第132話 東雲の前 1

〈 翌朝/大内裏 〉


 朝日の気配も見えぬ明け方前、大内裏の門も開かぬ頃、蔵人所くろうどどころの別当は、中務省なかつかさしょうに足を運んでいた。


 中務省なかつかさしょうの執務室では宿直とのゐの者、そうではないが徹夜せざるを得なかった者、多数の官吏が入り混じって、黙々と仕事に励んでいたが、ついに睡魔に負けた数人が、文机の前で居眠りをしていた。


 彼は、相変わらずの光景に、なかばあきれたが、間を縫って、奥にある中務卿なかつかさきょうの曹司へとたどりつく。


 思いがけず現れた蔵人所くろうどどころの別当に、入り口にいた舎人とねり(下級官吏)が慌てて頭を下げながら、中にいる中務卿なかつかさきょうに、別当の訪れを告げ、返事を待って、ゆるりと扉を引いた。


「こんなに早くから、いかがされた?」

「ここは相変わらずですね。少しお話したいことがあるのですが、人払いをお願いできますか?」


 中務卿なかつかさきょうは、書簡から視線を上げずに、手で合図して人払いをする。数人の官吏が素早く外に出ていった。


 中務卿なかつかさきょうが結婚すれば、少しは家庭的になって、残業も減るかもしれない……。


そんな中務省なかつかさしょうに勤務する官吏たちの希望は、葵の君との結婚を機に、なにかと私的な行事に時間を割くことが増えた中務卿なかつかさきょうが、いままでにも増して、前倒しで仕事をするようになったことで、もろくも崩れ去り、二官八省の中でも同じくらいであれば、最高額の食封じきふ(給料)ではあるものの、相変わらずの真っ黒な勤務状況であった。


 それとは真逆に蔵人所くろうどどころの別当がおさめている蔵人所くろうどどころは、どちらかといえば有力貴族子弟の、通過儀礼的なポストであり、名誉職でもある帝や後宮の警備担当 兼 簡単な秘書室のような存在なので、きっかり定時定刻の規則正しい勤務状況だ。彼が昨日から内裏にいるのは、単に宿直とのゐだったからである。


 別当は、中務卿なかつかさきょうとは同年代で、身分的にも先々帝の親王の子息という、どちらかといえば、中務卿なかつかさきょうと似た境遇であったが、彼を溺愛する姉君が先帝の女御に立った方で、そこそこの寵愛もあったゆえに、後宮や帝の面倒事に巻き込まれて、ウンザリすることも多々あるが、気楽といえば気楽な、いまの地位にいている。


 中務卿なかつかさきょうと同じくらいの長身だが、外見は正反対で、一瞬、白拍子しらびょうし(※男装の舞姫)かと思われるような、甘く色香すら漂うような顔立ちだ。


 平安の時代的には、姫君たちからの評判が悪いはずはないと思われるのだが、まったく色めいた話がないのは、どこかに許されぬ仲の恋人を隠していると、密かにうわさされていた。


 許されぬ仲の恋人のひとりに、一時は蔵人少将くろうどのしょうしょうが挙げられていたのは、周知の事実であり、さすがに結婚はできぬが、男君同士の恋愛も、特段はばかりがない時代ではあるものの、お互いが迷惑なうわさだと思っていた矢先、蔵人少将くろうどのしょうしょうの結婚話が決まり、やっとうわさから開放されると喜んだ別当が、盛大に祝いを送ったところ、「わきまえられた方であるから、恋人の幸せを願い綺麗に身を引かれた……」などと、またもや予想外のうわさが広がり、とかく恋愛至上主義で、うわさ好きな世の中に、彼はかなりウンザリしている。


 中務卿なかつかさきょうとは、彼がまだ皇子であり後宮で暮らしていた頃に、先帝の女御であった姉君をたずねて、幼い頃から彼もしょっちゅう後宮に出入りし、元々、顔を会せる機会が多かったことと、蔵人少将くろうどのしょうしょうのように、名門子弟の“一時配置”ではなく、後宮の警備担当の長としての立場もあるため、中務卿なかつかさきょうほどではないが、彼も武芸は、ひと通りは収めており、それを通じて、いまも親しくつき合いがある。


 先日の女童事件めわらじけんの時も、動けぬのは自分で分かっていたが、あとで中務卿なかつかさきょうに参加できなかったことを、ブツクサ言っていたほどだ。政治的な野心もなく、趣味といえば狩りを兼ねた遠乗りと、珍しい菓子を食べることくらいであった。


 まつりごとに興味のない別当の姉君などは、中務卿なかつかさきょうが摂関家に婿入りが決まり、六条御息所ろくじょうのみやすどころの『彼の善行に対する御仏の御告げによる結婚説』のうわさが広がるまでは、けがれのある元皇子とは、つき合いをやめるようにと、なにかとうるさかったが、うわさを聞きつけて以来、世間と同様に、くるりと手のひらを返したのを、彼は冷めた視線で見ていた。

悪い方ではないが、良くも悪くも、うわさを真に受けてしまう性格なのだ。


 葵の君が以前「黒は超エリートの証!」などと思いながら、平安時代の殿方の衣装の勉強をしていた通り、高位貴族の公卿であるふたりは、黒の直衣のうしを着ているが、中務卿なかつかさきょう紫黒色しこくしょくと呼ばれる、紫が沈んだような黒に浮線蝶丸文様の有職文様ゆうそくもんようが浮かぶ、美々しいながらも考えるのが面倒くさいと、制服のように何枚もあつらえている直衣のうしなのに対して、彼の直衣のうしは、闇を煮詰めたような、五倍子鉄漿色ふしかねいろに、向い鸚鵡おうむの丸の有職文様ゆうそくもんようが浮かび上がる、あつらえたばかりの立派なものだった。


 これは姉君が中務卿なかつかさきょうの素晴らしいご縁に恵まれた、ご結婚を聞きつけて以来、「貴方にも、どこでよいご縁があるかもしれません」と、心を配ってご用意された直衣のうしであった。


 要するに彼も、理由は違うとはいえ、つい先日までの中務卿なかつかさきょうと同様に、この時代ではありえないほどの独身生活を続けているので、世間体を酷く気にする姉君は、大層、気を揉んでいるのである。(彼は、あほらしいと、こうして普段使いにしてしまっていた。)


 ふたりきりになると、ふたりは少し砕けた口調で会話をし出す。


「まあ、あと少し、春の除目の整理が終了すれば、やや落ちつくと思う。朝早くからどうした? そういえば貴方の姉君である先の女御から、どこかよい姫君を弟君に紹介して欲しいと、お手紙を頂いた件ならば、いま少し待ってくれ」

「……それは永遠に放って置いてくれて構わない、別件できた。よい話ではないけれど、あとで耳に入るよりも、先に真実を伝えておいた方がよいかと思ってね…」


 言葉を濁しながら向かいに座った別当は、筆を止めてこちらを見つめる中務卿なかつかさきょうに、ふところから取り出した“あるモノ”を差し出した。


「それを一体どこで……」


 中務卿なかつかさきょうは思わず息を飲む。彼が取り出したのは、裳着を終えてから、いつも葵の君の、長く美しい黒髪に飾られていた、大粒の桃色金剛石ピンクダイヤモンドでできた髪飾りだった。

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