第162話 別れの時 2

〈 刈安守かりやすのかみのやかた 〉


「君が言っていた“やんごとなき御方”は、桐壺御息所きりつぼのみやすどころだったようだね」


 夕刻、やかたに帰った刈安守かりやすのかみは、久々に顔を出した煤竹法師すすたけほうしの、いつにも増してどんよりとした様子を気にも留めず、陽気な口調でそう言って、彼を、自分以外の者は立ち入りを禁じている曹司に招き入れた。


「話は早いようですな。その件でお願いに上がりました」

「どんな要件だろう? いやまさか御息所みやすどころが、最早、生きるしかばねであったとは。はじめは自分の医師としての能力を疑ったが、しかばね相手ではいたし方のないことであった。延々と読経を続けている坊主たちも無駄骨ご苦労なことだね」

「貴方様の妹君も、そのでございますが」


 法師はそう言い返したが、料紙になにやら書き込みながら、刈安守かりやすのかみはあっさりと返事をした。


「わたしの妹は君のだ。でき損ないではない。薬も効けば治療もできる。そうだろう? それに多少は心が痛むだろうけれど、わたしは妹君が、たとえ魑魅魍魎ちみもうりょうとなり果てても、愛しているからね。尊き方々には……とても耐えられぬことだろうけれど」


 彼はそう言うと、くっと笑った。


「それがお分かりならば、少し融通をして下さらぬか? 御息所みやすどころを再び“変わりない姿”にお戻しするために、新鮮な……」

「新鮮な人骨で、しかも貴族の女君の骨ねぇ……」


 刈安守かりやすのかみは少し思案してから、相変わらず自分の周りをいわしの群れのように取り巻く女童めわらの怨霊を、手でもてあそびながら返事をした。


「お断りだ。いま再び、をしでかして、無事に済むと思うかね?」

貴方あなた様ならば……」

「何度も言わせるな、自分が興味を抱いていることならばともかく、なぜ、御息所みやすどころの命のために、わたしが危険を冒さねばならぬ? わたしになにかあれば、それこそわたしの大切な妹君が大変なことになる」


 今現在の京の町は治安が大幅に強化された上、つい先ごろ貴族のやかたへ押し込み強盗の未遂があったため、別宅に住む妻の元に通う貴族たちの夜歩きまで、検非違使に見とがめられ、事情を確かめられるほどだ。


「妹君が御息所みやすどころのようになってもよいのですか? わたくしにはその力がございますよ?」


 煤竹法師すすたけほうしは、暗に自分が彼の妹君、つるばみの君を壊せることを示唆するが、目の前の“物狂ものぐるい”は冷静だった。


「法師殿、徳の高いそなたにそのようなことはできまいて。だからこそ、なんの生活の心配もないのに、最近は餓鬼のように、骨を求めて愛宕郡おたぎごうり の葬場(※平安時代の火葬場)をうろついていたのであろうが?」

「なぜそれを?!」


 目の前の、冷静過ぎる“物狂ものぐるい”に法師はぞっとした。確かに御息所みやすどころの病を心配する母君から事情を聞いて以来、御息所みやすどころが里に帰るまでに“材料”を集めようと、彼は正に東奔西走していたが、そんな都合のよい“材料”はどこにもなかった。


 彼女はつるばみの君とは違い、不安定な“試作品”であり、それゆえに焼き場で火を入れた骨では、どうにもならぬのは、分かり切っていたのだが、それでもと一縷いちるの望みをかけて、新しい遺体が届くたびに役人の目を盗んで、骨を手に入れられぬかと思ったが、人目が多く、彼にはどうしようもなかった。


「よいではないか、別に法師殿の御身内でもなし、“よみがえりの呪法”へ大いに貢献してくれたと思うのであれば、あとで経のひとつでも上げてやれ。とはいえ……御息所みやすどころは、君と母君のせいで、とても極楽浄土には……ゆけぬ身だろうがな」

「あいだてなし……」

「それしか言えぬのか? ああ、しかし、君は友人ではあるし、つるばみの君への恩義もある」


 刈安守かりやすのかみは、法師の呪いのような言葉を鼻で笑ったが、それでも気まぐれのように彼にひとつ施しをやった。綺麗な布に包まれた桐の箱の中には、乾ききった頭蓋骨以外の小さな骨がほぼ一体分。これは彼が、なにか薬に転用できぬかと取り置いていた、幼い女童めわらの“骨”だった。


「この箱を持って帰りたまえ、火が入っていないから、まだ役に立つかもしれぬよ?」

「……ご厚意を感謝いたします」


 刈安守かりやすのかみには、ただの実験体である御息所みやすどころを生かすために、別の命を欲する煤竹法師すすたけほうしの気持ちは、まったく理解できなかったが、法師にとって御息所みやすどころは、己が犯した罪への贖罪の象徴であり、そのために本末転倒して、もっと罪を犯していることに気づく理性は既になかった。


「さてさて、あの法師がどうにかなった時のことを考えて、尚侍ないしのかみには是非とも我が家にきていただかねば……」


 法師が帰ったあと、刈安守かりやすのかみは例の『元祖・解体新書』とでもいうべきラテン語の本をパラパラとめくりながら、小さな頭蓋骨を相手にそんなことを呟いていた。


 不安定な“試作品”の御息所みやすどころとは違い、つるばみの君は、彼の目から見ても至極安定していたが、あの男の“よみがえりの呪法”と同等以上の医療の技を、彼は本能のように欲してやまなかった。


 ふと妹君の顔が見たくなり、曹司を出て妹君の寝ている対屋に足を運ぶ。青白い顔だが健やかな寝息を聞いて、彼は少しだけほほえんで、妹君の額にそっと触れると、うっすらと目が開く。


「まあ……どうかなさいましたか?」

「少し心配になって、お顔を見にきました。起こしてしまってすまないね」

「そんなこと……本当に最近、どうしたのかと思うくらい元気ですの」


 つるばみの君は、夜中に顔を出した兄君の言葉に、首を振ってほほえみ、ほんの少しだけ目を細めた刈安守かりやすのかみは、頭の中でひとつの仮説を立てた。


 法師の“よみがえりの呪法”の力は有限で、ひょっとして御息所みやすどころから漏れ出したソレが、妹君に入り込んでいるのではないであろうか?


 彼は妹君を布団の中に入れ、薄くて軽い夜具(絹で作ったタオルケットのような物)をかけてから再び自分の曹司に戻り、ことの成りゆきを少し楽しみに思いながら、自分も眠りにつくことにした。


 実のところ最近は、例の本の挿絵が気になって仕方がなくて、適当に募集した下働きを何人か“開いて”見ると、驚くことに尊き身分である貴族と、下々の民の体の『中の造り』は等しく挿絵と同じであったので、「そこいらの行き倒れの骨でも大丈夫だ」そう教えてやってもよかったのだが、つるばみの君が元気になれば、それに越したことはないので黙っていたのである。


 そうして彼は自分も布団に横たわり、あまりの警備の厳しさに手も足も出ない尚侍ないしのかみのことを想いながら、夢の世界へと旅立った。


 夢の中で彼はひとりで立っている尚侍ないしのかみを見つけ、そろそろと近づいて短刀で仕留めようとしたのだが、尚侍ないしのかみは素早く自分の短刀の攻撃を避けたかと思うと、なぜか太刀を抜いて、自分に切りかかってきた。


「!!!!」


 頭から真っ二つにされた刈安守かりやすのかみは、驚きのあまり飛び起きて目を覚ますと、おかしな夢を見たなと思い、あの姫君はどこか変わっていらっしゃると、昼間見た尚侍ないしのかみの目の輝きを思い出し、なんとか彼女が手に入らぬかと知恵を絞りながら、日々を過ごしていた。


 法師の願いを断った彼は、そんな風に平穏な日々を送り、桐壺御息所きりつぼのみやすどころは数々の祈祷や、帝、御息所みやすどころの母君、そして彼女を現世につなぎとめていた煤竹法師すすたけほうしの強い願いや呪法もむなしく、ついに後宮を退出し、実家にたどりついてから数日後、この世からまぼろしの姿すらも消したのである。

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