第262話 夜明け 2

 すっかり健康を取り戻し、幼さが抜けて、明るい光の中でくっきりと浮かんだ、春の化身のように、あやなす十二単をまとった葵の上の姿は、まるで永遠に時を止めた“日の元に舞い降りた輝ける内親王”が、いま再び光臨された……そんなご様子で、もはやこの世のものではなかった。


 眼尻に僅かに入っている朱色の差し色が、ことのほか瞳を美しく見せ、いままでになかったその新しい化粧方を知った女官や女房に収まらず、あとで伝え聞いた姫君たちは、こぞって真似をしたがったが、あとから尚侍ないしのかみは、公務で御簾の外に出る日にだけ、眼尻に朱色を引いていらっしゃると聞いて、姫君たちは方違えの時など、もっぱら外出の時に、特別に朱色を引くようになり、やがて先の世代では、眼尻に朱色を引いていれば、姫君が外に顔を出しても許される。そんな風潮が生まれる。


 帝が以前、尚侍ないしのかみが目覚めたあとに、非公式に見舞いに行った時とは違い、彼女はその地位にふさわしい、あでやかな十二単姿で、つつましく控えていたが、公務とはいえ、なにやら非常に恥ずかしい思いをさせている気がしてしまい、彼は、尚侍ないしのかみの周りに几帳を立てさせていた。


 しゃくを手にした左府さふは、関白のすぐ横にいる。夜に咲いた暗い黒蘭こくらんを思わせる束帯姿。腰に下げていた飾り太刀は、呂色の鮫革のさや、目貫などの細部には金で龍の装飾、いつものように、重々しく下がっている。


 腰の石帯せきたいの飾りは、尚侍ないしのかみの髪飾りとそろいの紫水晶、僅かに見える火傷のあとは、相変わらずであったが、彼はその能力により、もはや自分が負った『穢れ』が前世の業、呪われた証拠、そんな言葉が遠い迷信だと証明していた。まさに尚侍ないしのかみと一対の素晴らしい姿であると、時代の変わったいま、ほとんどの者はそう思う。


 一連の儀式が終わると慶事を祝い、場所を後宮に移すと、そのまま花の宴がはじまった。


 早速、歌合せが始まり、特に素晴らしいとされた歌の詠み人には、帝から馬や絹地などが下賜される。金と銀の花飾りを髪に差した童たちが、桜の枝を持って舞を披露したあと、頭中将とうのちゅうじょうと、内大臣となった蔵人所の別当が披露した『青海波せいがいは』の舞は、おそろしいまでに美しく、寄る波引く波を表現した二人の美しい舞は、後世まで伝説として語り継がれる。


 それは、舞の『ま』の字も分からない葵の上も、思わず食い入るように見ていた素晴らしい演目で、『公務で御簾の外に出られる立場でよかった!!』そんな風に思いながら、無意識に両手を合わせて胸元に当て、感動のため息をつく彼女の仕草も、これまた御簾内ではあるが、女君の『感動を表す素敵仕草』と、彼女が知らぬうちにあいなる。


 その後の和琴、琵琶、竜笛りゅうてきの楽奏も見事で、唱歌が続いたあと、最後に帝が所望された尚侍ないしのかみの弾くことと、関白の琵琶の音には、庭に控えていた楽人たちも感動の涙を流していた。


「お疲れ様!!」


 小さな声で葵の上に、そう言ったのは、新しくなった『登華殿とうかでん』で、菓子を食べながら、葵の上の帰りを待っていた小さな花音かのんちゃんだった。


「???」


 紫苑は声の主を探して、きょろきょろしていた。霊に鈍感な彼女は、いまだに花音かのんちゃんの存在に、なれていなかった。


 翌日から葵の上は、再び“馬車馬のように働く”そんな状況に陥っていたが、新しい内侍司ないししの女官たちは、不慣れながらも、尚侍ないしのかみの元、皆で一所懸命に勤めに励んでいたので、次第に内侍司ないししは、ようやく真っ当な行政機関として機能しはじめ、皇后宮職こうごうぐうしきの別当も安堵して、久しぶりに腹痛を忘れていた。


 それから時を置かず、摂関家の二人の姫君も、裳着を済ませて、女御として同時に入内される。そんな慶事ばかりが続いたが、なんと自制心の塊、朱雀帝が少し事件を引き起こす。


 それは裳着を済ませ、母宮である六条御息所ろくじょうのみやすどころが、心を込めて縫い上げた美しい十二単をまとった秋好姫宮あきこのむひめみやが、初めて出会った時の尚侍ないしのかみと、あまりにも面影が重なり過ぎていたからであった。


 姫宮が、梅壺女御うめつぼのにょうごとして入内してから数日の間、彼は、なにも手につかず、昼も夜も姫宮が住まう殿舎、凝華舎ぎょうかしゃ梅壺うめつぼ)に、ひたすら通い詰め、女御にょうごが絵を描けば、その絵をながめ、ことをつま弾けば、その美しい音色にうっとりと、横で耳を傾けていた。


 裳着前に見ていた汗衫かざみ姿の時とは違い、大人びた、でもまだあどけなさの残る女御にょうごは、見れば見るほどに、出会った頃の尚侍ないしのかみと瓜ふたつで、この方が自分の女御にょうごであるのが、信じられぬほどの幸せであったし、母君をはじめ、彼の人生に置いて、身内にはこれほどに穏やかな人がいなかったので、身内の女君が側にいて神経が休まる……そんな体験が、彼には酷く新鮮だった。


 そんな風に、女御にょうごや周囲の困惑をよそに、帝が今日も今日とて、ほけほけと、まつりごとを放置して、梅壺うめつぼ女御にょうごのお顔を見にゆくと、なんと梨壺女御なしつぼのにょうごが、閉じた檜扇を右手に持ち、左の手に、いらだたし気に打ちつけながら、梅壺うめつぼの入り口に待ち構えていた。


 うしろには困った顔で、尚侍ないしのかみの袖をそっと握って、うしろに隠れている梅壺女御うめつぼのにょうごと、梅壺女御うめつぼのにょうごの肩を抱く内親王方。


 梨壺女御なしつぼのにょうごとは、もちろん入内した朧月夜おぼろづきよの君である。


 弘徽殿皇太后こきでんのこうたいごうと瓜ふたつ、つまり帝とも瓜ふたつの梨壺女御なしつぼのにょうごは、帝にとっては誰よりも大切で愛らしい妹君のひとりといった扱いで、いまでは皇太后こうたいごうも負けるほどの、口達者で元気が過ぎる存在で、帝に物怖じなどしたことはなかったし、する気もなかった。


『母君がなぜ? すっかり若返って……新しい化粧とやらの効果か?』


 梅壺うめつぼの入り口で、帝を待ち構えていた、すっかり若き日の弘徽殿皇太后こきでんのこうたいごうに瓜ふたつになられた梨壺女御なしつぼのにょうごは、帝の内心の独り言も知らず、きりりとまなじりを上げ、険のある目つきで、帝を睨んだまま口を開く。


「帝がまつりごとを疎かになさるのですか?!  尚侍ないしのかみや他の公卿たちも困っています! また、先帝と同じ過ちを繰り返す気ですか?! 国を誰が治めているのか、お忘れですか?!」


 そう言うや否や、帝に檜扇をビシリと投げつけたのだ。


「あいたっ!」

「帝!」

「いや、大丈夫だ! わ、わたしが悪かった。梨壺女御なしつぼのにょうご……うん、梨壺女御なしつぼのにょうご、よく進言してくれました!」


 一見、梨壺女御なしつぼのにょうごと、皇太后となった母君の外見の違いはなく、帝は彼女の顔を凝視しながら、そう言った。


「……お分かり頂けて、なによりですわ」


 つき従っていた官吏や女房たちは、大層驚いていたが、ありし日の母君の勢いと、先帝である父だった男の不始末を、少しぼんやりしていた頭の中に、クッキリと思い出した帝は、慌ててその場を退散し、ご自分のせいで、内裏に迷惑をかけている自覚のあった梅壺女御うめつぼのにょうごは、帝と尚侍ないしのかみが消えたあと、梨壺女御なしつぼのにょうごと、内親王方と百人一首をしながら、ようやく安堵のため息をついていた。


「言う時は、びしっと言わなきゃ駄目よ! 帝が道を踏み外そうとしているのを、お諫めするのも女御にょうごのお役目よ! 先帝なんて母君が、なにも言えぬのをよいことに!」

「そうよそうよ!! 誰がなんと言っても、女御にょうごは摂関家の姫君、母君と違って、なんの遠慮もいらないお立場なのよ!」


 内親王方は、摂関家の出自ではない母君が、先帝に物申すことができぬ立場であったことを思い出し、悔し気な顔で言いつのる。その横で梨壺女御なしつぼのにょうごは、したり顔でうなずいている。


梅壺女御うめつぼのにょうごは、お優しいのはよいけれど、もう少し、しっかりしなきゃいけないわね」

「そうですね……」


 幼馴染であり、もはや本当の姉妹のように仲の良い、でも気の強過ぎる三人に囲まれて、梅壺女御うめつぼのにょうごは、百人一首の札を持ったまま、ぎこちない笑顔で固まっていた。昔からこうである。


 その頃、再び公務に戻っていた葵の上は、内心で朱雀帝が朱雀部長だと感づいてから、少しドキドキしていたのだが、この騒動で、とにかくいまの世界では、なんの縁もなさそうだと、少しホッとして、前世? のお詫びにと、いままで以上に真面目に、そして至極平和に働いていた。


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