第二章

第161話 別れの時 1

 夏を迎えた頃、急な話ではあるが、桐壺更衣きりつぼのこういと光る君は、清涼殿に一番近い後涼殿こうろうでんに移られた。


 と言うのも、元々、桐壺更衣きりつぼのこういは体の弱い方であったが、最近また特に体調を崩されて、帝が心配のあまり、お顔をすぐに見られるようにと、いきなり言い出したのである。後涼殿こうろうでんに元からいた女御にょうごは、帝の命により驚く暇もなく桐壷に移された。


 あまりにも急だった上に、後涼殿こうろうでんの多くの設え(几帳などの大型の家具)は、桐壺更衣所きりつぼのこういのために置いてゆくようにと言われ、後涼殿女御こうろうでんのにょうごが持ち出せた、ご自分の実家が用意した品は、櫛箱などの身の回りの品や衣装くらいであった。


 女御にょうごは移った桐壷きりつぼで呆然と座っていたが、突然の騒ぎを聞いた弘徽殿女御こきでんのにょうご尚侍ないしのかみは、女御にょうごとして入内した姫君がそのような目にあうなど、大貴族である実家だけではなく、貴族派と朝廷の間にヒビが入ってしまうと、慌てて后妃の身の回りの品や設えを、ご自分たちの殿舎から取りあえずご用意して、後涼殿女御こうろうでんのにょうごに急遽届けさせて見舞いにゆくと、まだ実感がわかずに、ぼんやりとなさっている後涼殿女御こうろうでんのにょうごを慰めていた。


 後涼殿女御こうろうでんのにょうごの実家である、太政官の重い立場にある公卿の父君は、腹立たしさを隠せなかったが、葵の君から知らせを受けた関白が、彼を自分のやかたに呼び、いまは大事な時であるから、曲げて堪えて欲しいとおっしゃったので、なにか深いお考えがあってのことであろうと、なんとか矛先を収めていた。


 そんなことには気づかない、桐壺更衣きりつぼのこういのことで頭が一杯の帝は、少しでも更衣こういの気が晴れればと、皇子をお生みになったのだから遅すぎたくらいだと、周囲に根回しもせず、今度は更衣こういの地位を、皇子の母宮にふさわしい御息所みやすどころの地位に正式に改めると宣旨せんじを下す。


(いくら帝を頂点とする律令国家とはいえ、先に後宮に入内させている后妃たちの実家や女御たちの了承を取るのは、後宮設立以来の暗黙の取り決めであった。)


 当然のことながら、内裏での桐壺御息所きりつぼのみやすどころの立場は、ますます悪くなり、それを気に病んで御息所みやすどころの心は一層に暗く重くなった。


 それからも一向に、桐壺御息所きりつぼのみやすどころの体調は回復せず「里に帰りたい」そう言う御息所みやすどころの願いを「加持祈祷をさせている。もう少しこのままゆっくりなされば、お元気になられますよ」帝はそう言うばかりで聞き入れず、尚侍ないしのかみに揺らぎがあった心もすっかり忘れ、毎日のように官僧を呼び加持祈祷をさせて、かたくなに御息所みやすどころを手放さず、つきっきりで後涼殿こうろうでんで寄り添っていた。


 いきおい帝は以前にも増して、まつりごとはおろか、帝がつかさどるべき儀式すら投げ出してしまっていたが、さすがに尚侍ないしのかみ後涼殿こうろうでんの前までやってきて、じっとお待ちになっていると聞いては、きまりが悪く思い、最低限の対応をされるので、内裏では「尚侍ないしのかみが出仕なさっていなければ、どうなっていたことか」「せっかく尚侍ないしのかみが参内されて、帝がお気持ちを政務に向けていらっしゃるようになったのに、帝を手放さぬための今楊貴妃の仮病ではないのか?」健康を取り戻したとはいえ、よる年波には勝てず、暑さに参った関白の参内が減る中、そんな話で宮中は持ち切りであった。


 そんなある日、真夏の太陽が天高く登る時間、葵の君は涼し気に見える(だけ)の夏用のシースルーな、それでも十枚以上もかさねられた十二単じゅうにひとえを着て、うっすら汗を額に浮かべ、白く小さな手には筆を持ち、目の前に飾られている『小さな溶けてゆく四角い氷』を睨みながら、後宮の夏の歌会行事に参加していた。


 今日は涼を求める夏の歌会の日で、氷室ひむろに貯蔵させていた大きな氷が内裏に運ばれ、それが溶けてゆくのを眺めながら、みなで歌を詠んでいるのだ。(帝と桐壺御息所きりつぼのみやすどころは欠席ながら、後宮の公式行事であったので、葵の君も参加していた。)


『暑い! ひたすら暑い! なんの罰ゲームなんだろうか? だらだら氷が溶けてゆくのを見て涼しいの?! あれ、かじっちゃだめなの?! スポブラさえあれば、もう少し薄着ができるのに!』


 なぜこの暑いのに、一枚一枚が薄手とはいえ、葵の君が誰よりも重ね着をしているのかというと、“パンツもブラもない!”そう言う訳であった。いくら外見が十歳とはいえ、気恥ずかしさが先に立ったのだ。


『スケスケなの! 二、三枚重ねたくらいじゃ、どうにもならないくらいスケスケなの!』


 そんな訳で、前世では道着にゼッケンを縫いつけるくらいしかしたことがなかったし、今現在も、『お姫様ofお姫様』そんな立場であったので、裁縫などからっきしであるにも関わらず、葵の君は、ただでさえ短い睡眠時間を削って、深夜にこっそりと紫苑に用意してもらった自分の肌の色に近い、少し厚手の生地を相手に格闘する日々である。(さすがにブラを作ってとは、言いにくかったのであった。)


 美しい装いの后妃たちが暑さに負けて、御簾の中でパタパタと倒れてゆく中、それと分からぬように光る君のファンの宮中の女房の嫌がらせで、できるだけ風が通らぬ暑い席に座らされていた葵の君は、それでも持ち前の体力と気力で、なんとかその場を乗り切ると、登華殿とうかでんに戻り、一旦、着替えをしてスッキリしてから、再び書簡を持った女官を従えて後涼殿こうろうでんに向かおうとするが、どういう訳か、清涼殿と後涼殿をつないでいる打橋うちはし(取り外しできる橋)が外されていて通れない。(馬などが通ることができるように、この打橋うちはしという設備はあちこちに設置されている。)


「どうしましたか?」


 光る君ファンの宮中の女房や女官たちに、地味な嫌がらせを受けてはいるが、まさか昼間っから、ここまでの嫌がらせはないだろうと思って、葵の君が女官に聞いていると、そこに真面目な表情の兄君が目の前に現れた。


「今日は帰りなさい。桐壺御息所きりつぼのみやすどころが、里に下がられる準備をしている」

「え……?」


 帝が引き留めている間に、桐壺御息所きりつぼのみやすどころは、日に日に容体が悪化し、息もたえだえとなっていたのである。


 ここ数日、つき添っていた刈安守かりやすのかみも、一応は人並みに悲壮感を顔に浮かべ「もはや人知の及ぶところではございませぬ」そう帝に申し上げて御前を下がり、尚侍ないしのかみを視界の隅でチラリと見てから内裏を去って行った。


 死相の浮かぶ桐壺御息所きりつぼのみやすどころの手を握りながら、内裏で人が身罷るなどということは、あってはならぬゆえ、里に退出させるのもやむなしと帝は思い、せめてもと、牛車よりも楽な道行になろうと、御息所みやすどころには許されない、女御以上の后妃にしか許されぬ、人で車を運ぶ『手車てぐるま宣旨せんじ』を特別に出した。


 そうしてようやく御息所みやすどころは、手車てぐるまに乗って、光る君を置いて里に下がってゆく。


 その手車てぐるまを通すために打橋うちはしは外されて、蔵人所くろうどどころに所属する兄君は、それを手配していたのだ。


 一瞬見えた御息所みやすどころは、身じろぎすることもなく、帝は「なんとか持ち直しておくれ、死出の旅路もご一緒にと約束をしたのに」そう涙ながらに、光る君の手を引いたまま手車てぐるまを、ずっと見送っていた。

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