第182話 脱出 2

「わたしも中務卿なかつかさきょうのやかたに……」

「駄目です」

「このやかたは、わたくしの婚約相手である姫君が……いつまでもいるのは、世間体的によくない……」

「四歳の姫君方が、遠い対屋にいるからといって、どこの誰がそのようなことを言うのですか?」

「……母君が心配なので、右大臣のやかたに……」

「抜け出すおつもりですね、駄目です」

「…………」


 自分も黙って抜け出せばよかった! 朱雀の君こと東宮が、関白を相手に、なんとか説得をこころみている頃、葵の上は中務卿なかつかさきょうのやかたに着いたと同時に、彼に母君を探しに行こうと言い出していたが、なにも分からぬのに、なにをどうするのかと、報告が上がってくるまで待ちなさいと冷静に言われ、不承不承ながら、ひとまずは女房装束から、用意された自分の十二単じゅうにひとえに着替えていた。


「あとで頭中将とうのちゅうじょうたちから、なんらかの報告があります。その前に、その髪をなんとかせねば……」


 葵の上は、痛ましそうな口調でそう言われ、こんがりいぶされて、灯りに浮かぶトウモロコシのヒゲみたいになっている髪の裾を見て、よく髪に火がつかなかったと、あらためてあの火事にぞっとしていた。


「……また伸びますし、バッサリ落としてください」

「つらいことでしょうが、そうするしかありませんね、髪削かみそぎの用意をさせましょう……」


 そんな訳で葵の上は、この時代にはありえない長さ、二尺(約60cm)ほどの髪削かみそぎ(ヘアカット)を将仁まさひと様にしてもらう。


千尋ちひろ……」


 一尋いちひろ(約六尺/180cm)の千倍にも長く伸びますように……そんな祝詞のりとを、せめてもと口にしながら、十二歳という年齢には、ありえぬほど長く、夜の射干玉ぬばたまが流れ出したような美しい黒髪から、中務卿なかつかさきょうは、痛んだ部分を削ぎとってゆく。


 貴族の女君は、みなが身の丈に迫る大垂髪おすべらかしと呼ばれる“スーパー・ウルトラ・ロングヘア”なこの時代、髪を切る(削ぐ)のは、少女の頃に節目ごとに、後見人が執り行う儀式的な意味合いが大きく、いくら仕方のないこととはいえ、これほど長く髪をバッサリと削ぐことに、周囲に控える女房たちは、悲壮な顔であったし、紫苑などは、自分の髪が燃えればよかったと口走り、ポロポロ大粒の涙をこぼしながら、その光景を見ていたが、当の本人は中身が現代人だったので、「正直言ってすっきりした!!」そんな思いだった。


『く……首が軽い!』


 痛んだ髪はなくなったし、頭は軽くなったしで、葵の上はひとまず安堵の息をつき、腰のあたりまで短くなり、すっかり軽くなった首を少し傾げて、髪に手をやっていた。


 美容師さんがいないって衝撃だけど、中務卿なかつかさきょうって、つくづく器用な人だなと思う。しかし周囲の空気が、どんよりしているのを感じ、涙が止まらない紫苑を「また伸びるから大丈夫」そう言って慌ててなぐさめる。


「わたくしの髪よりも、母君を早く助けなければ……そうでしょう?!」

「う……うっ……そうですね、大宮を、早く大宮をお助けせねば……」


 紫苑の顔は涙にぬれてビショビショで、頭が軽くなって嬉しいとしか思わなかった自分を反省し、彼女の背を優しく撫ぜながら、命が残っただけで十分だと言う。


 一方、中務卿なかつかさきょうは、いくらまた伸びるとはいえ、これほど短くなってしまっては、さぞ痛々しいだろうと思い、ひどく胸が痛んでいたが、髪が短くなったお姿を見て、それは杞憂きゆうであったと思っていた。


 姫君の腰のあたりにまとわりつく、やや年にはそぐわぬほど短くなった美しい黒髪は、自分がまだ知らなかった、幼い女童めわらであった時代の姫君を彷彿とさせるような、そんな愛くるしい雰囲気を醸し出し、もはや形式上は、北の方という地位である葵の上が、本来であれば、いまだ姫君と呼ぶにふさわしい年頃だと、あらためて気づかせる。


 年相応以上に、すっかり幼げになった葵の上の姿は、母君とは瓜ふたつにしか見えなかった『大人びた尚侍ないしのかみ』とはまるで別人のようで、髪型ひとつで姫君とは、ここまで変わるのかと、驚きを隠せない。


「今一度、あと数年たってから、姫君の裳着もぎをせねばならぬ、そんな気がいたしますね」

「まあ……」


 中務卿なかつかさきょうが、北の方である葵の上に、そうささやくのが、側で控えていた夕顔の耳に入り、あるじ掌中しょうちゅうたまといった様子で、北の方を大切にされている姿を、密かにうらやましく思う。


 あるじは、世間でなにかと悪い意味でも、うわさにのぼることも多い方で、このやかたで働き出した当初、彼の着替えや身の回りのことを手伝うことが多い彼女は、時々見え隠れする、彼の腕から首筋に這うような火傷のあとに、内心では驚き、どこか恐ろしく思っていたが、いまでは六条御息所ろくじょうのみやすどころの『御仏による早めの功徳説』を信じている。


 内裏では鬼と呼ばれる中務卿なかつかさきょうであるが、側づかえの女房の夕顔をはじめ、紫苑の姉妹である菖蒲あやめ撫子なでしこにとっては、特に無理難題を言う方ではなく、趣味とやかたは、かなり変わっているけれど、むしろとても優しくてよい方だというのが、もっぱらの評判であった。(と言うか、不平不満が出るほど、多忙な彼は自分のやかたにいなかった。)


 彼女たちが、ここに勤め出してから二年の間に、あるじの乳母であった年老いた女房は、とうとう引退してしまっていたが、新しく広まった算盤そろばんを覚え、倹約に拍車がかかった家人の猩緋しょうひは、人件費と維持管理を天秤にかけて、葵の上が帰るときは、左大臣家の女房が一緒に下がってくるため、三人いれば、あとはほかの奉公人でなんとかなると、女房の募集をやめていたので、あれから女房の数はあいかわらず三人だけだ。


 菖蒲あやめ撫子なでしこは、公卿くぎょうのやかたなのに、信じられないと、ブーブー文句を言っていたが、元はれっきとした貴族の姫君として、かしずかれて育ち、どこかおっとりとしたところのある夕顔は、側づかえの女房の仕事にいそしみながらも、あまり多くの人と会うこともない、いまの勤めが気に入っていた。


 夕顔は、裁縫と染色の女神である竜田姫もかくや……そんな風に言われていた、いまは亡き母君に教えられた素晴らしい裁縫と染色の腕前の持ち主で、北の方である葵の上が、ほとんど参内していることもあり、いまではあるじである中務卿なかつかさきょうのやかたで、必要なそれらの手配を一手に引き受け、どちらかと言えば、紫苑ほどではないが、裁縫が下手な菖蒲あやめ撫子なでしこを相手に『裁縫教室』といった貴族の姫君の教養のひと時、そんな風に思えるような時間を持てるほどで、女房にしては、格段に穏やかな暮らしを送っていた。


 そんな訳で、本来であれば、今日のような大騒動などに彼女たち三人では、とても対応ができるはずもなかったのだが、葵の上をして、「この人たちだったら、ちょっと頑張れば、十二単じゅうにひとえで、『集団行動』できるんじゃない?」


 前世、某体育大学の名物パフォーマンスを彷彿させるほど、素晴らしい精鋭ぞろいな六条御息所ろくじょうのみやすどころの派遣した女房たちが、昨日からやってきて、いつ葵の上が身ひとつで帰っても大丈夫なように、準備万端に抜かりなく整えてくれていたので、葵の上が紫苑とふたりで、飛び出すように帰ってきても、なんの問題もなかった。


 ちなみに御息所みやすどころの『THEプロフェッショナル』な女房たちは、夕顔たちのおっとりとした働きぶりに、「地方の貴族の姫君が嫁入り前に、みやこを見物がてら、お勤めをしているに違いない」そんなことを言いながら、テキパキと奉公人たちを取り仕切り、東と西の対屋にもうけてある武道場に、葵の上の輿入れのためにと、左大臣家から送り届けられてから出番もなく、お蔵入りしていた、さまざまな調度品を運び込ませ、要らぬと判断した弓の的である巻藁などは、蔵に収納させて、寝殿としての一応の体裁を整えていた。


「葵の上がお優しいことをよいことに、中務卿なかつかさきょうは、摂関家の姫君を北の方を迎えた公卿としての責任感がないのですわ!」

「主人のご趣味にとやかく言うのは、女房としては、ならぬことですけれど、葵の上がお子を授かって里に下がられたら、一体どうするおつもりなのかしら?」

「北の方となられて、もう二年、いつそうなっても、おかしくございませんのに、のんきな話です……帰ったら御息所みやすどころや、関白にもご報告をせねば……」


 実年齢がまだ十二歳なのに、もうすでに「子供はまだか?」自分がそんな状態に置かれていることを知れば、中身が現代人の葵の上は、驚愕したに違いなかったが、「姫君であれば次の東宮妃、男君であれば、末は大臣にもなれるはず……」「いや、ひょっとすれば、いまの東宮妃にすら……」そんな話が、女房たちの間では続いていた。


 まだ大宮の誘拐事件を知らない彼女たちは、内裏が焼失したことには、大いに動揺はしていたが、葵の上が帰られたということは、みなさまはご無事だと、ひとまずは安心し、そんな他愛ない話をして、気を紛らわしていたのである。


 夕顔たちが髪削かみそぎの片づけをし、葵の上の身の回りを整えたり、髪を櫛で梳いたりしていると、御息所みやすどころの派遣した女房のひとりが、夕顔に中務卿なかつかさきょうの客人がきたと告げにくる。


「こんな夜更けに一体どなたが……」

「北の方の兄君、頭中将とうのちゅうじょうと、蔵人所くろうどどころ検非違使けびいしの別当方が急用にて、すぐに目通りを頂きたいと、お越しにございます」


 大宮の失踪事件の手掛かりを手に入れた彼らは、それぞれに馬に乗ったまま、このやかたにつくと、葵の上がここに来ているなど、思いつきもしないので、「北の方が、あの、尚侍ないしのかみが、お帰りになっておりますので、あの、その……少しお待ちいただいて……」そんな風に、慌てて出迎えた夕顔が、小さな声で、必死に言うのにも気づかず、足早に母屋に足を運ぶ。


 母屋にいた紫苑たちは、凄い勢いで聞こえてくる足音に慌てた。


「あ、御簾みす! 御簾を降ろして! 葵の上が丸見えになっちゃう!」

「ああ、御簾ね、御簾!」

「御簾! 御簾!」


 女童めわら事件の時と変らず、上げっぱなしにしていた母屋の内御簾を、ほとんど同じ顔の紫苑と菖蒲あやめ撫子なでしこの三人が、アワアワと降ろし終えると同時に、彼らは姿を現し、御簾の端から少し見えてから、すぐに消えた衣の裾に、検非違使けびいしの別当は、なにやら既視感を覚えていた。


「なんと、尚侍ないしのかみが、こちらにお帰りとは知らず、ご無礼いたしました」

「これはこれは、大変なご無礼を……」

「葵の上がこちらに帰っているとは……」


『さっき言いましたけれど……』


 夕顔はそう思いながら、実の兄君であり、京中の姫君のアイドル、頭中将とうのちゅうじょうが、内御簾に入るうしろを、しずしずとついてゆく。


「あっ……!」


 葵の上のすっかり短くなった髪に驚いて、一言そう言うと、その場に崩れた、頭中将とうのちゅうじょうに、慌てた葵の上が、お茶だなんだと運ばせている間、夕顔は、ずっと檜扇で彼をあおいでいた。


『こんな繊細な人が、頭中将とうのちゅうじょう(※武官の上級将官)という役どころで大丈夫なのかしら?』


 そう思いながら。


 元のお話とは違い、武芸者たちが多く出入りする中務卿なかつかさきょうのやかたに勤めていた彼女は、常日頃から出入りしている武官たちや、中務卿なかつかさきょう検非違使けびいしの別当の稽古をよく見ていたし、なんなら口外せぬようにと言われている、ごくたまに帰ってきた時に、北の方である葵の上と中務卿なかつかさきょうの立ち合い稽古も目撃し、すっかりや多少の事件に、なれてしまっていたので、頭中将とうのちゅうじょうは、北の方よりも繊細な方なのねと考える。


 はじめは女君である北の方が、目にも止まらぬ速さで剣を抜き、巻藁を鮮やかに二つにしてしまうお姿に驚いたが、よくよく考えれば、当家の北の方は尚侍ないしのかみ、世にも珍しい女公卿という、重いお役目の尊いお方。


 世間には秘したお役目もあるのだろうと思い大いに尊敬し、その兄君にも同じような憧れを持っていたので、少し残念に思っていたが、とても妹思いの方なのかもしれないと、自分の大切な、そしていまは亡き妹を思い出していた。


『あっ! 兄君が夕顔と出会ってしまった!』


 母君のことで頭が一杯だった葵の上は、いまはそれどころじゃないから! ふたりの出会いにそう思い、どうしようかなと、目をつむって少し考えていたが、とりあえず接点を少なくしておけばいいかと、御息所みやすどころの女房たちを呼んで、気絶している兄君を、几帳台の布団に運ばせると、ようやく母君の誘拐事件に、集中することにした。


 検非違使けびいしの別当が、手に持っていた油紙の包みを、御簾内にそっと差し入れる。広げられた油紙の中には、料紙が二枚と母君のものであろう美しい黒髪がひと房。

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