第153話 追走曲 20

尚侍ないしのかみに手出しはさせません!! あれ? 手出しはさせま……!!」


 第一皇子こと朱雀の君には、御神刀ごしんとうを抜く神聖な力の持ち合わせはあったが、当然のことながら、生まれてから一度も剣術の稽古などしたことがないので、抜刀すらままならず、何度も刀を抜こうとするが、刀身がさやに当たり、半分ほど抜き差ししながら、ただガチャガチャと大きくむなしい音を立てるだけであった。


 一瞬、漏れた刀の光にひるんでいた大猿は、再び腕を振り上げ、今度は第一皇子に手を振り下ろそうとするが、どこからかなにかが宙に舞った。


「わっ!!」


 なにかが第一皇子の上に飛んできて、彼に覆いかぶさる。


「刃こぼれが! 刃こぼれが――!!」


 そう叫びながら、朱雀の君の手から離れた御神刀ごしんとうを、慌てて拾い上げた葵の君は、あまりの光景に睫毛まつげをパチパチさせた。


 第一皇子の上に飛んできたのは『光る君』だった。突然、光る君が降ってきたので、驚いた大猿はうしろに大きく跳び下がっている。


 横を向くと、呆然とした顔の別当と、第二皇子をぶん投げて、平然とした顔で手をはたいている刈安守かりやすのかみの姿があった。


『あの人、かりにも皇子様を投げつけたの?! いや、確かに切り札と言ったのはわたしだし、確かに次期東宮の第一皇子の方が、第二皇子より大切なんだろうけど、あの人、頭のネジがどこかに落っこちているんじゃないだろうか?!』


『そう言えば医者にサイコパスが多いって聞いたことがある!』


 葵の君は、この状況では的外れな、実は大正解なことを思いながら、とりあえずは助かったと考え、ほれぼれとする美しい所作で、すらりと御神刀ごしんとうを抜刀して、大猿の前に立ちはだかった。


「皇子たちをお願いします!」

「御意!」


 葵の君の言葉に、我に返った別当は、ふたりの皇子を両脇に抱えて、殿舎の端まで走って下がっていった。


「姫君も逃げなさい!!」


 中務卿なかつかさきょうは、血だらけの両手を構わず、躊躇なく姫君のもとへと走ろうとしたが、最早、遅かった。


 大猿は尖った黒い爪を姫君に振り下ろし、彼は思わず目を閉じる。その一瞬は永遠にも思え、ゴトリと言う音が聞こえて、恐る々々、目を開けた。


 床に転がって、いつの間にか消えて行ったのは大猿の手。

 大猿の手を切り落とした葵の君は、怯むことなく刀を構えたまま、残芯ざんしん(※戦い終えたあとも心を途切れさせずに注意を払っている状態)を保ち、じりじりと大猿と間合いをはかりながら注意深く、すり足で床を移動していた。


 自分が教えた剣の技を、姫君はたゆまぬ努力で研鑽けんさんに励まれていたのが、うしろ姿からも見て取れる。


 あの日、自分のやかたで蛇に跳ね返された、上辺だけの軽いけんの技は、遠い過去になっていた。恐らくいまの姫君の剣術の腕前は、最前線で戦働いくさばたらきをする強者つわものに交じっても、そん色もない腕前だろうとすら思う。


 葵の君の手に取られた刀は、あの日と同じように光を放ち出し、刀を振るうたびに輝きは強くなってゆく。姫君のそんな凛々りりしさが、彼には眩しかった。


 葵の君は闇に包まれようとしていた殿舎の中で片手を失い、それでもなおはがねのような毛で覆われた残った手足で襲いかかってくる大猿に立ち向う。

 鋭い爪の攻撃を刀で跳ねのけながら、持ち前の対捌きで大猿の攻撃の力を受け流し、反撃の機会を狙った。


 すれ違いざまに受けた圧ですら強力で、体中がギシギシと痛むが、いまここで、この大猿を倒すことが、この世界を元の『王朝絵巻物語』から切り離し、それこそが自分が『葵の君』として転生した意味だと歯を食いしばった。


 刃をぬめらせる血のごとき黒い滴りに目をやって、刀を大きく一振りして、ぬめりを払うと、再び両手で刀を構える。


 葵は遥か遠い前世の世界を思い、あの時、トンネルですれ違った幼き葵の上を思い、いま自分が暮らす『捨てられた絵空事の世界』で暮らす大切な家族を、人々を、源将仁みなもとのまさひと様を、誰よりも大切に思う。


 葵の君こと東山葵ひがしやまあおいは、幼い頃より不器用な女であった。歩くと共に始めた合氣道も、苦労して覚えた技を途中からはじめた同い年の器用な子が、あっという間に覚えてしまい、周囲にバカにされたこともあったし、かけ算の九々を覚えだした時は、この子は一生、九々が覚えられないんじゃないかと、母親が涙目で心配するほどで、高校や大学の受験にいたっては、その度に塾や予備校の講師が、志望校を下げた方がよいと説得にかかる。

 一事が万事そんな具合で、なにを学ぶにもなにを会得するにも、誰よりも時間を要した。


 そんな自分に嫌気がさすことも多かったが、それでも虚仮こけの一念で、なにもかも押し切ってきた努力のすべては、いまここにつながり、大切な人々を守る力となったのだ。

 いや、そうならねばならぬのだ。


 彼女は大猿をめつけながら、細く、そして長く息を吐き、呼吸を整えて御神刀ごしんとうをゆっくりと頭上に持ち上げると、上段の構えを取り、ピタリと動きを止めた。


 力は前世の自分に戻ってはいるが、何分、体はまだ十歳、背の高さが足りないのは、どうしようもなく、この体で大猿の相手をするのは限りなく不利だった。


 なんとかならないかと、目を細めて思案する。刀から放たれる輝きは、ゆっくりと葵の君すらも包み込んでいった。


 やがて大猿が咆哮ほうこうをあげて手を大きく振り上げ、覆いかぶさるように襲いかかろうとしたその瞬間、葵の君は、大猿の動きを見切り、自分の首を狙う腕を、間一髪で避けると、大猿のうしろにあった殿舎の柱に向かって勢いよく飛び、柱の中ほどを蹴り上げた勢いを借りて体を反転させ、そのまま宙高くに舞い上がり、大きなかけ声と共に、姿勢を崩した大猿の額に、御神刀ごしんとうを振り下ろすと、竹でも割ったかのように、体を真っ二つ、見事に大猿を退治したのであった。


 刀の放つまぶしい光に、両脇に皇子たちを抱えた別当が、思わず目を閉じていると、先程まで聞こえていた、大猿の荒い息づかいが消えている。


 目を開けてみると、床の上には体を縦に割られた大猿が横たわり、またたく間に、どこかに吸い込まれた。

 天井を突き破り、殿舎に覆いかぶさっていた藤の木も、シュルシュルと姿を消してゆく。


 あとには駆け寄った中務卿なかつかさきょうの血まみれの両手に抱きしめられて、ポロポロと真珠のような涙を流して泣いている尚侍ないしのかみの姿があるばかり。

 大猿のはがねのような毛に当たったのか、姫君の衣装はあちこちが破れ、腕には幾筋もの切り傷が走って血がにじみ出していた。


「よくぞ、よくぞご無事で、よくぞあの化け物を仕留められた」

将仁まさひと様のことを、この世界とみんなを守りたかったから……」


 源将仁みなもとのまさひとは、複雑な表情のまま姫君を抱きしめていた。


 自分が姫君を守ろうとする気持ちと同じように、姫君が自分のことを大切に思ってくれるのは幸せなことだけれど、この勢いでは『戦場いくさば』にすら駆けつけ兼ねないと思ったのだ。


「もう無茶はなさらぬことが、わたくしへの一番の思いやりだと思って下さい」

「……」


 彼はそう言ってから、涙をこぼす姫君を強く抱きしめたまま、大きく安堵のため息をついていた。


 その頃、葵の君と入れ替わりで自分のつぼねに戻った運命の女神は、料紙の束を探してしばらく文机の周りを探しまわったが、すっかり影も形もなくなっていたので、「きっと筆と墨の持つ神聖さに姿を消したのだろう」そう納得し、はじめからこうすればよかったと、彼女も安堵のため息をつくと、再び本来の物語を書きつづるべく、新しい料紙に筆を走らせはじめた。


 こうしてふたつの循環していた世界は、お互いになんの干渉を受けることなく、別の世界を作りゆき、葵の君が残った『捨てられた絵空事の世界』は、その絵空事の元の世界より、完全に解離して循環を止め、元の幼い葵の上の願いどおり、呼吸をする魂を持った人々が行き交う、宙に浮いた疑似平安時代の世界として残ることと相成ったのです。


 なお、どさくさに紛れて、刈安守かりやすのかみが、光る君を投げたのは、もちろん「第一皇子の身の安全が」とかではなく、尚侍ないしのかみが一番の獲物なので、失う訳にはいかなかったのと、実は、光る君を大猿にぶつければ、捕まえられるかもしれぬと思い投げてみたら、単に手元が狂ってしまい、第一皇子の上に落ちていた。彼は残念そうに大猿の消えた床をながめていたが、誰も気がつかなかった。

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