、四の君のだから」

「う、うちに届いたんですか?」

「いや、右大臣が、今日は宿直とのゐじゃないの知っているのに、婿君も忙しいからと、娘が気を遣ってとかなんとか……内裏で受け取った。多分、嫌みだと思う……」

「………」


 兄君の奥さん、つまり義理の姉君が、わざわざ右大臣に届けさせた『御弁当おべんとう』だったんだ。全然、通わないから怒ってるのかな?


 そういえば、うちの台盤所だいばんどころに、右大臣家の見学が来たって、女房たちが裁縫しながら言ってたような……。


 筒抜けの寝殿造りなので、頑張って聞こうと思えば、邸内のうわさ話は、結構、耳にできるのだ。自分も気をつけないとね!


 そういった理由で、かなり時代が繰り上がって、『御弁当箱おべんとうばこ』は平安の時代より、華やかに漆塗りの重箱に蒔絵や螺鈿の施された弁当箱などが発明されてゆき、狩りや行楽などで遠出をする際には豪華な『御弁当おべんとう』を用意する行楽文化につながった。


 かなり早咲きながらも、行楽文化は平安貴族の間に大きく花開き、人前で食事をすることがはばかられる、そんな風習も、先のことながら、じょじょに薄れてゆくことに、あいなったのでありました。


*


『本編とはまったく関係のない小話/宿直』


参「ではこの辺りで……」弐と囲碁をしている。結構強い。

弐「く~~~」宿直に持ってきた、自作の御弁当を賭けていたのでした。

参「……不味い」

六「仕事、ちゃんとしてて下さいね?」左大臣家の当番に出発。

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