第14話 近づく光と影 2

 手を合わせていた葵の君に、目を細めていた翌日、大宮は、今度は、ため息をつきながら、視線を自分の文机ふづくえの端にやっていた。


 そこには兄である桐壺帝きりつぼていからの歌。


 一見、姪である葵の君の健康を気遣い、妹である自分に送った季節の便りに見えたが、暗に第二皇子である『光る君』と『葵の君』の婚約はどうかとも匂わせてもいる。


 季節の便りにも、二人の仲を結びつけたいとも、どちらとも受け取れる、つまり帝には害がなく、こちらの受け取り方に任せるという、実に都合のよい歌であった。


 夫である左大臣(光る君ファン)に見せれば、なにも考えず、あっという間に婚約発表でもしかねない。


 大宮が、葵の君の幸せを願う気持ちは本物だが、かと言って、左大臣の姫君の結婚は、今後の国政をも左右する、重々しい話であるのもまた事実。


 それが分らぬ兄ではなかったはずなのだが……。


 なにより葵の君は、まだ裳着もしておらぬ九歳。第二皇子に至っては、まだ五歳だ。


 釣り合いが取れぬ年の差というほどではないが、それでも葵の君の方が四歳年上。昔ほど、うるさくはないとはいえ、この時代、男君は社会的地位が高ければ、年上が過ぎるのは問題がなかったが、女君が年上過ぎるのは、やはり好ましくはなかった。


 それに年齢や身分で言えば、昔から話がある第一皇子にと、話を持ち出された方が、まだ自然であり、それがいまからこの状態とは、頭の痛いことである。


 国政に振り回されるのは、身分高き家に生まれた姫君のさだめとはいえ、結果論として現在の自分は幸せではあるけれど、できるなら葵の君には、ある程度の意思を通させてやりたい。


 そんな親心もある大宮は、いま一度、品のよいため息をついた。


 左大臣との婚儀が整う前に、女三宮おんなさんのみやであった自分が降嫁せずに、加茂斎院かものさいいんになりたいと言った時のことを思い出す。


 左大臣が嫌いだった訳ではないが、やはりそこは夢を見る娘時代。絵巻物のように、大恋愛の末に結ばれることを夢に見て、そんな想像するのは無理もなかった。


 腹違いの兄である中務卿なかつかさきょうが、数多い皇子の中でも、際立って見目麗しかったのも、災いしたのかもしれない。


 実際、火傷やけどを負うまでの彼は、京の姫君の憧れであった。彼の人生が変わってしまったのは、わたくしのせいだと、未だに申し訳なさで胸が一杯になる。


 そうこうしているうちに、あまりにもあちらこちらから、持ち込まれる結婚話に辟易へきえきした自分は、生涯を神に仕えようと思ったのだ。(まだ気楽そうだと、神様には失礼なことを考えてしまったが。)


 それを押し留めたのが、いまの帝である。


「左大臣であらば、わたくしの女三宮おんなさんのみやを、一生、掌中の珠として、大切にしてくれるだろう。なにより、お前は内親王という責任ある身分。『天下国家』を考えてくれ」


(要は皇族と臣下のパワーバランスである。)


 そう言って、畏れ多くもわたくしに降嫁を懇願こんがんされた、我が身よりもたみを、国の平和を願う帝は、どこへ行ってしまわれたのか?


 先の東宮が身罷みまかられ、東宮さえ定まらぬ、いまのこの時点で、第一皇子を差し置いて、左大臣の姫と第二皇子との婚約がととのえば、宮中の平穏ならざる行方ゆくえは、わたくしにさえ、目に見えるというのに。


「降嫁した身で、親しく季節の便りをいただけるなど、本当に畏れ多いことね」

「まあ、そうにございますか」


 興味津々で、自分の手元で開かれている唐紙からかみを見つめていた女房に、これはただの季節のお便りであると、あえて強調し人払いをすると、手にしていた帝からの歌を、火鉢にくべた。


 鳳凰の透かしの入った唐紙に焚きしめられていた『沈香と乳香』の薫りが、火鉢にくべられることで、まるで帝の無念をあらわすかのように、うっすらと大宮の周囲に広がってゆく。


 大宮は帝が昔から愛用していた薫りとはほど遠い、心がチリチリとするほどに強い『沈香と乳香』の薫りに眉をひそめた。


「すぐにはらいを……」


 そう言って再び女房を呼ぼうと、立ち上がりかけたが、気を取り直し、文机ふづくえに向かう。


 花紋の透かしのある唐紙からかみに、重硯箱かさねすずりばこ(硯、筆、墨、物差し、小刀など筆記具が入った二段重ねの箱)から取り出した筆で、さらさらと流麗な字で、中務卿なかつかさきょうに手紙をしたためた。


 斎王になる人生を選ぼうかと考えたこともあって、大宮は人に潜む『かげ』に対する気配を、未だに、うっすらと感じることができる。


 どう言ってよいのか分からないが、『陰』というのは、ほとんどの人が持ち合わせ、引いては『怨霊』の種ともいうべき、人の持つ嫉妬、妬み、怨嗟、恨みの元になる存在だと、大宮は思っていた。


 彼女が左大臣との婚儀を了承したのも、一番大きな彼の良きところは、ほとんどの人が、大なり小なりと持ち合わせる『陰』が、見当たらなかったからである。


 そして帝からきたふみからは、ひしひしと『陰』の気配が、ただよっていた。


うたげのあと、くだんの陰陽師と共に、是非とも東の対にわたくしを、おたずね下さい』


 うたげの主役とはいえ、幼い姫君なので、初めから遅くならぬうちに、東の対に連れ帰るつもりであったから、都合はよかった。


 初めは宝珠の礼を述べるために、連れてきて頂こうと思っていたが、どうやら事態はそれだけでもないような、杞憂きゆうであるような……。


 書き上げた手紙を、中務卿なかつかさきょうに届けるように、呼びつけた女房に手渡す。彼女はそれを文使いに渡すべく、静かに目の前から姿を消した。


「直接、帝にお会いできれば、よいのかもしれないけれど……」


 だが、実の兄妹とはいえ、今上である兄と会うのは大掛かりな話である。杞憂であれば申し訳ない。


 そしてこれが、中務卿なかつかさきょうが受け取った、例の手紙であった。


 貴族の頂点に立つ、摂関家の当主である関白を父に持ち、その後継ぎである夫、左大臣は自分を大切に扱い、幸せな日々をもたらしてくれるが、政治に関しては、ほとんど興味もなく、なんなら『政治感覚はポンコツ』(そんな言葉は平安時代にはないけれど)な上に、光る君を、大層気に入っているので、大宮は、いまひとつ相談する気には、ならなかったのである。


 一番頼りにできるはずの関白は、宇治で長期療養中のため、実質的には引退している。


 ひるがえって中務卿なかつかさきょうは、行政を実質的に動かし、陰陽寮も管轄する政治的に有能な重要人物であり、なによりも命の恩人であるわたくしの身内、もうひとりの“兄君”だ。


 彼に相談し、陰陽師おんみょうじにも伝えれば、すっかり晴れる程度の引っかかりかもしれない。


 自分にとって国や政治は、最早遠い世界の話であるが、いまは幼い自分の姫君は、これから先、そのうずに、いやおうなく巻き込まれてゆく定めを背負っている。心配はつのるばかりだった。


「…………」


 大宮は暗い表情のまま、首を左右に振る。


 ただ、まだ幼く愛おしい、姫君を手放す気持ちがしないだけかも知れぬと、灰になった手紙の残る火鉢を見てから、自分の心を引き立てるように、無理に明るい笑顔を浮かべ、最近の楽しみである姫君とのことの稽古に向かった。


 病にせってから、長くことに触れていなかった姫君は、思うように弾けすに、初めは恥ずかしそうにうつむいていたが、それすらも愛らしかった。


 最近では母君の熱心な指導と、姫君の努力のかいもあって、まだつたなさは残るが、九歳という年齢を考えれば、どこへ出しても恥ずかしくない立派な演奏ぶりであった。



 *



〈 後書き 〉


 賀茂斎院は、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に、伊勢神宮の斎宮と同じように、奉仕した皇女だったそうです。


『本編とはまったく関係ない中務卿とこと小話/part2』


 亡き母君が先帝から賜った箏なので、モノはよいのに、現在はあんまりな腕前の、中務卿に所有されている箏は、ついに付喪神となって家出。


箏(だれかわたしにふさわしい、持ち主に出会わないと……)


 屋敷を出て、門のそばまでたどり着いた所を、残業後、帰宅した中務卿に見つかったのでした。


中「倉庫に入れて、縛っとけ!」祟りなんて気にしない性格。

六「……はあ」御札を貼って、動けないようにしているのでした。(残業のあと、ご飯を奢ってもらおうとついてきた。)

箏(しくしく、しくしく……)


 しばらくすると、真夜中に中務卿のやかたの付近から、女のすすり泣く声がするとか、うわさが立つ。


 左大臣とか右大臣の耳に入って、まさか拉致監禁とかしてないよね? とか、明後日の心配をされているのでした。


右「有能ですが、やりすぎるきらいが……」本当に拉致監禁だったらとか、少し心配。

左「触らぬ神に祟りなしですぞ右大臣……」ことなかれ主義。

右「そうですな……」タダでさえ色々と頭が痛いので、知らんふりを決めて、うわさを握りつぶすように、指示を出す二大政治家でした。


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