第164話 別れの時 4

〈 帝と光る君が暮らす後涼殿こうろうでん 〉


桐壺御息所きりつぼのみやすどころ身罷みまかられました」


 桐壺御息所きりつぼのみやすどころが里に下がってから数日後、大々的な祈祷もむなしく、帝に届いた彼女の死の知らせは、葵の君だけが知っていた、そして遅すぎた予定調和だった。


 帝は、光る君を手元に残したがったが、母を亡くし、喪に服すべき皇子が内裏にとどまっている訳にはゆかぬので、彼は慌ただしく後宮をあとにし、桐壺御息所きりつぼのみやすどころの里に帰り、帝はとでもいう様子で嘆き、そして取り乱し、“わたくしの女三宮”を後涼殿こうろうでんに呼ぶと、彼女の膝の上で人目もはばからず悲しみに泣き崩れていた。


「どうして女御にしてやれなかったのか、どうして光る君を東宮にできぬのか」帝は後涼殿こうろうでんに閉じこもり、大宮の膝の上で、今再び、そんなどうしようもなく、とんでもないことを、壊れたように繰り返し思う。なによりもう一度、愛する桐壺御息所きりつぼのみやすどころの美しく優しい顔が見たかった。


 彼女が亡くなったという知らせは、あっという間に内裏中を駆け巡る。決まり通りの葬儀のあと、御息所みやすどころの遺体は愛宕郡おたぎごうりの葬場に運ばれ、眠ったような娘の遺体に取りすがっていた母君は、いっそのこと、煙になるところを見れば諦めもつくと、無理を押して葬場まで同行したが、煙となる娘の姿に牛車から転がり落ちんばかりに取り乱していらっしゃった。


 墨染の衣をまとった光る君は、まるで信じられないと思いながら涙を流し、空に上がる煙を拝むでもなく、ただぼんやりと牛車の中から煙を見上げる。


 元の話とは違い、彼はもう『物心』がついていたので、小さなやかたに戻ると、母の形見の装束一式と櫛のひとそろいの入った箱を前に、静かに悲しみと物思いにふける。


 悲嘆にくれた帝も、せめてもと、桐壺御息所きりつぼのみやすどころ三位さんみくらいを授けようと、御息所みやすどころの実家に勅使ちょくしを出し、法要ごとに使者を立てたが、悲しみは心に降り積もるばかりで、それ以来、光る君が後宮に戻るまで、後涼殿こうろうでんの外には姿を見せなくなった。


 御息所みやすどころが亡くなったという知らせを聞いてから、何日もお姿を見せない帝のことが心配になった后妃方は、知らせを聞いた数日後、皆で相談して、弘徽殿女御こきでんのにょうごと朱雀の君が代表し、尚侍ないしのかみと一緒に後涼殿こうろうでんを訪れたが、帝は傷心のあまり、「そなたたちなど呼んではいない。御息所みやすどころと光る君を呼んでおくれ」と言い捨てて、周囲を唖然とさせ、凍りついた関係の夫婦と親子の間には、そして帝と后妃たちとの間には、最早取り返しのつかぬ溝ができてしまっただけであった。


 さすがに大宮が帝をすぐさま、たしなめられたが、「お気づかい無用でございます。出過ぎたことにございました」弘徽殿女御こきでんのにょうごはそう言うと、冷たい人形のような美貌をますます固くして、美しいころもの裾をひるがえし、皇子を残して、先にその場を去っていった。


 弘徽殿女御こきでんのにょうごには、落ち度のないことであるのに、帝の御前に参るにふさわしい女御の美々しい装いにも、御息所みやすどころが亡くなったというのに、もう少し気遣いはないのかと、帝には忌々いまいましかった。


 帝の側仕えの女房たちは、桐壷御息所きりつぼのみやすどころが生きていた時は、「女房のように軽々しい方」だとか、「御息所みやすどころなど図々しい」そんな陰口を言っていたのに「こうして亡くしてみると実に美しく優しい方であった」「早くに亡くなる運命だったからこそ、帝の深い御寵愛があった」そんなことを殿舎の隅で、しみじみと語りあっていた。


『えっ?! この間まで、メチャメチャ悪口を言ってたのに?!』


 皇子と一緒に帝の前から退出しようとしていた葵の君は、帝の側づかえの女房たちが、御息所みやすどころの悪口を、あちらこちらで言いふらしていたのを、注意したこともあったので、そんな彼女たちが手のひらをかえしたように、彼女をめたり、懐かしんだりしているのを、うす気味悪く思いながら、前をゆく第一皇子のことを心配する。


 運命の女神のが過ぎて、どうかしている光る君はともかく、第一皇子はまだ九歳の素直でまっすぐな少年なのだ。(実際、元の話よりしっかりしているし!)


 ここは大人(中身)である自分が、なんとかなぐさめねば! そうは思うが、あまりのことに、言葉が思い浮かばず、できたことといえば、ただなぐさめるように、そっと彼の手に自分の手を伸ばしただけであった。


「あの、皇子……」

「よいのですよ、大丈夫です……」


 彼は尚侍ないしのかみにそう言ってから、心ひそかに父であった帝に永遠の別れを告げ、右手に重ねられた、桜貝が並んだような爪が並ぶ優美で小さな姫君の手を、そっと両手で包んで礼を言い、姫君の優しくて暖かな心づかいに感謝してほほえんだ。


 実際、第一皇子にとって帝の言葉など『今更』と割り切れるものであった。光る君が生まれて以来、帝にとって自分はそういった存在であると思ってはいた。そして皇子は深く憂慮する。


 あの様子では、ますます尚侍ないしのかみに、ご負担がかかってしまう……。


 自分は来年の春には正式に東宮位に就く予定だが、帝から自分への譲位を早めることはできぬものかと、皇子は尚侍ないしのかみと共に、自分の殿舎に向かって渡殿を歩きながら考えていた。


 それは母君である弘徽殿女御こきでんのにょうごのためではなく、天下国家のためでもなく、春に出仕なされてから、それこそ寝る間も惜しんでたみと天下国家のために奮闘なされている、御年十歳になられたばかりの、決して手に入ることのない初恋で、最初で最後に愛したであろう尚侍ないしのかみのためであった。いままで気にもならなかった内侍司ないししの無能ぶりも、最近では目について仕方がない。


 元々、ひとつ年上とも思えぬほどに、大人びた方でいらっしゃるが、日々のさまざまな博士の講義や剣術の稽古を諾々だくだくと受けているだけの自分と、尚侍ないしのかみの負担の差は“けた違い”である。


 夜遅く、ご自分の殿舎に帰っても職務に励んでいらっしゃるご様子の尚侍ないしのかみに、ある日、思い切って、「一日や二日くらい遅れても大丈夫ではないですか?」そう声をかけたことを思い出す。


 実際、姫君がくるまでは、そんなことは日常茶飯事であった。しかし尚侍ないしのかみは、「わたくしが一日遅れると、その次は二日、そのまた次は四日、あるいは決裁が流れてしまえば、結果は数年先にすらなります。それは国にとってもたみにとっても申し訳の立たぬことでございます」生真面目にそう言ってから苦笑されていた。皇子は自分が放った不見識な言葉に恥じ入るばかりであった。


尚侍ないしのかみ、わたしのたっての願いを聞いていただけませんか? 実は関白に内々でお会いしたいのです」

「祖父にですか?」

「なるべく急いで、それも内密に」

「……承知いたしました。皇子、どうかお気を落としにならないで下さいませ。帝は突然のことに取り乱していらっしゃるだけでございましょうから……」


 尚侍ないしのかみはそう言って、ご自分の殿舎の登華殿とうかでんの前で、少し自分の顔を心配そうに見つめていらっしゃったが、「慣れているので大丈夫ですよ」そう言って、皇子は自分の殿舎に帰ると、人払いをして考えごとにふけっていた。


 葵の君は登華殿とうかでんの自分の曹司に戻って、くつろいだ衣装に着替え、桐壺御息所きりつぼのみやすどころを振り返る。


 はかなげでまぼろしのような、美しく繊細そうな人だった。国家という観点から見ると、彼女は確かに今楊貴妃と言われても仕方のないくらいの悪影響を起こしていたけれど、初めて会った日の緊張した様子や、常に申し訳なさそうに気を遣いながら、後宮で暮らしていたことを思い出すと、あの人にとっては、とんだとばっちりを受けてばかりの人生だったんだろうと思う。


『なにも好きこのんで後宮にいる訳じゃなかっただろうに』そんな風に思い、気の毒に思った。確か亡くなった父親の悲願で母親が無理やり入内させたはず……。


「やはりまだ起きていらっしゃったのか」

将仁まさひと様!」

「大変な騒ぎに貴女あなたのことが気になって、こちらに参りました」

「わたしよりも、将仁まさひと様や他の方々の方が……」


 よほど心配だと言いかけた葵の君は、ふと思い出す。


「一度、桐壺御息所きりつぼのみやすどころが、将仁まさひと様を呼ばれたことがありましたよね?」


「臣下に降りたあとの、わたしの人生を、ひどく熱心にお聞きになっていた。はっきりとはおっしゃらなかったが、御息所みやすどころはきっと、第二皇子と共に静かに暮らしたかったのだろうね………」

「………」


 中務卿なかつかさきょうは少し考えてからそう答え、葵の君は、その言葉に深く考え込んだ。


 もし、もしも帝が、もう少し御息所みやすどころの立場を、本当に思いやることができれば、彼女の人生は、ほんの少しくらいだったのかもしれない。


 そう思いながら、彼の肩にしばらくもたれて、目を閉じていた。「なにかあれば、すぐに式神を飛ばすように」そう言い置いて、彼が大内裏に帰ったあと、遅いお風呂に入って殿舎に戻る。まだ母君が帰っていらっしゃらない。


「母君はまだお帰りにならないの?」

「それが、帝が悲しみの余り眠れぬと、大宮をお引止めだそうで……」


 困惑した様子で返事をした御園命婦みそのみょうぶの言葉に、葵の君は眉を寄せた。もう真夜中である。結局、母君がお帰りになったのは、葵の君が髪を乾かしてもらい、それから二刻もしたあとで、夕餉も食べていないと言いながら、疲れた様子の母君は取りあえず眠りたいと、布団の上に横たわっていた。


 葵の君は母君に、せめて、ひと口でもと、“飲む点滴”とすら言われる甘酒を勧めて、母君が飲んでから眠ったのを確認すると、自分も寝ることにした。もう夜は終わりに近かった。


「ポンコツ……」


 葵の君は桐壺御息所きりつぼのみやすどころに同情し、冥福を祈り、悲しみに暮れる帝を、周囲が分からない言葉で、そう言いくさしながら眠りにつく。洗いたての美しい黒髪からは、いつものように麗しい睡蓮の薫りがしていた。


 本来であれば、帝のくらい退しりぞき、院となったあとも政界にとどまり、光る君を大いに庇護していたはずの桐壷帝は、桐壷更衣きりつぼのこういせいか、葵の君が運命の女神からこの世界を、目隠ししたせいか、あるいは無理筋を押し通したせいか、ひたすら心のままに、最愛の人の死を悲しんでいた。


 *


『本編に多分関係ない幕間の小話/髪削かみそぎ/ヘアカットの話』


髪削かみそぎは、子供時代の節目々々節目の儀式であり、吉日吉事を選んで執り行われていました。(大体は一族の長がする)


 葵の君の御殿で、母君が心配そうな顔をしている。


母「なにもあなたの髪で練習をしなくても……なにも本当に切らなくても……ああ!!」


 青い顔でカミソリを持っている中務卿なかつかさきょうと、葵の君の顔を交互に見ながらハラハラしている。


葵「だってもし本番で失敗したら大変ですから! バッサリいってもまた伸びます!」


 中務卿なかつかさきょうが、関白に秋好姫宮の髪削かみそぎを頼まれたと聞いて、練習にかこつけて少しでも短くしようと企んでいるのでした。


中「バッサリ……」ちょっと眩暈がしてきているのでした。


弐「こっわっ!!」


 揃えようとして、じょじょに短くなっている。(結局10㎝くらい短くなった)


伍「やめて――!!」


六「!!!」心臓が止まりそうになっている。

 式神で覗き見している三人でした。


葵「ちょっと首が楽になったかなぁ?」


 身長くらいになっていたのが、うっとおしくて仕方なかったのでした。

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