第129話 事変 4

尚侍ないしのかみ、貴女が東宮妃となれぬことを悲しいと思いましたが、それも僥倖ぎょうこうと言うものだったのかもしれない……」

「え……?」

中務卿なかつかさきょうには、礼を言わねばなりません。世にこのように愛おしく尊き姫君が、再び存在することがあるなんて……」


 普通の姫君であれば、帝に愛をささやかれて舞い上がるところであったが、葵の君はそんな甘い言葉は嬉しくとも、なんともなかったし、なんなら「無礼にもほどがある」そんな口調で、内心、帝をののしっていた。


『なーにが、僥倖や! 部下だけど、半分、血のつながってる兄弟の嫁な上に、妹と同じ顔の姪に手を出すとか、なに考えてんの?! いきなり、パワハラとセクハラすんなや! ていうか息子に続いて“レイプ Part2かよ?!” いっそのこと、怨霊が出たら差し出してやろうか?!』


 そんな葵の君の何世紀も先の倫理観に、まったく気づくはずもない帝は、蒔絵の施された黒い漆塗りの灯台とうだいの灯りに、くっきりと浮かび上がった、尚侍ないしのかみの白い顔に息をのむ。


 桐壷更衣きりつぼのこういへの愛は本物だ。しかし手の中にある姫君は見れば見るほど、誰よりも自分が愛した、いまでも愛している幼き日の「わたくしの女三宮」そのものであった。


 妹宮は比類なく、この世のものとは思えない、けれどそれは、決して手の届かぬ存在であった。それがいま、手の届く位置にあるのだ。手に入れぬ方が余程おかしいと彼は思う。


 抱き上げて御帳台みちょうだいに連れて行くのももどかしく、そのまま畳の上に、尚侍ないしのかみを優しく横たえようと考える。


 葵の君はそんな帝をよそに、神頼みはするけれど、神様なんて、まるっと信じていないので、パニックになりつつも、必死にこのピンチからの脱出方法を、ひたすら考えていた。


『くっそ——、どうしようかな? 叫んだって誰も助けにこないだろうし、帝に怪我をさせたらさすがにまずいし、かといって体格差があり過ぎで、ただでさえハンデがキツイのに怪我をさせずに、この場を逃げ切るなんて、どうしようかな、でも、どうにかしないと……』


 帝は男女の駆け引きなど、まるで分かっていない様子で、手を握られたまま、ぼんやりとした様子の、葵の君の姿に思わずほほえんだ。男女のすべてを心得て后妃として入内する女君しか知らぬ彼には、これがまた新鮮であった。


 女童めわらといって差し支えのない年頃である尚侍ないしのかみの、夜の射干玉ぬばたまが流れ出したような美しい黒髪は、さすがに桐壷更衣きりつぼのこういよりも短いが、それでも年の割には長く、座った姿勢なので艶やかな黒髪が、床から畳の上にゆらゆらと広がっている。強い光を含んだ煌めく黒蒼玉ブラック・サファイアのような瞳の輝きは、吸い込まれそうに美しい。


 白磁のように美しく、けれど確かに幼さの残した顔が、少し紅潮しているのが、たまらなく煽情的せんじょうてきだった。


 中務卿なかつかさきょうの生意気さに、嫌がらせを込めて理由をこじつけ、尚侍ないしのかみ呼び出したが、あの男はまさか、尚侍ないしのかみに手を出していないのだろうか? 姫君のいとけなさは、そうとしか思えず、帝の胸が高鳴る。


 尚侍ないしのかみの小さな肩に両手を乗せて、ゆっくりと畳の上に姫君を押し倒してから、一筋の黒髪をすくい上げて口づけをし、呆然とした様子で自分を見つめる姫君を、じっくりと観察し、目でいとおしんでから、姫君の上に覆いかぶさった。

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