第163話 別れの時 3

〈 検非違使所けひいしどころ 〉


 桐壺御息所きりつぼのみやすどころが里に帰った翌日、目立たぬ色の粗末な壺装束つぼしょうぞくを着て、市女笠いちめがさを被った旅装束の女が、大内裏にある検非違使所けひいしどころをたずねてやってきた。


 笠の周囲に垂れる白い苧麻からむしの布からなにから、すっかりホコリにまみれているところを見ると、かなり遠い地方からやってきたと思われる。


 門から案内してきた官吏が言うには、例の『女童めわら事件』の被害者の姉とのことであった。女が差し出した料紙に包まれたふみには、雇っていた貴族からの正式な身分証明の書状。


「こちらです」


 そういわれて中に通された女は、荼毘だび(火葬)にふされ、小さな壺に変わり果てた妹と対面すると、その場で気を失った。


 市女笠いちめがさが倒れた拍子に地面に転がる。長旅でやつれてはいたが、どこかしら、上品で優しげな顔立ちの女であった。


 女は妹の突然の悲劇を聞き、できる限り急いで駆けつけたが、やはりどこか信じられず、もしやなにかの間違いであれば、そう願っていたのだが、壺にかけられていた小さな数珠やくしは、確かに妹のものだった。


 騒ぎを聞きつけた、最近の不審な事件の報告に目を通していた検非違使の別当が、女を自分の曹司に案内させ慰めの言葉をかける。長官である彼が対応することでもなかったのだが、あの悲惨な事件を思い返すと、なにかしら同情がわく。


 聞けば、京の貴族であった父君を早くに亡くし、母君が地方の受領であった継父と再婚したが、その母君も亡くなり、ままある話でのち添えの新しい妻に疎んじられ、二人は別々に遠く離れた地で、女房として貴族のやかたで奉公していたらしい。


 京の大貴族のやかたや内裏で、高貴な身分の方の側づかえの女房をするのならばともかく、元はといえば姉妹は、女房になるような出自ではなく、それもまた不憫な話で、別当は深く同情した。


「これからまた旅をして奉公先に帰られるのか? 少し休みを取った方がよいと思うが」

「いえ…それが、そのような長い休暇はやれぬと暇を出されました。幸い妹が仕えていたやかたで、水汲みなどの下働きくらいなら雇うと、おっしゃってくれておりますので……」


 別当は驚いた。女房として働いていることですら不憫であるのに、どう考えても下働きなど無理であろう。その証拠に顔も手も日に焼けておらず、髪も相応に長かった。(出家した女君は別にして、所属する階級が下がるほど、女の髪は短くなり、肌も日に焼けているものである。)


 根が親切な彼は、女に側づかえの女房としての働き口を紹介しようと申し出た。


「よろしいのですか……?」

「ああ、あいにく我が家の人手は足りているが、丁度、女房を探している貴族を知っている。やかたの主人にも話を通しておくから、少し待っていなさい。すぐにわたしからの紹介状を書こう」


 女は涙を流して喜んだ。側づかえなどの高い地位の女房は、大体は幼い頃からそこで勤めているし、地縁血縁でキッチリと決まっているのが普通で、その上、京の貴族に勤めるとなれば、なかなか縁のあるものではなかった。


 別当が紹介したのは、例の『怪しげで風変わりなやかた』とのうわさで、女房のなり手に困っている『中務卿なかつかさきょうのやかた』であった。


「そんな……元皇子でいらっしゃる大公卿のやかたの側づかえの女房など、田舎出のわたくしに務まりましょうか?」


 紹介先が尊き血筋の元皇子である上に、八省の長を務める中務卿なかつかさきょうのやかただと知ると、しきりに女は恐縮していたが、別当は「主人である中務卿なかつかさきょうが丁度、正式に結婚をされて、北の方を迎えたこともあり、女房を増やしたいとおっしゃっていたから大丈夫だ」そう請けあってくれたので、女は、今度は別当の推薦状を持って、以外にも人気の少ない中務卿なかつかさきょうのやかたの裏口に回ると遠慮がちに、そっと水を運んでいた奉公人に声をかけた。


「ええ、ええ、そうなんですよ、急なことで女房を募集してはいるのですが、今時、なかなか教養深く、たしなみ深い女房は少なく、困っておりました」


 中に案内されてしばらくすると、人当たりのよい親切そうな、このやかたを取り仕切っているらしき、猩緋しょうひと名乗る家人が、そう言いながら現れる。紹介状を見たのか見てないのか、彼はそんな速さで目を通し、「検非違使の別当のご紹介ならば、間違いはないでしょう」そう請けあい、早速、小ざっぱりした母屋の端にある女房のためのつぼねに案内してくれた。


 少ない荷物を置いて北の対に行くと、そこには真新しくて絢爛豪華な婚礼調度が並んでいた。三種の厨子棚は左から書棚(歌書や巻物、硯箱が飾られている棚)、真ん中は鏡や櫛などがある化粧道具の棚、右は香などの薫物やその道具が収められた棚。手前にある貝桶(貝合わせ用の蒔絵の施された貝が入っている。)や脇息、どれをとっても絵物語から抜け出たように高雅な品ばかりだった。


 女は奇しくも葵の君の裳着の時に、真白の陰陽師たちが祝いの品に抱いた感想を抱く。


『目が潰れそう!!』


「あの、北の方にご挨拶を……」


 それでもなんとか気を取りなおして言葉を発した。京の事情に疎い女は、まだ女主人のことを、なにも知らなかったのである。


「あれ、なにも知らないでここに? ああ、まあそうか、そうでなきゃ、うちに気のきいた女房なんてくる訳……」

「え?」

「いえ、こちらの話です。北の方は摂関家の姫君であり、尚侍ないしのかみとして内裏に出仕されている“葵の君”でいらっしゃいます。普段は内裏でお暮しなので、お帰りになるまでは御主人様の側づかえをお願いしますね」

「はあ……」


 京の事情に疎い女は、女主人が誰かは知らなかったが、貴族の頂点である摂関家の嫡流、左大臣家の姫君のおうわさは、さすがに田舎にまで流れてきていたので、『そんな尊き方にお仕えできるなんて!!』そう思い、こんな身分の高い方のお屋敷に年老いた女房がひとりいるだけ、そんな不思議なことにも、北の方がご出仕なさっているのであれば、他の女房たちは一緒に出仕したのだろうとひとりで納得していた。


 そしてつぼねに戻ると、自分のこの降って沸いたような幸運は、きっと亡き妹が見守ってくれているのだろうと涙しながら、いまは小さな壺に入っている妹を抱きしめた。


 女は気前のいい家人に、早速、当座の支度金と三年分の先払いの食封じきふ(給料)をもらったので、後日、京の郊外に小さな墓を求め、妹の遺骨をそこに収めて念入りにとむらってもらう。


「まともな女房をやっと


 逃げられる前に、先に三年分の食封じきふを払っておけば、田舎出の若い女のこと、京ですぐに散財してしまうだろうし、あれだけの金額をなかなか返せるものではない。そうすれば嫌でも辞める訳にはゆかぬ。独り言を言っていた家人は密かにそう思っていた。


 ケチな家人が大盤振る舞いしたのには、ちゃんと訳があったのである。



〈 登華殿とうかでん 〉


「新しい女房ですか?」

「ええ、検非違使の別当の紹介でひとり、乳母もいい年なのに、我が家は女手がなくて困っておりましたが助かりました」


 その話を中務卿なかつかさきょうから聞いた葵の君は、新しく雇ったという女房の名前を聞いて、内心“超ビックリ”していた。


『夕顔』


 ああそうだ、兄君の妻のひとりで正妻の実家、右大臣家から嫌がらせを受けて、ひっそり姫君を産んで、その上、光源氏に運悪く引っかかって、祟り殺されて死体遺棄された人だ……。


 葵の君は名前を聞いて、再び色々と原作を思い出しながら、しばし呆然としていた。


「大丈夫ですか?」

「え、ええ、大丈夫です。そうですね、検非違使の別当の紹介であれば、なんの問題もないと思います。わたくしは内裏に参内している間、留守にする中務卿なかつかさきょうのやかたの家政のことも考えねばならないのに、お任せきりで申し訳ないことでした。わたくしも女房を探しますね」


 しきりに自分の体調を気遣う中務卿なかつかさきょうをよそに、葵の君は、元の絵巻物の痕跡を恐ろしく思い、気を引き締めなければと思い、再び光源氏のどうしようもなさを思い出していた。


『取りあえず兄君に会わせちゃ駄目だ!! 話がまたややこしくなるかもしれない!!』


「紫苑は誰か女房になってくれそうな知り合いはいないかしら?」


 中務卿なかつかさきょうに支えられながら、葵の君は取りあえず一番、気心の知れた紫苑に聞いてみる。彼女の姫君に対する忠心は中務卿なかつかさきょうも知っているので、異論はなかった。


「わたしの姉たちはどうですか? 四人いますけれど弟もひとりいますし、一番上の姉が家に残っていれば、父や母も文句は言わないでしょうし、憧れの京に出てこられると聞けば、姉たちも喜ぶと思います!!」


 紫苑の姉であれば、身元も安心だと中務卿なかつかさきょうも賛成したので、早速、彼女は手紙を書いてくると姿を消したが、横にいた御園みその命婦や左大臣家の女房たちは、何倍にもなった“寝言”を想像し、無言のまま恐怖した。


 そして数日後の夜、葵の君は桐壺御息所きりつぼのみやすどころの死を知ったのである。

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