第165話 別れの時 5

 元の話よりずいぶん遅れた桐壺御息所きりつぼのみやすどころの死は、もうすっかり違う方向に転がり出しているかに見えた世界に、再び大きな波紋を広げてゆく。


 翌日、公務から帰った葵の君は、またもや母君を呼び出して返さない帝に腹を立て、それでも仕事がたまっているので、持ち帰った書簡を文机の上に広げていた。


 しばらくして、紫苑が遠慮がちに声をかけてくる。


「姫君、弘徽殿こきでんから使者が参っております」

弘徽殿こきでんから?」

「なんでも近いうちに管弦のうたげをなさるので、そのお誘いとか……」


『ひえっ! それ、『源氏物語』で実際にやらかしたヤツやんか!』


 元の源氏物語でも、桐壺更衣きりつぼのこういが亡くなってから悲しみにくれる帝への当てつけに、弘徽殿女御こきでんのにょうごうたげを開いていたことを思い出した葵の君は、「気持ちは分かるけど、第一皇子がまだ正式に東宮になっていない! いまは絶対に駄目! 帝に不安要素が多過ぎるから特に駄目!」そう思い、慌てて弘徽殿こきでんから使者としてやってきた女房に会いにゆく。


うたげの話は他にも伝えましたか?」

「え、いいえ、尚侍ないしのかみが最初にございます。これから右大臣や他の方々に……」

「そう、ではそれは取り止めて、急ぎ弘徽殿こきでんに戻り、女御にょうごに今すぐにわたくしがお会いしたいと、そうお伝えして。すぐにうかがいます!」

「………」


 困惑した表情でやってきていた使者は、弘徽殿女御こきでんのにょうご乳姉妹ちきょうだいはぎという名の女房で、尚侍ないしのかみのご様子を見て、尚侍ないしのかみは、このうたげに反対だと密かに安堵した。


「さすがに、この時期にうたげを開くなど女御にょうごのご評判に……」そう周囲がお止めしても、耳を貸さない弘徽殿女御こきでんのにょうごも、摂関家の姫君である尚侍ないしのかみのお言葉であればもしやと、はぎ一縷いちるの望みを抱き、かしこまって平伏すると、急いで隣の弘徽殿こきでんに戻った。


尚侍ないしのかみがわたくしに会いたいと?」

「それも至急に、すぐにいらっしゃるとのことでございました」


 萩は伝えながら女御にょうごの顔色をうかがう。女御にょうごは「慌ただしい話だわ」そう言いながらも、少し気がそれたのか、尚侍ないしのかみがいらっしゃる前に席を整えるように言うと、自分も身支度を整えて、優雅に畳の上に座り直した。


 やがて登華殿とうかでんから、先ぶれの女房が渡殿をやってくるのが見え、ごく少ない女房だけを連れた尚侍ないしのかみが姿を現した。


 幼いながらも照り輝くように美しい方であるが、今日は少しお顔の色が優れない。挨拶もそこそこに、心配そうなご様子で尚侍ないしのかみは口を開く。


「昨日はとんだ出来事でございました。女御にょうごと皇子の御心を思えば心が痛み、胸がつまる思いにございます」

「いいえそれも、わたくしの臣下としての至らなさです。そっとして差し上げた方がよかったのでしょう」


 女御にょうごは気丈にそう言って、「気晴らしにうたげを開こうと思いましたの」と言いながら寂しそうな笑顔を浮かべられたが、葵の君は女御にょうごに大いに同情をしつつ、きっぱりと反対意見を述べ、周囲にいた弘徽殿こきでんの女房たちは、女御にょうご癇癪かんしゃくを予想して身をすくませた。


 女御にょうごは相手が摂関家の姫君であるので、さすがに檜扇を投げつけはしなかったが、腹立たしさで胸が一杯になり、手が痛くなるほどに閉じた檜扇を握り締め、絞り出すような声で、「どこまでわたくしが我慢を……」そういって唇を噛みしめ、尚侍ないしのかみを睨みつけた。


 尚侍ないしのかみの知らぬことなれど、第二皇子が三歳の時に袴着の儀式を行った時、病み上がりの桐壷更衣きりつぼのこういを気遣った帝に「後宮をまとめる貴女あなたが先にわたくしに申し出で欲しかった」そう言われて、桐壷更衣きりつぼのこういの母君いわく、“帝の御寵愛とおぼし”第二皇子の美々しい衣装を用意できるように、実際に手配したのは、実のところご自分の産んだ第一皇子には、帝からなんの心遣いもなかった弘徽殿女御こきでんのにょうごであった。


 あの時、悪しき前例を作りかねないと言う中務卿なかつかさきょうや、公卿たちの反対を押し切って、中務省なかつかさしょうの管理する宝物殿から数々の国宝を持ち出して盛大に祝い、「この世に生まれたことを不思議に思うくらいに美しく秀でた第二皇子を見れば、誰もが祝う言葉しかでないであろう」そう満足気に帝が言う横で、あの女が「帝のおぼしは第二皇子にはもったいなく……」そう言って、困った顔でうつむいていたのを思い出し、そのあとも数々あった同じような出来事を思い出し、女御にょうごは奥歯を噛みしめた。


(いまは亡き桐壷更衣きりつぼのこうい、あるいは御息所みやすどころには、なんの落ち度もないことであるが、彼女と皇子に降り注がれた帝からの恩恵は、帝からの強い意向で、迷惑だと思いながらも、帝の命ゆえに断れずに用意したものであり、ただただ悲しく居心地悪く後宮で生きていた、彼女には、そこまでの想像はできなかった。)


 そんな奥底に流れる恨みを思い出した女御にょうごの眼差しには、右大臣ですら恐れおののくような力があったが、睨まれるのも怒鳴られるのも慣れ過ぎている前世だった上に、転生してきてからも幾多の大騒動をやり過ごしてきた葵の君は、ただじっとなにも言わずに自分を睨んでいる女御にょうごに、「本当に生粋のお嬢様だよね! わたしなら屏風を蹴り倒して、帝の頭を桧扇で張り倒しているよ!」そんな感想を持つと、いきなり弘徽殿女御こきでんのにょうごをフワリと抱きしめて、驚く女御にょうごの耳元で、小声でささやいた。


「どうかわたくしの言葉を“朱雀帝”のためと思って、お聞き入れ下さい。女御にょうごにとってなによりも大切な、ご自分の産んだ未来の“朱雀帝”と内親王方の未来を傷つけぬために……」

「朱雀帝……」

「来年には東宮になられ、皇子が朱雀帝となられたあかつきには、弘徽殿女御こきでんのにょうごは国母でございます」

「……」

「朱雀帝には、この先も母君である女御にょうごのお力が必要となることも多かろうと存じます。それを思い、どうぞ曲げていまはこらえて下さいませ」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、しばらく目を閉じていたが、大きな息を吐いて、声をしぼり出す。


「わかりました。尚侍ないしのかみのおっしゃる通りにいたしましょう。礼を言います。わたくしは自分で一番大切な宝に傷をつけるところでした」

「お気持ちはもっともなことにございます。わたくしなら夫めがけて几帳を蹴り倒しておりましたわ」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、尚侍ないしのかみのあまりの言葉に目を丸くした。が、もちろんそれは気遣いだと思ってから、姫君が中務卿なかつかさきょうに几帳を蹴り倒しているところを想像してみる。


 女御にょうごが先程までの形相と打って変わって、コロコロと笑われたので、周囲はとうとう女御にょうごが乱心したのかとハラハラしていた。


中務卿なかつかさきょうは大変な北の方をお持ちですわね。ご苦労がしのばれますわ」

「いまのところはにございます」

「ほほ、ほほほ……」


 乱心ではなく、尚侍ないしのかみ女御にょうごの気を持ち直させて下さったと気づいた周囲は、安堵のあまり体からどっと力が抜けた。


「ははぎみ、どうなさったのですか?」

「どうなさったのでしゅか?」

「なんでもありませんよ、もう夜も遅いのに、まだ起きているなんて、なんと悪い内親王方ですこと……」


 気を取り直した女御にょうごは乳母につき添われて、不安そうな顔で自分の部屋にやってきた二人の幼い内親王の髪を撫ぜて、にっこりとほほえんでそう言うと、二人を安心させてから、帰ってゆく尚侍ないしのかみを見送り、あの姫君を朱雀の君の妃にむかえられぬことを今再び酷く残念に思い、うたげの中止を命じた。



 *



〈後書き〉


 本来なら、光る君の“顔面偏差値&愛されパワー?”で、誰もが袴着の特別扱いを帝と同じ視線で見ていたはずなのですが、ちょっとずれた世界なので、なにかもう誰も損しかしていない(帝やなんにも考えてない左大臣のような人は除外)袴着だったという怖い想像でした。漢方医が行方不明になっていますが、真面目に? 悪いことを考えています。葵の上奇譚の帝と一緒で、本人には一切の悪気はないのですけど。

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