第180話 執着 4

 刈安守かりやすのかみの昔話が終わったあとは、頭中将がいないこと、光源氏が未だ皇子であり、八歳であること以外は、元の絵巻物語の中にある『帚木ははきぎ』をなぞるかのように、再び他愛なくも、いけ図々しい、ふたりによる女の品定めとでもいった恋愛講釈がはじまる。


「たよりなさ過ぎるのもいけないが、教育がゆき届き過ぎた女もいけない」「少し別の女君と情を交わせば嫉妬する女は、うっとうしくて見苦しい」「いくら美しくても、軽々しき女も……」


 ふたりは面白おかし気に、様々な女君を上げつらったりしていたが、結局のところ、本当の上流の姫君というものには、いまのところ、お目通りがかなったこともないので、最後には言葉が過ぎましたと笑って言うのに、光る君は尚侍ないしのかみを思い出して、含み笑いで答えた。


「当たらずも遠からず、そんな風に思うね」


 周囲の女房たちは、光る君が、誰を指しているのかピンときて、クスクスと笑っていた。


 光る君は、菓子を食べながら、あの方は美しいお顔以外は、すべてに秀で過ぎて、逆に情緒も趣もない、実は中身のない方だったと思う。


 しかしながら今後、右大臣を外戚に持つ第一皇子、朱雀の君が帝となり、彼の御代となれば、現実問題として、自分とつるばみの君の幸せのためには、先ほど考えたように、一旦は臣下に降り、強いうしろ盾を得るのが一番だと考える。


 第一皇子が帝となれば、たとえ自分が親王のままで、なんとかつるばみの君を、親王の妃のひとりに迎え、願い通りに姫君を授かり、父君である桐壷帝の後押しがあったとて、あの弘徽殿女御こきでんのにょうごを黙らせて、姫君を東宮妃に送り込むことは、難しいことであろう。


 だが臣下に降りて、お飾りの妻として、あの尚侍ないしのかみを手に入れれば、弘徽殿女御こきでんのにょうごですら、黙るしかない大きな機会を、再び自分が手にできることに思い当たり、今再び別の大きな執着が、あの方へつのる。


「“摂関家”……か……」


 これ以上のうしろ盾があろうか? 母君の生まれ変わりのようなつるばみの君の存在に、尚侍ないしのかみにかけられた、美しいまやかしから目覚めたと、うっすらと笑みを浮かべた彼の呟きは、誰にも聞こえなかった。


 少ししてから、左馬頭さまのかみは、皇子はこのさみしいやかたより、いまからでも帝がいる右大臣家に向かわれてはどうかと勧める。


「いくら気が利くとはいえ、刈安守かりやすのかみは常に多忙で、やかたを空けることも多く、世間を知らずに引きこもっている、病みがちな妹君に、皇子に満足する対応など、できぬことでしょう」


 彼は皇子の身を大層案じる……そんな様子でそう言った。それでも弘徽殿女御こきでんのにょうごのことを思い、あちらに行くことを心配する周囲の者に、彼は言葉を重ねる。


桐壷御息所きりつぼのみやすどころが身罷って二年、これほど尊く美しい光る君を、いまとなっては、女御にょうごも恨むことなどないでしょう」


 目の前の皇子は、誰が見ても尊く美しい方であると、彼は心からそう思っていたが、実のところ、初めてきたこの素晴らしい二条院に圧倒された彼は、身分的にはやや不足はあるが、刈安守かりやすのかみの妹君(正確には、彼女を手に入れることによって、自分が婿として、このような贅沢な妻の実家に支えられる機会)に大いに興味を抱き、あわよくば、帰りに姫君の元に、忍んでみようと考えたのだ。女は忍び込んで、愛していると押し通してしまえば、どうとでもなると、彼は思っていた。


「その通りだと思います。早くに母宮を亡くされたお立場である上に、一目見るだけで、ほほえまずにはいられない……このように美しくも尊い皇子を、誰が邪険にできましょう……」


 似たような下心を、つるばみの君に抱いていた式部丞しきぶのじょうもそう言うが、姫君にもう一度会いたいと思う光る君は、もう遅くて眠たくなったからと、彼らに返事をし、女房たちも今夜はこのあたりでと言うので、二人は渋々ながら、それぞれに牛車に乗って、まだ大勢の武官や侍が行き交う町中を帰って行った。


 光る君は、自分の眠る支度をはじめた女房たちに隠れて、惟光これみつを呼び、つるばみの君に、ふみを渡してきて欲しいと頼む。


 内裏が燃えたことで、大きな衝撃を受けていた光る君であったが、元来の性格が目覚めたのか、そんなことは下々が、なんとかすべきものと忘れることにして、眠るご用意を……そう言う女房に、うながされるままに、着替えを済ませると、くつろいだ姿で庭をながめる。


 母君と一緒に帰ったあの日、廃屋のように感じていたこのやかたは、いまでは後宮の殿舎に劣らぬほどに、美しくよみがえり、庭に敷き詰められている白い小石も、まるで小さな白い玉のように、月明りに輝いている。


 遠くに見える池に浮かぶ月影を、うっとりとながめながら、惟光これみつが姫君の返事を持って、帰ってくるのを待った。


「あんなつまらない姫君に、ふみなどもったいない……」


 惟光これみつがそうブツクサ言いながら、それでも律儀に、姫君がいるはずの東の対につながる、暗い渡殿を歩いていると、いきなり顔全体を、湿った布で覆われて、すぐに意識を失うと、床板の上に崩れ落ちていた。


不躾ぶしつけやからだ……主人のうつわの底が見えるね……」


 惟光これみつを気絶させた刈安守かりやすのかみは、気を失っている彼の上半身を無理に起こすと、瓶に入った酒を、彼の喉に無理やり大量に注ぎ込み、ここで始末ができぬことを、しごく残念に思いながら、庭に放り出して、妹君のいる御几帳台に足を運ぶ。


 つるばみの君は、やはり疲れ切った様子で、布団の上に横たわっていた。


「こんなに顔色が悪くなって……かわいそうに……」


 彼が意識のない妹君を、そっと抱き上げて薬湯を飲ませると、彼女はうっすらと目を開ける。


「……兄君」

「少し熱が出ている。しばらく起きてはいけないよ……」


 つるばみの君は、ぼんやりとした頭の隅で、このやかたに本物の皇子様がいるなんて、嘘みたいだと思い、でもせっかくなら、尚侍ないしのかみにお会いしたかったと思いながら、降り出した雨にも気づかずに、再び深い眠りにつく。


 彼は近くにあった文机で、なにか書き物をしてから、年老いた女房を呼び、妹君から目を離さぬようにと言いつけ、姿を消した。


 刈安守かりやすのかみは、二条院の隅にある蔵のひとつに、鍵を開けて中に入り、彼が助け、それがゆえに、目が見えぬように口がきけぬ行き倒れに、例の品々がつつまれた油紙を手渡すと、裏にある小さなくぐり戸から、まっすぐ歩くこともままならず……そんな様子の彼を、真っ暗な裏通りの小道まで、手をひいて連れてゆき、そっと置き去りにして木戸を閉める。


「早く誰かが見つけてくれるとよいね……」


 彼は、誰に聞かせるでもなくそう呟くと、自分の曹司に戻り、周りをうろつく女童めわらの小さな怨霊の群れを、うっとうしそうに手で払い、隠し扉を開けて中に消えた。


 その少しあと、光る君に惟光これみつを探してくるようにと頼まれた女房たちは、光る君のふみを持ったまま、庭でだらしなく寝ている彼を発見すると、「惟光これみつは、庭で酔いつぶれて寝ておりました」そう伝え、あからさまにがっかりしている光る君を、もうお眠りにならねばと、御几帳台へと急かして、布団をかけた。


 さて、惟光これみつであったが、女房たちには、なにかと皇子の真似をしたがる、才もないただのわらしが、背伸びをして酒など飲むからだと、あきれられて、そのまま頭を冷やせばよいと、みなにブツクサ言われていたのだが、これを口実に、刈安守かりやすのかみのところに顔を出すよい理由ができたと、誰かが言い出すと、その話題で皆は盛り上がり、誰が刈安守かりやすのかみのところに行くか話しをしながら、わざわざ惟光これみつを回収して、よく風の当たる孫庇に転がした。


 刈安守かりやすのかみは、殿上を許される一応の身分の方であり、人柄も見た目もよく、なによりもこのように素晴らしいやかたに、不自由なく暮らしている『超優良物件』だと、彼女たちの目には映っていた。


 やがて長い話し合いの末、クジを引き当てた女房が、嬉し気な様子で、化粧を直してから、さも困った顔で東の対に顔を出し、妹君の側にいた年老いた女房に「実は刈安守かりやすのかみに、情けないご相談なのですが……」そう声をかける。


 そのあとしばらくして、いつもと変わらぬ様子ながら、どこか不機嫌そうな刈安守かりやすのかみが、呼びに行った女房に、つき添われながら、曹司から薬箱を持って、惟光これみつの様子を見にきた。


 そんなこんなで、大宮は今夜のところは、ひとまずご無事であり、二条院では先に帰ったふたりも含めて、誰も幸せにならない夜が過ぎていたが、このやかたのあるじの懐深くに入り込んで、命があっただけでも、儲けものだという事実には、誰も気がついてはいなかった。



〈 関白のやかた 〉


「…………」


『変な夢を見た……やれやれ、ホント、光源氏アレと縁が切れてよかった……』


 光る君が小さなうたげを楽しんでいる頃、寝汗びっしょりで飛び起きた葵の上は、自分の手を誰かが握っているのに気づく。


「母君……?」


 葵の上はそう言ったが、彼女の手を握っていたのは、母君ではなく六条御息所ろくじょうのみやすどころだった。

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