第176話 訪れた災厄 7
唐車の中で、命婦の膝にすがって、ずっと泣きじゃくっていた
牛車に乗り込んできたのは、母君を抱き上げた、『婿君/
「ははぎみ ははぎみ……」
「お疲れで眠っていらっしゃるので、静かにして差し上げて下さい」
「そうですか そうですね ごぶじだったのですね……こわい ゆめを みていました。ははぎみが さらわれる ゆめをみました……」
そう言いながら、葵の上の髪をひと房、持ち上げて握り締めている小さな姫君に、
「どうして母君が
「えっと えっと ゆめのなかに でてきた おとこが ははぎみを さらうときに いいました」
『
「あねぎみは?」
「……葵の上は、まだお仕事がございますので、先に母君と関白のやかたに帰って欲しいとのご伝言です。姫君は先にご出発です。
「そうですか……ひめみやに あえるのですか?!」
「しばらくの間は、お泊りになれると思いますよ」
姫君は、仲のよい
葵の上は気を失ったまま、
「大変なことに……」
葵の上の一行が到着したとの知らせを聞いた
久しぶりに会ったふたりの姫君たちは、
「……あの大宮は?」
そんな訳で、ようやく
「…………」
「いまは、
「連絡はないか……」
「たったひとりの目撃者、
「なんと! しかし、で、あれば、少しの希望は、あるやもしれぬな……」
「はい、首の皮一枚ですが……もし葵の上を
「それに、ふたりを取り違えたと言うのであれば、犯人の幅は極端に狭まるな」
池を一瞬つむじ風が流れて消えた。
「はい。ふたりが“瓜ふたつ”とのうわさは、内裏に出入りするすべての人々が知るところなれど、“三条の大宮”と“葵の上”を取り違えて
「で、あるな……」
そう言いながら、関白はうしろに視線をやり、視線の先にいた白蓮は素早くどこかに消えた。
「そちらはわたしが調べよう。このことを知る者は、いかほどの人数になる?」
「門番と乳母が殺された件は思うところがあり、検非違使の別当に調べさせておりますが、大宮が
「重畳」
「ただ……葵の上には、なんと伝えたものか、とても隠しきれるものではありませんから」
「葵の上が目覚めるまでに、大宮が見つかればよいのだが……それともうひとつ、右大臣家にも難問が
「右大臣になにかございましたか? 里内裏と言っても昨日の今日、さすがに……」
さすがになにもない……そう言いかけた
その手紙は東宮から届けられた例の『離縁状』のことが書かれた手紙であり、帝にそそのかされた左大臣の『しでかし』と、帝の企みがつづられてあった。
「第二皇子の臣籍降下は、取るに足らぬことですが、問題はそこではありませぬな……」
「当主のわたしの許可がないとはいえ、父親である左大臣が署名した以上、すでに葵の上はそなたと離縁したことになる」
「左大臣は元本をお持ちでしょうか?」
「いや、なにも持ってはおらぬようだ」
「では、二枚とも帝がお持ちということですな」
この時代、土地の権利書や貴族の婚姻などの重要な証明書は、元本と写しとでもいう風に、二枚用意して一枚は役所に、もう一枚は手元に。そういった手続きであったために出た
渋い顔のまま黒い扇子を握り締めている関白に、
「まだ書状は、帝の手から離れておらぬでしょう。わたくしに関わることゆえ、もし省の誰が書状を受けたとしても、まず先にわたくしに報告があるはずです。それにあの大火の中で燃えてしまった可能性も高い」
そう言いながら
「ああ、呼んでおいた“六”がやってきたようです」
「燃えてしまっておればよいが……ほう稀代の陰陽師が……」
「“厄介事”が降りかかったと式神に聞き、急ぎうかがいました」
釣殿に白い束帯を着た“六”がフワリと姿を現す。
「ああ、確かに“厄介事”だ」
「……」
関白は目の前に姿を現した、なにものにも染まらぬ、そしてすでに、なにもかも知っている様子の白い陰陽師に視線をやって、彼が
目の前に現れた異形の陰陽師は無表情であったが、彼を取り巻く周囲から冷気とでもいえる冷たい空気を出している彼にたずねる。
「そなた、帝の手元から“離縁状”を取り上げられるか?」
「……それだけで、よろしいのでしょうか?」
「それだけとは?」
「関白がそれほどお優しい方とは思っておりませんでした。摂関家の当主の顔に、
“六”の関白の甘さを揶揄する最後の言葉に、
どう取り繕ったものかと迷っていると、以外にも関白は面白そうに“六”に問いかける。
「……そなたは身のほどをわきまえぬ、摂理から外れた異形の者とは聞いておるが、なるほどなるほど、確かに身のほどをわきまえぬ存在、それとも耄碌した年寄りを焚きつけねばとの心配りか?」
「わきまえぬのではありません……わたくしは葵の上に“
「………」
“六”はそう言いながら、遠く
関白は黒い扇子をユラユラと、しばらくもてあそんでいたが、
「決定事項を申し渡す。摂関家の当主であるわたしは、『桐壷帝』を、本日ただいまをもって、表舞台から取り下げる。“六”とやら、“離縁状”が昨夜の火事で燃え残っていれば、それを取り上げた上で、『帝』の地位を取り下げるに
「……御意のままに」
彼はそう言い残して、やかたから姿を消した。
この日の元という国全体を『舞台』として、軽々と扱う男が長生きをしたのが悪かったのか、それともこれも御仏の御導きなのか……。
「よろしいのですか……?」
「これを機に、内裏の整理をせねばならぬのが、面倒であるが、いたしかたあるまい。最後の情けに“第二皇子”を臣下へ降ろす、その願いはかなえよう。わたしはことのほか
葵の上が目を覚ました頃には、そこに
そしてその頃、『唯一無二の選帝侯』である関白に見限られたとは、まだ気がついていない帝は、急遽、里内裏となった右大臣家の母屋で、ようやく目を覚ましていた。
〈 その頃の
中には鎮静効果の高い薬草がぎっしりと詰まっている。彼が軽く手を突っ込んで薬草をどけ、現れた白い布をめくると、そこには“日の元に舞い降りた輝ける内親王”、三条の大宮が意識のないままに横たわっている。
「ここまではっきりと見たのは初めてだが、この世の中に、これほど美しい
明るい日の光に浮かび上がった三条の大宮のお顔を見るだけで、いままで知りもしなかった甘やかな気持ちが、己の内側に沸き、そっと指でなぞった白く滑らかな頬の感触は、なんの薬も服用していないにも関わらず、どこか高揚し陶然とした気持ちにさせる。
美しい物を貴ぶ時代において、いままで自分がなにも感じなかったのは、己が美に対する概念を持ち合わせていなかったのではなく、その“概念”自体が、人より遥かに高いところにあったのやも知れぬと彼は思った。
この
わたしの胸の中をかき乱すこの方の“中身”は、一体どうなっているのだろうか? 几帳越しの拝謁しかなかったゆえに、あの混乱と騒動ゆえに、
「ようこそ、わたしの
火を放った産室で子を産み落とした、そんな美女と誉れ高い女神の名を、彼は大宮にそっとかけると、神話とは真逆にあの大火の中で、自分が手に入れたこの美しい方の向こう側に、
帰る途中、検非違使が
「
彼は
「なんの騒ぎだ……」
連れ帰った重傷者を、自分の曹司の横に、
「どうかしている……」
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