第158話 幕の間 2

 その頃、蔵人所くろうどどころの別当は、関白が体調不良で数日休むとの連絡を受け、その上、今日も今日とて帝の謁見の取り消しを伝えにゆくと言う厄介な役割に、清涼殿の片隅で眉をひそめていたが、そこに尚侍ないしのかみの先導の女官たちが現れたので、今日はまだマシなはずだと気を取りなおす。


 昨夜の出来事をすっかり忘れている別当は、明るい朝の光の中で、はじめてはっきりと見た尚侍ないしのかみの大人びた美しさに息をのむ。うしろには女官たちと女房たちの列。


 明るい朝の光に浮かび上がった美しいかんばせ、それはただひたすらに尊く美しく、光る君すら霞んでしまい、その存在に彼は畏れすら抱く。とても十歳とは思えぬ大人びた姫君であった。


「お待たせいたしました」


 透き通るような声でそう言うと、尚侍ないしのかみとなられた葵の君は、優雅を極めた御振舞で、蔵人所くろうどどころの別当の前にたたずむ。


 その声に別当は我に返ると、これはまずいと慌てて官吏たちに几帳を用意させて、尚侍ないしのかみを周囲の視線から極力守れるように取り計らった。特別扱いをしたのではなく、この顔を見れば朝議に出席する公卿たちが、ふ抜けて仕事にならぬと冷静に判断したのだ。


 内裏と議場の間には、帝と同腹の内親王であった母宮を持つ摂関家の姫君が、地面を歩くことなどないようにと、あらかじめ打橋うちはし(取り外し可能な橋)が、彼女のためにかけられている。


尚侍ないしのかみのご出仕にございます!!」


 朝議が開かれる議場につめかけていた公卿たちは、その声に視線を尚侍ないしのかみがいらっしゃる几帳に集中させたが、中務卿なかつかさきょうの咳払いに我に返ると、直視せぬよう視線を下げながら、関白がいらっしゃる時と同じように、几帳の前に行列を作り出した。


「本日はここまで!!」


 その声を受けて大量の書簡を預かった葵の君は、皇后宮職こうごうぐうしきの自分の曹司に戻り、内心では大いに冷や汗をかきながら目を通す。


 数刻かけてすべての書簡を精査した。すべて急いではいるのだが、それでも緊急を要するものと、そうでない物に仕分け、緊急の書簡を携えた女官たちを引き連れて清涼殿に向かった。今日の政務はおこなわぬとのおおせであったが、それでも一応は、声をかけてみようと思ったから。


『あかん! これ小学校の夏休みの宿題と一緒で、ガンガン進めていかないと、取り返しがつかなくなっちゃうし、しかも国全体の命運とか、沢山の人の生活がかかってる!』


尚侍ないしのかみがいらっしゃいました」

「……少し待つように伝えておくれ、尚侍ないしのかみは初出仕、初日から困らせるのは気の毒だからね」

「はあ……」


 いままで藤のうたげでの桐壺更衣きりつぼのこういの装いを、彼女の前に反物を並べさせて思案していた帝が、反物を片づけるように女房たちに言いつけながら、そんな返事をしたので、蔵人所くろうどどころの別当は驚いていた。


 桐壺更衣きりつぼのこういの手前、書簡を置いて帰るようにと、自分に伝えるようにいうと思っていたのだ。更衣こういは帝の目配せを受け、内心では、ほっとしながら静かにその場を下がって行った。


 帝はチラリと見えた尚侍ないしのかみの姿に、“わたくしの女三宮”を重ね、尚侍ないしのかみを困らせるのに罪悪感を抱いたし、やましいときめきをまだホンノリと胸に抱きながら、考えてみれば尚侍ないしのかみに昼間に会う分には、なんの支障もないのだと、ひらめいていた。そう思いついてから別当に嫌味を言う。


「そなたにもみ消しを頼んだ、例の見当違いのわたくしと尚侍ないしのかみのよからぬうわさは、わたくしの耳にまで入っておる。そなたはまったく頼りにならぬな。大切な姪である尚侍ないしのかみの内裏でのご評判は、わたくしがよくせねばならぬようだ」

「不徳のいたすところでございます……」


 しかしながら帝のその考えは、自縄自縛じじょうじばくに落ちいるキッカケであった。


 なぜなら最愛の桐壺更衣きりつぼのこういや光る君との楽しい時間を削らねば、尚侍ないしのかみのお顔を見る時間が持てないのだ。


 なにせ尚侍ないしのかみときたら、関白や内裏中の公卿たちの期待に応えるべく、日々、隙間なくさまざまな政務の予定を詰め込んでいるため、彼女と親しい時間を持とうと思えば、己の生活を、改めるしかなかったのである。


 そんな訳で、帝が尚侍ないしのかみと長い時間を過ごせるのは、皇后宮職こうごうぐうしきの別当や蔵人所くろうどどころの別当がいるおおやけの政務を行う昼間であったし、あのあと一度、初出仕の日の夜のように夜更けに呼び出してみると「初めて参内した時にうかがった時の渡殿が暗くて怖かったとおっしゃるので」と、なんと“わたくしの女三宮”が尚侍ないしのかみと手をつないで、自分のところまでいらっしゃったのだ。


「姫君は怖がっていらっしゃいますし、なにやら帝と姫君のおかしなうわさを耳にしましたの。わたくしは尚侍ないしのかみの母として、後宮の后妃方に対して大層、きまり悪い思いをいたしましたわ……」

「いや、いやいやいや、そのうわさは、なんの根拠のないものです!」


 帝はそう口走ってから“わたくしの女三宮”の冷たい視線に頭をフル回転させて「昼間、保留にした案件を素早く処理した方がよいと思いついたが、重要な案件ゆえ、尚侍ないしのかみ直々じきじきに、明日の朝一番で大内裏の中務省なかつかさしょうに使いに行って欲しい」と、大慌てで、いい訳を捻り出し、急遽、女房に尚侍ないしのかみに菓子を用意させて、いかにも姪が可愛いアピールをしていた。


「…………」

「……母君どうかなさいましたか?」


 葵の君は、わざとあどけない表情で、帝を冷たく見つめる母君を見上げていた。


 大宮にとって帝は敬うべき存在で、実の兄君でもあるが、大切な自分の姫君とは比べものにはならなかったので、彼女は内親王であった時と同じように、左大臣に接する時と同じように、ご機嫌の悪さが溢れ出した、そんな形だけの冷たい笑みを浮かべていた。


「いいえ、なんにもありませんよ、裳着を済ませたとはいえ、貴女はまだ“”ですから、夜は出歩くのは、やめましょうね。帝も分かって下さいますわ。そうですわよね?」


「そ、そうですね、尚侍ないしのかみが、あまりにもしっかりなさっているので、つい十歳という年齢を忘れてしまっていました」


“わたくしの女三宮”のご機嫌の悪さを感じ取った帝は、そう言うしかなかった。


「では、帰ります……」


 大宮はそう言い、葵の君をそっと抱き寄せて、帝の前を下がる。


『母君カッコイイ! それから、あんまり調子に乗ってセクハラすると、次は落ち癖(気絶癖)がつくまで、一晩中、三角締めするからね!』


 心配して柱の陰から一部始終をのぞいていた蔵人所くろうどどころの別当は、葵の君のそんな物騒な胸の内は分からなかったが、葵の君が“わたくしの女三宮”と手をつないで、菓子を手に帰ってゆくうしろ姿を見て、皇后宮職こうごうぐうしきの別当と真逆の「笑いを堪えすぎてお腹が痛い」そんな腹痛におちいっていた。


「母宮を同行させるようにと知恵をつけたのは貴方あなただろう? しかし、尚侍ないしのかみは本当に末恐ろしい才と、麗しく尊き美しさの具現だね。いまからあれでは年頃になられる頃には、どうなるのか想像もつかない。かの姫君と結ばれた貴方が心底うらやましいよ」

「…………」


 後日、葵の君の美しさと、能力に舌を巻いた、蔵人所くろうどどころの別当の、そんな言葉を聞いた中務卿なかつかさきょうは、姫君の一番の魅力は不器用な生真面目さと、過ぎるほどの闊達さだと思っていたが、誰にも教えるつもりはなかったので、少しだけ笑みを浮かべて黙っていた。


 それからしばらくして、大量に自分宛に届く恋文を無視して、紫苑に算盤を教えていた葵の君が、帝と自分に降りかかった怨霊騒動が片づいてよかったと肩の荷を下ろして、休憩時間に二人でプリンを食べながら、御簾越しに後宮の庭であそぶ蝶をながめながら、他愛もない話をしていると、渡殿を桐壺更衣きりつぼのこういが通りかかる。


 御簾の向こうで檜扇越しに会釈をする彼女は、相変わらず葵の君には幻にしか見えず、後宮にも例の『沈香と乳香』の薫りが漂っていたが、騒動が落ちついたいま、まあよくあるといえば、よくある薫りだから、ただの偶然かと片づけていた。なぜなら彼女は『外見的には恐るべき子供であるが、内面的には、余りにも社会経験が少なすぎる子供っぽい大人であった』から。


 桐壺更衣きりつぼのこういのうしろで、なぜか真っ赤な顔で以前とは違い、気味の悪いくらい熱のこもった視線で、自分を見ている光る君に、葵の君は胡乱な視線を向けてから、紫苑に「そろそろ休憩は終わりましょう」と告げて“この世の終わり”そんな不幸な顔をした紫苑と一緒に、部屋の奥に姿を消す。


『アイツ絶対、変なこと考えてるな!』


 そういえば、簡単に自分になびかなかった誰かを「ブスだけどつれないから、気になってしかたない」とか言ってたような記憶が……。めんどくさい性格は、もうどうしようもないの?! 葵の君は、光る君には見えないはずなのに、顔をしかめていた。


 はたして葵の君の想像は大当たりで、光る君は、大猿の事件のことはすっかり忘れていたが、尚侍ないしのかみのことを考えたり、尚侍ないしのかみのうしろ姿を見るだけで胸が潰れそうなほど、ドキドキするので、これが『まことの恋』というものなんだと思いつめていた。(もちろん、それは残念ながら、忘れてしまった恐怖体験のフラッシュバックである。)


 桐壺更衣きりつぼのこういを巻き込んだ恐ろしい事件が起きたのは少し先で、葵の君は中務卿なかつかさきょうと顔を会わすのは朝議の時くらいしかない超多忙な日々ではあったが、転生してきてから初めてというくらい平和な生活を送っていた。しかしある日、原作通りのちょっとした事件が起きていた。


『毎朝、殿舎の前の通路に犬のウ●チ(多分)が落ちてる……』


 元の話で桐壺更衣が受けたとされた嫌がらせが、なんとこの世界では葵の君が受けていたのである。女房たちが下働きに慌ただしく指示している中、葵の君に穢れた物を見せてはいけませんと、彼女は部屋の奥に追いやられていた。


『メンタルは全然、大丈夫だけど不衛生だなぁ……時代的に消毒液も石鹸もないのに』


 そう思った葵の君は、「そう言えば石鹸って作れるかも?」そんなことをひらめいていたが、詳しくは思い出せず、残念だとため息をついた。(例の時を超えたナチュラリスト、花音かのんちゃんが作るのを手伝ったことがあったのである。)


「最後に熱湯かけておいて」

「はい!」


 一応、熱湯消毒の指示を出し、葵の君は兄君に使いを出して、急遽、臨時の打橋(取り外し可能な橋)をかけてもらうと、なにごともなかったように朝議に向かった。


『こういう時には、色々と稼働式の体育館仕様は便利だよね』


 熱湯消毒して濡れた渡殿を避けて、コの字にかけられた打橋を歩いて、朝議に向かいながら葵の君は思った。

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