第154話 追走曲 21

 疲れ切った“六”は、葵の君を心配しながら駆け寄って無事を確かめ、穴があったはずの元通りの美しい床を見ながらたずねる。


「一体、このつぼねになにがあったのですか? 一体、なんの怨霊がどのような……」

「もう、大丈夫だと思います」

「なにが大丈夫なのですか?」

「あれを手に入れましたから」


“六”の問いかけに、葵の君は自分が持って帰ってきた、部屋の隅に転がっていた、ひと抱えもある大きな料紙の束を指さす。


「これは一体……?」


 第一皇子は、気絶した光る君を抱きしめたまま、不思議そうに聞く。葵の君は慎重に言葉を選ぼうと、しばらく言いよどんでいたが、やがて口を開く。


「怨霊よりも、もっとタチが悪い、この世界の流れを絵巻物のようにうつし取り、書きこめば持ち主の願いすら実現させることができる料紙のたばです」


 正確に言うと、この状況と元の物語を思い出すに、わたしの方が怨霊に近いんだろうし、これは『源氏物語』が始まる前の『下書き』の世界なんだろうけれど。


 運命の女神からすれば『大迷惑な上に、余計な仕事まで増やされた』そんなところだろうか? 怨霊はきっと、わたしという“異物”を取り除きたい女神の差し金だったんだろう。


 葵の君は、そんなことを考えながら、ちらりとうしろの方をめくって見ると、持って帰ってきた料紙の束には、やはり確かにいまの白い大猿退治のことも足されている。


『まあなんと言うか、そりゃそうだよね、自分が作り出した世界に誇る“王朝恋愛絵巻物語”が、大変に残念なことになっている。これこそ誠に“遺憾の意”ってやつやね!』


 葵の君は女神に対して、誠に心から申し訳なく思い、料紙に向かってしばらく手を合わせていた。しかしながら、だからと言って元の物語と、つながって、光源氏と結婚して祟り殺されるのも嫌なので、この料紙の束を持ち帰れたことに大いに安堵した。


 これがこちらの世界にある以上、この先、この世界は女神に見つかることもなく、ひっそりと時は回り続け、少しは静かに暮らすことができるだろう。


「これは預言書ですか?」


 刈安守かりやすのかみがたずねる。


「そうとも言えるし、そうではないとも言えるけれど、ここに書き込まれたことは、この世界では実現されてしまうと、御仏みほとけはおっしゃっていらっしゃいました。この飛香舎ひぎょうしゃ、藤壺に植わっていた、いま消えた一本の藤の木こそが、こちらとあちらの世界の循環の中心で、光る君はその美しさゆえに、藤の妖木に魅入られていたのです」

「なんと……」


 葵の君の虚実の入り混じった言葉に、その場にいた人々は約二名を残してぞっとした。目の前に広げられ、うしろの数枚を見るだけで、姫君の言うことが本当だと理解はできたので、これが誰かとんでもない人物の手に入ってしまえば、まさに世界の終わりであると思い、姫君が狂乱ともいえる行動を起こした訳を理解し、この神聖な姫君に降りた御仏みほとけの御告げに感謝した。


 ぞっとしなかった二名のひとりは、もちろん刈安守かりやすのかみ。彼は世界がどうなろうと知ったことではなかったが、藤の木を手に入れることもできなかった上に、詳しく読まれると自分の事件が暴露されてしまうと、心の中で舌打ちをしていた。


 とはいえこの大人数を、さすがに自分ひとりで片づけることもできはしない。また、当代きっての武芸者と名高い中務卿なかつかさきょうと、正面切って向かい合うのも愚の骨頂である。


 ぞっとしなかったもうひとりは、目を覚ましていた光る君。料紙の束のうしろに「わたしは帝となり、母君が中宮になりました」そう書き足そうと思い、ふところにある筆を意識した。


「このような、世界に恐ろしいことを巻き起こす料紙の束は、念入りに焚き上げた方がよいでしょう……」


 第一皇子の至極もっともな意見に、葵の君は尊敬のまなざしを彼に向け、刈安守かりやすのかみを含めた一同は深くうなずいたが、光る君の心には、まったく響いていなかった。


「燃やすなんてそんな!! (母君と自分が)可哀想です!」

「料紙が可哀想などと、おかしなことをおっしゃる。こんな恐ろしい品は、早々に焚き上げた方がよいでしょう」


 光る君の悲痛な声に、さっさと証拠を隠滅したい刈安守かりやすのかみは、第一皇子の尻馬に乗って、早く焚き上げた方がよいと、身分もわきまえず強く主張した。


「葵の君はどう思いますか?」

「第一皇子のおっしゃる通りでしょう。ただ、少しだけ書き入れても宜しいですか? 決してこの世に迷惑をかけることではございません」


 姫君は痛ましそうな顔で、中務卿なかつかさきょうの手のひらに走る血がしたたる傷と、疲れ切った〝六〟を見つめながらそう言った。


 深い訳を知らない周囲は、姫君のおかげで、この騒動が収まったのだからと頷く。


 光る君が料紙に駆け寄ろうとして、別当に捕まった拍子に、例の筆が入った箱が懐から転がり落ちた。証拠をさっさと隠滅したい刈安守かりやすのかみはこれ幸いと、「これはちょうどよい物を」そんなことを言いながら葵の君に手渡し、素早く庭に降りると薬箱を持ってくると、中から携帯用のすずりを取り出して墨を摺り、姫君に、うやうやしく差し出した。


「それはわたしの筆だ!! 畏れ多くも帝からわたしが賜った筆!」


 光る君の言葉が空しく飛香舎ひぎょうしゃに響き渡っていた。


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