第183話 脱出 3

「不審者を発見した部下から届きました。この大火の出来事の中、これほどの人員を投入しての人攫いの捜索、宛名はございましたが、重要なものであろうと、中身はわたくしも蔵人所くろうどどころの別当も、すでに拝見いたしました」

「……当然のことですね」


 差し入れられた包みを広げながら、そう葵の上は返事をする。中務卿なかつかさきょうは、ふたりの報告に耳を傾けていた。


「今宵は内裏の門を警備する左右の近衛府このえふの武官にも、京への出入りの検問を、厳重に手配りさせております」

「しかしながら、混乱する京を巡回しておりました検非違使のひとりが、この油紙の包みを持つ浮浪者を発見し、内容が内容ゆえに、蔵人所くろうどどころの別当、頭中将とうのちゅうじょうとも協議し、先に尚侍ないしのかみを北の方とされている中務卿なかつかさきょうに相談をと、持参した次第にございます」


 ふたりの別当は、口々にそう言いながら、宛先と名指しされている、尚侍ないしのかみのご様子を御簾越しに、そっとうかがっていた。


 大宮と尚侍ないしのかみが瓜ふたつであると、直接に見知っている蔵人所の別当は、手紙を改めた瞬間、さらわれたのは、三条の大宮だと気づき、またそれが、尚侍ないしのかみとの人違いであることに思い至ると、彼女の胸中を思い、胸を痛めていた。


 しばらく悩んだ末に、彼にそのことを打ち明けられた、こちらも仔細を知らぬままに、捜索に当たっていた、検非違使の別当は、そのように信じられぬ出来事に驚き、尚侍ないしのかみには極力知らせぬ方がよいと思っていたので、この展開に苦い表情であった。


 油紙に包まれていたのは、美しい黒髪がひと房、なにか書かれた最高級の料紙が二枚。香の焚き染められた赤錆あかさび色の料紙に納まっていた。


 文字の読み書きのできる者が少なく、料紙が貴重な品である時代、手段はともあれ、このように整った手紙やふみを、用意できること自体、この得体の知れぬ不気味な差出人は、かなりの身分、あるいは、かつてはかなりの身分であった者に違いなかったが、これを手にしていた、明らかに様子のおかしかった浮浪者は、なんの情報も引き出せぬまま、取り押さえてすぐに息絶えていた。


 葵の上は震える手で、香の焚きしめられた料紙を持ち、そっと自分を抱き寄せてくれる中務卿なかつかさきょうに、疲れた様子でもたれかかりながら、黙って目を通していた。


 ―――――――――


尚侍ないしのかみへ』


 尚侍ないしのかみが、少しもご存じないわたくしから、お手紙を送る不躾ぶしつけを、お許しくださることを、ただただ祈っております。


 さぞ驚かれたことと思いますが、わたくしは貴女あなた様と貴女あなた様の母宮を取り違えて、ご招待してしまいました者でございます。そのことには幾重にもお詫び申し上げます。


 貴女あなた様をわたくしのもとに、ご招待したい。そうと思ったのは、ただただ重なった今回の幸運に、ふと魔がさしてしまった……そんな次第にごさいます。


 その証拠に、貴女あなた様の母宮は、丁重にお預かりしておりますし、ひょんなことから手に入れた、尊い御仏みほとけ御告おつげに背く不埒ふらちな書状を、ここにお届けいたします。


 この世をあまねく慈悲の光で照らす、御仏みほとけの使いである貴女あなた様を、このように陥れようとする、悪鬼羅刹の作り出した書状を、わたくしは貴女あなた様のために一枚は処分し、これは残った最後の一枚にございます。


 もし、このことで、わたくしのことを信用にたる、ひとかどの者だと思し召しくださり、二人きりでお会いする僥倖ぎょうこうにめぐり会えましたなら、なにひとつ満足ができぬであろう、わたくしのいる世界から、なにごともなく、母宮をお戻しできることと思います。


 しかし、これをお読みになってから先は、貴女あなた様には、おひとりで、こちらの世界に足を、お運びいただかなければなりません。


 そうでなければ、御仏みほとけ御告おつげを破ったむくいは、内裏にとどまらず、きっと母宮の身にも降りかかることでございましょう。



 ――貴女様の崇拝者より――


『 次のさくの月 子の正刻(※午前0時) 一条戻橋いちじょうもどりばしにてお待ち申し上げます 』


 ―――――――――


 いまの内容が示唆していた、もう一通の料紙に目を向ける。


「これは……」


 鳳凰と龍の透かしの入った唐紙は、尚侍ないしのかみとして、内裏でよく目にしているもので、ソレを使用できるのは、『帝』だけであった。


 内容は前出の通り、帝と左大臣の署名が入った正式な中務卿なかつかさきょうと、左大臣の娘である葵の上の『離縁状』


「……この油紙の“中身”を確認いたしましたのは、我ら二人と頭中将とうのちゅうじょうのみでございます……」

「…………」


 蔵人所くろうどどころの別当が言った台詞せりふ示唆しさするところに気づいた、検非違使の別当は少し驚いた顔をしたが、捜索中、頭中将とうのちゅうじょうが、左大臣が関白に謹慎を言い渡されたと、使いの者に連絡を受けて、深刻な顔をしていたことを思い出し、彼も同じ考えだと言うことを示すように、御簾内に向かって深々と頭を下げた。


 摂関家の当主であり、左大臣の実の父である関白が、それほどに激怒した理由が『離縁状』にあると思い当たった上に、彼には関白や中務卿なかつかさきょう、それに蔵人所の別当のような、政治的な深謀遠慮も、尚侍ないしのかみへの特別な思い入れもなかったが、お二人の貴族社会にはまれな、仲睦まじい様子は聞き及んでいた。


 この時代にはめずらしくも、ごくごく生真面目な性分の彼は、こんな筋の通らぬ話はあるものかと、義憤ぎふんを覚えていたのである。


 手元にある料紙を握り締めたまま、しばらく将仁まさひと様の顔を見つめていた葵の上は、彼に簡単なこの書状のいきさつを聞くと、遠くの孫庇に下がっていた紫苑を呼び、季節外れの火鉢の用意を頼む。


 やがて用意された火鉢の中にある赤々とした炭の上に『離縁状』をくべ、ほっと息をついた。


 父君が摂関家の当主たる御祖父君に、謹慎を言い渡された以上、今後、自分の法的な後見ができるのは、御祖父君か中務卿なかつかさきょうだけである。


 帝といえど、もう二度と正式な『離縁状』を、簡単には作ることはできぬと安堵する。


 それから彼女は自分宛の料紙に、なにかしらの手掛かりはないかと、不気味な料紙を熱心に眺めたり、匂いを嗅いだりしていた。


 しかし、なんら手掛かりはなく、深いため息をつきながら、“毒をもって毒を制す”そんな様相を呈するように、帝と得体の知れぬ人攫いが、互いに自分を手中にしようとする執念深さにぞっとした。


『まあ帝はどうせ“光源氏”絡みなんだろうけど、この不気味な人攫いは何者なんだろう? まだこの世界に、運命の女神のしっぽでも残っていたんだろうか……』


「葵の上、この先は……」


 この先は、自分たちに任せるように、そう言おうとする中務卿なかつかさきょうの口元を、葵の上は白い手でそっとふさいで、黙って首を横に振る。


「誰がなんと言おうと、わたくしはこの手紙の通りにいたします。母君の命がかかっておりますもの。この世でただひとりの、わたくしの大切で尊い母君でございます」

「……なりませぬ」


 彼は優雅な白い手に、自分の武骨な手を重ね、短く低い声でそう言葉を返す。


 しかし葵の上は、彼の言葉は耳に入っていない……。そんな様子で中務卿なかつかさきょうの手を振り切って、料紙を手に立ち去ろうとするが、それはかなわずに、痛いほど強く力を込めて抱きしめられて、その場に立ちすくむ。


 これまで幾度も葵の上の命が消えるような、自分自身に襲いかかるよりも恐ろしい体験をしてきた中務卿なかつかさきょうは、たとえそれが女三宮のためだったとしても、葵の上を、彼女ひとりだけを、これ以上の危険に晒す気はなかった。


 御簾の向こうの不穏な空気を感じた二人の別当は、どうしたものかと沈黙したまま、じっとしていた。


「離してください」

「離せば、一体どこにゆくおつもりか?」

「今日はさくの月ではありません、どこにも行きません。だから……」


 葵の上は、「だから離してくれ」そう言おうと思った。この場で気を失うなり、泣き崩れるなりした方が、自然なのだろうとは思ったけれど、いますぐできることがないとはいえ、行き場のない怒りにじっとしていられなかったのだ。


「ひとりで動かぬと約束するまでは、お放しできません」

「……そんな約束はできません」


 美しい小袿こそで姿で、自分をまっすぐに見つめる葵の上に、中務卿なかつかさきょうは初めて小さな苛立ちを感じる。この方にとって、わたくしはそこまで頼りなき存在なのであろうかと。


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