第264話 夜明け 4

 それから一年が過ぎ、二年が過ぎ、ついに尚侍ないしのかみが懐妊したと、関白と左府さふより帝に報告が上がり、内裏中に、その慶事の知らせが駆け回る。


 光源氏と親友となるはずの縁が、結局結ばれなかった、いまは蔵人所の別当となっている頭中将とうのちゅうじょうは、知らせを心から喜びつつ、体が弱い(と思っている)妹君が、心配でならなかった。


 鬼左府おにさふと呼ばれるようになった中務卿なかつかさきょうは、北山の大僧正一派から取り上げた富と財産を元に、官民一体となった治水工事や農地改良に、長い年月をかけて取り組んでいたが、ようやく国中の家々にもその恩恵が届き、国全体が隅々まで整備され、朝廷も、地方や貴族、寺社の私的な荘園なども、細かな検地を行ない、様々に浮彫になった問題点を把握し、解決ができるまで、こぎつけていた。


 そして、葵の上が発案した『日本地図』が、蝦夷や琉球まで記載され、十年以上の歳月をかけて完成し、ようやく関白の元に届いた頃、産み月になっていた彼女は内裏を下がり、左府さふのやかたで初めての出産に挑む。


 産所のしつらえは、すべてを白で統一され、紫苑をはじめとした周囲の女房たちの衣装も白一色の装い。


 帝の特別なおはからいで、派遣された真白の陰陽師たちは、念入りに祓除ふつじょを行い、官僧が再編される中、その姿勢と力を認められて、追放を免除された、僧官をはじめとする徳の高い高僧による加持や祈祷きとうも行われていた。


 葵の上は『座産』という二人の産婆に寄りかかって産む、この時代の主流である出産に挑み、陣痛に苦しみだした二日目の朝、無事に玉のように美しい若君を産み落とし、意識を失う。


 兄である頭中将とうのちゅうじょうには、すでに沢山の子供が生まれていたが、すべて姫君であったので、事実上、この若君が次期摂関家の当主候補であった。


 あの日、十七歳になった葵の上が目覚めてから、二人は本当の夫婦として、仲睦まじく暮らしていて、この世界では遅すぎると心配をされていたが、ようやく無事に子宝に恵まれていた。


 真っ白な顔で、息も絶え絶えに布団に横たわる、ご自分の北の方、最愛の葵の上を、涙をこらえ、無言で抱きしめている左府さふをよそに、大いにはしゃいでいたのは、息子であった先の左大臣に先立たれ、右大臣との寿命レースにも大勝し、ちまたでは「不死の体を手に入れたらしい」と、うわさされている、乳母の紫苑が抱く曾孫ひまごの顔を、のぞき込んでいる関白であった。


「でかした! でかしましたぞ! 若君の誕生!! めでたい! 誠にめでたい!」


 紫苑は、「わ、わたしが乳母! わたしが乳母になります!」と、生まれる前から、葵の上に頼み込んでいた。彼女はすでに“六”との間に、二人の子を持つ母である。



〈 葵の上が出産を終えた数刻後の内裏 〉


 帝は、尚侍ないしのかみのご無事と、若君の誕生を伝え聞いて、大いに安堵してから、外祖父であった故右大臣と同じようなことを、知らず知らずのうちに思い、側にいたご自分の女御にょうご方に、思わず口を滑らせて問う。


「関白は“物の怪”の類ではなかろうか?」


 彼は、自分が東宮の頃から、「残り僅かな命の年寄り……」それが口癖だが、寿命が尽きる気配はなかった。


 帝に等しく寵愛を受けているふたりの女御にょうごは、顔を見合わせ、目を丸くしていた。

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