第185話 幕間の復讐あるいは出会い 1

 本当に心配なことばかりで、食も進まないけれど、せっかくの葵の上のお気持ちですから……。


 紫苑がそんなことを言いながら、夕顔たちと御弁当と胡麻ごま団子を、パクパクパクパク食べていた翌朝、彼女たちは、女主人である葵の上よりも早く起き出して、自分のつぼねで身支度をしたり、お互いに行き来して、装束を着せあったりしていると、なにやら外の様子がおかしい。


 昨夜はふたりの別当がお泊りになったので、早速、従者が着替えなどを持ってきたのかと思い、皆は慌てるが、先に支度の終わっていた夕顔が、自分が見に行ってきますと声をかけて、袴をさばいて渡殿に出る。


 と、そこには困惑した表情の奉公人。どうやってここまで入り込んだのか、まだ元服したばかりに見える、どこか尊大な様子が隠しきれない、身なりの整った成人の恰好のわらしが、まだ暗い庭先にひとりいた。


 彼の手には、なにかがのった白い扇子。わらしは、自分が帝の第二皇子に仕え、皇子の乳兄弟ちきょうだいである惟光これみつだと名乗る。


 よく見ると扇子の上には、藤の花がひと房と、結ばれたふみが乗せられていた。


 夕顔は春めいた美しい唐紙を、じっと見つめる。どこから見ても、恋文こいぶみのように見えるそれに、一体どのような要件であろうか、お届けしてよいものかどうかと、ただただとまどう。


 北の方は十二歳とはいえ、すでに中務卿なかつかさきょうという立派な公卿の正室であり、今現在の帝の妹宮でいらした元内親王を母に、左大臣を父に持ち、摂関家の当主たる関白が、目に入れても痛くないほどに、可愛がっていらっしゃる、東宮妃でないことが不思議なほど、尊く美しい方である。


 確かに恋と歌は、未婚や既婚を問わず、平安貴族の気軽でみやびな遊びではあるが、そんな遊戯ゆうぎたわむれるには、北の方は、あまりに高く重いお立場の方であるし、どちらかと言えば、そんな風潮には眉をひそめていらっしゃるのを、夕顔は知っていたので、どうして断ったものか、それとも追い払ったものかと、内心アタフタしていた。


 彼女は穏やかで人当たりもよく、とても優しい性格で、このやかたにやってきてから、波風を立てることなく、仲良く平穏無事に過ごしていたが、裏を返せば押しに弱く、強気に言われると、たとえそれがどう考えても無理筋なことであれ、「ここまで言うからには、ひょっとして自分が間違っていたのかしら?」そんな風に流されてしまう、かなり弱気で頼りない気質でもあった。


 どこか気分が悪そうな惟光これみつに、頭の上から衣の裾まで、値踏みするようにジロジロ見られながら、まだ声変わりもしていない高い声で、やたら偉ぶった物言いをされるのを聞いていると、なにか自分が粗相そそうをしたのか、無礼な態度なのかと、心配になってきた。


「第二皇子からの特別に大切なふみであるので、わたしが直接に届けに参った。お返事をお待ちしているので、すぐに尚侍ないしのかみに取り次いで、お返事をいただきたい」

「はあ……」


 夕顔は、こんな朝も明けきらぬ時刻に、すぐに返事を急かすなど、いくら皇子と言っても、少し無礼なのではないかしら?


 そんな風に思ったが、北の方と第二皇子は、従姉弟いとこ同士であることを思い出し、あまりにも強気な惟光これみつの態度に、格式張らぬ間柄のお二人で、ただのお見舞いのふみなのかしら? そういえば皇子は確か八歳……そんな風に思ってみたり、でも、まだ葵の上は起きていらっしゃらぬはずと、じっと受け取った扇子の上の藤の花を見つめながら、黙ってうつむいていた。


「一体、ここの女房の教育はどうなっているのか、宮中とは違い、やはりたかが公卿くぎょうの女房、教養のないことだ」

「はあ、あの……」


 そんなふたりのやり取りを、身支度が終わった紫苑は、そっと外御簾の内側から聞いていた。


『なにあの、いけずうずうしい小童こわっぱは! なんですって?! 第二皇子の使い?! じゃあ、あの時の女房の仲間ね! “あの時の恨み、晴らさずにおくべきか!”』


 彼女はそんな風に思い、恐ろしいほどけんのある目つきで、御簾の中から惟光これみつをキッとにらみつけていた。


 紫苑は二年前、まだ第二皇子の女房たちが、桐壺更衣きりつぼのこういの女房であった頃、第二皇子と左大臣家の女房の間にあった小競り合いを、いまだに執念深く根に持っていたのである。


 その上、あの第二皇子は、なにの役にも立たぬくせに、大切な葵の上に、なにかとまとわりついて、邪魔ばかりするのだ。葵の上こそ、世に代え難い美しい存在であり、御仏の具現と、ひたすら崇めている紫苑にとって、光る君は美しいけれど、うとましいだけの存在であった。


 紫苑はそんなあれこれを思いながら、ことさら意識して優雅に、しかし存在を強調するように、わざと大きく衣擦れの音を出して、衣をひるがえし、袴をさばくと、外御簾の外に出て、困った顔の夕顔の方に近づいてゆく。


 御園命婦とは違い、紫苑はあの時の小競り合いや、アレコレを水に流すことなく、自分から掘り起こし、再び火をつけることに決めて、愛らしい口元をキュッと引き結んだ。


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