第177話 執着 1

 光る君の乳兄弟である惟光これみつは、皇子から少し離れた孫庇に、不服げな顔で座っていた。彼自身も名家につながる氏素性うじすじょうの人間であったので、つるばみの君のような、貴族とはいえ、かろうじて中流に引っかかっている女が、尊い光る君の側にいるだけでも、うとましく思う。


 元の源氏物語の中では、光源氏が戯れで手を出し、置き去りのままに怪死した夕顔を密かにほうむり、葵の上が命と引き換えに、この世に産み落とした光源氏の息子に、己の娘を側室に送り込む、そんなしたたかさを持ち合わせ、のちに参議という公卿の地位まで上り詰めた彼は、いまは光る君より二つ年上の十歳。元服したばかりの身であったが、すでに光る君の側に、影のようにつき添っていた。


 母である大弐が、光る君の乳母を仰せつかって以来、この尊くも美しい皇子を、唯一無二の存在と、大切に仕えてきた彼は、この二条院を気軽に手放した、桐壷御息所きりつぼのみやすどころの母君の浅慮を思い嘆息する。


 高き身分の方とはいえ、そこは女の浅知恵、こうして光る君が困った時のために、やかたを取り置くという判断までは、できぬ相談であったのだろう。つくづく亡き大納言の早世が悔やまれた。


 御息所みやすどころの母君が金策に追われ、世間から一方的に非難されていた時代のことを知らぬ彼こそが、実は想像力のない浅慮な存在であったが、彼は自分が皇子の乳兄弟ということに、舞い上がっていた田舎の親類に、物心のつかぬうちは、チヤホヤと苦労なく育てられていたし、周囲の大人も主家の悪いうわさは口にしないので、そんなやむにやまれぬ母君の事情など、思いもよらぬ話であった。


「いくら遠い縁戚とはいえ、二条院は刈安守かりやすのかみのような身分の者が住んでよいやかたではないのに……」


 そう彼が呟いた丁度その時、どこからか冷やりとした風が寝殿中に舞いこみ、皆が顔をそちらに向ける。つるばみの君は、ほっとした表情を浮かべた。


 優美に引いた眉、蘇芳すおう色の紅を塗った唇、ゆらりと揺れた灯火が、美しくも儚い彼女の青白い横顔を照らしている。


「兄君、お帰りなさいませ……」

「このたびの大火の後始末で戻るのが遅れ、第二皇子への御挨拶が遅れた不躾をお許し下さい……」


 光る君が視線を向けた先には、女房たちが言うように、温厚質実おんこうしつじつな人柄がにじみ出るような、すっきりとした整った顔と姿ながら、あまり印象に残らない、二十代に見える男が立っていた。後宮でも見たような気もするが、あまり思い出せない。


 身分の低い者など、そこらにある設えと、なんら変わらぬ意識で育ってきた彼に、刈安守かりやすのかみを見た覚えがないのは、当然といえば、当然のことであった。


 もっとつるばみの君と、話をしたかった光る君は、彼女が下がってゆくのを、残念に思いながら、それでも実に温和な笑顔を浮かべた刈安守かりやすのかみに向かって、一応の礼儀として世話になると短く声をかける。


 惟光これみつは、先程の自分の言葉を刈安守かりやすのかみに聞かれたかと、内心で少しあせっていたが、幸い彼の耳には届いていない様子で、彼は惟光これみつの横を静かに通り過ぎると、光る君に非の打ちどころのない、丁寧な挨拶をしている。


 光る君も、はじめは彼に少し警戒した表情を見せていたが、刈安守かりやすのかみが、なにを差配してよいかもわからぬ様子であった、妹君を下がらせてから、テキパキとした様子で女房や奉公人に指示を出しはじめ、それと共に、いままでとは一変してやかたの中が、過ごしやすくなったのを感じる。


 少ない奉公人の数で回るのは、この有能な男のせいかと思いあたり、かしずかれて暮らすことになれている彼は、薄いながらも皇子である自分とは縁があるので、こうして持てなしてくれるのだろうと納得した。


 光る君が、どこからか漂う、えもいわれぬ薫りに気を取られていると、いつの間にか目の前には、黒酒くろき白酒しろき、それに様々な酒の肴や菓子が並んでいる。


「この度の災難、さぞご苦労と不自由でございましょう、整わぬものばかりですが、心をゆるめるために、是非おすすめいたします……」

「…………」


 光る君は呑んだこともない酒を、さも当たり前の顔をして、少し口をつけながら、上目遣いで、刈安守かりやすのかみを見ていた。初めて口にした酒は、口当たりよく心地よく、心の中の暗い影をすっかり消してくれる。


 惟光これみつは、整わぬと言いながらも、宮中にも引けをとらぬ酒や肴の用意に驚くと共に、光る君と縁続きなれば、このような精一杯の気配りをしてくれるのだと思い、不満は抱きながらも緊張を解いた。


 後宮に出入りする刈安守かりやすのかみとは、すでに顔見知りである光る君の女房たちは、「明日にでも帝の迎えがあるのでしょうが、病弱な妹との行き届かぬ暮らしゆえ、今宵もう一晩だけご苦労をおかけいたします……」そう彼に低い声で、耳元で静かにささやかれると、不平を並べ立てていた先程までとは、打って変わった様子で、「このような時とはいえ、なんの知らせもなく、押しかけたにもかかわらず、お優しいお言葉……皇子のお世話はわたくしどもの仕事ゆえ、お気遣いなく……」そんな風に頬を赤らめながら返事をしている。


 どうやら彼は女房たちに人気があるようだ。元服したばかりで、彼女たちになにかと子ども扱いされている惟光これみつは悔しく思ったが、「つまらぬ身分の者は相応に、つまらぬ身分の者に惹かれるのだろう」と、自分に言い聞かせ、皇子と同じように、彼も飲み慣れない酒に、さも慣れたように、口をつけていると、それから数刻もせぬうちに、十代も終わろうか? そんな年頃の二人の公達がやってきた。


 姿を現した公達は、藤式部丞とうしきぶのじょう左馬頭さまのかみと名乗る。今現在の地位はさほどではないが、いずれも名門の血を引く、身分いやしからぬ貴族で、ここのあるじとは血筋が違う。


 血によって住む世界が変わる、そんな時代ゆえに、惟光これみつは不思議に思ったが、控えめな性格の刈安守かりやすのかみは、表向きは自慢にすることはないが、典薬頭てんやくのかみとしての素晴らしい医療の手腕で、実は左右の大臣にすら、つながりを持つほど広い顔を持っていると、藤式部丞とうしきぶのじょうが言うのを耳にして、それで不相応なつき合いのを持っているのかと納得した。


 光る君は、女房に囲まれた後宮でもなく、外祖母との寂しい暮らしでもない、彼らが話す大人の男君の世界の話を、とても面白く思い、菓子を食べながら話に聞き入る。


 まだ八歳の第二皇子の前というので、ふたりともはじめのうちは、このたびの大火のことを、神妙に口にして語り合っていたが、そもそも自分たちには、なんの被害もなかったので、やがてひそやかに、そして大っぴらに、平安貴族の大きな楽しみ『恋愛談義』に花を咲かせる。


 話が盛り上がっていると、静かに聞き手になっていた刈安守かりやすのかみの側に、なぜか典薬寮の官吏がやってきて、申し訳なさそうに、なにか報告をする。


「いかがされた?」

「……実は、典薬寮に入りきらぬ怪我人を、このやかたに数名預かったのですが、具合がよくなさそうなのです。官吏も寮に返さねばなりませんので、残念ではございますが、わたくしはこれにて、皇子の御前を失礼いたします」


 すっかり盛り上がっていた周囲は残念がったが、このまま楽しんでくれとの刈安守かりやすのかみの言葉に甘えて、ごく小さなこのうたげを続けることにした。


「外の様子が騒がしいね……」

「なんでも人攫ひとさらいが出たとかで、検非違使どもが走り回っております」

「せっかく気分転換にと刈安守かりやすのかみが、心づくしの席を用意してくれたのに、無粋な話しだ……」


 光る君は、大火の中、命がけで走り回って大怪我をした人々、いまだ走り回っている人々の苦労に気づくこともなく、さきほど下がった体の弱そうなつるばみの君の気に障らねばよいが……。そんな風に明後日の気遣いをして、少し心を痛めてから、やがてまた小さなうたげに夢中になっていった。

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