第184話 脱出 4

「……です」

「え?」

「御祖父君は、わたくしと引き換えなれば、母君は見捨てるとおっしゃって……それで、でも、将仁まさひと様は、そんなことは絶対なさらないって……そう思って、ここに……でも、でも、この通りにしないと、母君は……」


 出会ってからはや三年、たとえご自身がどんな困難な状況であっても、愚痴ひとつこぼすことなく、まっすぐに突き進んできた葵上の頬に、涙がポロポロこぼれるのを、初めて見た中務卿なかつかさきょうは大いに慌てた。さきほどの苛立ちも忘れ、どうしたものかと、彼女を畳の上にそっと降ろすと、なぐさめるように両手を握る。短くなった髪が彼女を、より幼げに見せていた。


 考えてみれば、初めて出会った頃から驚くほどに、聡明で大人びていたこの方は、本来であれば、世を知らず蝶よ花よと、なに不自由なく裳着の日を迎えることもなく過ごしていても、おかしくない年齢なのだ。


 それなのに運命に翻弄され続け、不幸におそわれ続け、飲み込まれようとするのを、必死に跳ね返してきたことを思い出し、葵の上に降りかかる不幸に胸が痛む。


 この方にとって、自分にとっても救いであった、あの優しく尊い母君である女三宮、否、三条の大宮は、唯一の救いであったのだろう。


 父である左大臣の裏切りともいえるこの所業、そして摂関家の当主としては、正しいことであるが、祖父の冷徹としか言いようのない判断に、葵の上が不安と恐怖で、心がここにあらぬほど、揺れることは仕方ない。


 そんな中、自分だけを頼りに、やかたを抜け出してきたことを思い、胸の中に浮かんだ狭量な思いを反省すると、葵の上が少しでも落ち着くことが先決だと、なるべく安心できるよう、そっと華奢な背を撫ぜながら、ゆっくりと優しく話しかけた。


「無理なことでございましょうが、どうかいまは少しでも静心しずごころをお持ちください。いまできることは、すべて手を打っております。さくの月の夜はまだ先、この件はまた明日に検討いたしましょう。おつかれでしょうから、今夜はもうゆっくりなさい……」

「でも……」

「ご安心ください。関白には、明日にでも今一度、わたくしからお話をして、大宮の安全を最優先に考えていただけるように、説得いたしましょう」

「本当ですか?!」

「ええ、ご安心ください。大宮に大恩あるわたくしはもちろん、姫君の未来を見据えれば、母君を犠牲にしてよいことなど、なにひとつないことです。どうぞわたくしにお任せください。これでも中務省なかつかさしょうを取り仕切る身、年寄りのひとりやふたり、うまく扱ってみせましょう」

「まあ……」


 葵の上は、あまりの言い草に、長い睫毛をパチパチさせていたが、懐から取り出した懐紙で、そっと彼女の頬を伝う涙を押さえると、恥ずかしそうに、頬を赤らめてうつむいていた。


「わたくしと貴女はもう深い縁で結ばれた身、どうか、もうひとりで、荷を背負うことだけは、それだけはやめると誓って下さい」

「……はい」


『は――、もうこの人は本当に、どうしてこんなに、かっこいいんだろうか?!』


 わたしって、パニックになると、前しか見えなくなっちゃうから……せっかちだし……。社会経験の差……? かっこいいなぁ、いつかわたしもこんな風に……。


 葵の上はそんな風に、この時代にしては、ズレすぎたことをボンヤリ考えながら、ただただ尊敬のまなざしで、自分の皇子様を見つめていた。お姫様に憧れてはいるものの、彼女の思考は基本的に、元の時代に置いては昔風に言うところのな女子であった。



 それから少しして、葵の上は御簾の向こうで息を潜めて、ことの成り行きを見ていた二人の別当に、女房越しに挨拶をして、北の対に下がると、用意されていた遅い夕餉をとる。


『腹が減っては戦ができぬ』


 それも彼女の信条のひとつであった。


「いつかわたしもあんな風に……」

「なにかおっしゃいました?」

「……なんでもない」

「今日は、六条御息所ろくじょうのみやすどころが派遣してくれた料理人が、食事を用意してくれたんですよ」

「さすがね……」


 葵の上は、小豆ご飯を口に運びながら、並べられた色とりどりの膳の、精神安定効果のあるトリプトファンたっぷりの、『胡麻御膳ごまごぜん平安バージョン』そんな雰囲気の食事内容に感心する。


 さすが、六条御息所ろくじょうのみやすどころ、執念ぶか……いや、根気が凄い……。


 参内してからは、そう頻繁に顔を会せる機会はなかったが、御息所みやすどころは、関白である御祖父君の療養のために、葵の上が書き記した食事メニューのつづられた書簡に、つぶさに目を通し、内裏にいる自分と頻繁に書簡でやり取りの末、関白のやかたでは、左大臣家よりも、健康管理の行き届いた食生活がなされていたのである。


『そば粉のガレットまで完成してる!!』(名前は違うけどね)


胡麻ごまばっかりですね……」

胡麻ごまは体によいのよ、しかも心が落ち着くから」

胡麻ごまが?」

「残りの胡麻ごま団子は、あとで、みんなで食べていいわよ」

「ありがとうございます!」


 昔話に出てくるように、ピラミッド型に積み上げられている胡麻ごま団子は、さすがに量が多かったので、葵の上は紫苑にそう言う。


 それから、「もう少し落ち着いて物事を考えなきゃだよね……」そんな風に反省しながら、お風呂にゆっくり入り、その日の深夜、ようやく布団に入っていた。


 翌朝、朝も明けきらぬうちに、このやかたに帰ってきた時の習慣どおり、夕顔に作ってもらった、贅沢にも絹でできた合氣道用の道着と袴を身につける。


 それから髪をひとつにして、手早くひとりで身支度を済ませ、道場に向かった。(彼女の突拍子もない行動は、元々、あるじに慣れていた、このやかたの少ない奉公人たちは、御主人様がつき合わせているに違いないと、北の方の優しさに感動し、見て見ぬふりをしていた。)


 御祖父君の説得は、中務卿なかつかさきょうが引き受けてくれたし、さくの月の夜はまだ先、いつまでも泣いていても仕方がないと、とりあえず前向きに朝練でもしようと思ったのである。


『このやかたのいいところは、思い立ったらすぐに稽古できるところだよね――。しかも道着と袴のセットを作ってもらったから、自分で身支度できるし!!』


 御息所みやすどころのところの女房たちも帰った様子で、いつも通りに静かな、やかたの渡殿を歩いて、勢いよく妻戸を開けた葵の上は、またすぐに扉を閉めて、首を傾げていた。


『あれ? ここ、たしか道場だったよね? いまのは幻?』


「……あの、北の方にふみが届いております」

「え?」


 もう一度、妻戸をそろりと開けてみようとする葵の上は、不意にかけられた声に振り向いた。視線の先には夕顔。


「これは……?」

「第二皇子から、尚侍ないしのかみにと、ことづけでございます」


 夕顔の手には、香の焚きしめられた白い扇子。扇子の上には、藤の花がひと房と結ばれたふみが乗せられていた。


『これって本当は扇子の上に、朝顔か夕顔が、乗っかってなかったっけ?』


 葵の上は、夕顔と光源氏の悪夢のような出会いのシーンを、ふいに思い出し、母君の命がかかっているこの時くらい、おとなしくしていて欲しいと、頭痛を覚えながら、深いため息をついた。

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