第9話 葵の君覚醒 1

〈 時系列は再び“葵”が“葵の君”として転生を果たした頃に巻き戻る 〉


 平安時代の貴族のやかたは、夏の涼しさに全力をかけている……。

 そんな気配すらする換気の良過ぎる寝殿造りで、冬は本来とても寒かった。


 葵の君の部屋……と言っても、ほとんどが几帳きちょう御簾みすなどで、パーテーションのように区切っている体育館仕様。


 火鉢など、いわゆるこの時代の暖房器具の周り以外は、かなり冷えているはずであった。


 大切な姫君が、夏の終わりからやまいで寝込み、季節は早くも霜が降りる冬。


 心配した母君の指示で、姫君が暮らす左大臣家の東の対は、あちらこちらに、火鉢、火桶、火炉かろ(※移動式の囲炉裏いろり)と呼ばれる暖房器具が、大量に設置されていた。


 常ならば見苦しいと、見た目重視になる母君であったが、それどころではなかった。


 それぞれの火元には、大勢の使用人が二十四時間、三交代で当番につき、東の対は平安時代にはあり得ない、居心地のよい暖かな空間になっていた。その光景は目が覚めた葵が、思わず一酸化炭素中毒を、本気で心配したほどである。(換気が良過ぎるので大丈夫だった。)


 葵はビックリしながら目覚め、感動の家族再会のイベントを終え、ゆっくりと横になっていると、新しい体には、異常に体力と栄養が不足しているのが、不思議と医者でもない自身が一番に理解できた。唇は渇いてひび割れ、小さな体は常に痛みに、きしんでいる。


 幼い体はあらゆるビタミンと栄養が偏り、不足しているようだ。病気じゃなくて、体力不足と栄養失調だよね多分。“歩く食事管理アプリ”は、体調不良の原因に“アタリ”をつけた。


『お話的にも本当なら、すんなり大きくなっているはずだし』


 そう考えた葵は、とりあえず重い病の線は、考えから外した。


 弱り切った体だった彼女は、栄養管理と健康管理に、秘めた闘志を燃やしつつ、ひとまずは、まだ『布団ふとん』が存在しない時代に、乳姉妹ちきょうだいである(自分の中に残る“本来の葵の君”の記憶によるとそうらしい)紫苑しおんを枕元に呼ぶと、早々に『布団セット』を用意してもらったのだ。


『上質な睡眠は健康への第一歩』


 早起き遅寝は、受験生だった高校時代に始まって、通学距離が延び、遅くまで部活に励む葵の日常であり、その言葉は心に刻んでいるいましめのひとつであった。


 それに、母君の気遣いで、自分は凍えることはないけれど、交代制とはいえ、一日中、火の番をしている使用人の人たちも気の毒だったし、いつか母君や女房の十二単じゅうにひとえの裾が燃えるんじゃないかと、炭を使った大量の暖房器具は心配だったのである。

 

「布団……ですか?」

「そう、こんな感じで……」


 紫苑は葵の君から、初めて『布団』の話を聞いたときは、目をパチパチさせて驚いていたが、もともと十二単じゅうにひとえなどに使うべく、用意されていた絹織物は、やかた内に大量にあったので、気楽に請け負った。(これは、いわゆる上流貴族のやかたでは当然である。)


 ましてや、もうすぐ新年。織り上がり、染め上げられた新年用の絹織物は、専用の塗籠ぬりごめ(倉庫)に過剰に積みあがり、裁縫が得意な女房たちが、一日中、忙しく針を動かしている。


 左大臣家ともなると、その数は膨大で、専用の女房を、数多く雇っていた。


 姫君がえがかれた分厚いしとねのような物と、やはり分厚く綿を入れる敷物。(『布団』と姫君はおっしゃった。)は、確かに暖かそうだった。


 しとねよりも真綿の量は、かなり増量して欲しいとのことで、紫苑は畏れ多いことなれど、自分も絵に筆を足して、雰囲気を姫君に再確認した。


「できるかしら? 母君と父君と、兄君の分も欲しいのだけれど」

「もちろんですとも! すぐに手配いたします!」


 心配そうな葵の君に、紫苑は自信たっぷりな表情で、そう答えていた。


 それから時を置かずして、紫苑の話を聞いた裁縫担当の女房たちは、超特急で平安の女性として必須の裁縫技術を駆使し、布団を完成させ、驚くほど早々に、美々しい『布団セット』が、東の対に届いたのである。


 これはのちに、京都に旋風を起こした『布団製作大流行事件』の発端であった。


 四角だから楽勝と、ついつい『布団』本体を、さらに美しい布や飾り紐(布団カバー)で装飾してしまったのは、さすがに左大臣家の裁縫部? で、彼女たちは、できあがった『布団セット』を、それぞれにまとめると、奉公人に配達を指示し、再び新年の衣装の製作に取りかかる。


 この女房たちは、いまをときめく弘徽殿女御こきでんのにょうごもうらやむ精鋭ぞろいで、これくらいの作業は楽勝であった。


『布団』が届いた翌日、ちょっとした使いに出た紫苑は、道を歩きながら、笑みが浮かぶのを止められない。


 大宮をはじめ、葵の君のご家族は『布団』に驚いていらしたが、朝にはこれは『よき物』と喜んでいらしたからだ。


 わたしの乳姉妹ちきょうだいに当たる葵の君は、末は女御や中宮も当然の尊い御方。内親王でいらっしゃった女主人である大宮に生き写しで、幼き頃から神々しいほどに美しく、見識深く思慮深い。思いつかれることに、間違いはないのだ。


 紫苑は誇らしくて、近くの公卿の家で働く、知り合いの女房に、使いのついでに全館暖房(と言う言葉ではないけれど)と、『布団』の話を自慢げに語る。


 そして、その女房を通じて、左大臣家のうらやむばかりの豪快な暖房の話を聞いた、某公卿の女主人は、そこまで炭や薪を贅沢に使うことはできないけれど、『布団』くらいならばと、早速、布地と真綿を用意して製作し、暖かさと心地よさに大満足した。


 近頃、足が遠のきつつあった夫(この時代は基本的に通い婚。)は、数日後に珍しく顔を出した折に、このように思いつかぬような、『よき物(布団)』を用意して、自分を大切に思いながら待っていてくれる妻を、粗末に扱った自分を恥じ入ると、しみじみ語り出し、長く訪れなかったことを詫びていた。


(実は女主人は、自分が欲しかっただけだったのだが。)


 その夜はふたり、同じ布団の中で長く語り合い、冷え切った夫婦仲が、パッと明るくなったのは、女主人には予想外の出来事で、とても嬉しかった。


 その翌日に方違かたたがえ(陰陽道の習わしで、外出する時に、天一神(なかがみ)・金神(こんじん)などのいる方角を凶として避け、前の夜に他の方角で一泊したあとに、目的地に行くこと。)で、自分のところに泊まりにきた従妹いとこにも、『布団』をさりげなく用意する。


 翌朝、その暖かさに感動を語る従妹いとこに彼女は、これは左大臣家で最近もちいられ、他にはまだ我家わがやしかないはず……などと、少し得意そうに語った。


「まあ左大臣家で! 本当に夢のような、心地よさでございました」


 従妹いとこは帰ったら、早速、自分も用意しようと、朝餉もそこそこに牛車に乗り込み、用事を済ませて自分のやかたに帰ると、女房に布地を持ってこさせ、記憶を頼りに『布団』を作った。


 なにせただの四角であるから、左大臣家ほどの美々しさはないが、彼女も易々やすやすと美しい『布団』を縫い上げる。よい新年を迎えられそうである。満足だった。


 そうしてそのうわさを聞いた、他家の他家の他家の……というように、平安時代には存在しなかった『枕、掛敷布団、カバーつき布団セット』は、葵の君が知らぬ間に、その冬の間には、京中の貴族の間で『布団製作大流行事件』となり、中には牢名主よろしく、幾枚もの敷布団を重ねる剛の者も現れた次第であった。


 そんな騒ぎは知らず、仕上がってきた『布団セット』に、『葵』改め『葵の君』は、「ミシンもないのに早いなー! 豪華だなー!」などと、のんきに思っていた。


 彼女は、それからというもの、夜が訪れると、普通は“じか”で寝る御帳台みちょうだいの中にある畳の上に、届けられたふかふかの敷布団を乗せてもらう。そして何枚かの掛布団を乗せて、試しに中に潜り込んでみれば、予想通りかなり暖かかった。


 分厚く重ねた掛布団は、初めは衣装をかけていると誤解した“ふすま”と呼ばれる薄い布(冬なので薄く綿は入っていた。)より、人目を盗んだトレーニングもしやすい。


 実際、重ねた掛布団の中に、枕を忍ばせると、障子や御簾越しには、本人が寝ているようにしか見えなかった。


 以後『葵の君』は、ひそかに毎晩、みなが寝静まった夜更け、こんもりと盛り上がった布団の影で、ストレッチから始まり、一週間後には優しい筋トレに励み、どんどん運動量を増やしてゆく。


 この時代と世界のことである。筋トレなんてしているのを発見されたら、とうとうおかしくなった。そう思われて、寺に入れられるかもしれない。いまのわたしは平安時代の深窓の姫君なのだ。


 火災の心配も格段に減り、昼間は日差しがある分、通常通りの暖房器具の数で、寒さ対策はなんとかなった。


『布団セット』が届いた時、綿入りのふかふか枕も届いたので、タンコブを作ってしまう原因となった綺麗な石(!)の枕も、取り変えてもらったので、実に気分爽快だった。


「よい品ですのに……」


 女房のひとりは残念な顔をしていたが、どこがよい枕なのか、中身が現代人の葵の君には、さっぱり分からなかった。元気を取り戻し、眉を寄せる九歳の美しき姫君(外見)に、周囲はほほえんでいた。


 タンコブの恨みしかない石の枕は、紫苑の手によって姿を消す。一件落着である。


『それより一体、いつになったら、お風呂に入れるんだろう?』


 お風呂好きの彼女は、それがかなり気になっていたが、この冬の最中に沐浴など死んでしまうと、母君に涙ながらに反対されて、申し訳なく、そして恥ずかしいと思ったが、髪や体を湯に浸した布地で、何度も拭いてもらい、とりあえず枕の上に、柔らかい和紙を引いて、毎日交換しながら寝ることで妥協していた。


 沐浴の件は大工を呼んで、検討してくれると、父君の言質げんちは取っている。


うたげより早くお風呂に入りたいんや!!』


 心の中とはいえ、思わず『地』である関西弁が出てしまった葵の君であった。(なぜかは分からないが、耳に入る言葉は、ほぼ標準語に変換されているのである。)


 そうして『葵の君』は、深夜は筋トレに励み、朝はふかふかの敷布団と、何枚かの掛布団の間で、女房が起こしにくるまで、何食わぬ顔で眠っていたのだ。


 日中は歩く練習や、元の体の持ち主であった『葵の君』の記憶はあれど、慣れない平安生活になじむ努力をしたり、母君と宴や新年の衣装の打ち合わせをしたり、矢のように毎日の時間は過ぎていった。


 ちなみに目が覚めて、一週間後に布団の影でプルプルしながら、腕立て伏せに成功した時には感動した。


 子供の回復力半端ない!


 *


『葵が目を覚ました頃、精進潔斎していた中務卿の小話』


中「……」黙々と不機嫌に仕事をして、昼過ぎに定時で帰宅。

年老いた乳母「お早いお帰りでございますね?」いつも残業ばっかりしているので帰りが遅い。(たまにはどこかの恋人の家に泊まってくるとか、浮いた話でもないかなと思っている。)

中「仕事は持って帰ってきた。なにか食べるものを用意してくれ……」

今日も帝の突然の会議欠席で仕事もはかどらないし、真面目な精進潔斎で、おなかが減りすぎて、帰りが早くなってる中務卿でした。

中「……早く姫君が元気になるといいな……」味気ないと思いながら、精進料理を食べているのでした。

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