第263話 夜明け 3

 ちなみに、あとでそれを聞いた皇太后は、騒ぎを叱るどころか、「わたくしもそうできればよかったのに」と、大はしゃぎで、呆れた顔の萩にそう言いながら、涙をこぼして笑い転げていた。


 梨壺女御なしつぼのにょうごは血のつながった実の妹君であった上に、彼女の活発過ぎる立ち居振る舞いを、帝がそこを酷く気に入っていると、そうおっしゃるので、いまでは彼女がなにをしても、鷹揚に許すのである。


 そして我に返って反省した朱雀帝は、尚侍ないしのかみ左府さふと共に、再び政務に神事にと、公務に勤しみだし、先帝の時代を思い出して、暗い雰囲気になっていた殿上人たちは安堵した。


 やることさえ、ちゃんとやってくれれば、後宮の事情が多少どうであろうが、彼らには文句はないのである。黙って様子を見ていた関白も、内心では大いに安堵していた。有能過ぎるのも扱いに困るが、無能過ぎるのは、もうこりごりであった。


 しかしながら梅壺女御うめつぼのにょうごとなり、六条御息所ろくじょうのみやすどころの大願を果たした秋好姫宮あきこのむひめみやは、帝のことを愛するあまりに、分別がつくにつれ、帝にとっての自分は、実の姉君とも慕う、誰よりも麗しく尊い葵の上の“形代かたしろ”(身代わり)でしかないのかしらと、少し悲しく思っていて、ある日、思い切って、梨壺女御なしつぼのにょうごに相談すると、身も蓋もない返事が返ってきて、驚きのあまり袖で口を覆っていた。


「それがどうしました? 悩むことなんてないじゃない! それは姫宮の強みではありませぬか。それに姉君は絵が、と――っても下手ですから、ちょっと勝っていますよ? この間、絵合わせのあと、似顔絵を描いていただいたでしょ? ほら、顔がそら豆みたいな、変な似顔絵!」

「そんな! 葵の上の絵は……まあ、その、なんというか個性的で……わたくしの顔も……そら豆でしたけれど……」


「わたくしも帝のことは大好きだから、帝がつい甘くなってしまう皇太后に瓜ふたつの顔で、よかったとは思っているけれど……帝とも似ているのが、とっても気になるのよね。身代わりができそうなくらい似ているのよね……男女の関係になると、それはやっぱり引くわよね……」

「あの、梨壺女御なしつぼのにょうごと皇太后と帝はそれほど、似ている訳でも……えっとえっと、性別とか……年が違う……とか?」


 梅壺女御うめつぼのにょうごの言葉は、なんのフォローにもなっていなかったので、梨壺女御なしつぼのにょうごは苦笑していた。


「まあ、わたくしたちは摂関家の姫君と言う立場で、大好きな帝に、いずれは中宮にも立てる立場の女御として入内。これだけでも十分幸せではないかしら? あ、わたくしと帝が似ているのは、そんなに気を遣わなくていいわよ。もうすぐ届く新作の化粧品で、ごまかす予定だから!」


 梨壺女御なしつぼのにょうご梅壺女御うめつぼのにょうごに、そう言って姿を消した。梅壺女御うめつぼのにょうごは、それを見送りながら、思わず笑ってしまう。


「わたくしも、梨壺女御なしつぼのにょうごの姿勢を、見習わねばなりませんね……」

女御にょうご!! まさか武道場に?!」

「どうかしら?」

女御にょうごはお体がついてゆきませんよ!! おやめ下さい!!」


 慌てている側にいた女房の姿に、梅壺女御うめつぼのにょうごは、いたずらっぽい笑みを浮かべて、ほほえんでいた。


 梨壺女御なしつぼのにょうごは、内裏を立て直すにあたり、後宮内に桐壺の代わりに、兵司ひょうしの女武官専用の武道場ができていたので、女御にょうごとなってからは、はじめのお約束はどこへやら、別に人目につくわけでもなしと、女武官たちに交じって、頻繁に稽古に入り浸っているのである。


 殺生事や武道を、やたらと悪しざまに、ののしっていた官僧の権力が消え、梨壺女御なしつぼのにょうごみずら武芸に励まれ、帝も梅壺女御うめつぼのにょうごの従来の女らしさを愛しながら、梨壺女御なしつぼのにょうごが武芸事を好まれるのも、またそれも素晴らしいと愛されるので、姫君たちにも変化が起きる。


 貴族の間では、男君だけではなく、女君にとっても、武芸はじょじょに詩歌や音曲と同じように、選択肢のひとつとなっていったのである。


 帝が奨励されるので、大学寮では武道をなにかしら修めるのが、卒業の必須条件となっていたし、大貴族の子弟たちも、自分のやかたで稽古に励む。


 宮中では、帝や女御がご覧になる演武大会が開かれるようになり、歌合せと同じように、道場も貴族たちの、重要な社交場のひとつ、そんな時代の空気が生まれていた。


 姫君も自分のやかたに、女子大学寮や女武官を引退した者を講師に呼んで、同じ趣味の親戚筋の姫君や姉妹と武芸にいそしみ、交流することも珍しくなくなる。


 それはさむらいの台頭を抑える遠因えんいんのひとつにもつながり、戦国時代が訪れることのない平和な時代が続いてゆく下地となった。


「馬に乗ってみる?」

「そ、それは……遠慮しておきます」

梅壺女御うめつぼのにょうごは古風よね、そういうところは、六条御息所ろくじょうのみやすどころに似ているわよね」

「わたくしが古風と言うより、梨壺女御なしつぼのにょうご闊達かったつが過ぎるのです。他のどこの姫君だって、馬には乗っていらっしゃらないわ! 落ちてケガをなさっても知りませんよ?」


 梅壺女御うめつぼのにょうごや他の女官、女房たちは、たすきをかけて対丈の袴を履き、髪を結わえて、特別に外から見えぬように、後宮に作られた馬場で、馬を乗り回す梨壺女御なしつぼのにょうごに、初めはびっくりしていたが、そのうち慣れた。あとから入内した后妃たちも同様である。


「今日もお元気そうで、なによりですわね……」


 帝が止めぬどころか、時折は一緒になって、乗馬を楽しまれているので、周囲はそれ以外に言うことはなかった。


 また、尚侍ないしのかみや、梅壺女御うめつぼのにょうごの秀でた学才を、こちらも帝がことのほかに、お褒めになるので、一般の姫君や女房たちも、女官吏ほどの専門的な学識は求められぬが、ひらがなの『あ』の字も書けないふりをするのは、時代遅れとなってゆく。


 その流れで、元のお話の『帚木ははきぎ』のように、「たよりなさ過ぎるのもいけないが、教育がゆき届き過ぎた女もいけない」そんな風に言っていた、いつぞやの左馬頭さまのかみ式部丞しきぶのじょうのように、時代の波に乗れず、元々、血筋しか頼る物がなかった者たちは、「大した学もなく、武芸を修めるどころか、和歌すら詠めず、血筋しか自慢できる物のない殿方はごめんですわ……」恋人にそう言われて、あっさりと袖にされていた。

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