第176話 訪れた災厄 7 

 唐車の中で、命婦の膝にすがって、ずっと泣きじゃくっていた朧月夜おぼろづきよの君が、泣き疲れてウトウトとしていると、御簾の上がる音がして、ふと目を開ける。


 牛車に乗り込んできたのは、母君を抱き上げた、『婿君/中務卿なかつかさきょう』であった。空の鳥籠を持って、まだ気を失っている紫苑は、他の女房たちと一緒に、騒動の間に用意された副車に乗せられている。


「ははぎみ ははぎみ……」


 朧月夜おぼろづきよの君は、すぐに起き上がって葵の上ははぎみの側に近づくが、婿君の腕の中で、母君は少し青いお顔で眠っていらっしゃった。現実と夢、母君と姉君の顔は、幼い姫君の中で交錯し、つらい記憶を無意識に押しやった姫君は、目の前にいる葵の上を母君だと思い込む。


「お疲れで眠っていらっしゃるので、静かにして差し上げて下さい」

「そうですか そうですね ごぶじだったのですね……こわい ゆめを みていました。ははぎみが さらわれる ゆめをみました……」


 そう言いながら、葵の上の髪をひと房、持ち上げて握り締めている小さな姫君に、中務卿なかつかさきょうは、なにげない様子で聞く。


「どうして母君がさらわれたと、思われたのですか?」

「えっと えっと ゆめのなかに でてきた おとこが ははぎみを さらうときに いいました」


では、いらっしゃらないのでしょうか?』


「あねぎみは?」

「……葵の上は、まだお仕事がございますので、先に母君と関白のやかたに帰って欲しいとのご伝言です。姫君は先にご出発です。秋好姫宮あきこのむひめみやと久しぶりにお会いできますよ」

「そうですか……ひめみやに あえるのですか?!」

「しばらくの間は、お泊りになれると思いますよ」


 中務卿なかつかさきょうがそう言うと、不安そうだった朧月夜おぼろづきよの君は、ほっとした顔に笑みを浮かべ、きっとやかたに帰る途中で寝てしまって、怖い夢を見たのだろうと思いこむ。


 姫君は、仲のよい秋好姫宮あきこのむひめみやに会えるのを楽しみにしながら、母君は眠っているので、姉君の夫であり馴染みのある中務卿なかつかさきょうに、自分が見た怖い夢の話を身振り手振りで話をし出し、姫君を抱き寄せていた命婦は、つらい話に思わず止めに入ろうとするが、彼は視線で命婦を制すると、姫君の話す『怖い夢の話』を熱心に聞き、なにやら考え込んでいた。


 葵の上は気を失ったまま、朧月夜おぼろづきよの君と一緒に、ひとまずは関白のやかたに運ばれてゆく。


「大変なことに……」


 葵の上の一行が到着したとの知らせを聞いた六条御息所ろくじょうのみやすどころは、この大火の騒動に、しきたりなどと言っている場合ではないと、御簾内から出て朧月夜おぼろづきよの君は、ご自分の姫宮と一緒に乳母が見ているのでご心配なくと、関白と中務卿なかつかさきょうに告げてから、中務卿なかつかさきょうに抱き上げられて、気を失ったままの葵の上を、心配そうな顔で見つめる。


 久しぶりに会ったふたりの姫君たちは、御息所みやすどころが極力騒動に気づかせぬようにと、とりはからったので、なにも知らずに嬉しそうにお互い駆け寄ると、小さな手と手をつないで、大勢の女房たちと姫宮の乳母に囲まれて、東の対に消えて行った。


「……あの大宮は?」


 そんな訳で、ようやく御息所みやすどころがそう聞いたのは、気を失った葵の上を西の対にある御帳台みちょうだいの布団の上に降ろしている時だった。四方をぐるりと囲むとばりを出てから、中務卿なかつかさきょうは、関白と御息所みやすどころの側近くで大宮がさらわれたことを小声で告げる。御息所みやすどころは両手で口元を覆って絶句し、関白もしばらくの間その場に立ち尽くしていた。


「…………」

「いまは、頭中将とうのちゅうじょうが、街中を探索しているはずですが……」

「連絡はないか……」


 中務卿なかつかさきょうは、御息所みやすどころに葵の上の側についてもらうように頼み、関白を大きな池に張り出した釣殿つりどのの上に誘う。


「たったひとりの目撃者、朧月夜おぼろづきよの君の話を聞くに、どうやら三条の大宮は、葵の上との人違いでさらわれたようです……」

「なんと! しかし、で、あれば、少しの希望は、あるやもしれぬな……」

「はい、首の皮一枚ですが……もし葵の上をさらおうとしたのであれば、向こうからなにか連絡があるかもしれません」

「それに、ふたりを取り違えたと言うのであれば、犯人の幅は極端に狭まるな」


 池を一瞬つむじ風が流れて消えた。


「はい。ふたりが“瓜ふたつ”とのうわさは、内裏に出入りするすべての人々が知るところなれど、“三条の大宮”と“葵の上”を取り違えてさらうほどに、二人のお顔を、にでも知る者は、参内している殿上人の中でもそうはおりませぬ」

「で、あるな……」


 そう言いながら、関白はうしろに視線をやり、視線の先にいた白蓮は素早くどこかに消えた。


「そちらはわたしが調べよう。このことを知る者は、いかほどの人数になる?」

「門番と乳母が殺された件は思うところがあり、検非違使の別当に調べさせておりますが、大宮がさらわれた話は、大宮づきの女房しか知らぬので、命にかかわることと、ひとまず口止めをしております。頭中将とうのちゅうじょうにも同じように、大火に便乗して悪質な人攫いが出たとだけ言うようにと……」

「重畳」

「ただ……葵の上には、なんと伝えたものか、とても隠しきれるものではありませんから」


 中務卿なかつかさきょうは、母君が身代わりでさらわれたと知った時の葵の上の心痛を思いやった。関白も苦悩の表情を浮かべるが、もうひとつの難問を持ち出す。


「葵の上が目覚めるまでに、大宮が見つかればよいのだが……それともうひとつ、右大臣家にも難問がおる。そちらは早々に片付けねばならぬ」

「右大臣になにかございましたか? 里内裏と言っても昨日の今日、さすがに……」


 さすがになにもない……そう言いかけた中務卿なかつかさきょうは、関白がどこからか取り出して、自分に差し出された手紙に目を落として唖然とした。


 その手紙は東宮から届けられた例の『離縁状』のことが書かれた手紙であり、帝にそそのかされた左大臣の『しでかし』と、帝の企みがつづられてあった。


「第二皇子の臣籍降下は、取るに足らぬことですが、問題はそこではありませぬな……」

「当主のわたしの許可がないとはいえ、父親である左大臣が署名した以上、すでに葵の上はそなたと離縁したことになる」

「左大臣は元本をお持ちでしょうか?」

「いや、なにも持ってはおらぬようだ」

「では、二枚とも帝がお持ちということですな」


 この時代、土地の権利書や貴族の婚姻などの重要な証明書は、元本と写しとでもいう風に、二枚用意して一枚は役所に、もう一枚は手元に。そういった手続きであったために出た中務卿なかつかさきょうの質問であった。


 渋い顔のまま黒い扇子を握り締めている関白に、中務卿なかつかさきょうは冷静な判断を告げる。


「まだ書状は、帝の手から離れておらぬでしょう。わたくしに関わることゆえ、もし省の誰が書状を受けたとしても、まず先にわたくしに報告があるはずです。それにあの大火の中で燃えてしまった可能性も高い」


 そう言いながら中務卿なかつかさきょうは、釣殿に飛んできた“藤色の小鳥”に目をやった。


「ああ、呼んでおいた“六”がやってきたようです」

「燃えてしまっておればよいが……ほう稀代の陰陽師が……」


「“厄介事”が降りかかったと式神に聞き、急ぎうかがいました」


 釣殿に白い束帯を着た“六”がフワリと姿を現す。


「ああ、確かに“厄介事”だ」

「……」


 関白は目の前に姿を現した、なにものにも染まらぬ、そしてすでに、なにもかも知っている様子の白い陰陽師に視線をやって、彼が中務卿なかつかさきょうから手渡された手紙に目を通すのをながめていた。


 目の前に現れた異形の陰陽師は無表情であったが、彼を取り巻く周囲から冷気とでもいえる冷たい空気を出している彼にたずねる。


「そなた、帝の手元から“離縁状”を取り上げられるか?」

「……それだけで、よろしいのでしょうか?」

「それだけとは?」

「関白がそれほどお優しい方とは思っておりませんでした。摂関家の当主の顔に、驕傲きょうごうにも泥を塗りつけた恩知らずの帝に、随分とお優しいことですね……」


“六”の関白の甘さを揶揄する最後の言葉に、中務卿なかつかさきょうは眉をしかめる。臣下である貴族や親王はもちろん、この国を統治する『帝』ですら、そんな皮肉を彼に言う度胸は持ち合わせていない。


 どう取り繕ったものかと迷っていると、以外にも関白は面白そうに“六”に問いかける。


「……そなたは身のほどをわきまえぬ、摂理から外れた異形の者とは聞いておるが、なるほどなるほど、確かに身のほどをわきまえぬ存在、それとも耄碌した年寄りを焚きつけねばとの心配りか?」

「わきまえぬのではありません……わたくしは葵の上に“”があり、中務卿なかつかさきょうに“”のある者だと、それを理解して下さればと、あえて申し上げました」

「………」


“六”はそう言いながら、遠く御帳台みちょうだいの中に眠る葵の上を心眼で見ていた。青白い顔、少し先が焦げた美しい黒髪、目が覚めた時に母君が、自分のせいでさらわれたと知れば、どれほどつらい気持ちになるかと思えば、母君が帰るまで眠ったままで……そう思う。そして、葵の上に更に不幸を重ねようと、不埒な出来心すら抱く帝を心の底から呪った。


 関白は黒い扇子をユラユラと、しばらくもてあそんでいたが、中務卿なかつかさきょうに大宮の探索に加勢するように頼んでから、薄く笑みを浮かべて宣言をする。


「決定事項を申し渡す。摂関家の当主であるわたしは、『桐壷帝』を、本日ただいまをもって、表舞台から取り下げる。“六”とやら、“離縁状”が昨夜の火事で燃え残っていれば、それを取り上げた上で、『帝』の地位を取り下げるにあたいする派手な演目を用意してやれ、いますぐにな……」

「……御意のままに」


 彼はそう言い残して、やかたから姿を消した。中務卿なかつかさきょうは、腹違いの兄であり、この国の頂点であった男のこれからを思い、目を閉じて深く息を吐く。


 この日の元という国全体を『舞台』として、軽々と扱う男が長生きをしたのが悪かったのか、それともこれも御仏の御導きなのか……。


「よろしいのですか……?」

「これを機に、内裏の整理をせねばならぬのが、面倒であるが、いたしかたあるまい。最後の情けに“第二皇子”を臣下へ降ろす、その願いはかなえよう。わたしはことのほか年寄りだから」


 葵の上が目を覚ました頃には、そこに中務卿なかつかさきょうと“六”の姿はなく、釣殿には関白と東宮の姿があるばかりであった。


 そしてその頃、『唯一無二の選帝侯』である関白に見限られたとは、まだ気がついていない帝は、急遽、里内裏となった右大臣家の母屋で、ようやく目を覚ましていた。



〈 その頃の刈安守かりやすのかみ 〉


 えん松原まつばらで、押し寄せる患者に対応していた刈安守かりやすのかみは、休憩のために典薬寮てんやくりょうにある自分の曹司に戻ると、懐に残っていたもう一枚の“離縁状”を取り出して、おもしろそうな顔で日の光にかざしてながめ、また大切に懐にしまうと、顔の下半分を布で覆い、曹司の側にある塗籠に積み上げられている草の入った大きな葛籠つづらのひとつの蓋をそっと持ち上げて、中をのぞきこんでいた。


 中には鎮静効果の高い薬草がぎっしりと詰まっている。彼が軽く手を突っ込んで薬草をどけ、現れた白い布をめくると、そこには“日の元に舞い降りた輝ける内親王”、三条の大宮が意識のないままに横たわっている。


「ここまではっきりと見たのは初めてだが、この世の中に、これほど美しいがふたりも存在するとは……国の至宝とはまさに言い得て妙……」


 明るい日の光に浮かび上がった三条の大宮のお顔を見るだけで、いままで知りもしなかった甘やかな気持ちが、己の内側に沸き、そっと指でなぞった白く滑らかな頬の感触は、なんの薬も服用していないにも関わらず、どこか高揚し陶然とした気持ちにさせる。


 美しい物を貴ぶ時代において、いままで自分がなにも感じなかったのは、己が美に対する概念を持ち合わせていなかったのではなく、その“概念”自体が、人より遥かに高いところにあったのやも知れぬと彼は思った。


 この刈安守かりやすのかみという男は、出会う女という女にあらゆる美点を見つけ、篭絡した側から物足りぬところや欠点をあげつらう……。そんな極めつけの恋愛体質である未来の光源氏とは正反対の男で、妹君を除いて出会う女を誰ひとりとして、ほめたたえることも、恋をすることもない代わりに、分け隔てなく等しく“モノ”として優しく取り扱う男であったので、自分の心に初めて浮かんだなにかを、とても興味深く思い、自分のやり方で探求しようとする。


 わたしの胸の中をかき乱すこの方の“中身”は、一体どうなっているのだろうか? 几帳越しの拝謁しかなかったゆえに、あの混乱と騒動ゆえに、尚侍ないしのかみと取り違えてしまい、一時は苛立たしさで胸が一杯になったが、この方を見て誰がいつまでも怒りを保てようか? 妹君に対する盲目的な愛情とは違う、しかしながら確かな執着が、彼の胸に浮かんで底も見えぬ深淵に落ちていった。


「ようこそ、わたしの木花咲耶姫このはなさくやひめ……」


 火を放った産室で子を産み落とした、そんな美女と誉れ高い女神の名を、彼は大宮にそっとかけると、神話とは真逆にあの大火の中で、自分が手に入れたこの美しい方の向こう側に、尚侍ないしのかみを思い浮かべ、顔の下半分を覆っていた布を外すと、ふと思いついて、華奢な首のうしろに手を添えて、深く長い口づけをする。彼は名残惜し気に外した大宮の唇を指でなぞってから、再び薬草を元に戻した。


 刈安守かりやすのかみは日が落ちて二条院に帰る頃、火傷で正体の分からぬ、しかし典薬寮てんやくりょうに入りきらぬ重傷者を数名、自分のやかたで治療すると言い出し、なんとお優しいと感心する官吏たちは、重傷者と薬草の入ったいくつもの葛籠つづらを、彼の差配通りに下働きに、やかたまで運ばせる手配をしていた。


 帰る途中、検非違使が刈安守かりやすのかみの一行を呼び止めたが、同行していた官吏たちが、荷車に乗せて運ぶ重傷者と薬草を見せると、恐縮して下がった。空には大宮を探すために、式神も飛び回っていたが、あいにくと薬草の入った葛籠つづらには気づかず通り過ぎる。


貴女あなたがふたり手に入れば、わたしはどうにかなってしまうかもしれないね……」


 彼は葛籠つづらの中の美しい人のことを想い、ふところにある尚侍をおびき寄せるエサに、満足した笑みを浮かべながら、誰もいない牛車の中で、そうぽつりとつぶやいていたが、やがて帰ったやかたの、常ならぬ騒がしさに、僅かに目を細めていた。


「なんの騒ぎだ……」


 連れ帰った重傷者を、自分の曹司の横に、葛籠つづらを空の塗籠ぬりごめに運ばせると、彼は慌てた様子で、自分を出迎えた女房に訳を聞いて、第二皇子がいる寝殿へと向かう。


「どうかしている……」


 刈安守かりやすのかみの舌打ち交じりのそんな呟きは、「このやかたで母君のように素晴らしい姫君と暮らせたら……」そんな風に思いながら、見れば見るほどに、母君と印象が重なる、少し恥ずかし気に、自分の話し相手をしてくれているつるばみの君に、あどけない様子で、話し相手をしてもらっている光る君には、もちろん聞こえなかった。


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