第155話 追走曲 22

 皆が注目する中、なにかを数行さらさらと書き加えた葵の君は、素早く料紙の束を閉じて“六”に手渡した。


「もう、よろしいのですね?」

「ええ、“ぎたるはなおおよばざるがごとし”そう言いますから」

「はじめから、なにもなかったと思う方がよいと……そう、おっしゃるのですね」

「そのとおりです。この世界には尊き帝も、東宮となられる素晴らしき皇子もいらっしゃいます。そのお膝元で、今日が駄目なら明日、明日が駄目なら明後日あさって、そんな風に日々の精進と、たゆまぬ努力で皆が力を合わせて国をきずくほうが、このような危ういモノに頼るより、よほど理にかないます」

「……確かにそうですね」

「それよりも体調はどうですか? 顔色がよくありません」

「大丈夫です。いつもほどの力はございませんが、他の陰陽師よりわたくしの力が劣ることはありません」


 大貴族の姫君らしからぬ、そして葵の君らしい控えめで堅実な答えと、自分への気づかいに、“六”は小さくほほえんでから苦い顔をする。やぶけた袴と乱れた髪、腕には血がにじみ、皮の剥けそうなほど、真っ赤に腫れあがった白く小さな手、そんな葵の君の方が、彼は余程に心配だった。


“六”は焚き上げるための護符を、料紙の束の上に貼りつけてから、裏に素早くなにかを書き込み、素知らぬ顔で自分以外の、真白の陰陽師たちの到着を待った。


 やがてやってきた、“壱”からの報告によると、内裏に置いていた結界の石のひとつが、何者かによって動かされていたらしい。


「まあ、そんなことが……それで、あのようなことに、なってしまったのですね……」


『動かしたヤツ誰だよ?!』


 葵の君は犯人を大いに恨んだが、まさかそれがかえるになってしまった親王の仕業だとは、その場にいた誰ひとりとして知らなかったし、霊験あらたかな“筆”のことも知るよしはなかった。


 やがて他の陰陽師たちと一緒に、庭に方陣を浮かび上がらせた“六”は、両手に怪しい青紫色の炎を浮かび上がらせ、方陣の真ん中に置いた料紙の束に向かって炎を走らせる。


 一瞬、消えたように見えた炎は、次の瞬間大きく弾け、空高く灰となった料紙の束と一緒に舞い上がって消えた。


「姫君はつまらぬことを書きましたね……」


 そう言ったのは怪我が癒え、綺麗な両手に戻って、姫君を抱き上げた中務卿なかつかさきょう


「つまらぬとはなんですか! わたくしにとって将仁まさひと様のお体は、なによりも大切なことです! それに、大きな災害と飢饉ききん、怨霊がいなくなるようにとも書きました!」


 葵の君は唇を尖らせてそう言いながら、彼の首筋に這う蛇のような火傷のあとに、子猫がじゃれるように額を押しつけていた。なんというか、もう本当にほっとした無意識の行動だった。


「この火傷のあとは治してはくれませなんだか?」

「だってコレがないと、姫君たちが将仁まさひと様に、夢中になってしまいますもの……」


 ふいと視線をそらして、そんな意味のない焼き餅を言う葵の君の横顔を見ながら、中務卿なかつかさきょうは姫君の美しくも尊きお姿を、わたしが誰にも見せたくはないことには、まったく気づかないのだなと、少しおかしかった。


 ちらりと向けた視線の先には、まるで熱でうかされたような真っ赤な顔で、姫君の横顔を見ている第一皇子。大人げないが、何気ない様子で、姫君の顔が見えぬように、体の向きを変えた。


 炎の中で灰になって消える料紙の束を見上げながら、刈安守かりやすのかみは、ひとまず安堵して、それでもなにか消えていないシロモノはないものかと、あたりを見回していたが、光る君は悲嘆にくれながら、別当や朱雀の君に抗議を続けていた。


「あれがあれば、もっとこの世を美しく、極楽浄土ごくらくじょうどのような、桃源郷とうげんきょうのような世界にできたのですよ?!」

「まあ落ちつきなさい、薬も効き過ぎれば毒にしかならぬ。如来の化身である尚侍ないしのかみのなさることに、間違いはないのだから……」

「違います! あの女は美しい顔をした鬼です!! 怨霊です!」


 蔵人所くろうどどころの別当は、炎で自分の顔が赤くなっているのか、隣で交わされる中務卿なかつかさきょうと葵の君の仲睦まじさに、自分が照れているのか分からなかったが、この度の異常な事態を隠滅するべく、関わった人間の記憶を消すべきだと言う中務卿なかつかさきょうのいい分は正しいと、涙を流しながら叫び続ける第二皇子の姿を平たい目で見ていた。


 中務卿なかつかさきょうと葵の君を残して、料紙が灰となってまもなく、陰陽師たちはひとりずつ、今回の件に関しての記憶を消して回り、「藤の花の咲き具合を見るために、ここに立ち寄った」そんな風に記憶を上書きして、念のために帝の所にも確認にゆくと、二人には“物忘れ”の呑み札を渡してからそろって姿を消し、中務卿なかつかさきょうは彼らが姿を消す前に、藤壺の「本当の騒ぎ」を帝に伝えぬようにと“壱”に念を押した。


 葵の君の切り傷や、痛みが止まらなかった両手が、いつの間にか綺麗に治っていたのは、もちろん“六”が最後に、姫君のすべての怪我が消えるようにと、料紙に書き込んだからである。


 陰陽師たちが、ふたりの記憶を、いまこの場で消さなかったのは、あの重量級の大槍“深緋こきひ”を、こっそり無事に元の場所に帰すことができるのが、中務卿なかつかさきょうを置いて他になく、あまりにも無残ないで立ちの葵の君は、こっそり自分の殿舎に戻って、着替えを済まさねばならなかったからだ。(それに中務卿なかつかさきょうは、後宮のあらゆる殿舎の鍵を自由にできる立場でもあった上、万が一、記憶が残ったとしても、そもそも問題はなかった。)


「槍のさやを探す……この広い後宮の庭で?」

「ええ、騒動の途中で、置き去りにしてしまったのです」


 さやの話を聞いた葵の君は、一瞬、めまい

がしたが、幸いなことに大体の場所は分かっていたこともあり、月明りを反射して、キラキラと光る金細工の槍のさやを、簡単に庭の隅で発見した。


「重いっ!!」


 気軽に持ち上げようとして、思わず取り落とした葵の君は、あらためて龍の浮かぶ長槍に見とれ、「ああ、この槍を中務卿なかつかさきょうが操っているのを見たかったな」と、それだけを残念に思った。


 前世、合氣道の稽古で杖術じょうじゅつ(棒術)を学ぶことはあったが、せいぜいが四尺(約120cm)ほどの長さ、こんな一丈(十尺/約3m)もある長槍なんて、それこそ博物館でしか見たことがなかったのである。


「残念です」

「なにか?」

「わたくしも将仁まさひと様が、“深緋こきひ”をあやつるところが見たかったです」

「……少しだけなら構いませんよ」

「わぁっ!!」


 どうせ明日には忘れるのだがとは思ったが、そんなことを本当に残念そうに言っている、子供らしい葵の君にほほえんだ中務卿なかつかさきょうは、大槍を構えると、ほんの少しだけ葵の君の期待に応えて、槍術そうじゅつを披露し、姫君の頬は感動のあまり薔薇色に染まっていた。


『カッコいい!!』


「持ってみますか?」

「それはさすがに無理だと思いますけれど」

「わたくしが持っていますから、手を添える分には大丈夫でしょう。もう二度と、この槍に手を触れる機会はないでしょうから」

「………」


 そう言われた葵の君は、しばらくの間、もじもじしていたが、やがて神妙な顔で、中務卿なかつかさきょうと反対側から大身槍おおみやりの“深緋こきひ”に手を伸ばし、そっと小さな手を添えた。吸いつくような手触り、ギラリとした輝きを放つ穂先(刃の部分)にほれぼれと見入り、吐息のようなため息をつく。


「……ます」

「え……?」


 不意に頭上から、中務卿なかつかさきょうの低く、少し掠れた声がして、槍に手を添えたまま上を見上げると、そっと唇に柔らかな感覚がする。


「わたくしは姫君を生涯愛しています」



 中務卿なかつかさきょうは、やっと自分の奥底にあった『恋』という気持ちを理解し、しかしながら姫君の幼さゆえ、この気持ちは伝えることはできぬと思ったが、明日にはこの日の出来事は忘れるのだから、姫君の未来を縛ることもないと、素直に自分の愛を告白し、その柔らかな唇に口づけをした。


 走馬灯のように浮かぶのは、短い間に現れては消えた、姫君の中に住まう天香桂花てんこうけいかの君や葵の上、月明りに浮かぶ姫君の美しい顔のうしろに彼女たちの気配を感じ、その面影を宿す葵の君をそっと片手で抱きしめる。


 頬を染めた葵の君は再び大人の姿になることもなく、御年おんとし十歳を迎えたばかりの幼い佇まいのまま、自分を見上げていらしたが、彼女たちを思い起こすような不思議な淡い光を放ち、ふわりと笑ってから言う。


「まあ、先にわたくしが将仁まさひと様を愛していましたのよ?」


 姫君は嬉しそうに、そうおっしゃっているけれど、中務卿なかつかさきょうには、それが親鳥を慕うヒナのような気持ちだとしか思えなかったけれど、それでも生涯を捧げるに値する言葉だと思い、呑札のみふだは飲まないことに決めた。


 そして内心大いに焦った。なぜなら姫君は口づけのあと、大人にはならなかったが、確かにほんの少しだけ成長していた。背は少し高くなり、組紐でまとめていた髪を解くと、かなり伸びた髪がゆらりと背中に広がっている。


 彼は大いに反省し、うしろめたく思い、以後、決して姫君に手を出してはならぬと自分に強く言い聞かせた。


 なにも気がつかず、槍から手を離した姫君は、慎重に膝を使ってさやを取り上げ、大槍を元通りの姿に戻している。


 ふたりはそれから、ぎこちない様子で、そっと手をつないで貞観殿じょうがんでんに向かって歩き始めていた。夜空に輝く青い月明りはふたりを包み込むように輝き、明るく庭を照らしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る