第156話 追走曲 23

 庭をしばらく歩いて、ふたりは誰もいない貞観殿じょうがんでんに戻り、“深緋こきひ”を元通りの場所に戻してから、中務卿なかつかさきょうは、はたと額に手をやった。


「どうかなさいましたか?」

「いえ、なんでもありません」


 中務卿なかつかさきょうは料紙に「葵の君がもう少し大人しくなりますように」そう書いておけばよかったと、今頃になって気づいたのだが、そうなれば目の前で可愛らしく笑っていらっしゃる姫君の闊達な素晴らしさや明るさ、素直で真剣な眼差しは、なくなってしまうかもしれない。


 そんな姫君に自分が果たして、いまと同じように恋をするだろうかと思うと、きっとそんなことはありえないと、「ぎたるはなおおよばざるが如し」そんな姫君の言葉を思い出して、小さく苦笑しながら姫君の頭を撫ぜた。


「次に帝に夜の呼び出しを受けた時は、式神を飛ばしてください」

「どうしてご存じなの?!」


 葵の君が驚いた顔で、中務卿なかつかさきょうを見上げていると、彼は懐から例の髪飾りを取り出して、そっと姫君の髪に飾り、「内裏での出来事は、なんでもお見通しです」そう、いたずらっぽい顔で、耳元でささやいた。


 その後、ふたりはやっと隣にある登華殿とうかでんの孫庇にある紫苑のつぼねにたどりつく。


「月が綺麗ですね」

「えっ?」


 葵の君はそう言ってから、自分を庭から孫庇に抱き上げてくれた将仁まさひと様の唇に、小さな口づけを落として、少し呆然とした様子の彼をあとに、素早く几帳の裏に姿を消した。


 遥か先の世に「I Love You」の和訳となった、この有名なセリフの意味は将仁まさひと様に伝わらないことは分かっていたけれど、葵は自分の皇子様が自分を大人として扱ってくれる日まで待つことにした。


「今日が駄目なら明日、明日が駄目なら明後日、虚仮こけの一念で大人になったいつの日か落として見せる!」帝との出来事があってから、彼が心底から自分を大切に思ってくれている姿勢に改めて恋をした彼女は、自分の恋にそういい聞かせ、長期戦に賭けることにしたのだ。


『問題は見かけだけ! 絶対、十歳というところが引っかかっているだけだから!』


 葵の君は、さっきの将仁まさひと様の態度に、大いに自信を深め、手応えを感じてぐっと拳を握りしめていた。


 それから暗い紫苑のつぼねで文机に呑札のみふだを置くと、ボロボロの自分の単衣ひとえはかまを脱いで、紫苑が寝間着にしている可愛い花柄の単衣ひとえを着る。


 呑札のみふだを汲み、置いてある水で飲み込んで、布団を引き出して深い眠りについた。


 しばらくして、元の姿に戻った、なにも知らぬ紫苑が、姫君を探し回っていると、なんと姫君が自分のつぼねで、自分の単衣ひとえに着替えて眠っていらっしゃることに呆然とした。


 ぐっすり眠っている姫君を、他の女房たちを呼んで、ソロソロと布団ごと姫君の寝所に運び、そっと姫君をご自分の布団に寝かせる。


 紫苑は姫君が雷の恐ろしさで殿舎をさまよい歩き、自分を探しにきて、そのまま眠ってしまわれたのだろうと思い心が痛む。それからそういえば格子を降ろさねばと、部屋の隅にある几帳の側に近づくと、姫君の単衣ひとえと袴が、ぐしゃりと庭に落ちているのを見つけた。


 あまり物事を深く考えない彼女は、『わたしの単衣ひとえに着替えたあとで、風に飛ばされたのね』と、あっさりと思ってから、もう着ることはないだろうと、木階もくかい(階段)を駆け下りて、泥だらけの姫君の衣を丸めたまま拾いあげ、この嵐で駄目になった御簾やらなにやらのゴミの中に捨て、やっと自分も布団に入ろうとするが、文机の下に行方不明だった姫君の髪飾りを見つけて驚いた。


 覚えはないが、ひょっとして自分が預かって、そのまま忘れていたのだろうか? 背中に変な汗が出て止まらない。


 でもきっとそうなんだろう。あの日の夜は、寝るのがかなり遅かったので、眠た過ぎて最後の方は記憶すらないのだから。


 探しまわっていた女房たちに、申し訳ない気持ちで一杯になったが、怒られるのも嫌なので、こっそりと姫君の身の回りの品を収める厨子棚と屏風の隙間に置いて、見なかったことにした。あそこならなにかの拍子で落ちて挟まったと思ってくれるだろう。


 それから紫苑は寝言封じの呑札のみふだを飲んでいないことを思い出し、すぐ横に落ちていた呑札のみふだを、ろくに見もせず口に放り込んでから飲み干してスヤスヤと眠る。


 少ししてから奥の孫庇から響く、大音量の紫苑の寝言に目が覚めた御園みその命婦は、紫苑の部屋の周りに屏風を立てさせて、騒音を小さくしてから、苦笑いをしている長門や他の女房たちに、大きなため息をついた。


 姫君と紫苑は呑札のみふだを取り違えたのである。“六”が紫苑に苦情を言われたのは翌日の早朝、彼が陰陽寮をあとにしようとしている時であった。


「昨日は酷い目にあった」


 そう言うのは元に戻った世界で、藤壺の騒ぎを表ざたにせぬようにと中務卿なかつかさきょうに言われて、一晩中走り回っていた真白の陰陽師の頭の“壱”で、横にいた“参”が返事を返す。


「結果的にはよかったじゃないですか、責任は例の官僧に押しつけられましたから」


 例の官僧と言うのは、結界の石の周囲にあったはずの生垣が人為的に壊されていて、そこに丁度、宮中の女房のところに忍んでゆこうと、通りかかって捕まったひとりの僧侶であった。


 僧侶ははじめから壊れていたと言い張ったが、責任を押しつける“生贄”を探していた彼らに、話を聞いてもらえるはずもなく、色欲などもってのほかの不道徳な“官僧”が結界を壊したということにされ、もともと後宮の女の元に僧侶が通うなどという行為は、見つかればこうなるはずだったのだからと、牢に放り込まれていた。


 実のところ内裏での怨霊騒動を聞いた帝も、自身の『徳のなさ』をささやかれかねないと、些細で終わったことであれば、結界を動かした犯人だけは捕らえて、騒動はおおやけにせぬようにと彼らに命じていたので、好都合だったのだ。


「ちょうどよかった」


 そう言ったのは、まだ夜も開けぬ大内裏の自分の曹司で、着替えを済ませてから報告を受けた中務卿なかつかさきょうだった。彼は、藤壺の事件を深堀りしたくなかった上に、第二の宮中、官僧の特権のはく奪の足掛かりを探していたのだ。


 帝と同じ内容を報告した“壱”は、中務卿なかつかさきょう呑札のみふだを飲んでいないと確信はしたが、まあ、それはそれで、その方がよいかもしれないと、あえて黙って報告書を提出すると、陰陽寮に帰ってゆく。


 そして、昨日の大雨の騒ぎもすっかり忘れて、スッキリと目が覚めてから、命婦にみっちりと小言こごとをいわれた紫苑が、不機嫌な顔で陰陽寮にやってきたのは、そのすぐあとである。


 紫苑が「呑札のみふだに不良品が入っていたから交換して」プリプリしながらそう言って、新しい大量の寝言封じの呑札のみふだの束を手にして陰陽寮おんみょうりょうから姿を消してから、“弐”は思いついたことをふと口にする。


「あの子とお前、仲いいよな」

?!」


“六”の手には、それでも一応は礼にと、紫苑が置いていった大きな菓子箱がひとつ。


「だってあの子、なんだかんだ言いながら、いつもお前にしか呑札のみふだを頼まないじゃないか」

「それは他の陰陽師が、アテにならないと思っているから!」


“六”は無表情な顔で“弐”をビシリと指さしてそう言うと、菓子箱を小脇に抱えて自分の小さな住まいに帰る前、ふと思い出したことを口にする。それは刈安守かりやすのかみのことだった。


刈安守かりやすのかみという男、少しおかしくないか?」

「どこが?」

「“匂い”がした。黒酒くろきみずがね(水銀)を混ぜたような“死者”の匂い。それにあの男はなぜ“紙”にならなかった?」


 帝と一緒にいた桐壺更衣きりつぼのこういはともかく、あの男が無事だったのは“六”にはげせなかった。


「数珠の効果じゃないか? 手首につけていたアレ、かなりの品だった。“死者”の匂いは仕事柄だろう。検非違使も大概な匂いだ」

「まあそれはそうかもしれないが……」

「あんまり考え過ぎて、右大臣みたいになったらどうする? 早く帰って寝ろ、俺も帰る」


“弐”は夜が弱いにも関わらず、一睡もできなかったので、ついに立ったまま柱にもたれて寝てしまっている“四”を肩に担ぎ上げながら、そう声をかけて大内裏をあとにし、“六”も色々と疲れていたので、そう言われればそうかと思い、暗黙のうちにみんなが知らないことになっている右大臣の“つけ毛”を思い出して首を振ると、家に帰ることにした。


“六”の追究を、知らぬうちに、辛くも交わし切れた刈安守かりやすのかみは、背中の経文のおかげで、うっすらと、運命の女神が、桐壺更衣と入れ替えるべく送り込んだ、例の箱に閉じ込めた女の記憶だけが残っていたが、案の定、箱の中に女は残っておらず、彼は箱の前で自分の記憶違いだったのかと首を傾げていた。


 手には藤の花がひと房。実はあの時、消えてゆく藤の花の中から、なんとか彼が手に入れた物だったが、記憶がなくなっている彼は、藤の花などなぜ持っているんだろうと思い、つまらなさそうな顔で後宮の庭に投げると、大内裏の典薬寮に帰った。




〈 その頃の運命の女神の世界 〉


 検非違使の別当は、知人が貸し出した例の“本/料紙の束”を落として申し訳ないと、しきりとわびるのを、仕方がないと言ってから、やかたへ帰ると、妹君にそのことを残念そうに話していた。


「まあ、人から借りた本をなくすなんて! でも、大丈夫ですわ! ほら!」


 妹君の手には、例の“本/料紙の束”を妹君自身が書き写した写本。


 その写本に続きが時折、浮かび上がり、別当と妹君が読んでいることを、運命の女神は知らない。



『第一部/運命の女神編/了』


 *


『小話/右大臣の秘密』


 色々と心配事が多すぎて? 髪が抜けまくりで結えないので、最近とうとうウイッグみたいにメガ盛りのつけ毛な右大臣。


左大臣「今日は風が強いですなぁ。いかがされた?」内裏で唯一、つけ毛に気づいていない左大臣。

 

 左大臣の烏帽子が風で飛んで行って、供人が慌てて拾いに行っている。その横で、めっちゃ烏帽子を両手でつかんで、髪を必死に抑えている右大臣。


右大臣「いえ、なんでも!」なんの心労もないから左大臣はフサフサなんだと思いながら、左大臣の頭を凝視しているのでした。

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