第179話 執着 3

 光る君は、尚侍ないしのかみのお顔を思い出し、帝は、彼女との縁を結ばせたがったが、自分自身、初めは打算しか抱いていなかったのに、いつの間にか、あの方こそまことの恋のお相手と、恋焦がれていたことを、いまさらのように不思議に思う。


 よくよく考えてみるに、尚侍ないしのかみという方は、誰よりも美しく気高く、すべてに優れていて、地位も人柄もなんの不足ない方だ。しかしひとりの姫君、女君としての内面はどうであろうか?


 母君やつるばみの君とくらべれば、あまりにも情緒も隙もなく、心を許す気にならぬ方だと、彼女の足らぬ数々の部分に、今更ながらに思い当たった。


 つまるところ、あの方の一番の魅力は、やはり“摂関家の姫君”という、背景の部分であり、母君やつるばみの君のように、にじみ出るような頼りなくすら思えるほどの、甘やかで柔らかな優しさを、持ち合わせぬことを強く感じ、今宵、耳にした「高貴な女はどれほど美しくできた存在であっても気づまりで、女は中流にすばらしき者が多く、楽しませてくれる」といった話で、自分の考えに確信を持つ。


 並ぶべく貴族も存在しない“摂関家の姫君”とあらば、しかたのないことだが、彼らが話していたような、もどかしいほどの恋心を、あの方に抱いたことは、正直に言って一度もなかったと思い、意外な自分の考えに瞬きを繰り返す。


 あの美しいお顔を見ていると、すべてがどうでもよくなり、頭がどうにかなってしまうのかもしれない……。


 畏れ多いことなれど、帝のご自分の妹への三条の大宮に対する未だ『過ぎた執着』としか思えぬお姿を思い出し、大宮に瓜ふたつの尚侍ないしのかみの、お顔の美しさに飲み込まれ、本質を見失っていた自分を恥じる。


 身分が足らずとも、母君のような方こそ、つるばみの君こそ、本当に素晴らしく、まことの恋をするに、ふさわしい姫君なのに……。


 母君が生まれ育ったこの二条院にいると、なにか自分にかけられた、まがまがしい呪いとでもいう重い雲が晴れてゆく……そんな気持ちで一杯になった。


 恋に恋をし、母への面影に永遠に執着する……。


『光り輝くマザコンの星!!』


 葵の上にそう酷評された光る君の本性が、離脱したはずのこの世界にも表れ、彼の心に深く根を張ってゆく。


「二条院に呼ばれたのが、そなたたちも初めてとは、意外なことだね……」

「ええ、ここだけの話、刈安守かりやすのかみという男は、実に苦労を重ねた男でございますので、妹君と静かに暮らす生活に、幸せを感じているのだと、わたくしは察しております」

「一体、彼と妹君に、なにがあったの?」


 光る君は、つるばみの君の兄の話に、ひとまず耳を傾けることにして、そう聞いた。


 兄に守られて、ひっそりと暮らしていた彼女と、一度だけでも二人きりで、しみじみと語り合えぬものかと思いながら、話を聞いていると、彼と妹君にまつわる悲劇と不幸は、まるで絵物語のようで、気がつけば、光る君も女房たちも、いつの間にか息を潜めて聞き入っていた。


 彼は幼くしてすぐに、その非凡な才を認められながらも、不幸な出来事で、早くに両親を亡くし、なんと、父親の縁者たちに代々続く典薬頭てんやくのかみの地位すらも奪われそうになると、一時はまだ赤子同然であった病弱な妹君を抱えて、京の外にある山の奥深く、うっそうと草が生え、荒れ果てた小さな別邸に、蟄居同然に閉じ込められていたというのだ。


 そんな風にはじまった話に、みなは息をのむ。いまも母君を失ったつらさは消えてはいないが、幼き日に瀕死の母君と、いまとはまるで違う荒れ果てていた、このやかたで、胸が潰れるような経験をした光る君は、ことさらであった。


「なんと気の毒な……でも彼がいま、典薬頭てんやくのかみに就いているということは、大丈夫だったのだろうね?」

「ええ、その数年後、そのままにしておくのも体裁が悪いと思ったのか、都合上、彼を成人させねば動かせぬ、利権でもあったのか、彼は七歳という若さで元服したのですが、ちょうどその頃、いまは亡き関白の北の方が、いまの左大臣の兄君であった長子を亡くされてから、長く気を病んでいらっしゃるのを、亡き父親の親しい知り合いから、偶然にも聞きつけた彼が、比類なきその才を持って、治したそうでございます。その功をもって、関白の北の方の強い威光で、典薬頭てんやくのかみの地位を守り、瀕死の状態であった妹君も、長い養生の末、ようやく死の淵から立ち直ったとか……」


 心配そうな顔で、話に聞き入っていた光る君や女房たちは、その言葉に、ほっと息をつく。女房の中には、あの親切な方が、幼い時分に体験したつらい境遇を思い、そっと袖で涙を抑える者もあった。


「そんなふたりを哀れに思し召した御仏の御加護か、ちょうど彼が元服をした頃、流行り病で縁者が相次いで亡くなったのが、彼には幸いいたしまして、近しい親戚筋が務めていた遥授国司ようじゅこくしの地位すらも手に入れ、いまの地位に見合わぬ豊かで落ち着いた暮らしを、手に入れたのでございます」

「関白の北の方が、刈安守かりやすのかみと懇意だったと言うのであれば、いまも彼は、摂関家の庇護を受けているの?」


 もしそうであれば、きさきは無理でも、摂関家のあと押しと、兄である刈安守かりやすのかみの潤沢な財があれば、つるばみの君を、どこかしらの公卿の養女にしてもらい、親王の側室としての立場であれば、彼女を引取れるだろうと光る君は思い、心を躍らせながら、さりげなく聞いてみた。


 東宮になれぬと知った時は、何日も呆然としていたが、いまとなっては、それも彼女との出会いを予見した、御仏の御導きだったのかも知れない。もし東宮になり、将来の帝の地位が見えていれば、更衣としてですら、身分の足りぬ彼女を入内させるなど、いくらなんでも無理な話であった。


 それほどまでに、あの方は母君を彷彿とさせる。遠いとはいえ、母君とのご縁があるからだろうか? 縁というものの不思議さに、光る君は胸を打たれた。


 光る君は、似ていると言う言葉では、言いあらわせぬほどに、最愛の母君と重なるつるばみの君を自分のものにしたいと思い、あと二年もすれば、いや、帝に頼み込めば、いますぐにでも、元服もできる歳であるから、是が非にでもと彼女を欲する。


 もし反対されれば、臣下に降りても良いとすら考えた。そうなったとしても、地位は低いが、彼女の兄である刈安守かりやすのかみは、だからこそ尊い血筋の自分を、大切にしてくれるであろうし、自分が母君の育ったこの美しい二条院で、つるばみの君と、仲良く静かに暮らすのは、亡き母君もお喜びになるであろうと、うっとりと、素晴らしい未来を想像し思い描く。


 自分を溺愛する帝が、臣下に降りた自分を心配して、どこかしら高貴な姫君と、正式な縁談を強く勧めるのであれば、一応は北の方に見知らぬ姫君を迎え、つるばみの君との間にできた姫君を、北の方を母と定めることで、いずれ入内させることも、できるかもしれない。そうすれば、自分がかなわなかった東宮への、帝への道も、その姫君を通じてかなう。


 光る君は、あれほど葵の上に、こっぴどく振られたこともすっかり忘れ、つるばみの君の気持は置き去りに、遠い未来であった自分を、彷彿とさせるような、血のロンダリングによって、自分の失った夢と希望を再び想い描き、まるで元のお話の『藤壺中宮ふじつぼのちゅうぐう』を恋焦がれていた時と同じほどに、つるばみの君に対して、心をときめかせていたが、耳に入った言葉は残念な報告であった。


「いえ……それが、関白はいまの左大臣を溺愛する北の方と、たいそう仲が悪かったそうで……その昔、『ぬえ』とすら呼ばれた、どこか冷たい雰囲気のする、気味の悪いほどに優れた長子を亡くしたのは、北の方のせいだと、長子が身罷られて以来、左大臣はともかく、北の方が身罷るまで、完全に形式上の夫婦だったとか。左大臣とのつきあいはともかく、関白が復活されたいま、摂関家との関わりは、それほど深くはないと聞いております」

「ああ、わたくしも聞いたことがございます。平安貴族の鏡というべき、雅で趣味のよい温和な左大臣を北の方は溺愛し、なにごとにも完璧を求める関白は、愛想のない雅に重きをおかぬ長子を、常に重く扱われていたとか。いくら素晴らしい方でも、やはり年寄りという者は、時代に取り残されてゆくものですね……」


『そんな調子だから、国政が傾いたんや――!』


 葵の上が聞けば、コンプライアンスの呪文も忘れて、往復ビンタをかまして回りそうなことを、まだまだ時代の空気の代わりを分かっていない、旧来通りのごく普通の平安貴族のふたりは、皇子に問われるままに、交互にしたり顔で話をしていた。



 *


〈 後書き 〉


蔵人所くろうどどころのざっくりした階級制度 /(※だいだいざっくりフィクションです)


 別当>頭中将とうのちゅうじょう近衛府の次官、近衛中将も兼任(※儀仗兵的な名誉職)>頭弁とうのべん>その他、総勢百名ほどになっています。(鷹も管理している)


『鷹が逃げた日の小話』


別「鷹は見つかった?」


兄「見つかりませんね――、あっ、もうこんな時間! お先に失礼します!」


 総出で探している中、超他人事で、定時定刻で帰っている。溜まっている文(ラブレター)の返事を書こうと思っている。


別「……」右大臣に会いに行って、今日は定時で帰ったと密告しているのでした。


右「これはこれは、よいところで会いましたな! ぜひご一緒に!」


兄「……」右大臣家に行っても、四の君のところへゆく訳でもなく、よっぱらった右大臣の愚痴を聞かされているのでした。

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