第160話 幕の間 4

 一方、こちらもすっかり大猿の事件を忘れた、第一皇子こと朱雀の君は、尚侍ないしのかみが初出仕したその日、目が覚めると少し騒動を起こしていた。


 夢の中で皇子は、突然、現れた大猿に囚われた尚侍ないしのかみを刀を片手に助け出し、涙を流している姫君を抱きしめてなぐさめ、姫君はうっとりと自分を見上げていたのである。


 皇子は布団の中で、しばらくボンヤリと幸せな余韻に浸っていた。


「いかがなさいましたか?」

「……いや、なんでもない」


 彼は不思議そうな顔の女房に、そう返事をしてから、母君の殿舎にうかがう予定だったのを思い出し、支度をすませて、昼過ぎに弘徽殿こきでんに行くと右大臣がいて、彼が腰に下げている飾り太刀に目をとめる。


「……わたしもそのような太刀が欲しい」

「は?」

「わたしも剣術を習いたい」

「え?」


 右大臣と弘徽殿女御こきでんのにょうごは顔を見合わせた。


「そのような危なきことを、次期東宮が覚えてなんとします?!」


 もちろん弘徽殿女御こきでんのにょうごは反対をした。


「これは飾り太刀、官位の象徴で、中身はただの木剣でございます。さむらいのような身分の低き者が覚えるようなことを……」


 右大臣もそう言い反対した。


「その身分の低いさむらいですらできることを、わたしができないと、そうおっしゃるのですか?」


 朱雀の君はそう言って、なにを言っても取り合わなかった。


 困り切ったふたりは、ひょっとして、皇子が心ここにあらず、うたげでそんな様子を見せていた尚侍ないしのかみが言えば、説得に応じて諦めてくれるかもと思い、後日、弘徽殿女御こきでんのにょうごは皇子を連れて休日の尚侍ないしのかみをたずねることにした。


 表向きは弘徽殿女御こきでんのにょうごが、実の妹君でいらっしゃる朧月夜おぼろづきよの君をたずねるという口実だ。


 その日、つき添っていた皇子を見ながら、女御にょうごが困り顔で、「最近右大臣の飾り太刀を見て、皇子が太刀が欲しいと言ってみたり、剣術を学びたいなどと、言い出して……」そんな風に尚侍ないしのかみに話を振る。


 当然、驚いてお止めになってくれると思っていた尚侍ないしのかみは、朱雀の君に至極真面目な顔で、「いきなり真剣は危のうございますから、まずは木刀をご用意なさった方がよろしいと思います」そんな浮世離れしたことを言う。


「木刀ですか?」

「ええ、中務卿なかつかさきょうに、確かそう聞いた記憶がございます。でも本物を見たければ、実はわたくし、持っておりますの!」


 そう言ってから、尚侍ないしのかみは女房に、自分の枕刀まくらがたなである御神刀ごしんとうを持ってこさせると、ほんの少しだけ鞘から美しい刀身を引き出して皇子に見せる。アテが外れた弘徽殿女御こきでんのにょうごは、大宮に精一杯の目配せをした。


 しかし母君である大宮は、われ関せずといったご様子で、女御にょうごに新しい夏の菓子を勧める。宝珠を首にかけてからというもの、母君は絶好調であった。


「実は夏に向けた新しい菓子を作らせておりますの」

「……美しゅうございますね」


 透明な葛の中に、魚に見立てた餡と小豆の粒で川の景色を表現した、新しく左大臣家の台盤所で作られた水菓子という物に、最近の大宮は夢中で、女御にょうごに早く見せたくて仕方なかったのである。(大宮は御神刀ごしんとうの存在に、もうすっかり慣れきっていた。)


「素敵な菓子でございましょう?」

「はあ……」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、適当に相槌を打ちながら、チラチラと朱雀の君を見やると、案の定、皇子は太刀に目を輝かせていらっしゃった。


「これは、わたしが夢に見た……」

「どうかなさいましたか?」

「いえ! なんでもありません!」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは檜扇を顔にかざして、がっかりした自分の顔を隠した。

 いくら才に溢れていらしても、そこは歴代の帝が誉めそやし、甘やかし、今現在の帝である桐壷帝ですら“わたくしの女三宮”そんな風に扱われる三条の大宮が育てた姫君の尚侍ないしのかみも、やはり浮世離れしていたのだ。


 尚侍ないしのかみは、世間と同じような感覚をお持ちではない。

 大宮は幸いにも、ご自身を拝むように、一心に大切にされる左大臣に無事ご降嫁されて、いまのように幸せにお暮しだが、もしこれがごくごく普通の大貴族、自分の父君である右大臣のように、女遊びの酷い貴族に、ご降嫁していれば、どれほど苦労をしたことか……。


 女御にょうごは、ご自分の産んだ内親王方へのご教育には気をつけねばと、心密こころひそかに思った。


「きっと皇子は、八岐大蛇やまたのおろちを退治した須佐之男命すさのおのみことのようにおなりですわね……」

「そんな……」


 尚侍ないしのかみは小さな両手を合わせて、真っ赤な顔の皇子にほほえみかけていらっしゃった。あどけない顔で笑っている朧月夜おぼろづきよの君を膝に乗せたまま、朱雀の君は、改めて剣術を習う決意を尚侍ないしのかみに誓っていた。


「…………」


 一方、三種の神器のひとつ、天叢雲剣あめのむらくものつるぎの話を持ち出された弘徽殿女御こきでんのにょうごは、それ以上、なにも言えなかった。


 そんな訳で、弘徽殿女御こきでんのにょうごと右大臣は、心を痛めながらも、なにひとつ、ご自分から欲しがることのなかった皇子の願いであるからと、帝に願い出て許しを得ると、ひとまずは蔵人所くろうどどころの別当が指南に当たることになった。


 その時、別当が驚き過ぎて、肩に乗っていた鷹狩り用の調教中の鷹が逃げるというドタバタ騒ぎがあり、飛んできた蔵人所くろうどどころの鷹に、“ふーちゃん”が食べられると、なにも知らない紫苑は鳥籠を手に、書き物をしていた葵の君の部屋に逃げ込んでいた。


 葵の君は蔵人所くろうどどころの別当の、女性ばかりの某歌劇団の男役のような麗しい顔を思い出す。


 第一皇子が剣術を学びたいって、いきなりどうしたんだろうね? まあ、皇子が武芸に励んでくれるのは大いに結構だから応援しておいたけど。蔵人所くろうどどころの別当に武芸の心得なんてあったんだ!!


 大猿事件でまったく役に立たなかった(葵の君の目線)蔵人所くろうどどころの別当の顔を思い出していた葵の君に紫苑が「そう言えば蔵人所くろうどどころの別当は、姫君の兄君の“元カレ”らしいですよ!」そう言ったので、思わず手にしていた筆を床に落としてしまった。


『えええぇ?! いや、ああ、でもそういえば、別になんの偏見も問題もない時代だけど、どっちでもいい人なのかな? 違うのかな?』


 そう思いながら口を開く。


将仁まさひと様から別当は、ご結婚相手を探していらっしゃると聞いて、わたくしもお手伝いしようかと……」

「結婚相手を探しているのは真実を知らない姉宮だそうです! 別当はいまでも蔵人少将くろうどのしょうしょうに一筋らしいですよ!」

「そう……」


 葵の君は、別当に紹介する姫君を探すという頼まれごとは、保留した方がいいのよね? そう思って、お相手探しを中止することにした。


 そして例のウ●チ騒動は、意外な結末を迎えていた。


「猫……?」


 実は、弘徽殿女御こきでんのにょうごのところの内親王方が飼っていた猫が逃げ出して、いつの間にか登華殿とうかでんの床下で暮らしていたのだ。


 叱られると思った内親王方は、女房に口止めをしていたが、最近の騒ぎを聞いて、しばらく猫の姿を見ないと思った弘徽殿女御こきでんのにょうごに問い詰められ、実は猫が逃げたと打ち明けたらしい。


 後日、女御にょうごに連れられて、小さな内親王方が謝りにこられたところ、目ざとく朧月夜おぼろづきよの君が、内親王方を見つけて、一緒にひいな遊びをしようと誘う。


 朧月夜おぼろづきよの君は、それは見事な人形と小さな御殿を持っていた。誘われた内親王方は、ソワソワとしたが、弘徽殿女御こきでんのにょうごにピシリと叱られる。


「きちんとお詫びしてからになさい!!」

「ごめんなさい」

「……ごめんなさい」


 女御にょうごは先日の大宮と尚侍ないしのかみを見て、いつか降嫁する自分の姫君には、普通の常識を教え、厳しくあらねばと決意していたのである。しょんぼりした表情で謝る内親王方に、葵の君は優しくほほえんだ。


「よいのですよ、猫は早く見つけて欲しくて、わざと粗相をしていたのかも知れませぬ。かわいそうですから、あまり叱らず、いままで通り可愛がってやって下さい」

尚侍ないしのかみがそうおっしゃるなら、今回は大目にみましょう」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、そう言いながらため息をつく。内親王方は母宮の顔色をうかがっていたが、美しい尚侍ないしのかみが優しくそう言ってから、「幼い朧月夜おぼろづきよの君は、遊び相手がいないので、時々、遊んでやっていただけないか?」そうおっしゃったので、素早く朧月夜おぼろづきよの君の手を引いて、一緒にひいなの御殿で遊び出していた。


「そう言えば、先程、中務卿なかつかさきょう弘徽殿こきでんの前を通られましたけれど?」そう言いながら、女御にょうごは、てっきりここにいると思った彼がいないので、あたりを見回した。


「理由は知りませぬが、桐壺更衣きりつぼのこういが、なにか相談事があるとかで、淑景舎しげいしゃに……」

「まあ、摂関家の婿である中務卿なかつかさきょうを、たかが更衣が呼びつけるなど……」

「えっと、こちらに寄ると申しておりましたので! あ、そうですわ、せっかくおいでになったのですから、是非、お茶をお飲みになりませんか? 新しい品が届いておりますの!」

「それは楽しみですわね……」


『藪を突っついてしまった……』


 葵の君は母君を女房に呼んできてもらい、それとなくふたりの共通の趣味であるファッション(染色)の話を振ると、ふたりは周囲が見えぬほどに熱中しだし、葵の君は、ほっと胸を撫ぜおろした。


 それ以降、猫は首輪と長い紐をつけられて、御簾の中から出ぬように工夫された。


 やがて季節は春から夏になる。

 御所や貴族のやかたは、夏の涼しさに全力をかけた建築構造とはいえ、そこは内陸性盆地気候、『京の油照り』とすら言わしめる夏の京、日中は葵の君の予想をはるかに超えた、とんでもない暑さであり、その上、回避されていたはずの苦い未来が、夏の暑さと共にこの世界に転がってきた。

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