第131話 事変 6

 その頃、葵の君は、渡殿を速足で通り過ぎながら、誰にも聞こえない独りごとを呟きつつ、ようやく登華殿とうかでんに帰りついていた。


「随分、お酒を飲んでたから、明日には忘れてるだろう。覚えてても恥ずかしいだろうし、多分、弱みのひとつにできるかな? それよりも早く帰らないと母君が心配……」


 帰ってみると母君は、静かに眠っていらっしゃって安心した。


「帝は明日の朝から、わたくしがいると思い込んでいらした様子で、渡し忘れたとおっしゃりながら、官印を下さったわ」


 小箱を見せて、ほほえみながらそう言って、心配そうな顔で集まってきた女房たちを安心させ、明日は休みなので、ゆっくり起こしてくれるように頼む。


 葵の君は『紫苑にもダメ男の対策に、三角締めを教えておいた方がいいかな? 怨霊のこととかも中務卿なかつかさきょうにお手紙を書かなきゃ……』なんて思いながら、その日は母君の手をキュッと握ったまま横に並んで『怨霊と光源氏だけでも、お腹が一杯なのに勘弁してくれ』そう思い、“この件”の対策も考えないと思いながら、少し顔色が悪いまま眠りにつく。

いくら中身が大人でも、度重なるレイプ未遂事件に、さすがに神経がまいったのだ。


 そして紫苑は葵の君が布団に入ったあと、預かった小箱をそっとのぞいていた。隣には金の鳥籠に入った“ふーちゃん”。


「これ、黄金よね……」


 葵の花が装飾された手のひらサイズの官印は、眩い光を放っていた。持ち手の部分も花を見事に表現してある。


「見て、“ふーちゃん”、これ黄金おうごんって言うのよ。さっき、帝に姫君がもらったの、凄いでしょ?」


 当然ながら紫苑は御園みその命婦に、「きちんと厨子棚に置いてきなさい」と、小さな声で叱られていた。


「あの子は秋には正式に、“命婦”の官位を授かると言うのに大丈夫かしら?」

「まあ、大丈夫じゃないですか? まだ幼いですから、伸びしろがあるでしょう」


 女房の長門は、命婦の言葉にそう答え、苦笑してから紫苑に声をかけた。


「ちゃんと呑札を飲んで寝るのよ?」


 そう言われて、紫苑は自分のつぼねに帰ると“寝言封じ”の呑札を、顔をしかめて飲んでから布団に入る。


「こんな不味い呑札を、毎日、飲まないといけないなんて、嫌がらせじゃないかしら?」


 明日にでも大内裏の陰陽寮に手紙を出して“六”に、「もう少しマシな味にならないのか聞いてみよう」そんなことを思いながら、紫苑も眠りについた。


 翌朝、葵の君が目を覚ましたのは昼前で、内裏に走るうわさも知らず、身支度を済ませて遅い朝餉をゆっくりと食べて終えた頃、左大臣家から、朧月夜おぼろづきよの君がやってきたという知らせが届き、母君と一緒に妹君となられた幼い姫君を出迎えていた。


『心が癒されるなぁ……』


 葵の君は昨日の母君の件だけ手紙にしたためて、中務卿なかつかさきょうに送ってから、愛らしい朧月夜おぼろづきよの君と一緒に、昼間の登華殿とうかでんの中を散歩していた。


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