第181話 脱出 1

「夫婦だと言うのに、貴女あなたは一向に、打ち解けてはくれないのだね……」

「……そんな偉そうなことを言える立場?」

「えっ?!」

「…………」


『どうしようもない顔だけの男が、偉そうに小言を言っている』


 夢の中で葵の上は、なぜか元の話通りに、光源氏と夫婦になっていて、その上、説教じみたことを言われながら、ため息をつかれていた。大人になった光源氏の横にいるのは小さな姫君。紫の上なのか、明石の方なのか……。


「姫君の母親とは、特別な宿縁があったのか、この子が生まれてね。かといって、この姫君を母親に育てさせるのは体裁も悪く、身分的に将来も心もとない。色々と考えたのですが、貴女あなたが育てて下さらないか?」


『明石の方だった……。宿縁じゃなくて、君の信じられない節操のなさの賜物たまものだよね? なぜ紫の上じゃなくて、自分にお鉢が回ってきているんだろう? っていうか、自分が迫っておいて、産ませておいて、体裁が悪いって、グーパンチしていい? いいよね?』


 葵の上は、そんなことをボンヤリ考えていたが、この無邪気で可愛い姫君の将来が……な――んて言ってる光源氏に、紫の上であれば、けなげにも、「わたくしは子供が大好きなので、引き取って大切に育てましょう」などと言う場面であったのだが、元の物語を知っている葵の上は、彼が目配せをして応援要請している、やはり光源氏が手を出している女房と、そんな光源氏に、冷たい視線を投げて、とんだ茶番狂言ちゃばんきょうげんだと、片腹痛く思っただけであった。


『けっ! 時代が違うとはいえ、この男ほど節操のない男もそうはいないよね! たしか間違えたからって、勢いで他の女に手を出したりしていたような……世の女性のために、いっそのこと成敗した方がいいんじゃなかろうか……』


「本当の本当に貴方の子供は、ひとりだけでしょうか?」

「……どういう意味でしょう?」

「いっそのこと、おのれの行いを恥じて、出家した方が、よいのでは?」

「…………」


 藤壺の中宮のことを、当て擦った嫌味を言ってみると、光源氏は、あからさまに挙動不審になって、目を白黒させていた。どうやらすでに、しまっているらしい。


「分かりました。姫君はわたしが預かってもいいですけれど、さっさと出家なさって!! ほら出家! 早く出家! 出家! 出家!」


 葵の上はそう言って、光源氏をあおりながら、彼の耳元で、ぼそりと呟いた。


「……藤壺中宮ふじつぼのちゅうぐう

「!!!!」


 その夜、打ち解けなかったのを君のせいだけにして、わたしは悪い男だった……とかなんとか言いながら、葵の上の部屋に光源氏がやってきて、そのまま流れで押し倒されそうになり、もちろん跳ねつけたが、あまりにもしつこく迫るので、気づけば光源氏に、ガッツリ回転投げ(※持たれた腕にかかる力を利用して相手を投げ飛ばす技)を決めていた。


『よく転がったな――』


 葵の上は、ごろごろと部屋の中を通り抜け、そのまま木階を転がって、最終的には庭の玉砂利の上で、気絶している光源氏を見て、少しだけスッキリした。


 そしてそれから数日後、葵は、葵の上は、光源氏が泣きついた桐壷院の手回しで、元皇子に無礼を働いた罰として、涙目の左大臣に髪を切られて、寺に入れられたのである。


「ふざけんな、あの変態ヤロ――!」


 葵の上は、出入り口を竹の柵で塞がれた豪華な寺の一室に幽閉され、野菜だけの膳を前に絶叫していた。



〈 再び現実の関白のやかた 〉


「…………」


『変な夢を見た……やれやれ、ホント、光源氏アレと縁が切れてよかった……』


 光る君が小さなうたげを楽しんでいる頃、寝汗びっしょりで飛び起きた葵の上は、自分の手を誰かが握っているのに気づく。


「母君……?」


 葵の上はそう言ったが、彼女の手を握っていたのは、母君ではなく六条御息所ろくじょうのみやすどころだった。


 火事を思い出して、ガバリと起き上がった葵の上は、六条御息所ろくじょうのみやすどころが涙ながらに、「御無事でようございました、もう安心して大丈夫、ここは関白のやかたですから」と、自分を抱きしめながら言うので、大いに安堵したが、母君の姿が見えないのを不思議に思う。


「あの母君はどちらに……?」

「…………」


 火事はともかく、それから御息所みやすどころに聞いた母君の誘拐事件は、衝撃を超え過ぎていて、側にいた紫苑が葵の上の髪を、涙ながらに嘆いているのにも気がつかなかった。


「……姫君、姫君の美しい髪が……」

「…………」


 大宮の失踪も大事件であるが、『髪は女の命』その言葉が、まさに文字通りの意味を持つこの時代に、葵の上の身の丈もあるような、長く美しかった髪は、火の側に長くいたせいか、二尺(約60cm)ほど毛先が茶色くなって、ほとんど焦げたようなボロボロの状態になってしまい、紫苑はまるでお通夜のような顔で、涙をこぼしていた。御息所みやすどころもこれは、どうなぐさめたものかと思う。


 葵の上の髪は、お歳にしては、それはそれは長く並外れて美しかった。姫君の若さであれば、これからまた伸びるはずとは思うけれど、同じ女の身としては、とても口にできるものではなかったので、髪の話はせずに、母君のことで大層、心もとなげにしていらっしゃる葵の上を、安心させるように、御息所みやすどころは、ただただ優しく抱きしめていた。


「大宮は、関白に中務卿なかつかさきょう、兄君が、手配して下さっていますから、きっと大丈夫ですわ……」

「ええそうですとも、東宮も大層心配されて、なんでも言って欲しいと……あ! 姫君が目覚めたのを、関白と東宮に報告してきます!」


 取りあえず借りたらしい、御息所みやすどころのところの女房装束に身を包んで、側で神妙に控えていた紫苑は、二年前の秋に紫苑と言う名から、一字取った『苑命婦えんのみょうぶ』という名を授かり、正式な女官である内命婦うちのみょうぶ(五位・上)になっていたので、もっと格下の女房に頼めばよいだけの話なのに、ついつい葵の上を姫君と言い間違え、返事も聞かずに、慌てて袴を捌きながら姿を消した。


「東宮……?」


 葵の上は、東宮がここにいると聞いて、不思議そうな顔をする。


「東宮は、しばらくこちらに、滞在されるそうです。内裏に近いのでと、とりあえず、こちらにいらっしゃったのですが、帝も右大臣のやかたに行かれたので……」

「ああ……」


『きっと右大臣のやかたがパンパンで、入りきらないんだよね……』


 葵の上は兄君に、右大臣のやかた(広さはここの半分の一町)は、やたら物と人が多いと、聞いていたのでそう思った。


 しばらくしてから、あわあわとした様子で、しかも人目をはばかっている(つもり)で、腰をかがめたまま紫苑が、そろりそろりと戻ってくる。


「どうかしたの?」

「……か、関白が……お、大宮を……あの、えっと大宮は、姫君の代わりにさらわれたらしいんですけど、あの、その……」

「わたしの代わりに?!」

「あ、それ、姫君には内緒なんですけど!! で、それで、それで、もし大宮と姫君を交換とか言ってきたら……」

「交換? 人質なの?! 母君が帰ってくるなら、すぐにでも行きます!」

「いえ、そんな話はまだ! でも、もしそんなことになれば……大宮はお見捨てになると決断されて、そう東宮におっしゃっていました……この耳で確かに立ち聞きしました!!」


 葵の上は息を飲んだ。


「摂関家と国家のためには、姫君を出す訳にはゆかぬと……」

「……それは、そうでございましょうね……」


 絶句している葵の上をよそに、御息所みやすどころはそう言いながら、納得していた。


 葵の上にとっては、とても割り切れることではないであろうが、元東宮妃である御息所みやすどころは、今現在の国家と摂関家にとって、尚侍ないしのかみがどれだけ重要な存在であるのか、大宮と葵の上のどちらかを、選ばねばならぬとなれば、非情と言われても、関白がそう決断するのは、当主としてやむを得ないことだと思う。


 それに大宮とて、ご自分と娘の交換など望まれるはずもないと、娘を思う母としても彼女はそう確信した。


「少し……ひとりにしていただけますか?」

「葵の上……」


 真っ青な顔の葵の上を、ひとりにするのは、とんでもないとは思ったが、丁度、姫宮の乳母から、一度お戻りいただけないかと、使いがやってきたので、苑命婦えんのみょうぶに、「決してお側を離れぬように」そう申しつけてから、東の対へと、いったん御息所みやすどころは下がられた。


「紫苑……」

「はい、姫君!」

「その女房装束を、もうひとそろい、すぐに手に入れてきてちょうだい! わたくしも中務卿なかつかさきょうのところで、一緒に母君を探します!」

「はい、姫君!」


 残念なことに、そして当然なことに、苑命婦えんのみょうぶこと紫苑は、姫君のために、帝にすら嘘をついた過去を持ち、幼いころより、誰よりも葵の上のことを尊敬し、誰よりも葵の上のであった。


 そうこうして、葵の上が目覚めたと聞いて、関白と東宮がやってきて唖然とした顔で、彼女の置き手紙を見ているころ、檳榔毛車びろうげのくるまと呼ばれる高い身分の女房が乗る牛車は、葵の上と紫苑を乗せて、関白のやかたをすでに出発していた。


「これは紫苑の専用車なの?」


 葵の上は、もの珍しく牛車をながめてから中に乗り込む。ヤシ科の葉で葺いた屋根、左右に窓はなく、軒や袖は格子でできていて、赤い前後のすだれはグラデーション、とてもおしゃれである。


「命婦になった時に、牛と一緒にいただいたんですー」

「命婦は専用の牛車まであるの……すごいわね」

「あんまり使わないので、こちらに置いてお世話をしていただいていて、大正解でした! うふふふ」


 紫苑は、「中務卿なかつかさきょうのやかたに、尚侍ないしのかみのお使いに行くので急いで!」牛飼童にそう言うと、お側を離れてないから、なんの問題もないわよねと思いつつ、女房装束を着た葵の上と一緒に、意気揚々と牛車に乗り込んでいた。苑命婦えんのみょうぶという高い地位に就いても、紫苑はあいかわらず紫苑だった。


 混雑する道すがら、途中で一度、検非違使の検問にあったが、尚侍ないしのかみのお使いだと、いかにも立派な、関白のやかたに勤める女房装束の紫苑が、すだれ越しに、すました様子で言うので、彼らは恐縮して、この混雑ですからと、道を開けるように、先導まで出してくれる。


「葵の上……?!」

「母君のことが心配で、こちらに参りました!」


 そうして、あの日、あの女童事件と、大猿事件と同じ、沈痛な表情の将仁まさひと様は、「母君を絶対に御無事で取り返さないと!!」そう言って、自分の直衣の袖を握っている葵の上に、頭を痛めながら抱き上げ、牛車から降ろしていた。


 そのような訳で、将仁まさひと様であれば、決して母君を見捨てないと思った葵の上は、またもやいつものごとく、御神刀ごしんとうを手に、将仁まさひと様のところに家出? を決行していたのでございました。


 *


『本編と多分関係のない小話/苑命婦えんのみょうぶ(紫苑)編』


紫「頭が高ーい、頭が高ーい!! うふふふ――」


 命婦みょうぶ(五位・上)になった日。


六「…………」真白の陰陽師は五位以下。


 偉そうなので、蛙にしちゃおうかなとか思って、呪をとなえはじめている。


伍「まあまあ! 酔っぱらっているだけですから! ねっ?!」慌てて止めている。


 シェアハウスで昇進お祝いの会を開いてもらっていたのでした。


 紫「ごめんなさい! ホント、覚えてないから! ホントごめんなさい……だから……」


 次の日、もう寝言封じの札をあげないとか言われて、ヘコヘコ謝っているのでした。笑。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る