第265話 明けの明星 1

 さて、少し話は過去に戻るが、内裏が完成した年に、帝に女御が入内したという慶事により、特別に貴族はひとつずつくらいが上がっていた。


 そしてそれは、六位であった光源氏が五位となり、殿上の資格を得た瞬間でもあった。


 光源氏は、彼を持て余していた大学寮から、卒業資格と推薦を得て、中務省なかつかさしょうに所属する書籍や書類の収蔵管理、国史の編纂、筆や墨、紙(料紙)の管理の担当部署、図書寮ずしょりょうに、なんとか潜り込む。


 毎日、あちらこちらから頼まれた、紙や筆などを用意して運び、足らずを予測して発注する。そんなつまらない仕事に、すぐに飽き々々していたが、それでも他に働き口もなく、乳母にも泣かれてばかりなので、それから数年間は我慢していた。


 新しい内裏の中で、ウロウロしているうちに、やがて周囲も彼の存在に慣れてゆき、大人しく振る舞う光源氏の話を聞いた帝は、このまま真面目に勤めていれば、葵の上の出産の二年後に、ご自分の女御方が懐妊していたこともあり、次の除目では、もう少し重い役目にとも考えていた。


 そんなある日のこと、光源氏は内侍司ないししに料紙と墨を届けた帰り道、通りすがりに、偶然にも猫が紐を御簾の端に、引っかけているのに気づいた。ちらりと御簾がめくれている。何気なく見た御簾の中には、妊娠中で、珍しくゆっくりと絵巻物を見ていた梨壺女御なしつぼのにょうご、つまり朧月夜おぼろづきよの君。

 

 あとはご想像通りである。数日後、彼女に恋をした光源氏は、彼女の殿舎に忍び込み、元のお話とは正反対に、梨壺女御なしつぼのにょうごに、みぞおちに拳を叩きこまれていた。


 彼は、駆けつけた兵司ひょうしの女武官たちや、騒ぎを聞きつけた宿直とのゐの警備にあたっていた武官たちに追い回され、また烏帽子えぼしを落として、命からがら逃げ帰る。


 周囲の者たちは、帝に大いに叱責を受けることは覚悟したが、とにかく狙われたのが、梅壺女御うめつぼのにょうごではなく、闊達な梨壺女御なしつぼのにょうごで、よかったと思っていた。しかし、騒ぎを聞いて駆けつけた、復帰したばかりの尚侍ないしのかみが、女御にょうごの異変に気づき顔色を変える。


 まだ少し先の予定だった梨壺女御なしつぼのにょうごは、いまの騒ぎで産気づいてしまっていた。


 帝や周囲が大いに心配する中、ご実家同様の左府のやかたに、失神寸前の容体で、女御にょうご尚侍ないしのかみにつき添われ、大急ぎで帰ることになる。


 一時は母子共に危険な状態と報告され、先に身ごもって、やはり出産のために、関白のやかたに帰っていた梅壺女御うめつぼのにょうごまで、梨壺女御なしつぼのにょうごを心配するあまり、時を同じくして、産気づいてしまう。


 その報告に内裏中が大騒ぎになり、ありとあらゆる読経に祈祷、陰陽師に官僧、典薬寮の医師たちが、右往左往する大騒ぎになったが、早いうちから用意は整っていた上に、葵の上が転生を果たした頃に比べて、彼女や花音かのんちゃんの努力もあり、かなり衛生管理も整い、大宮や御息所みやすどころが、早くから乳母うばの手配もなさっていたので、翌日の明け方、同じ時刻に早めに生まれた、帝の二人の内親王は、生まれた当初こそ、体も小さく泣き声も弱々しく、周囲の心配は尽きなかったが、すぐに順調に育ちだし、帝や世の人々は、ようやく安堵していた。


 色々と落ち着いたあと、花音かのんちゃんは、イライラを隠そうともせず、葵の上に言い聞かせるように、強く言ったものである。


「あの男になにか期待しても無駄とよ!! 頭の中いっぱいに、馬鹿の花が咲いてるんだから!!」

「せやね……」


 そしてまた乳母の家に逃げ帰り、事の重大さにブルブル震えて、物忌みと称して閉じこもっていた光源氏は、とうとう堪忍袋の緒が切れた帝に、すべての特権をはく奪され、わずかな供人と多くの監視を連れて、明石に行くように命じられ、時代に翻弄される自身の不幸に、滂沱ぼうだと、とめどなく美しい涙を流しながら羅城門をくぐり、京をあとにしていた。


 それを伝え聞いた葵の上は、「あ、ちょっとだけ、話が戻ってる。しかし反省しない男だな」と思ったりしていたが、側にいた花音かのんちゃんは、引きつった顔で、なにもかも放り出すと、「ちょっと明石に連れて行って!」“伍”にそう言い、むりやり有休をとらせ、“伍”の背負った籠に入って、馬に乗って大急ぎで明石まで出かけてゆく。


 そして明石に、光源氏より先についた花音かのんちゃんは、光源氏の運命の人『明石の姫君』になんとか会うと、どれだけトンデモない皇子なのか、微に入り細に入り、光源氏に出会う前の彼女に、詳しく説明していた。


 話を聞いていた明石の姫君は、父である入道から、常々、神仏の御告げにより、お前は尊き帝の血筋を引く方と結ばれて、いずれは途方もない幸運に恵まれる。そんな風に言われ、厳しく育てられていたが、そんな夢物語よりも、目の前に現れた不思議な小さき姫君の方が、かなり説得力があった。しかしさすがに戸惑ってしまい、どうしたものかと考え込んでしまう。


 すると、時を置かずして、小さな龍の姫君が言った通りの光源氏が現れ、彼女が言った通りの台詞を口にすることに、怯え切ってしまう。彼女は、彼が自分の方に近づくのを感じるや否や、龍の姫君の手助けを乞い、彼の魔の手から脱出すると、本当に海へ飛び込み、例の時空の穴を通って、大学生の花音かのんちゃんと、完全に入れ替わっていた。


 そして、明石の方と自分が、同時に存在したがゆえに、不確かな『龍の姫君』として、この世界に留まっていた花音かのんちゃんは、彼女が海に飛び込んだと、時を同じくして、ごく普通の姫君になってしまう。


「桜姫、髪が黒くなってますよ!」

「どうしよう! 小さくなれなくなっちゃった! 魔法も使えない!」

「どうしましょうか……背負って帰る訳にもいかないし、もう旅費が絶対に足りませんよ……」

「頑張って歩くしかない……」


 花音かのんちゃんは、“伍”が、どこからか調達してきた、女物の旅装束に着替え、市女笠を被り、ふたりは京を目指して、ひたすら歩く。


「食事の量も控えて下さいよ?」

「考えてみる」

「明石の姫君には、気の毒なことになりましたね……」

「あ、それは大丈夫とよ!」

「???」


 直接、明石の姫君の顔を見ていた彼女には、姫君は葵同様に、自分が元いた世界に行った。そんな確信があった。だからこそ、自分は元の人間に戻ったんだろう、そんな風にも思う。


『なんたって、わたしと顔が一緒だった!』


 それから数日後、なんとかかんとか二条院に帰ってきた、疲労困憊の二人を、正確には『人間になった』桜姫を見た真白の陰陽師たちは、驚きを隠せなかったし、“弐”などは露骨にその日から、桜姫をチヤホヤしだして、“六”にゴミ以下のなにかを見つけた、そんな視線を向けられていた。


「なあ、そういえば、葵の上が襲われたあと、お前よく我慢していたな?」

「……なんの話だ?」


“六”は“弐”が不思議そうに、そんな風に声をかけるが、彼はそれには答えず、陰陽寮で黙々と仕事をしていた。


『お前ははじめに見た帝の后に、どうしようもないほどの恋をして、必ず身の破滅を招くだろう』


 それが、あの時“六”が光源氏にかけた“破滅を招いた呪い”であり、ある意味、元の世界で『藤壺宮ふじつぼのみや』を襲わずには済まなかった彼の性質を読み切り、葵の上が壊しに壊した、いまの世界でこそ、かけられたかもしれない主人公への反逆の“呪”であった。


 そんな“六”は、“弐”でもないのに、最近なにやら副業をしている様子で、もちろん“弐”は、自分のことを棚に上げて、“壱”に言いつけていたが、案の定、「それを、つつくのならば、お前の手は確実に、うしろに回るが?」そう言われて、吹き出しそうになっていた他の陰陽師たちをあとに、「ちょっと買い物行ってきます!」そんなことを言って、姿を消していた。



〈 明石 〉


 光源氏と入道は、姫君が入水した原因は、貴方あなたたちだと、明石の姫君の母君に、始終なじられていた。その内、母君は入道の顔も見たくないと、彼を自分の視界に入らぬようにと女房に言いつけて、部屋にこもるようになる。


「北の方は、姫君を失った胸の苦しみが増すばかりと、伏せっていらっしゃいます」

「そうか……」


 そう言われると、入道も会わせる顔がなく、最早、神仏の御告げなど、信じられなくなった彼は、祈祷や読経に頼る気もせず、家人を呼ぶと、医師に北の方の様子を見て欲しいと使いをやった。


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