第50話 即興幻想曲 2

 先程とは打って変わったように、姫君が楽しそうにしていらっしゃるご様子に、紫苑はほっとしながら、最近、左大臣家の東の対に宿直とのゐに通っている真白の陰陽師たちから聞き出した、「ここだけの話」の中から、姫君が面白がりそうな話を次々に話す。


 わたしには、姫君のご機嫌の方が大切だし、姫君は軽々しくうわさ話を広げる方でもないので、いいだろうと思った。でも“六”には今後、絶対に協力してあげない!


 紫苑の漏洩させた内緒話は、姫君にはとても楽しい話だったみたいで、花がほころぶような笑顔に、別に大した秘密でもないし、喜んでいただけてよかったなと、その笑顔の美しさに見とれた彼女は心から思う。


 ちなみに、葵の君は笑いつつ、紫苑に“ここだけの話”をするのは、かなりリスキーだなぁと思っていた。


 ひとしきり話に花が咲いて、紫苑が特別に用意された、姫君の隣の自分の布団の上で、ぐっすり眠ってしまうと、しばらくして左大臣家の誰もが知っている、彼女の大音量の寝言が、久々に部屋中に響き渡る。


「“六”の馬鹿――!!」

「ひっ!!」


 葵の君は『忘れてたよ……これがあるから、紫苑の部屋は、誰も夜は近づかないんだった』と、小さな両手で耳を覆って心の中で思ったが、漏れた寝言の内容にもビックリした。


『なにがあったんだろう? “六”が、なにかしたんだろうか? ひょっとして紫苑が恋文でも出して、返事がないとか? 恋バナですか?!』


 なにものにも染まらない、突き抜けたような、降り積もる新雪のように、白く美しい“六”の顔を彼女は思い出す。


『紫苑ってば、思いきったことを!』


 彼はイケメンで、鋭い眼差しで低い声もカッコいい、わたしの『神/アイドル』大人の魅力満載の中務卿なかつかさきょうとは真逆で、どちらかといえば、純文学に出てくるサナトリウムな雰囲気の美青年だ。


 本当に物語に出てきそうな、綺麗で優秀な魔法使い(陰陽師)だよね……。


『そういえば、ここは源氏物語の中でした!』


 前世、大学で同じ部活の部員として出会わなくてよかった。女子としての心が、ポッキり折れる美しさだよね。


 もしそんな羽目になったら、多くの女子部員はガッツリフルメイクで、道場に向かわないといけないところだった。恋心以前に、女としてのアイデンティティの危機感を、彼に覚える予感しかしない。


 まあ、わたしはスマホの待ち受けにして、少しでも近づけますように、なんて拝みながらメイクしていたと思うけど。


 今日もきてくれているんだ。輪番制とはいえ、内裏勤めの合間にいつも申し訳ない。


 彼の美しい顔を思い出した葵の君は、美少年と言う言葉は“六”のためにあると思いながら、周りの不思議そうな女房たちの顔を気にせず、彼の顔を思い浮かべて合掌していた。


「な、何事ですか?!」

「寝言です母君!」


 紫苑の大声に、思わず顔をのぞかせた母君に、葵の君は妄想をやめて、慌てて返事をする。


「ああ、そういえば紫苑が帰ってきていたわね……疲れているでしょうから自分のつぼねで寝かせてあげなさい(うるさいから自分の部屋に運んで)」

「はい(いま一瞬、母君の心の声が?)」


 葵の君は夜勤の女房たちを呼ぶと、彼女を布団に乗せたまま四隅を掴んで、そろそろと床を滑らせ(こういう時も、パーテーション寝殿は便利だよね!)紫苑のつぼねまで運んでもらい、女房たちを下がらせる。


 そして自分の肩にとまっていた“ふーちゃん”に“六”を呼ぶように頼む。“ふーちゃん”は夜なのに、元気に羽ばたいていった。鳥なのにさすが『式神』だった。


“六”が、なにをしたのだろうか? 紫苑は悔しそうな顔で、歯ぎしりまでしている。(歯が欠けそうな音が……。)


『ひょっとして振られたん?!』


 彼女はわたしの大切な侍女であり友人なのだ! 突き止めねば!


 葵の君は、野次馬根性を『思いやりと心配』という包装紙で丁寧にラッピングすると、自分の行為を正当化させて、飛んで行った“ふーちゃん”の帰りを待つ。


 しばらくすると、ややバツの悪そうな“六”が、紫苑のつぼねに面した庭先に現れる。やっぱりなにかあったんだ。きまり悪げな彼は、視線を合わそうとしない。


「………」

「………」


 呼び出された“六”は、暗い庭先に現れると紫苑のつぼねに優雅に座している、葵の君を見上げた。


 今年初めて見た姫君の姿は、初めて見た時より、ほんの少しだけ、いとけなさの抜けたご様子で、相変わらず眩しかった。


 彼女の尋常ならざるうやうやしさと美しさ、そして世間が向ける自分に対する嫌悪感の欠落した、玉響たまゆらのような魂の輝きの眩しさに、彼は僅かに目を細めた。


 燈台の灯りに照らされた姫君の表情は、少し困ったような、怒ったような顔。そんな表情も愛らしさがこぼれている。


 まるで春先に甘い芳香を漂わせながら、小さくそして華やかに咲きこぼれる、菩提樹ぼだいじゅの花のような可憐さだと彼は思った。白い首筋にさらさらと流れる黒髪は、以前にも増して艶やかで、あざやかなほどに黒々と長く美しい。


 やんどころなき姫君である彼女は、日中は幼い姫君の正式な衣装『汗衫かざみ』と呼ばれる衣装を、キチンと身にまとっているが、夜のことであるので、いつかの時と同じように、簡単な小袖こそでに袴。


 今夜は、何枚かの薄いうちぎかさね、綿の入った小袿こうちぎを一枚、軽く羽織った、『とびきり豪奢な部屋着』でいらっしゃる。最後に会った時よりも、暖かそうな装いで安心した。


 きっと衣装の見立ては、趣味のよさでは、国中に並ぶ者のないと称されている母宮が、ご用意なさっているのであろうが、名もなき可憐な小さな花が、大輪の牡丹にはなれぬように、幼いながらも誰よりも華やかな姫君だからこそ、その豪奢な衣装が彼女を引きたて、輝かせていた。


 上から下に向かって、薄藤色から二藍ふたあい色にぼかして引き初め染めされた袴、白緑びゃくろく色の小袖、葡萄えび色から御空みそら色に移りゆく色のかさなる数枚の袿。


 一番上の綿の入った淡い鳥の子色の袿は、金糸と銀糸が複雑に織り上げられた二十織ふたえおり


 地文には精緻な三重襷花菱文様みえだすきはなびしもんよう上文うわもんは、唐花浮線綾文様からはなふせんりょうもんよう


 普通の貴族の姫君たちであれば、とっておきの昼のお出かけ用の衣装にしていても、まったくおかしくない瀟洒な色とかさなりで、さすが、摂関家の姫君の部屋着といった、豪華な装いであった。


 関係ないけれど、自分の年収の何倍なのだろうかと“六”は思った。そういう意味でも正しく雲の上の存在である。


 その姿はまるで人の世に舞い降りた、冬の白と蒼天をまとう神聖な“氷姫こおりひめ


“六”は、あと数年も立てば、姫君は“日の元に舞い降りた輝ける内親王”と称されていた、母宮の美貌をも凌ぐであろうと内心で確信を覚え、畏敬いけいの念すら覚えた。


 裳着もぎが終われば、それこそ大きな厨子の中にしまい込んだ方がよいのではなどと、柄にもなく、無邪気すぎる妹を心配する、兄のような心配な気持ちにもなる。


 姫君が、なんの差別もなく、むしろ命の恩人と、自分に気軽に接して下さるのは嬉しいが、少し人を簡単に信じすぎるのではと心配が募る。


 そして、姫君のうしろにある文机の上にちらりと視線を移す。机の上には、『寝言封じの呑札』


「………」


『ちっ! まだ、呑んでなかったのか』


“六”は、姫君のうしろで、深く眠っている紫苑に、自分のしでかしたことは、彼女の寝言で『バレた』と確信すると、姫君の視線を避けるために、深く頭をたれる。


 紫苑が寝言に見せかけて、ワザと姫君にばらしたんじゃないかとも思ったが、聞こえてくる歯ぎしりを聞くに、本当に寝ているみたいだった。


 自分のことは棚に上げて、“六”は信じられない女だなと思う。


「詳しく訳を話してもらえますか?」

「なにを、おっしゃっているのか……」


 一応、視線を逸らしたまま、無表情に、すっとぼけてみて、なんなら『記憶を夢と取り違える呪法』を、姫君に向かって小さく唱えてみる。


 彼女が夢の中に旅立ったら、紫苑の着込んでいる布団をいで、姫君にかぶせて曹司に戻ろうと思う。


『そんな、馬鹿な……』


 彼の強力なはずのしゅは、“天香桂花てんこうけいかの君”の本体である、葵の君の体を、まるでなにもそこに存在しないかのように、ふわりと通り抜けると、うしろの紫苑の体に入って消えたのを見て、内心で絶句する。


 葵の君のうしろで、後光のように輝く“天香桂花てんこうけいかの君”が苦笑するのが、見えたような……。


 時々、姫君から溢れ出す彼女には、不思議な力があるようだった。


「……」


“六”は驚き動揺し、葵の君が口を開く前に、目の前から姿を消さねばならないと思いながら、姫君のうしろの紫苑に目を向けて、変なことを思った。


 元々、あの子(紫苑)は寝汚いのに、呪法を取りこんでしまったら、二度と起きないんじゃないだろうか?

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