第130話 事変 5

 葵の君は、畳に押し倒されながら、不意にニッコリとほほえんだ。


「葵の君……」


 そんな無邪気さに、思わずうっとりと、名前をささやく帝から伸ばされた両手を、葵の君はしっかりと掴み、素早く片手を折り込んで、のしかかる彼の首と片腕を、上げた両足でロックする。


 次の瞬間、今度は指を組み合わせた両手で、帝の後頭部を引き寄せると、両足の力で思いっきり首と片腕を締め上げ、柔道の『三角締め』をかけると、あっという間に、そのまま気絶させていた。


「おとといきやがれ!!」


 彼女は人生で一度、言ってみたかった決めゼリフを、ドキドキしながら小声でいうと、「中学の柔道の授業ありがとう! 鍛えておいてよかった! そしてわたしの物覚えのよさ素晴らしい!」心底そう思った。


 丁度、前世で中学生だった頃、体育の授業に「武道」の時間が新たにもうけられ、かよっていた中学の選択が柔道だったので、柔道の技も少しばかり、身につけていたのだ。


『三角締めくらい小学生でもできる? なら十二単じゅうにひとえ着てやってみて!! 今日のは三十キロくらいあるから! それに、わたし、体は十歳だから!』


(※三角締めとは、柔道などの寝技における絞め技の一種で、両足の力で相手の片方の腕と首を締め上げて、気絶させる技である。)


 各種武道の黒帯たちが、暇を持て余した受け身の授業中、手の回らない体育の先生が「受け身ができる子は、その辺で自習してて——!」そんな悲鳴にも似た指示を出したので、彼女を含めた柔道以外の、その他、各武道の黒帯たちが、柔道部員に教えてもらった技であった。


 余談ではあるが、あとで先生に、「受け身をしていなさいと言ったのです!」と、黒帯たち全員が叱られた上に、腹筋を二百回させられたのは、当然の結果だった。


「なにが人生の役に立つか分からないなぁ、なんでも真面目に取り組むって大切……」


 葵の君は至極真面目ながらも、どこかずれていることが否めない、そんなセリフを呟いて、気絶した帝の下から這い出した。


「この分なら朝まで寝てるだろう。半分、酔っぱらってたし……」


 帝は面白いほど決まった三角締めで、畳の上で気絶している。葵の君は、なんとか御帳台みちょうだいまで、帝をズルズル引きずってゆくと、上に布団をかけて、「いかにも眠っています!」みたいに工作し、呼び出される口実だった『官印』を、薄暗い部屋の中でゴソゴソと探し回る。


 やがて、美しい小さな箱を畳の端に見つけ開けてみると、はたしてそれが『尚侍ないしのかみ』の『官印』であった。


 小さくガッツポーズをして、髪と衣を整えてから、わざと外に聞こえるように、「おやすみなさいませ!」そういって外に出た。


「もうお休みになると、おっしゃっていたので、朝まで邪魔せぬように」


 葵の君は檜扇をかかげたまま、お淑やかにそう言い置いて、ツンとした顔の紫苑や、左大臣家の女房たちと一緒に涼しい顔で、再び素早く登華殿とうかでんに帰ってゆく。


 尚侍ないしのかみ内侍司ないししの別当、公務の内容的には太政官の公卿以上ともいえる身分である。その言葉は重い。


 ゆえに武官はもとより、帝の側仕えの女房も、うやうやしく頭を下げて、尚侍ないしのかみを見送るしかなかったが、しばらくは夜御殿よるのおましの中の様子を、息をひそめてうかがっていた。


 そこになぜか、蔵人所くろうどどころの別当が現れて周囲の人垣を下げてから、ひとりだけで、そっと夜御殿よるのおましをのぞく。


 部屋をぐるりと見回すと中ほどには、ほんの少しずれた几帳に畳。奥の御帳台みちょうだいには、確かに帝が眠っていらっしゃった。


 彼は畳と几帳の間でそっとかがみ、懐になにかをしまうと部屋の外に出る。


「帝は確かに眠っておられるので、そのままに」


 別当はそう告げると、大きく息を吐いてから、尚侍ないしのかみが消えた方角に視線を向け、またどこかに姿を消した。


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