第159話 幕の間 3
朝議の場についた葵の君は、“ウ●チの話”はさて置いて、今現在の一番の困りごとを父君に話していた。
「
『自主練ができなくて困ってるの!(本音)』
姫君に頼まれていたので、朝議がはじまる前に、几帳の中にやってきた左大臣に向かって、葵の君は困り顔でそう言う。
そんなことで姫君が悩むなんて、かわいそうだと思った父君だったが、そんな困り顔すら可愛らしく思う。
「安心なさい大丈夫ですよ。そうですね、風呂殿の隣に家と同じ
左大臣はそう言ってから几帳から出る。ほっとしている姫君の笑顔は、初めて出会った時の大宮と同じように、いと愛らしく尊かった。
機嫌よく自分の席に戻った左大臣に、隣に設けられた自分の席に座っていた右大臣が「どうかなさいましたか?」と興味津々で聞いてくる。
「いやなに些細な話でございます。姫君が経を唱える声が、外に聞こえるのが恥ずかしいと申しますので、実家と同じような専用の
「なんと
「まだまだ幼く、人の多い後宮では、なにかと落ちつかぬようで、恥ずかしい限りでございます。特段皆様の邪魔にはならぬと思いますが、建築中はご迷惑をおかけすると思いますので、どうぞ
「なるほど、さすが“薬師如来の具現”とうたわれる
案の定、葵の君の髪飾りがうわさにのぼって以来、
左右の大臣のやり取りを聞いた殿上人たちも、横柄な上に、なにかあれば寄進という名の金をたかりにくる官僧よりも、
昨今の市井のうわさも同様である。今年の天候は順調で大いに豊作の見通しながら、国の直轄する荘園と摂関家をはじめ、貴族が所有する私的な荘園では、まだ
「寺院の荘園の小作人は気の毒な話だな」
「まったく酷い話だ!」
「聞いたか? なんと畏れ多くも宮中の女房の元に、不届きな官僧が忍び込んで、捕まっているそうな」
「なんと不道徳な!」
「
「あんな
「なんでも左大臣家の姫君が触れれば、
「そんなバカな!」
「いやいや、
「女遊びに薬食い、殺生をするな、身を慎めと、偉そうに説教しながら、自分たちは豪華なナリで贅沢三昧の官僧とは酷いもんだ」
全国で商いをして回る行商人たちが行き交う京の市場では、そんなうわさで持ちきりであった。(※薬食いとは、病人には薬になるという口実で、肉を食べることを言う。)
大路を時折通る官僧の豪華な牛車行列には、町中の冷たい視線が向けられていたが、そもそも下々の世俗のことになど関心のない彼らは、なんの空気も読めていなかった。
そんなある日、市場で町の人々や彼らが仕入れや買い物をしていると、いつの間にか新しい店が開店していた。取り扱っているのは、“そうめん”のようで、もう少し太くて灰色の乾麺。
「これは?」
「これは例の宮中で姫君が食されている“
温厚そうで年老いた
「あの
「そう言わず、一度お試しになってくださいませ。今日は開店祝いで試食を配っております」
店主の女房らしき女が、一口分の湯がいた蕎麦と、つけ汁が入った皿を盆に乗せて、開店祝いといいながら、道行く人々に娘たちと一緒に振舞い出す。初めはみな、恐る々々、口にしていたが、意外にもおいしかった。
「これはうまい!」
「そうでございましょう? これは、左大臣家の台盤所の“
「ええ?!」
聞けば
物々交換が主流の時代、ひそかに葵の上の援助もあって、蕎麦は貧しい民衆にも、なんとか手に入る、口にできる範囲内であったし、持ち帰っても湯がくだけで食せる上に、横にちょっとした食事処もあったので、その日から店に客が絶えることはなかった。
店の奥には“蕎麦の実から作る
店で食事をしていた商人が気になって、
「
「なにと交換すればよい?!」
「お気持ち次第と思っておりますが、なにぶん手放す時には、くれぐれも
「少しの間、その本を取り置いてくれ! すぐに帰ってくる!!」
そう言って
「これと交換していただけないでしょうか?」
それからすぐにやってきて、本の購入を申し出たのは、京でも指折りの豪商であり、手広く様々な商いもしている薬問屋の
本は価値が高いとはいえ、それはとてつもない好条件であった。
「これは本に払う対価ではございません。すべては
こんな沢山の袋に入った
その日市場では、薬問屋の
本を手に店に帰った
やり手の
(写本といえども一冊ずつ手で写すので、この時代では高価であった。)
手代は主人の手腕に感心しながらふと口にする。
「そう言えば最近東市の外れに、なにやら面白い出来事が載ってある『瓦版』とやら作っている印刷屋という店ができておりますよ」
「ああ、瓦版は知っているよ。最近、人気だからねえ。しかし印刷屋とは一体なんだねそれは?」
「聞くところによると、大量に同じ書状や本を作ってくれる店だそうで、元の本を持ち込めば木版とやらで、写本の十倍は早くて、なにかと融通のきく交換品で、仕上げてくれるそうでございます」
手代はそう言いながら、いわゆる“木版印刷屋”の広告を主人に見せる。ソレによると仕上がりは美しいし、数を頼めば頼むほど、写本を頼むより安くあがりそうだ。
「千部……」
「え?」
「千部、印刷とやらを頼んで、本にしてもらうよう頼んできておくれ……そうだ、うしろの姫君の経文の部分は、うちの店の屋号を差し替えて!」
それから間を置かず、主人は自分の店の薬を行商している店子たちに、各地の受領や商家に薬と一緒に、でき上がった木版印刷の本を、一定量の薬を仕入れた先に、安価で売って回るように伝えたので、あっという間に蕎麦を食べる習慣は全国に広がり、薬問屋の主人は、かなりの金を手渡すというリスクは負ったが、名声と最終的な利益に加え、新しく身分の高い顧客を多く手にした。
本には興味を引くように、印刷屋が宣伝を兼ねて、週に一度くらい配っている、例の不届きな僧侶の事件に代表される、京の時事や生活の知恵が載った瓦版を挟んだ。地方にすれば憧れの京の情報である。
なお、“プレミア本”は、名のある貴族たちの使いが、次々と
そんなこんなで、その年の収穫が上がるまでの食料に、大いに頭を痛めていた地方の受領たちは、先を争うように、薬に添えられる写本を求め、文字が読めぬ
そのような努力のかいもあって、
なお、まったく関係はなかったが、珍しく山から降りて各地を回っていた遁世僧(修行僧)たちも再び山へ帰る前に、寄付された写本を手に、山に帰って行った。
官僧とは違い、一年のほとんどを山での修行に明け暮れ、完全な精進潔斎をしている彼らにも、
*
〈関白のやかた〉
「毒は回ってきているようだのう……」
「地方を回る狂言や芝居などの興行にも密かに支援して、公演前に講談師に京の出来事として、官僧やそれを取り巻く官僧世界の不始末や、さまざまな事件を、面白おかしく大いに語らせております」
関白は配下の集めた民の声や手はずを聞いて、満足げに黒い扇子をプラプラさせていた。
現実主義者の彼と
印刷屋に及ばず、興行やうわさ話をばらまいて回っているのは、関白の名前が出ぬように、常に彼が利用してきた、子飼いの部下たちが動いている。
彼は、自分が特別な存在だと自覚しているが、国を動かすためには、人口のほとんどを占める民草の心を掌握せねばならぬのも理解していた。
そのために摂関家は『尊き帝』を奉り、国の柱として、象徴として崇めているのである。
体調が悪いと時々出仕を休んでいた関白は、そんな日は、ほとんど一日中、いまで言うところの官僧に対する“どす黒いプロパガンダ”工作をしていた。
そんな訳で、葵の君が料理本を出そうと考えて、多色刷り印刷本のために、木版印刷の技術者を集めていたにも関わらず、彼らは料理本より先に、瓦版をせっせと印刷していたのだった。
「料理本まだできないのかしら?」
挿絵を描いた大宮は、ふと思い出していたが、忙しさに紛れて忘れた。
*
〈再び後宮〉
「
「なっ、なんですかそれは?」
真剣な表情で変なことを言い出した紫苑に、葵の君は驚いていた。
「最近、
「………」
“
『
葵の君は遠い転生先で、謎ネーミングの犯人を見つけ、平たい目で紫苑を見てから、“
*
※講談師の登場は史実では、本来もっと後ですが、お話の中では、既に存在するということにしております。
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