第158話 幕の間 2
その頃、
昨夜の出来事をすっかり忘れている別当は、明るい朝の光の中で、はじめてはっきりと見た
明るい朝の光に浮かび上がった美しい
「お待たせいたしました」
透き通るような声でそう言うと、
その声に別当は我に返ると、これはまずいと慌てて官吏たちに几帳を用意させて、
内裏と議場の間には、帝と同腹の内親王であった母宮を持つ摂関家の姫君が、地面を歩くことなどないようにと、あらかじめ
「
朝議が開かれる議場につめかけていた公卿たちは、その声に視線を
「本日はここまで!!」
その声を受けて大量の書簡を預かった葵の君は、
数刻かけてすべての書簡を精査した。すべて急いではいるのだが、それでも緊急を要するものと、そうでない物に仕分け、緊急の書簡を携えた女官たちを引き連れて清涼殿に向かった。今日の政務はおこなわぬとの
『あかん! これ小学校の夏休みの宿題と一緒で、ガンガン進めていかないと、取り返しがつかなくなっちゃうし、しかも国全体の命運とか、沢山の人の生活がかかってる!』
「
「……少し待つように伝えておくれ、
「はあ……」
いままで藤の
帝はチラリと見えた
「そなたにもみ消しを頼んだ、例の見当違いのわたくしと
「不徳のいたすところでございます……」
しかしながら帝のその考えは、
なぜなら最愛の
なにせ
そんな訳で、帝が
「姫君は怖がっていらっしゃいますし、なにやら帝と姫君のおかしなうわさを耳にしましたの。わたくしは
「いや、いやいやいや、そのうわさは、なんの根拠のないものです!」
帝はそう口走ってから“わたくしの女三宮”の冷たい視線に頭をフル回転させて「昼間、保留にした案件を素早く処理した方がよいと思いついたが、重要な案件ゆえ、
「…………」
「……母君どうかなさいましたか?」
葵の君は、わざとあどけない表情で、帝を冷たく見つめる母君を見上げていた。
大宮にとって帝は敬うべき存在で、実の兄君でもあるが、大切な自分の姫君とは比べものにはならなかったので、彼女は内親王であった時と同じように、左大臣に接する時と同じように、ご機嫌の悪さが溢れ出した、そんな形だけの冷たい笑みを浮かべていた。
「いいえ、なんにもありませんよ、裳着を済ませたとはいえ、貴女はまだ“
「そ、そうですね、
“わたくしの女三宮”のご機嫌の悪さを感じ取った帝は、そう言うしかなかった。
「では、帰ります……」
大宮はそう言い、葵の君をそっと抱き寄せて、帝の前を下がる。
『母君カッコイイ! それから、あんまり調子に乗ってセクハラすると、次は落ち癖(気絶癖)がつくまで、一晩中、三角締めするからね!』
心配して柱の陰から一部始終をのぞいていた
「母宮を同行させるようにと知恵をつけたのは
「…………」
後日、葵の君の美しさと、能力に舌を巻いた、
それからしばらくして、大量に自分宛に届く恋文を無視して、紫苑に算盤を教えていた葵の君が、帝と自分に降りかかった怨霊騒動が片づいてよかったと肩の荷を下ろして、休憩時間に二人でプリンを食べながら、御簾越しに後宮の庭であそぶ蝶をながめながら、他愛もない話をしていると、渡殿を
御簾の向こうで檜扇越しに会釈をする彼女は、相変わらず葵の君には幻にしか見えず、後宮にも例の『沈香と乳香』の薫りが漂っていたが、騒動が落ちついたいま、まあよくあるといえば、よくある薫りだから、ただの偶然かと片づけていた。なぜなら彼女は『外見的には恐るべき子供であるが、内面的には、余りにも社会経験が少なすぎる子供っぽい大人であった』から。
『アイツ絶対、変なこと考えてるな!』
そういえば、簡単に自分になびかなかった誰かを「ブスだけどつれないから、気になってしかたない」とか言ってたような記憶が……。めんどくさい性格は、もうどうしようもないの?! 葵の君は、光る君には見えないはずなのに、顔をしかめていた。
はたして葵の君の想像は大当たりで、光る君は、大猿の事件のことはすっかり忘れていたが、
『毎朝、殿舎の前の通路に犬のウ●チ(多分)が落ちてる……』
元の話で桐壺更衣が受けたとされた嫌がらせが、なんとこの世界では葵の君が受けていたのである。女房たちが下働きに慌ただしく指示している中、葵の君に穢れた物を見せてはいけませんと、彼女は部屋の奥に追いやられていた。
『メンタルは全然、大丈夫だけど不衛生だなぁ……時代的に消毒液も石鹸もないのに』
そう思った葵の君は、「そう言えば石鹸って作れるかも?」そんなことをひらめいていたが、詳しくは思い出せず、残念だとため息をついた。(例の時を超えたナチュラリスト、
「最後に熱湯かけておいて」
「はい!」
一応、熱湯消毒の指示を出し、葵の君は兄君に使いを出して、急遽、臨時の打橋(取り外し可能な橋)をかけてもらうと、なにごともなかったように朝議に向かった。
『こういう時には、色々と稼働式の体育館仕様は便利だよね』
熱湯消毒して濡れた渡殿を避けて、コの字にかけられた打橋を歩いて、朝議に向かいながら葵の君は思った。
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